2014-05-21

つらい人生の過ごし方

夜降り始めた雨が深夜になって豪雨に変わった。私は机に向かいながら、窓の外を降る雨を見ている。仕事をしながらSNSを見るのが私の趣味だ。ツイッターは以前やっていたのだがまとめサイト(Togetter)の空気にすっかり嫌気がさしてやめてしまった。世の中の物事には簡単にはまとめられない何かがありそれこそが一番重要なものなのである。とはいっても集中している間、脇において見られる何かがあると逆に結構仕事がはかどることが多いので、Google+だけはやっている。昨晩そこで「楽になりたい」という趣旨の書き込みをみてしばらく考え込んだ。もちろんそこにどんな事情があるのか他人にはまったくわからないのだが、楽になりたいというのは私たち共通の願いであるように思えるからだ。というより誰でも楽になりがっており、苦痛から逃れようとする根源的な欲求によって無自覚に突き動かされている、というのが私たちの有り様であるように思える。

だがその逃れ方には様々なものがある。先日、ナイジェリアで西洋的な教育を受けている女子生徒たち数百名を誘拐したボコ・ハラムという集団のリーダーがネットにアップロードした動画をニュースで見た。男はきわめて不快な顔をしていた。醜いからではない。そこに表出していた、男に特有の弱さがあまりにも哀れだったからだ。私が絶望的な気分になったのは、あのリーダーの男のような顔をした人間は、私たちとそんなに遠くないところにいるのではないだろうか、ということだった。ひとは、自分がやられたことしか他人にできない。かれらの暴力は、自分たちがやられたことを、誰かに復讐するという動機に基づいている。それは西洋的な教育様式が優れており自分たちが「後進国」であることをまざまざと見せつけられたアジア人が持つ劣等感と同型であり、それによって傷ついた自尊心やプライドを回復させようという心の動きが、「おれがやられたんだから別の人間を傷つけてもいい」という自己正当化につながるのである。

だが人間は心をもって生まれてくる生物であり一応は罪悪感を持っている。人間の心は性善であって(私はそう信じる)、実は人を踏みつけたり、傷つけたり、苦しめたりすることによろこびを感じられるようには生来出来ていない。それができるのはそれよりもはるかに巨大な怒り、憎しみが、自分の傷を癒すという目的のために暴力として行使されるからである。そしてそういう人々の顔は皆似ている。おれのしていることはわるいことだ、わかってる、でもおれだって傷ついた、だからおまえを殴る、おまえがよわいからわるい、おまえがいまくるしんでいるおれの前にいるからわるい――という論理だ。暴力というものはじつは極めてシンプルな動機に基づいており、私たちはこれと同型の暴力をネットでいま毎日のように目にしているのである。ボコ・ハラムの傷ついた自尊心を癒せるのは暴力だけであり、一線を踏み越えた以上かれらの未来はもう決まっている。それは人間の心を忘れた存在がゆくことになる生き地獄である。

傷つけられた人間は、それを免罪符にしてひとを踏みつけにしてよいと考える。これは自然な心の動きであって、これを責めたり馬鹿にしてはならない。だがこうした心の動きを知ることなしに、自分のうちにある暴力に相対することはできない。人間は誰でもひとつぐらいは、壊せるものを持っている。それは親子関係だったり、恋人関係だったり、夫婦関係だったりする。自分が傷つけられたから、目の前に存在する無関係な誰かを傷つけ、それを壊したくなる気持ちを誰でも持っている。それを一般的には八つ当たりと言う。力(肉体または精神的な)を持っている人間の八つ当たりはきわめて危険であって、ボコ・ハラムの場合は武装しておりそれを止めるすべは別の暴力をもってあたるしかない。ネットに蔓延することばの暴力はみながそう考えているよりもはるかに危険でありそれによって損ねられているものの大きさを誰もが軽視している。というよりそれを無視し、軽視し、存在しないかのようにふるまわなければ、もう日本社会で生きていくことはおそらくできないだろう。よって暴力は連鎖する。

