2014-04-08

花の落ちる道

ブログの真っ白なエントリフォームが目の前にある。書くことはいつでも白紙の前に立ちすくむことだった。何か考えてから書くのではない。何か目的があって書くのではない。空白が文字を呼び寄せるのである。

地方都市には自然だけは豊富にある。近くの中学校の桜並木も見頃だが、私のお気に入りは団地に植えられた椿の花だ。巨大なさなぎのようなつぼみが開くと、中から薄く透き通った桃色の生き物が姿をあらわす。グロテスクなその姿に、思わず足を止めて見入ってしまう。

近所に花を集める子供がいるらしい。買い物にいく途中など、よく道端に摘み取られた花がまとめられているのを目にする。先日は椿の花が五つぐらい路傍に並べられていて、わけもなくぞっとした。それは不吉な徴のようで、誰かの死を悼む名前のない墓標のようにも見える。

土地は余っていて野草があちこちで生い茂るような地方である。しかし公園は狭い。そこでよく子供たちが遊んでいる。子供たちは知らない人間に挨拶などしない。親からそう教えられているのだろう。公園の脇を通り過ぎるとき、息子に似た子供がいるとつい目で追ってしまう。もちろん別人に決まっている。すでに顔も思い出せない。

にわか雨が降ってきて、私は暗い陸橋の下で雨宿りをしている。熱帯育ちなので傘は持ち歩かない。道の脇には未整備の国有地があり、そこに野花が咲き乱れ、雨粒に身体を揺らしている。私は乾いた石を見つけて腰をおろし、煙草に火をつける。生きるだけなら、あまり多くのものは必要ない、と思う。携帯電話を捨てたくなるのはこういう時だ。

先日病院にいくと、ひとつのスマートフォンを共有した子供二人が、ひそひそと何かを話していた。誰もしゃべらない待合室では声がよく聞こえる。チャットアプリで誰かと話しているらしく、A君うざいB君シネとか言っている。私たちはいつでも誰かと繋がっているように見える。好むと好まざるに関わらず、このノッペリとした顔のない現実と、誰もが向き合っており、向き合わざるを得ないのだ。

雨があがった。私は水たまりがひかる道を歩き出す。雲が裂けてそこから日光が漏れている。水たまりに映る顔は疲れた中年男だ。靴に滲み込む水はもう冷たくはない。道の先に、椿の花がまたひとつ落ちている。誰かがそこに置いたのだ。何のために? そう思いながら、花の前で立ち止まる。濡れた花を拾い上げると、花弁から手のひらに雨水がこぼれおちる。誰かに、何かに、このきれいな花を手向けたいと思った。しかし、なぜそうしたいと思ったのか、その動機はどうしても思い出せなかった。

花は五六歩歩いてから、溝に投げ込んで捨てた。