2014-03-09

大人になんてなりたくない:「若作りうつ」社会

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

アニメーション作品を観ていると、その大多数が中学や高校の部活動を舞台に選んでいることに驚くことがあります。いつまでも繰り返される楽しい部活の日々。そこには仲間がいて、友達がいて、一緒に果たすべき目標があり、あるいは繰り返される日常こそが大切なのだというナイーブな感性があります。しかしかれらが社会人になった後どうなるのか、それはほとんど語られません。

「若作りうつ」は、未成熟であることを強いられる社会の病気だと解釈してもよさそうです。未成熟にとどまりたい、ずっとこの楽しい場所にとどまりたい、なぜならそこを一歩出てしまえば、外は苦しく、残酷な現実しかないと思えてならないからです。それを直視したくはないし、未成熟なアドレセンスの場にとどまりたい。そう考える大多数の視聴者の欲望を、商業作品が裏切るわけにはいきません。

「自分自身の成長やアイデンティティに夢中なままの親にとって、子どもの世話に意味を見出すのは困難で、『なんで私がこんなやつの面倒をみなきゃいけないのか』『本当は私自身が成長したいのに』」(p27)という声が紹介されていましたが、「私」もそう考えていました。未成熟は楽なのです。外的な諸要因(結婚・子供・異性)から目を背け続ければ、楽しくうつくしい日常を守れるような気がします。ここには私が代弁しなければならなかった「私たち」の声が描かれています。

この幻に過ぎない「部活」からどう卒業できるのか。社会そのものが未成熟なとき、その中に閉じ込められた私たちは、いったいどうやって大人になれるのか。そのためには痛みが必要であって、異性、家族、共同体、国といった関係性と真正面から向きあい、それとの齟齬に苦しむ必要がありますが、それはとても厳しい道です。私たちはもしできるならば、誰も「大人」になどなりたくない。そしてそういう未成熟さにとどまることが過去に可能だったのは敗戦後すべての決定権を米国に委任して部活を楽しんでいたからだと言ってよいと思います。

未成熟は特定の政治力学によって強いられたものであり、また同時に自ら選びとった選択の結果でもあったはずですが、その力学が崩壊すれば(すでに始まっている)私たちは武装し「成熟」した人々が闊歩する世界に子供のまま放り出されることになります。いま私たちがネットでよく見聞きしているのは、この未成熟社会がいつまでも続かないことが明らかになってきたこと、その事実認識に伴う痛みと混乱だと考えられます。正直に言えば、私はこの状況を歓迎する気持ちと、それを拒否したい気持ちを両方持っています。

話を戻して、「親子揃って年の取り方がわからなくなる」(p40)ことに関して思い出すのは、バブルが崩壊した後、職を失ったり、会社が潰れたり、50代になるかならないかで早く亡くなってしまった父親をもつ、私と同年代の人間たちのことです。いま彼らは30代〜40代だと思いますが、日本がこれからも成長するという夢が完全に打ち砕かれて自分探しを始めるしかなかった団塊世代と、その寂しい敗北者の背中を見てきたその子供たちは、なんのために生きるのか、という大きな目標を失ってしまっています。私もそのひとりです。単に言葉にすぎない「夢」や「目標」が失われたことがどれほど人のこころを毀損するのか。その実例を私たちはいまこの社会に見ています。

未成熟社会が近いうちに強制的にシャットダウンされうること。きわめて文学的な夢や目標が共同体から失われていること。このふたつが日本社会がこれから直面する大きな課題だと思われます。そしてこのどちらも言葉をめぐっています。要するに物書きにしかできないことがまだまだあるということのようです。私たちはこれに勇気づけられるべきなのでしょう。ふりかえって考えてみて、やはり「成熟」とは辛く苦しい道のりです。『「若作りうつ」社会』は、日本で生活する人々が、自分が閉じ込められている球体がいかなる場なのか、そして大文字の共同体について考える前に、自分という個はどう成熟を見出したらよいのか、それを考える契機を与えてくれる良書だと感じました。

(2014年3月9日)