2014-07-29

ビー・ジャパニーズ(2)

窓にぶつかって死んだ鳥の死体を庭に埋葬している。Yと電話をしている時、窓に激しく何かがぶつかる音がしたのだ。思わず悲鳴をあげて立ち上がると、耳元からはYの心配するような声が聞こえてくる。窓の外、ベランダに何かが落ちている。私はちょっと待って、と言い残し、直射日光に炙られるベランダに足を運ぶ。そこには口から血を流した鳥が落ちている。首が奇妙な方向にねじ曲がっていて、一目でもう助からないことがわかった。鳥の血も赤いんだな、と私は思う。

あの後、Yとはホームルームで少しずつ話すようになった。それからたまに日本人会の連絡を口実に、電話でのやりとりもするようになっていた。あの日、Yがなぜ家で泣いていたのかは、私は一度もたずねなかったし、彼女もそれを話そうとはしなかった。口にしてはいけない秘密を共有しているうちに、私たちは昼休みにカフェテリアで昼食をとったり、お互いの家が歩いていける距離にあることがわかってからは、たまに一緒に帰るような関係になっていた。

私はベランダから戻ってきて、Yに状況を説明した。窓がさ、鏡みたいに空を反射していて、ずっと飛んでいけると思ったんじゃないかな、首の骨を折ってて即死だったみたいだよ……これから、見に行っていい? とYが唐突に聞いてくる。私は窓の外、少し離れた場所に建っているYが住む高層マンションを眺める。陽炎に揺らめく塔の窓のどれかで、Yもまた私のことを見ているような気がした。私は黙ってうなずいてから、いいよと口に出して電話を切った。奇妙な静けさが、あたりを包んでいた。

私の家の小さな庭には枯れたプール(手入れがめんどうなので放置されていた)と、申し訳程度に日除けのため植えられた木が何本か植えられている。私は頭にタオルを巻いて、物置からスコップを出し、鳥の死体をちりとりに載せて、庭で適当な埋葬場所を探し始めた。鳥の目は開かれたままで、まだ輝きが残る眼球が、空を反射してちらちらと光っている。庭に立って中二階の居間を振り返ると、その巨大な遮光窓には、くっきりと入道雲が映っていた。きっと鳥は、自分が死んだことすら、気がついていないのだろうと思った。

木陰で汗を額から流しながら土を掘っていると、庭の鉄製のゲートのあちら側から、私を呼ぶ声がした。白い長袖にジーンズを着たYだった。開いているよ、と口にする前に、Yはゲートを勝手によじ登って飛び越え、器用に地面に着地する。そして近づいてくると、鳥の死体をまじまじとみつめた。「死んでるの?」と真顔でたずねるので、死んでるよ、と穴を掘りながら答える。Yはしゃがみ込み、興味深そうに死体を指でつつこうとする素振りを見せたので、私は触らないほうがいいよと忠告する。そしてYの横顔を覗き見る。Yはかなりかわいい部類だと思う。ただ女らしくするのは嫌なのだということは、その時にはもう理解していた。

Yに手伝ってもらって、鳥を土の中に埋め、最後にその上に適当な石を置いた。ひどく汗をかいて、シャツが汗だくになったが、どこかから潮の香りがする風が吹いてきて心地良かった。小さな島国なので、どこにいても海が近いのだ。私はぼろぼろのベンチに腰を下ろし、汗をタオルで拭う。Yは即席の墓の前に立ったまま、私に背中を向け、掘り起こした茶色い盛土を見つめている。痛かったかな、とYが言う。死ぬのって痛いのかな? わからないよ、と私は答える。たぶん、痛みも感じる暇なかったんじゃないかな……。その時、私は見る。Yの背中、汗で透けたワイシャツの背中に、うっすらと浮かぶいくつかの痣を。痛くなかったんだ、とYが言う。よかったね、きっと、死んだことすら、もう気がつくことがないんだもの。

2014-07-28

ビー・ジャパニーズ(1)

――なんで日本人はいつでも日本の悪口ばかり言ってるのかしら? 自分だけは違うっていいたいのかな、わたしはそういう自意識がだいきらいなの、父さんのことは好きにはなれないけど、あのひとの悪口を言っていると自分のこころも傷つくような気がするの、だから黙っているのよ、どんなに憎んでいても我慢するのよ――。

80年代後半、どんな外国でも日本人はコミュニティを作りたがっていた。どんな国であっても在留邦人が一定数集まれば、日本人会のような組織を必ずつくっていた。私がいた熱帯のシンガポールにも日本人会があり、日本人学校があり、本国と同じような、小規模な祭りやパーティのような、様々な季節の催し物が、彼らの手によって企画され、実行されていた。当時日本経済は破竹の成長を続けており、それはずっと続く夢のようにも思えた。

日本人学校を小学部まで通った後、私は欧米人や中東の子女が通う国際校に、親の意向で転校を強いられていた。当時その学校には、両手の指で数えるぐらいの数しか日本人がいなかったので、保護者たちが作った日本人連絡網は、全員の名前と電話番号と住所が書き込まれていたけれど、隙間だらけの一枚の紙にすべてが収まっていた。当時はまだ電子メールもインターネットもまだ発明されていなかったのだ。

季節はクリスマス近くだったが真夏日が続いていた。学校が年末年始の「冬」休みにはいろうとするなか、私の母親は日本人会の忘年会とやらのパーティの準備で忙しくしていた。根本の家は連絡網で下から二番目で、その一番下にクラスメイトだったYの名前があった。Yとは学校ではまだほとんど話したことがなかったが、顔はホームルームが一緒だったので知っていた。当時は英語の授業についていくのがやっとで、日本人の友達をつくろうという余裕がほとんどなかったのだ。

そのYと初めて話をしたのは、遊びに出かけた母親に代わりに、連絡を電話で回しておくように頼まれた時だ。私はなぜかその時の光景をよく覚えていて、居間の窓から斜めに太陽のぎらぎらとした光が射しこみ(エアコンはなぜか付けていなかった)、頭上では天井の扇風機がまわっていて、空にはやたら巨大な入道雲が浮かんでいた。私はYの家に電話をかけ、コール音が鳴り続けるのを聞きながら、コードを指でくるくる回していた。誰も出ないのでもう切ろうかと思った時、Yが電話に出た。

初めてYと話しながら、私は単に用件を伝えていった。パーティは十九時からで、服装はこんな感じで、参加費は云々……。それが普通の電話ではなかったのは、Yが受話器のあちら側で泣いている声が聞こえたからだった。いや最初はわからなかった。変な音がすると思っただけだった。だが用件を伝え終わる頃には、Yが泣いていることに気がつかないわけにはいかなかった。Yはごめん、と言って電話を切った。私は受話器を持ったままソファに腰を下ろして、しばらくぼんやりとした。泣いている女と話した経験は、私にはなかったからだ。