みな誰でも楽になりたいと思っている。受けた傷を癒したいと思っている。あるいは傷つけられる毎日のなかでなんとか人間らしく生きたいと思っている。この画一的な社会は弱者にきびしく同調圧力はきわめて高く、会社をはじめとする組織は人間らしさを奪うベクトルで自らを守り、維持し、利潤を産み出そうとする。日本人としてつらい人生というほかない。しかし、そうした傷がまるでなかったかのようにふるまうことだけはやめなければならない。楽になってはいけない。なぜならいかに強がって自分は傷ついてないと強弁したとしても、結局その傷はこころのなかで腐ってやがては毒を全身に巡らせはじめるからである。物事はシンプルに考えるべきだ。つらさ、くるしさ、かなしさをなかったことにしてはならない。その傷の存在と向きあうことなしには、人間はやがてはその苦しみから誰かを踏みつけてよいと自己正当化を始める生き物だからである。痛みを捨ててはならない。

(2014年5月21日)

2014-05-19

霧の中

深夜から朝にかけて突然街が深い霧に覆われることがある。五十メートル先が見えないような濃霧だ。もともとこのあたりは山だったらしいのでその名残だとは思うが、窓を開けるとあたりの風景すべてが白いもやに覆われているのを見るとぎょっとする。数時間前には何もなかったのだ。地獄がもしあるならばこういう眺めではないかと思う。ほとんど先が見えないような場所で永遠に出口を求めてさまよい続けるのだ。前も後ろもわからなくなり、霧の中で座り込んで、来るのかどうかすらわからない助けをずっと待ち続けるのである。

私は地方に住んでいるが、車は持たない主義だ。買い物はすべて徒歩で行っている。一番遠い卸は往復六キロ離れておりたまに肉をキロ単位で買いに行く。荷物が多すぎる時にはタクシーを呼ぶが基本的には徒歩だ。そのための足に合った靴、荷物を運ぶためのリュックサック、日除けグッズなどが必須である。徒歩で行くのが好きな理由のひとつは、道の途中で立ち止まることが容易だからだ。整備されていない竹林に野花が咲き乱れる空き地、ぼろぼろのシャッター商店街、十年以上前に潰れたまま放置され荒れ果てた店舗。これからこの国がどうなるのか、地方にいるとなんとなくわかるような気がする。そしてこの社会を覆っている霧のような空気が見えるような気がする。

統計やデータに回収されないのはつねに世の中の空気だ。学者でも評論家でもない市井の人間は空気についてのみ誠実に語ることができる。私の周りにいる人間はなぜか一定以上の教養がありかつ経済的に恵まれている人々ばかりなので、こうした地方に住む若い人々(最近は、マイルドヤンキーというらしい)のことを嘲笑するような発言にたまに苛立つことがある。ひとを教養や貧富の差で馬鹿にしてよいのか、と思うが、もちろん馬鹿にして良いのが日本社会であることは皆さんご存知の通りである。いまだにそんな差別的なレトリックがまかり通り大量生産されるツイッターを見ていれば誰でもわかることではある。だがあまり愉快ではない。自分がその一部であることを考えるとさらに苛立つものである。そしてこの苛立ちには出口がない。ひとは自らの出生を裏切ることはできないからだ。

地方にはイオンのショッピングモールと、コンビニと、アマゾンと、そして衰退する個人商店しかない。だが思い出してみて、かつてこの社会にはそもそもモノもお金もインフラもなかった時代があり、それを誰よりも切望して、寄生虫だらけの野菜を改善し、飲料水の品質を上げ、戦争の苦い経験から原油に頼らない電力インフラをつくってきたのが私たちの父母の世代だったことは動かすことのできない事実だろうと思われる。それ自体はアジアの他の国でも見られる後進国の切実な願いであって(それがどれほど切実かは隣国を見ればよくわかる)、いまもそれを実現したいと足掻いている国々がアジア全域にあることを私たちは知っている。しかし日本がなぜこうなってしまったのか、という不満を持っている世代(私のことだ)もあるし、そして達成された利便性の高い社会しか知らずそれに心の底から満足して「日本に生まれてよかった」と無邪気に言っている世代がいることも知っている。

