2014-01-13

成人の日または建設的なもの

ネットは今日も建設的な「議論」が盛んである。それがいかに無意味で無価値かは以前書いたので繰り返さない。というより私は2006年から考えていた課題(なぜ男は不特定多数の女との性行為を切望するのか)に、一昨日ようやく八年越しの決着をつけたばかりで、すっかりブログを書く気がなくなってしまって、新作の執筆に注力しているところなのである。忙しいのだ。貧乏人は忙しいというではないか。とぶつぶつ言っていたら、今日が成人の日だということを思い出したので、やっぱりエントリを書くことにした。

トーマス・フリードマンは、兄弟殺しのカインとアベルの話を引きながら、カインがアベルを殺した理由は明示されないが、その殺害にはいまも生き残る三つの根源的欲求が暗示されていると書いている。それは「女」「経済」「ふるさと」である。イヴをめぐる男同士の争い、不動産(畑)と動産(家畜)をめぐる争い。そして最後に心の拠り所である神殿(ふるさと)の場所をめぐる争いである。男には女、カネ、自尊心が必要であると言ってもさほど間違ってはいない。ネットにおける「建設的」な議論はだいたい後者二つを堂々巡りする。

建設的な議論はいつでも大文字で語られる。わかりやすく言うとNHKの番組でスーツをきた連中がしゃべっているアレである。自主規制でがんじがらめになったマスメディアにはこうした「建設的」な形式でしか話ができなくなっている。じゃあネットの言論(空気だ)はどうかというと、まったく同じで、弱者叩き(まとめサイト)、日本バンザイといい人ごっこ(Twitter)、そして自己嫌悪の裏返しとしての子どもじみた日本憎悪しかない。なので別にマスメディアもいまのネットももうたいして変わらないのだ。まあみなさんうんざりしていると思う。うんざりしている自分の気持ちに気がつかないといけないのである。

そんなわけでこころに沿って語らなければならない。これから大人になる子供たちが勘違いするとまずいのである。「建設的」な意見や見解がいかに私たちを蝕んでいるか。公の場で語ることが許される「建設的」で「正論」で「スーツを着ている」意見ばかりでは困るのだ。なぜなら私たちの社会は、テレビやメディアに顔写真付きで紹介されることがけしてないような、ちっぽけで、誰の目にも触れない、取るにたらないとみなされる人間たち、そしてかれらの個人的な思い、気持ち、自尊心、ひとを愛しそして憎む気持ちによって構成されているからである。見えなくさせられているものを見なければならないということだ。

残念だがいまのネットにはそうしたことを語る場がほとんどなく、建設的なライターの皆様が語るうつくしい先進国・日本があるだけだ。私は自分が生まれた国の風土と文化を誇りに思っているので、そういうプロパガンダだらけの清潔な社会には辟易している。だがそういうプロパガンダを必要とする気持ちも理解している。私たちを取り巻くこの社会を直視すれば、巨大な喪失感・無力感と真正面から向き合わなければならなくなるからだ。それはとてもつらいことである。だがそのつらさを共有することはできる。私たちがしなければならないのはそういうことだ。建設的な社会から忘れ去られているものを取り戻さなければならない。

今日は成人の日だが、このブログを読んでいる読者の中にも高校生や大学生がいるだろう。あるいは成人しているのにどうも「大人」が実感できない中高年のひとがいるだろう。もやもやとした閉塞感の中で生活しつつ、それなりに満足した生活をおくっているのかもしれない。私が八年間書き続けてきたものがどれだけ読まれてきたのかまったくわからないが、ひとつ言えることは、自分がしあわせかどうかは人に判断してもらうものではなく、自分が満足する場が居場所でありふるさとなのだということだ。そしてそれは国籍や貧富の差や学歴や親の有無に関係なく、自分でつくっていかなければならないものであり、自分でつくれるものなのだ。

大人へようこそ、新成人の皆様。大人へようこそ、旧成人の皆様。ひとを殺したくなったら、自殺したくなったら、私の名前を思い出すのだよ。

(2014年1月13日)