2014-05-21

つらい人生の過ごし方

夜降り始めた雨が深夜になって豪雨に変わった。私は机に向かいながら、窓の外を降る雨を見ている。仕事をしながらSNSを見るのが私の趣味だ。ツイッターは以前やっていたのだがまとめサイト(Togetter)の空気にすっかり嫌気がさしてやめてしまった。世の中の物事には簡単にはまとめられない何かがありそれこそが一番重要なものなのである。とはいっても集中している間、脇において見られる何かがあると逆に結構仕事がはかどることが多いので、Google+だけはやっている。昨晩そこで「楽になりたい」という趣旨の書き込みをみてしばらく考え込んだ。もちろんそこにどんな事情があるのか他人にはまったくわからないのだが、楽になりたいというのは私たち共通の願いであるように思えるからだ。というより誰でも楽になりがっており、苦痛から逃れようとする根源的な欲求によって無自覚に突き動かされている、というのが私たちの有り様であるように思える。

だがその逃れ方には様々なものがある。先日、ナイジェリアで西洋的な教育を受けている女子生徒たち数百名を誘拐したボコ・ハラムという集団のリーダーがネットにアップロードした動画をニュースで見た。男はきわめて不快な顔をしていた。醜いからではない。そこに表出していた、男に特有の弱さがあまりにも哀れだったからだ。私が絶望的な気分になったのは、あのリーダーの男のような顔をした人間は、私たちとそんなに遠くないところにいるのではないだろうか、ということだった。ひとは、自分がやられたことしか他人にできない。かれらの暴力は、自分たちがやられたことを、誰かに復讐するという動機に基づいている。それは西洋的な教育様式が優れており自分たちが「後進国」であることをまざまざと見せつけられたアジア人が持つ劣等感と同型であり、それによって傷ついた自尊心やプライドを回復させようという心の動きが、「おれがやられたんだから別の人間を傷つけてもいい」という自己正当化につながるのである。

だが人間は心をもって生まれてくる生物であり一応は罪悪感を持っている。人間の心は性善であって(私はそう信じる)、実は人を踏みつけたり、傷つけたり、苦しめたりすることによろこびを感じられるようには生来出来ていない。それができるのはそれよりもはるかに巨大な怒り、憎しみが、自分の傷を癒すという目的のために暴力として行使されるからである。そしてそういう人々の顔は皆似ている。おれのしていることはわるいことだ、わかってる、でもおれだって傷ついた、だからおまえを殴る、おまえがよわいからわるい、おまえがいまくるしんでいるおれの前にいるからわるい――という論理だ。暴力というものはじつは極めてシンプルな動機に基づいており、私たちはこれと同型の暴力をネットでいま毎日のように目にしているのである。ボコ・ハラムの傷ついた自尊心を癒せるのは暴力だけであり、一線を踏み越えた以上かれらの未来はもう決まっている。それは人間の心を忘れた存在がゆくことになる生き地獄である。

傷つけられた人間は、それを免罪符にしてひとを踏みつけにしてよいと考える。これは自然な心の動きであって、これを責めたり馬鹿にしてはならない。だがこうした心の動きを知ることなしに、自分のうちにある暴力に相対することはできない。人間は誰でもひとつぐらいは、壊せるものを持っている。それは親子関係だったり、恋人関係だったり、夫婦関係だったりする。自分が傷つけられたから、目の前に存在する無関係な誰かを傷つけ、それを壊したくなる気持ちを誰でも持っている。それを一般的には八つ当たりと言う。力(肉体または精神的な)を持っている人間の八つ当たりはきわめて危険であって、ボコ・ハラムの場合は武装しておりそれを止めるすべは別の暴力をもってあたるしかない。ネットに蔓延することばの暴力はみながそう考えているよりもはるかに危険でありそれによって損ねられているものの大きさを誰もが軽視している。というよりそれを無視し、軽視し、存在しないかのようにふるまわなければ、もう日本社会で生きていくことはおそらくできないだろう。よって暴力は連鎖する。

みな誰でも楽になりたいと思っている。受けた傷を癒したいと思っている。あるいは傷つけられる毎日のなかでなんとか人間らしく生きたいと思っている。この画一的な社会は弱者にきびしく同調圧力はきわめて高く、会社をはじめとする組織は人間らしさを奪うベクトルで自らを守り、維持し、利潤を産み出そうとする。日本人としてつらい人生というほかない。しかし、そうした傷がまるでなかったかのようにふるまうことだけはやめなければならない。楽になってはいけない。なぜならいかに強がって自分は傷ついてないと強弁したとしても、結局その傷はこころのなかで腐ってやがては毒を全身に巡らせはじめるからである。物事はシンプルに考えるべきだ。つらさ、くるしさ、かなしさをなかったことにしてはならない。その傷の存在と向きあうことなしには、人間はやがてはその苦しみから誰かを踏みつけてよいと自己正当化を始める生き物だからである。痛みを捨ててはならない。

(2014年5月21日)