霧の中では、人は見たいものを見る。想像の中の日本。想像の中の祖国。想像の中の自分。何も見えないのだから、好きにファンタジーを膨らませればよいということになる。ショッピングモールで一日時間を使って買い物ができる日本はよい国なのだ。二十四時間コンビニで買い物ができる日本はすばらしい国なのだ。そのとおりである。だがおそらく、私たちが本当に目指したかったものは、利便性だけがあふれる社会ではなく、豊かであることにより、結果的に自分が救われる社会、誰かを踏みつけにしたり、第三者を土足で踏みつけることなく、自分もまたしあわせになれる社会であったのだろうと思えてならない。そしてその実現には残念ながら失敗したのかもしれない。社会が階層化してラベリングされお互いが石を投げつけ合い、同情や共感が不在のまま各個人の断絶がますます進んでいく。私たちを取り巻く霧はますます濃くなっていき、何もかもを可視化するネットが、私たちをますます盲目にするだろう。

暴走族が今日も路地を走っている。かれらに届くことばを生きねばならない。

(2014年5月19日)

2014-05-15

傷の在処

コンビニに煙草を買いに来たら雨が降ってきて、軒下で煙草を吸いながら雨を眺めている。前にも同じようなことがあったと思うが、基本的に傘が嫌いでほとんど持ち歩かない。雨の日はできるだけ外出を控えるようにしているのだが、梅雨にかけて大気が不安定なので、まったく雨の気配がなかったのに、突然降り始めて身動きが取れなくなるということがよくある。

コンビニの灯りに照らされた周囲は明るいが、そのあちら側に広がる地方の街は暗闇に包まれている。もちろんあたりの店はすべて閉まっており、近くにあるシャッター商店街の店舗のガラスが汚れひび割れているのが見える。震災直後は東京都内にいたが、節電のため首都高の下の街道が真っ暗だったことを思い出す。このあたりはそうした節電施策をもう取っていないはずだが、やはり震災直後のことを思い出して憂鬱になる。この社会に対する信頼がぼろぼろに瓦解していくのを、多くのひとが実感し、そしてその衝撃からじつは立ち直ってはいないのだと思う。そこでカラ元気を出しても仕方がないのだ。自分たちが弱っていることを認めることがなによりも大切なのだと思えてならない。

弱っている人間は攻撃的になり、ヒステリックになり、他罰的になる。どれもが私たちがネットで毎日のように目撃しているものである。震災直後、かつて知人と思っていた人間から突然毎日のように嫌がらせを受け始めたことがあった。当時その理由はわからなかったが、振り返って考えてみて、あの時は皆完全におかしくなっていたと思える。もちろん、自分がおかしくなっていることがわかっても、それをどうにかすることは難しい。私たちが個性や性格と考えているものは、自分を取り巻く言語環境や社会的要素の圧倒的な影響下にあって、そこから出ることなしには、それを変えることは不可能だからである。

見えない傷、ということを考える。体の傷は目に見えるし治療も簡単だ。しかしこころや誇りが受けた傷はいったいどうやって癒したらいいのか。津波で家や思い出が文字通り瓦礫となった現実に加えて、私たちの世界一安全だと言われていた技術が自然災害に耐えられなかった過酷な事実によって、ただでさえ狭い国土の一部は失われ、行き場をなくした住民は文字通り夢や、目標や、職場や、友人や、家族を奪われている。どこか遠い誰かの不幸ではないのだ。たとえば関東に在住の人間にとって、それは数時間かければ行ける場所に住んでいた人たちなのである。原発事故から三年がたったが、私たちの受けた傷はいえていないどころか、血がだらだら流れ続ける止血すらできない裂傷にみえる。

いま私が唯一使っているSNSはGoogle+なのだが、そこで「自分の国に誇りがもてない」ひとびとがこの社会にはたくさんいる、という書き込みを見かけた。私はひとには自分が所属するふるさとへの愛情、いつくしみ、誇りといった肯定的な感情がなければ生きていけないものと思っている。安心して帰ることができる場所、自分のアイデンティティの寄る辺となる土地がなければ、まっとうに生きることはできないと考えている。それが第三者によって奪われてしまえば、それは戦争である。ふるさとをめぐる戦争はいまも外国で行われている。私たちが直面しているのは、信じていたふるさとの信頼性が根本から揺るがされ、それを信じることが以前のようにはできなくなった不安、怒り、恐怖、悲しみの連鎖であって、こころの問題だ。だがこころが損ねられれば人は限りなく残酷に暴力的になれるのである。

