2014-01-11

雨過天晴またはモンスター・ジャパン

よく晴れている。晴れている日はあんまり好きではない。道を外れた人間に日の当る場所はまぶしい。あまりひとのこない路地裏のような場所が好ましい。それはこのブログの基本的なイメージでもある。表通りでは華やかなパーティが開かれているのを、路地裏に面した窓から冷たく眺めている。そういう場所も悪くないと思うのだが、清潔な社会とは汚穢をすべて隠しなかったことにしたがるものだ。口先ばかりの正義感ばかりが増幅される異常な社会(そう、ほんとうに異様だ)において、そこからはじきだされたひとびとの居場所はますますなくなっていき、その結果この国のあらゆるものが不幸になるだろう。世の中には道を外れた人生を強いられたひとだっているのだ。そういうひとびとに対する理解へのこころみや共感をなくせばそれは人間ではないモンスターである。

モンスター・ジャパン。その完成は遠くない日のように感じる。しかし日差しは暖かくベランダの居心地はいい。仕事の電話をいくつか終わらせてすでに疲れた私は椅子に座って外を眺めている。執筆のほうも行き詰まっているしブログはアクセスが少ないしでふてくされている。かつてのブログ「セックスなんてくそくらえ」と同じぐらいのアクセスの勢いはあると思うが、そういえば当時は確か累計120万PVで、思い返してみるとたいした数字ではなかった。そんな小さな数字で喜んでいた自分がかわいくてならない。「いかなる天才的な作家も、作品を一人で成立させることはできない。ブロガーはアクセスを求め、さらなる読者を求めなければならない」と2006年に書いたのは私である。過去の自分が面倒くさい。というか馬鹿じゃないのとか思う。それが人生というものだ。

そういえば「この本を買ったひとはこんな本を買っています」という情報をAmazonは提供しているが、私の本を買ったひとが西原理恵子の本を買っているらしく微笑ましかった。私は週刊朝日で連載していた「恨ミシュラン」をげらげら笑いながら読んでいたひとりでありファンである。リスクを背負ってレストランを徹底的に罵倒しコケにし笑いものにする姿勢はほとんど感動的ですらある。一方モンスターは自分が殴られないノーリスクの距離からひとに石を投げつける。もちろん人間とはそもそもそういう生き物である。いつだってひとのせいにして、いつだってひとを馬鹿にして、いつだって自分のさみしい人生をごまかそうとしたいのだ。私は「ネットが可視化したのはひとの愚かさだけ」と書いたが、可視化されたのはひとの弱くて情けなくてみっともない姿でもある。そしてそれでもいいのだ。それを自覚することが問われているのである。

私はネットになんの期待もしていない。しかし癲狂院に閉じ込められている以上、私たちは圧倒的多数の狂人に取り囲まれている。狂ったフリをしなければならない。「みんな」と同じように朝鮮人や中国人を叩かねばならない。「みんな」がそうしていればそれに抗えば殺される。しかし私はふつうに生きてふつうに生活しているひと、伴侶がいて子供がいて仕事をしてふつうにしあわせに生きたいひとに、この狂った社会とたたかえなどと言う気にはならない。それはことばの銃で武装した兵士の仕事である。このグロテスクな場でいまだに正気を保ちながらこっそり生きるひとびとを見つけるのだ。もちろん表立ってではない、ひそやかな目配せを交わすだけにするのだ。これから、さらに狂った時代がやってくる。血と硝煙の時代ではない。流された血そのものが隠され、清潔きわまりない癲狂院で「みんな」が笑顔を浮かべたぞっとするような時代である。感謝しなければならない。兵士がゆいいつ生きられる場に。私たちの故郷たる、モンスター・ジャパンに。