2014-06-22

男と女たちの風景

ネットには男女論があふれかえっている。みな自分が知っている事例を根拠にしてものを語っている。だがしかしそれはおしなべてGoogleで検索すれば出てくるまとめサイトの体験談の水準を超えていない。事例に基づいてものを考えてはならない。経験に基づいてものを語ってはならない。知らないものについて知らないまま考えなければならない。

不倫をしている男は自分が恋愛していると思っている。かれらは相手に尽くし、お金と時間を使い、愛しているとさえ言ったりする。しかし多くの人間が考えるように、かれらは別に下半身に脳味噌があるわけではない。かれらが知らずと求めているのは、恋愛という二文字に代表される何かだ。妻とは恋愛できない。よって他の相手にそれを求める。これは肉の欲とは微妙に違う、もっと抽象的な衝動だ。

女はどうか。不倫をしている女は自分が恋愛していると思っていない。その所作を注意深く眺めると、相手は自分を愛してくれない夫の下半身の代替物に過ぎず、その裏切りは夫への復讐である。本心ではできれば夫に愛されたいのに、それが叶わないからあてつけとして浮気をするのであって、恋愛という要素は表層的な化粧でしかない。女にも強い欲があるが、女のそれは愛情がなければ発動しない何かでもある。

誰でも恋愛を必要としている。男は妻以外の女相手に恋愛を試み、女は夫と恋愛するために別の男と寝ることを選ぶ。雑誌が、テレビが、ネットが、読者に恋愛をするように煽っている。恋愛こそがゆいいつ求めるべきものだと誇張している。もちろんそのほうがかれらがタイアップしている広告主の商品が売れるからである。人間が持つ根源的な欲求をひたすら煽って、その気がない人々を恋愛に駆り立てなければならない。

少し前「性行為できれいになる」という記事に苦言を呈していた女性の医者がいたが、その気持は理解できるものだ。逆に考えてみれば、じゃあ性行為ができない人はきれいになれないのか、そもそも恋人がいない人はきれいになる資格はないのか、という圧力をかけられているのと同じことだからである。それが事実かどうかはともかく、私たちは自分の欲望が所詮他人の欲望に過ぎないことを知りつつも、それを強制されることには不快感を覚える。それはきわめてまともなことである。

人は恋愛しなくても生きていくことができるが、根源的なものに抗うことは難しい。恋愛の副産物として得られる性行為をする権利は貧者の娯楽でもあり、拡大し続ける格差社会においては、すでになくてはならぬ飴玉の一つでもある。地方に行けば髪の毛を金髪に染めて安物のジャンパーを羽織った若者カップルが子供を三人連れて歩いているのを目撃することができる。貧者の娯楽は根源的な欲求を満たすものであり、かれらはその疑いようのない事実を体現する証拠そのものである。

恋愛を知らないなら知らないままでいるほうがよい。人間は自分が知らないものを欲しがることはできないからだ。一度手にしたものを奪われればそれは塗炭の苦しみである。一度美味いものを食べてしまえば、いつもの食事が味気なくなる。それならばむしろ知らないままのほうがしあわせに暮らせるというものだ。第三者に褒められたり、認められたり、必要とされたり、愛されたりすることの心地良さなど知らなくても、ありあまるほど時間つぶしの道具が揃っているではないか。

一方都会では、暗い顔をした夫婦が寂しく夕食をファミレスで取っていた。男も女も、どうしようもなく孤独だった。

(2014年6月22日)