人災としての大惨事によって傷つけられた自尊心や誇りやプライドの悪影響はこれからも続いていく。事故が忘れられたというのは嘘であって、私たちはいまも苦しめられているのである。直接的な被害の有無の問題ではないのだ。私たちは他人と一緒に苦しむことはできないが、他人が苦しんでいることを完全に無視して生活できるほど冷血な生き物というわけではない。それは小さな澱となって私たちのこころに蓄積し、ある閾値を超えれば、たいていの場合、怒りや悪意といった負の感情となって、自分よりも弱いものに向かうのだ。私たちはそれをネットとそれが構築する空気によって支配される現実において目撃している。これを止めるためには、傷ついた人間の悪意を嘲笑したり攻撃するのではダメなのだ。その傷の在処――それは私たち自身の傷である――を明らかにし、それを理解しようとすることが問われているのである。いかにそれが困難であったとしても。

この国にうらぎられてつらいね、くるしかったね、かなしいね。そう、言うべきなのである。信じていた高い技術は津波を十分に想定せず、世界一のロボットは原発に入ることすらできず、大災害にあたって機能不全をおこし停止した行政に官僚主義に政治に、右往左往するだけだったメディアに、他者に八つ当たりし毒をまきちらす道具としてしか機能しなかったインターネットに、いまも傷の存在を認めることができない、弱くて愚かなひとの有り様に、うんざりして、くやしくて、何もかもがいやになって、それでも自分はふるさとがほしいのだと、ふるさとに蘇ってほしいのだと、少なくとも安心と安全があったあのふるさとに帰りたいのだと、もしそれがかなわぬのならば、共にその死を悼み、追悼し、滅んでしまって二度と生き返らないその屍の前で寄り添って手をとりあって涙を流すことが、私たち市井の人間がまずやるべきことなのではないかと、そう、思えてならない。

雨が止んだ。もう、朝である。

(2014年5月15日)

2014-05-10

雨のバス停

突然降ってきた雨が止むのをバス停で待っている。屋根がある待合所は三方をベニヤ板に囲まれ、壁にはちり取りと灰皿がぶら下げられている。「きれいに使ってください」という但し書きはおそらく老人が書いたものだ。誰かが個人的に清掃しているのだと思うがその本人を見たことはない。空を見上げると雲の向こう側から雷の音が聞こえてくる。私はため息をついてぼろぼろのベンチに腰を下ろした。家までは歩いて七分ほどの距離なのだが、先日買ったばかりの靴をずぶぬれにするのはためらわれた。細い銀色の雨がアスファルトに降り注ぎ、小さな川を作っている。ポケットには携帯が入っているが、取り出そうとしてやめた。そんなものを使うぐらいなら煙草でも吸っていたほうがましというものだ。

三週間ほど趣味の禁煙をしていたが、すぐに飽きてまた吸い始めている。壁の灰皿にはほとんど吸殻が入っていない。すぐに切れるライターに嫌気がさして最近はマッチを使っている。残り本数がわかるのでいつ切れるかどうか心配しなくてもよいのだ。そのマッチで煙草に火をつけて雨を眺める。だんだん激しさが増してきたようだった。家に電話して傘を持ってきてもらおうかとも思ったが、考えなおしてぼんやりと空を眺める。あたりには夏の気配がたちこめており、遠くに見える丘の緑は色濃くひかり、雨は冷たいというよりは暖かく、肌にあたる細かい霧のような水滴が心地良い。地方のバス停には昼間はほとんど誰も来ない。人が集まる時間というのは決まっていて、だいたい早朝の通勤時間にしか人がいない。

最近「黒子のバスケ」のイベントに脅迫状を送り続けて世間を騒がせ威力業務妨害罪で逮捕された渡辺博史被告の意見陳述が話題になっていたが、私の書いているものを読んだひとがこの渡辺被告に「私」が似ているという意見を見つけて興味深く読んだ。人は誰でも個別の不幸、あるいは困難に直面しておりそれ自体は別に珍しくもないごくあたりまえの生の条件である。だから私はこの渡辺という人物にほとんど興味を持てなかったのだが、「こんなクソみたいな人生」と雄弁に語る渡辺被告と同じように考え生きている同世代の人間がおそらくこの社会に無数に存在していることは実感している。かれらが強いられる孤独や孤立には本人の責に帰するべきではない構造的な理由があるものと思うが、それを語るのは評論家の仕事だろう。よって毎日起きる強姦殺人暴行等の事件と同じように、沈黙するのがまっとうな人間のすることであると思われる。

