2014-05-10

雨のバス停

突然降ってきた雨が止むのをバス停で待っている。屋根がある待合所は三方をベニヤ板に囲まれ、壁にはちり取りと灰皿がぶら下げられている。「きれいに使ってください」という但し書きはおそらく老人が書いたものだ。誰かが個人的に清掃しているのだと思うがその本人を見たことはない。空を見上げると雲の向こう側から雷の音が聞こえてくる。私はため息をついてぼろぼろのベンチに腰を下ろした。家までは歩いて七分ほどの距離なのだが、先日買ったばかりの靴をずぶぬれにするのはためらわれた。細い銀色の雨がアスファルトに降り注ぎ、小さな川を作っている。ポケットには携帯が入っているが、取り出そうとしてやめた。そんなものを使うぐらいなら煙草でも吸っていたほうがましというものだ。

三週間ほど趣味の禁煙をしていたが、すぐに飽きてまた吸い始めている。壁の灰皿にはほとんど吸殻が入っていない。すぐに切れるライターに嫌気がさして最近はマッチを使っている。残り本数がわかるのでいつ切れるかどうか心配しなくてもよいのだ。そのマッチで煙草に火をつけて雨を眺める。だんだん激しさが増してきたようだった。家に電話して傘を持ってきてもらおうかとも思ったが、考えなおしてぼんやりと空を眺める。あたりには夏の気配がたちこめており、遠くに見える丘の緑は色濃くひかり、雨は冷たいというよりは暖かく、肌にあたる細かい霧のような水滴が心地良い。地方のバス停には昼間はほとんど誰も来ない。人が集まる時間というのは決まっていて、だいたい早朝の通勤時間にしか人がいない。

最近「黒子のバスケ」のイベントに脅迫状を送り続けて世間を騒がせ威力業務妨害罪で逮捕された渡辺博史被告の意見陳述が話題になっていたが、私の書いているものを読んだひとがこの渡辺被告に「私」が似ているという意見を見つけて興味深く読んだ。人は誰でも個別の不幸、あるいは困難に直面しておりそれ自体は別に珍しくもないごくあたりまえの生の条件である。だから私はこの渡辺という人物にほとんど興味を持てなかったのだが、「こんなクソみたいな人生」と雄弁に語る渡辺被告と同じように考え生きている同世代の人間がおそらくこの社会に無数に存在していることは実感している。かれらが強いられる孤独や孤立には本人の責に帰するべきではない構造的な理由があるものと思うが、それを語るのは評論家の仕事だろう。よって毎日起きる強姦殺人暴行等の事件と同じように、沈黙するのがまっとうな人間のすることであると思われる。

とは思うが、ひとつ書くとすれば、個別の不幸は別に面白くもなんともないものである。それを脅迫行為等でわかってもらおうとする試みそのものが無意味であると言うことが理解できていないという点で、渡辺の試みは敗北するほかなかったと思われる。世間の恐るべき無関心の前に、いくら言葉を尽くしたところで、それを聞く人間など誰もいないのである。人は誰でも自分の物語を語りたがる。そしてそれが面白いことはまれであり、語り手に対して人間的な興味(愛情、好意)がある聞き手がいるという限定された条件の元でしか、それがきちんと相手に届くことはほとんどないと言ってよい。どうしても吐き出したいくるしみやかなしみは不特定多数の相手に書くべきものではない。それは無視されるか、人の不幸が三度の飯より好きな人々のかっこうの飴玉になるだけなのだ。そうしたことは、いまそこにいる肉体を持った誰かに伝えるしかないのだ。

徹底的に絶望するしかない。何も伝わらず、誰にもわかってもらえない。こうした地点にまず立つことでしか、生きるということは始まらない。もっとも、これだけネットが広まった現在、わかってもらえるような幻想だけは蔓延している。何しろすぐに誰とでも繋がっているように思える時代だ。しかし、私たちは常に思い出すべきだ。いま目の前にいる人間と分かり合うことさえとてつもなく困難なのに、どうしてそれがネットでは可能だと思えるのか、そう常に自問しなければ、私たちはどんどんひとりぼっちになっていくだけである。そして実際にそうなりつつあり、状況はどんどん悪くなっている。とは言ってももうこれは誰にも止められないだろう。つまり誰かに理解されたい欲望を抱えた渡辺被告のような人たちが救われることはなく、類似の事件がさらに続発していき、それがネットでは嘲笑される笑い話として流通し消費されるだろう。

雨がさらに激しさを増している。雨の向こうに私が住む旧公団住宅が見える。その住人はほとんどが老人であり夜になれば早々と消灯されまるで誰も住まないゴーストタウンのように見える。昼間は昼間でぼろぼろで灰色のコンクリートが巨大な墓標のように見えるだけだ。しかしこのあたりは自然が豊富で空気はきれいである。あちこちに点在する広大な空き地には野花が咲き乱れ、その名前はほとんどわからないが、植物図鑑でも買ってひとつひとつ覚えていこうと思っている。何しろ時間だけはたくさんある。生きているだけで幸運であると言える。それがどんな流刑地であったとしても、住んでみればそれなりに楽しいことがあるものだ。そう思いながら煙草を吸っている。バスは一時間に二本しか来ない。車もほとんど走っていない。こんな人生もまた、死亡率百パーセントであるから、こんな雨の中でそのうち平穏に終わるに相違ないのである。