2014-01-10

雨上がりの午後

地平線に雲が流れている。このあたりは空港の近くで高い建造物がないため空が開けていて地平線までよく見える。空気が澄んでいる日にはなんと富士山が見えたりする。野花と猫の王国である。団地の近くにある遊歩道は両側を野草が生茂る斜面に挟まれ、頭上にはいつも雲が流れている。こうした中を散歩すると風情があると思うが地元の人間はそんなことを思っておらずはやく高速道路ができて地元復興が進んでほしいなどと思っていたりする。要するに「美しい田舎」をほめるのはだいたい都市から来た人間だということだ。これは日本にきて日本賛美をする西洋人にも同じことが言える。自分が理解できる範疇にとどまってくれる「貧しいけれど美しい日本」がかれらの自尊心にとってなによりも大切なのである。かれらの「文明」が脅かされる力を持った黄色い猿ではなく、あくまで自然を愛する野蛮な土人として生活してほしいということだ。そしてこうした考え方を私たちもまた韓国や中国やアジア各国に押し付けていたことを記憶している(「貧しいけど豊かなアジア」云々)。ネットが広まったおかげか、最近はどこの国でも人間のレベルというのはあまり変わらないものだということがよくわかるようになった。憂鬱な時代だ。

それはともあれ、私はもともとはこのあたりで生まれた人間なので、ひとなみには房総の自然が好きである。夏は暑く冬は寒い。だいたいこのあたりの家は雪国と違って防寒対策をほとんどしていない家屋も多いため、冬はとてつもなく寒い。横になっていると畳の隙間から冷たい風が吹き上がってくる。灯油ストーブの換気など必要ない。なにしろ二十四時間外気が入り込んでくる。ガラスは薄く板を立ててあるのとたいして変わらない。コンクリートも薄く、外気に冷やされた壁の表面に空気中の水分が結露し、朝になると水たまりが床にできてそれが凍っている。嘘みたいな話である。雪国は最初から対策をしているのでむしろあたたかいのだ。そういえば以前滞在した韓国では窓はすべて二重だった。窓と窓の間にスペースがあり、そこがベランダなのだ。一度真冬の最中に窓を開けたら白銀の暴風が吹きこんできて部屋が真っ白になった。あれ以来冬の韓国には二度と足を運ばないとこころに誓った。南国育ちなので冬には弱い。一年前に雪で滑って転んだときに打った左肩がいまだに痛かったりする。石原莞爾は若い頃落馬し股間を怪我したがそれが慢性化し生涯苦しんだという。小さな怪我が命取りだったりするのだ。

地元のスーパーにくるのはお年寄りがほとんどだ。たまに若い女性もくるのだが不思議なことに必ずヒョウ柄のなにかを着用している。地元のルールでもあるのだろうか? あるのだろうと思う。なければ必ず見かけることの説明がつかない。今日行った買い物ではヒョウ柄のバッグを持った金髪の女が鼻歌を歌いながらコーラを買っていた。もっとも何を着用しようと大きなお世話ではある。私は私で熊みたいな無職の男と思われていることだろう。下手したら女子学生に変質者として通報ぐらいされるかもしれない。通報されると面倒くさいし取調室には足を運びたくないし警察の皆様とはお会いしたくないしでいいことは何もないので最近はますますヒキコモリがちである。ただこのあたりの警察は署内で制服を着ている連中はどうしようもないが現場の警察官はずいぶんマシでまともな人間だ。制服を着た連中というのはどういう連中かというと一日椅子に座ってふんぞりかえって現場の報告を聞くだけの管理職のことである。女子供が相談にいくと大声を出して罵倒して追い返すような連中であることはよく知っている。解決できそうもない相談を受け付けてしまうと「検挙率が下がる」からだ。ただ現場の警察官は地元で何が起こっているのかよく知っていてわりと親切に教えてくれる。現場とマネージメントの乖離はどこでも見かけるが、最近よく起こるストーカー殺人的なものも、担当者が違えば全然話が変わってきただろうにと思う。

この町にもむかしは林しかなかったそうだ。国際空港の建築と共に山を崩し、竹やぶを平地にし、農家が開拓した土地を買収していまのニュータウンが建築されている。私の住む家の近くには大和朝廷に滅ぼされた蝦夷の奴隷を集めたという慰霊碑があり、歩いて五分の場所には前方後円墳があったりする。笑ってしまうような人外の土地である。ただ結構気に入っている。この町が開発され栄えていくのを見たいような気もするが、今のようにあちこちに田園があり、林があり、空き地があり、そこに青や赤や金色の蝶やトンボが飛び回る光景がなくなってしまうのは寂しいと思う。ただそれは私のような在日日本人には関係のないことであってかれらの選択することだ。部外者がとやかく言うことではない。ひとは税金を払っているから、国籍をもっているからその国の人間であるわけではないからだ。どこを故郷と思うか、どこの人間として生きるか、そういう所属は後天的に自ら選ばれるものであって、誰もがそう思っているように先天的なものではない。選ぶという主体的な行為があってはじめて故郷が見出されるのだ。そう思いながらベランダで煙草を吸っている。いつもの風景である。風が冷たくなってきたのでジャンパーを羽織る。虎や龍が刺繍されている地元で大人気のジャンパーは1,000円で売っていた。いつかああいうものを着てみたいと思う。きっとまったく似合わないだろう。和服を着る外国人のように。