とは思うが、ひとつ書くとすれば、個別の不幸は別に面白くもなんともないものである。それを脅迫行為等でわかってもらおうとする試みそのものが無意味であると言うことが理解できていないという点で、渡辺の試みは敗北するほかなかったと思われる。世間の恐るべき無関心の前に、いくら言葉を尽くしたところで、それを聞く人間など誰もいないのである。人は誰でも自分の物語を語りたがる。そしてそれが面白いことはまれであり、語り手に対して人間的な興味(愛情、好意)がある聞き手がいるという限定された条件の元でしか、それがきちんと相手に届くことはほとんどないと言ってよい。どうしても吐き出したいくるしみやかなしみは不特定多数の相手に書くべきものではない。それは無視されるか、人の不幸が三度の飯より好きな人々のかっこうの飴玉になるだけなのだ。そうしたことは、いまそこにいる肉体を持った誰かに伝えるしかないのだ。

徹底的に絶望するしかない。何も伝わらず、誰にもわかってもらえない。こうした地点にまず立つことでしか、生きるということは始まらない。もっとも、これだけネットが広まった現在、わかってもらえるような幻想だけは蔓延している。何しろすぐに誰とでも繋がっているように思える時代だ。しかし、私たちは常に思い出すべきだ。いま目の前にいる人間と分かり合うことさえとてつもなく困難なのに、どうしてそれがネットでは可能だと思えるのか、そう常に自問しなければ、私たちはどんどんひとりぼっちになっていくだけである。そして実際にそうなりつつあり、状況はどんどん悪くなっている。とは言ってももうこれは誰にも止められないだろう。つまり誰かに理解されたい欲望を抱えた渡辺被告のような人たちが救われることはなく、類似の事件がさらに続発していき、それがネットでは嘲笑される笑い話として流通し消費されるだろう。

雨がさらに激しさを増している。雨の向こうに私が住む旧公団住宅が見える。その住人はほとんどが老人であり夜になれば早々と消灯されまるで誰も住まないゴーストタウンのように見える。昼間は昼間でぼろぼろで灰色のコンクリートが巨大な墓標のように見えるだけだ。しかしこのあたりは自然が豊富で空気はきれいである。あちこちに点在する広大な空き地には野花が咲き乱れ、その名前はほとんどわからないが、植物図鑑でも買ってひとつひとつ覚えていこうと思っている。何しろ時間だけはたくさんある。生きているだけで幸運であると言える。それがどんな流刑地であったとしても、住んでみればそれなりに楽しいことがあるものだ。そう思いながら煙草を吸っている。バスは一時間に二本しか来ない。車もほとんど走っていない。こんな人生もまた、死亡率百パーセントであるから、こんな雨の中でそのうち平穏に終わるに相違ないのである。

2014-05-09

相手が処女じゃなくてがっかりした童貞の皆さんへ

がっかりしてしまいましたか、失望してしまいましたか、なぜあのひとは処女ではなかったのか、なぜ他の男に股を開いてしまったのか、なぜ身体を触れさせてしまったのか、ああがっかりです失望ですああ許せません、怒りがあります身体が震えますこころの平安が永遠に消え去ります、自分の気持ちがよくわかりません、ただただ言いようのないどろどろとした泥沼に全身が沈んでゆきます、これが嫉妬でしょうか、羨望でしょうか、妬ましいのでしょうか、元の男がうらましいのでしょうか、きっとそうなのです、でも一番つらいのはわからないことなのです、自分の胸がどうして痛むのか、それがわからないのがなによりもつらくくるしいのです、

IT業者のみなさまがつくってくださる便利で偉大なインターネット、ああどうして記録されてしまうのでしょう、他の男とのメールのやりとりが、チャットのメッセージが、SNSでのいいね!のやりとりが、何もかもが記録され公開されてしまいます、いつでも閲覧することができます、過去の男との情交の様子がすべて何もかも記憶され、携帯に、ハードディスクに、メモリーカードに、光学メディアに、考えうるすべての記録媒体に、かけがえのないあのひとの裸体も保存されてしまっています、ああ誰でも確認できます、いつでも見ることができます、誰でも撮れます、誰でも撮影させます、自慰動画だって彼氏に頼まれれば送ってしまいます、ハメ撮りだって撮らせてしまいます、ネットワークを通して拡散してしまいます、ああくるしいああかなしいああやるせない、もう生きていくのがつらすぎるのです、

