2014-07-28

ビー・ジャパニーズ(1)

――なんで日本人はいつでも日本の悪口ばかり言ってるのかしら? 自分だけは違うっていいたいのかな、わたしはそういう自意識がだいきらいなの、父さんのことは好きにはなれないけど、あのひとの悪口を言っていると自分のこころも傷つくような気がするの、だから黙っているのよ、どんなに憎んでいても我慢するのよ――。

80年代後半、どんな外国でも日本人はコミュニティを作りたがっていた。どんな国であっても在留邦人が一定数集まれば、日本人会のような組織を必ずつくっていた。私がいた熱帯のシンガポールにも日本人会があり、日本人学校があり、本国と同じような、小規模な祭りやパーティのような、様々な季節の催し物が、彼らの手によって企画され、実行されていた。当時日本経済は破竹の成長を続けており、それはずっと続く夢のようにも思えた。

日本人学校を小学部まで通った後、私は欧米人や中東の子女が通う国際校に、親の意向で転校を強いられていた。当時その学校には、両手の指で数えるぐらいの数しか日本人がいなかったので、保護者たちが作った日本人連絡網は、全員の名前と電話番号と住所が書き込まれていたけれど、隙間だらけの一枚の紙にすべてが収まっていた。当時はまだ電子メールもインターネットもまだ発明されていなかったのだ。

季節はクリスマス近くだったが真夏日が続いていた。学校が年末年始の「冬」休みにはいろうとするなか、私の母親は日本人会の忘年会とやらのパーティの準備で忙しくしていた。根本の家は連絡網で下から二番目で、その一番下にクラスメイトだったYの名前があった。Yとは学校ではまだほとんど話したことがなかったが、顔はホームルームが一緒だったので知っていた。当時は英語の授業についていくのがやっとで、日本人の友達をつくろうという余裕がほとんどなかったのだ。

そのYと初めて話をしたのは、遊びに出かけた母親に代わりに、連絡を電話で回しておくように頼まれた時だ。私はなぜかその時の光景をよく覚えていて、居間の窓から斜めに太陽のぎらぎらとした光が射しこみ(エアコンはなぜか付けていなかった)、頭上では天井の扇風機がまわっていて、空にはやたら巨大な入道雲が浮かんでいた。私はYの家に電話をかけ、コール音が鳴り続けるのを聞きながら、コードを指でくるくる回していた。誰も出ないのでもう切ろうかと思った時、Yが電話に出た。

初めてYと話しながら、私は単に用件を伝えていった。パーティは十九時からで、服装はこんな感じで、参加費は云々……。それが普通の電話ではなかったのは、Yが受話器のあちら側で泣いている声が聞こえたからだった。いや最初はわからなかった。変な音がすると思っただけだった。だが用件を伝え終わる頃には、Yが泣いていることに気がつかないわけにはいかなかった。Yはごめん、と言って電話を切った。私は受話器を持ったままソファに腰を下ろして、しばらくぼんやりとした。泣いている女と話した経験は、私にはなかったからだ。