こんなに好きなのに、この世のどんなものとも交換不能な誰かをようやく見つけたのに、あのひとは処女ではありませんでした、あのひとはすでに他の男と性交を繰り返していました、野外で、車の中で、ラブホテルで、相手の妻が留守の間にこっそり忍び込んだ夫婦のベッドルームで、旅行先で、すべてが記録されています、何もかもを知ることができます、技術の進歩は偉大です、私たちが知らなくてもよかったこと、知りたくもなかったこと、すべてがむき出しに露出してしまいます、あのひとは処女ではなかったので過去があります、どんな女にもそれぞれの過去があります、別の男とたっぷり性交して楽しんで口移しでチョコレートを食べたりした甘い記憶があります、そしてそのすべてが記録されデータとして残っています、くるしいですくやしいです、なぜ残っているのでしょう、知らずにいれたらどんなによかったでしょう、ああ息ができないああ胸がじくじくと痛みます、

綺麗事ばかり言っている意識の高い連中が今日も説教しています、今日もどこか高いところからご高説を垂れています、いわく女には過去があるものだ、いい男とは女の過去をすべて受け入れるべきだ、男は理性的で寛容であるべきだ、ええまったくごもっともですまったくそのとおりです、まったく一度も苦しんだことがない連中ばかりです、まったく自分が経験したことがない連中ばかりです、どうしてこんなに綺麗事ばかりが語られるのでしょう、どうして誰もがドヤ顔で偉そうなことを言いたがるのでしょう、ああうんざりですああもう嫌気がさします、ああこの手の連中の清潔な顔を殴りつけてその笑顔を引き裂いてやりたいです、泥と汚穢にまみれた現実の中に蹴落としてやりたいです、いや自分がいる場所に引きずり落としてやりたいです、二度と建前がいえなくなるようにしてやりたいです、ああわかっていますわかっています私が弱いから悪いのです、私のこころが小さいのが悪いのです、私がインポテンツで新しい妻を満足させられなくて、しかも前の男とは毎日のように性行為を避妊具なしで楽しんでいたことを動画を見て知ってしまって劣等感にさいなまれて逆上してひとりで泣いて部屋で自慰をしているしかないそんな人間だから悪いのですくやしいのです負け犬なのです殺してほしいのです死にたいのです、

あのひとのハードディスクにはいろいろな過去が入っています、あのひとのSNSにはいろいろな昔のやりとりが残されています、メールボックスには愛していますと別の男に書いているその文面と笑顔の顔文字が残されています、何もかもが可視化されています、ああ便利な時代、ああ利便性、ああWeb2.0、見えてしまいます読めてしまいますわかってしまいます、自分が小さい、自分が醜い、自分がひとりぼっち、自分はカネがなくて友達がいなくて何一つ自慢できるものがない事実がネットにいればすぐに理解できます、偉そうな連中が吹きだまるツイッターで嫉妬しています、スーツをきた連中が芸能人と食事をした写真を今日もアップロードしています、くやしいくるしいねたましいさみしい、自分だけがみじめなのです自分だけがひとりぼっちなのです、だからあのひとの笑顔が他の男に向けられていたのが許せないので耐えられないのですそうではありませんかそうですよねそうなのですねわかっています私はわかります私だけにはわかりますなぜなら私はこの世の汚物そのもの、汚穢の中でのたうちまわる一匹の差別主義者の豚、レイシストピッグなのですネトウヨなのです大日本帝国バンザイなのです安倍晋三の支持者なのです嫉妬するのです妬んでいるのです、

さああのひとの過去を今日も検索しましょう動画がどこかにきっとあるはずです別の男に喜んで股をひらいたあの日の写真が動画がどこかにきっとあるはずです他にもあるはずです許せないのです、ああかわいそうなあわれな私、愛したあのひとが処女ではなかったそんなことを許せないみっともない私、しかもネトウヨで差別主義者で豚なのですどうしようもないのです、ああダメですあなたたちは私のような豚になってはならない、いますぐ引き返すのです今日からあのひとの過去を詮索するのをやめるのです、どうしても気になるのなら告白するのです、あのひとはたったひとりしかいないのです、代わりなどいないのです、他に女などいないのです、いいですかわかりますか、あのひとの代わりなどいないのです、一回限りの出会いしかないのです、だから小さい自分を許すのです、許しをこうのです、自分は自慰しか趣味がなくてネトウヨで性器は機能不全で嫉妬深くて、あのひとが他の男と性行為をしているところを想像するだけで涙が流れて吐きそうになって生きていけないぐらいつらいのだと、その小ささそのものをあのひとの前にすべて告白するのです、

残された動画であのひとが男に挿入されて気持ちよくなっています、それは幻想なのです夢物語なのです、記録されているのは0と1に分解され再構築された思い出にすぎないのです、違うのですそれはあのひとではないのです、あのひとはいまそこにいて呼吸をしている優しい肉のかたまりなのです、いつかは土にかえるうつくしい花なのです、違うのです男は女を許すのではないのです、逆なのです女に許してもらうのです、あのひとに自分の小ささを許して愛してもらうのです、吐瀉物と涙にまみれてあのひとに愛してもらうのです、許してもらうのです、現在しかないのですネットには何もないのです、ネットには過去しかないのですネットには未来はないのです、いまここにあるあのひとと私の一回限りのこの時間がゆいいつ大切にすべきものゆいいつ追い求めるべきものなのです、おろかで醜いネトウヨでもいいのです、これから人間になればよいのです、泥にのたうちながらそれでも星を見上げるのです、何もかもが可視化される狂ったインターネットから逃亡するのです、そこから離れるのです、いまそこにいるあのひとを忘れてはならないのです思い出すのです、こころからダラダラ血を流しながら歯を食いしばっていまそこにいる女を愛そうとこころみるのです、不可能ですか難しいですか女を馬鹿にしたいですか、

怖がるのをやめるのです女を恐れるのをやめるのです、馬鹿にされなさい嘲笑されなさいそれでいいではないですか、自分のみっともなさをごまかすのをやめるのです、女に傷つけられた女に苦しめられた女に裏切られた、全部わかります渡しはわかります全部知っています見てきました経験してきました、あなたたちのくるしみがわかりますさみしさがわかりますくやしさがわかります、しかし違うのです女がいなければ男は愛することがわからないのです、女がいなければ嫉妬も妬みも傷もないそれはそうです知っています、口汚く罵るだけのツイッターのひとびとの言うことを鵜呑みにするのはやめなさい、頭のよさそうなことを言ってみなに褒められようと思うのはやめなさい、そんなものはなんの意味もないのですネットにはなんの価値もないのです、わかりますかわかりませんか、女をもとめるのですかけがえのないあのひとを探すのです、許してもらうのです人間になるためにひとに優しくされるのです愛されるのです必要とされるのです、別の男と性交したからといってあのひとを責めるのをやめるのです、代わりにくるしいと言いなさいくやしいと言いなさい泣きながらそう言いなさい、お前のせいでこうなったと言いなさい傷ついたと言いなさい、お前のことが好きでたまらないのに、別の男と性交したなんてくやしい嫉妬していると言いなさい、いいですか言うのです伝えるのです、愛しているからくやしいと言うのです、愛していると言いなさい愛していると、書きなさい。

(2014年5月9日)

2014-05-08

検索するのをやめなさい

この世が糞だからといってこの世がどうしようもないからといって日本に夢も希望もないからといって自分の居場所がどこにもないからといって検索するのはやめなさい苦しいと検索するのをやめなさい日本はダメだ日本人は終わってると検索するのをやめなさいいますぐやめなさい今日から明日から明後日からやめなさいなぜやめないのかいまやめなさい検索して何が見つかりますか検索して何を得ることができますかSNSで+1していいね!してfavして笑顔をつくっていればいいではないですか猫の写真でもアップロードしておけばいいではないですか綺麗事でお茶を濁せばいいではないですか誰でもそうしています誰でも見てみぬふりをしていますそれでいいではないですか検索してはならない検索して自分のような人間を探してはならない自分のようなダメでどうしようもない人間のクズがここにもいると思って安心してはならないそれならむしろ死ぬべきなのですむしろ自死すべきなのですわかりましたかわかりませんか検索するのではない検索してはならないのです、

なぜ自分よりも低い人間をいつも探していますかなぜ自分よりも醜い人間を探してしまいますか検索してそれが見つかりましたか馬鹿にできて中傷できる簡単な獲物が見つかりましたかすぐに見つかりますねそうですね全知全能のネットでは愚か者がすぐに見つかりますね威張りくさった連中がツイッターで吹き上がっているのが見つかりますねいつもの風景ですねわかりますわかっています私も楽しい私もうれしいひとを馬鹿にするのはエンターテイメント超楽しい超うれしいそれがインターネットさあ今日も石を投げる相手を探さねばいけません自分よりもダメな人間を探しましょう全力でアンテナを立てて頭のおかしい第三者を探しましょうたくさんの石つぶてをバッグに詰め込んで相手を物色しましょう自分よりも低い人間をダメな人生を送っている人間を探しましょうさあ道を通りがかる無関係な人々に力いっぱい石を投げつけましょう血が出ます涙が出ます泣きわめきますああなんというよろこびああなんという快楽しかも最近は石を投げる相手がたくさんいるような気がしませんかネットは便利ですすぐに相手が見つかります韓国人に中国人に意識の高い日本人ほんとうにここはたのしい社会ですね、

私たちのまわりにはこんなにたくさんの優れたひとびとがこんなにたくさんのうつくしい人々がいてああくやしい自分はこんなにもみじめなのにああくるしい自分はこんなにひとりぼっちなのに友達もいないのに同窓会の通知も自分だけ来ないのに彼女もいないのに結婚だってできないのに一日中ネットをするしかすることがないのにそれしか楽しみがないのにだから検索するのですねわかります私も検索します毎日のように検索しますきっと死ぬまで検索するでしょう自分よりも低い人間にあふれたおろかで偉大なインターネットがなければもう一秒たりとも生きていけない耐えられないくるしいからですかなしいからです検索しよう検索しましょうさみしい自分をごまかすために悲しい自分を忘れるために苦しい毎日を忘れるために検索して時間つぶしの道具をおもちゃを探して叩いて楽しんで今日あったことを昨日あったことを10年前に傷つけられた日のことをすべて忘れてみんなと同じような顔をしてインテリのふりをして高学歴のふりをして収入があるふりをして自画撮りで一番イケメンに写った写真をプロフィール画像に設定してさあ検索しよう検索して自分のほんとうの姿を忘れよう鏡はいらない鏡だけはいらないネットには何でもあるけど鏡だけはないなくていい見てしまえば狂ってしまう死んでしまう痛みで発狂してしまう自分がいる場所がどれだけ寒くて汚いところか気がついてしまう死んだほうがいいいっそ生まれてこなければよかったいっそ産んでもらわなければよかった先進国日本になぞ生まれなければよかった、

何も見つからないのです何も得られないのですテキストと画像と動画以外に何もないのです誰かのしあわせやふしあわせがネットにはあるだけなのですそこには自分のかなしみやつらさやくるしさを癒してくれるものは何もないのですないのですどうしてわからないのですかどうして検索するのですかいますぐやめなさいいまやめなさい検索するのをやめなさいネットに何かを期待するのをやめなさいこの社会にない何かがあると思うのをやめなさいこの社会にまったくみつからない夢や希望や理想がネットにあると思うのをやめなさいありませんみつかりません繰り返さねばなりません癒されません許されません愛されませんひとりぼっちですネットにいてもひとりぼっちですネットにいて誰とでも繋がっていても孤独なのですどうしようもないのですむしろ絶望すべきなのですむしろ徹底的に希望を捨てるべきなのですまがいものしかないのですああわかりますだって現実だってまがいものなのです社会はまがいものだらけなのですだからネットにすがりたいのですネットにはネットだけには夢や希望があってほしいのです愛してくれる誰か抱きしめてくれる誰かがいるような気がするのですディスプレイに向かうあなたの横顔ディスプレイに映るあなたの表情誰も知りえないあなたの存在さあネットを捨てるのですさあネットから離れるのです誰ともつながれないのですあきらめるのです逃亡するのです全てのねがいを捨てるのです打ち捨てるのです、検索するのをやめなさい。

(2014年5月8日)