2015-06-08

ふたつの国、または、井戸に落ちた兵士

この国には匿名が必要だ。

ネットにあふれるありとあらゆる種類の、匿名による誹謗中傷、執拗な嫌がらせ、間違いを指摘するだけの揚げ足取り、きわめて安全な場所から発せられる冷笑の数々。

これを十分に見尽くし、これに心の底からうんざりした後も、なお匿名が必要だと考えざるを得ない。なぜなら匿名でなければ何も言えないからであり、匿名でなければ何もできないからであり、匿名でなければ「気持ち」を語れないからである。

「身バレ」を何よりも恐れる匿名の人々の恐怖を私たちはみな共有している。何かを言い、書き、語りたいと思うが、自分が何を考えているのか、たとえば職場や学校や家庭で知られてしまうのが恐ろしい。

「本音」は経済的、社会的に大きな不利益をもたらす。沈黙しているほうがよいというのは、この国では誰もが知っている処世術だ。この事実が、何かを公で発言することが容易には許されない、見えない制度の存在を明らかにする。

その制度とは何か、これを考えることは市井の人間のすることではない。

まずは私たちを取り巻く現実を直視しよう。これから眼を背けるためにだけ大量生産されるファンタジーに逃避するのは、かつては優れた処世術だった。

いまはそうではなく、これからもそうではない。

どんどん貧しくなる国で、状況はさらに悪化していく。私もまた、逃避したいという気持ちを持っている。私もファンタジーの幸せな箱庭に閉じこもり、この世界のありようから眼を背けたい、そう願う気持ちを共有している。

だがそう言っていられない状況がある。強いられた戦場がある。苦しい防衛戦だ。ここで私たちは、まっすぐに見ることから始めなければならない。

この国には匿名が必要であり、この国には言論の自由などない。

* * *

まともな人々は沈黙する。かれらは何も語らない。かれらは何もしない。かれらはただ遠くにいるだけで自らの生活で忙しい。私たちは「まとも」な人間であることをやめなければならない。

* * *

誰も「私たち」のことを考えてはくれない。誰も、私たちの苦しみに眼を向けてはくれない。

誰からも無視され、存在しないかのように振る舞われる。匿名であればなおさらそうである。私たちは透明で、この社会に存在していない。私たちはこの社会のどこにも居場所がない。

いっそ死んだほうがましだろうか。いっそいなくなったほうがいいのだろうか。必要とされていない。褒められることもない。認められることもない。愛されることもないのだから。

日本の衰退、と大文字で書く前に、小さなこの気持ちのことから語り始めよう。学者や評論家のように語ることを自らに禁じよう。矮小な一個人として、一市井の人間として、自らの気持ちについて語り始めよう。いずれかの歴史的事実を横目で参照しながら、自らの気持ちについて考えてみよう。例えばネットで横行する弱者叩きや排外主義はなぜ始まったのか、何がこれをもたらしたのか。私たちはこの答を知っている——だがそれについて語るにはまだはやい。

私たちは自らのこころに問わねばならない。傷はどこにあるのか。怒りはどこにあるのか?

私たちはそれぞれが傷を抱えている。それぞれの傷は個別な人生によるものであって、本人にとっては切実なものだが、当然、他人にとってはなんの意味もないものである。この理解不能生は生の条件のひとつであって、これを変えることはできないという前提にまず立たねばならない。

重要なこと。それはこの個別な傷の在処を知ることであり、誰か別の第三者の傷について考えたり、理解しようと試みたり、これを癒そうとしたりすることではない。そもそもそのようなことは不可能であり、余計なことであり、よりはっきり言えば大きなお世話である。

私たちは、自分について考えることから始めなければならない。

* * *

私たちのふたつの国。

露悪的な本音が横行するネットと、建て前ときれい事だらけの現実。
後者を作っているのはメディアであり、たとえば毎日放送されるニュースであり、全国で販売される新聞であり、これに加担してきた/している私たちである。

私たちの疎外感、分断されたことによる孤独、どこにも居場所がない自分。これに言葉を与えることができるだろうか。

私たちのふたつの国。

夢や希望や豊かさがあった国と、そのいずれも失われた「うつくしい国」
二十数年の時代を隔て、私たちが強いられている二重の喪失感。

すべてが二重性を巡っている。建て前と本音、先進国と後進国、第九条と自衛隊。このいずれもが私たちに矛盾を突きつける。これは何か、どうしたらよいのか、と考えることを阻害する躓きの石となる。

たとえば、暴力に暴力をもって相対することの矛盾。ひたすら続く悪意の連鎖。目の前で暴行されている者を救うためにさらなる暴力で抗うこと。こうした矛盾が目の前で行われていることを見て、私たちはどうしたらよいのかという問いがある。

考えるための場に立たねばならない。

「かわいそうな後進国日本」を嘆くことをやめなければならない。「人権はないけどうつくしい国日本」を悲しむポーズをやめなければならない。

私たちは、考えるために、戦わなければならない。

そしてそれは難しいことではなく、ディスプレイの前にいて無力をかみしめるすべての人間に可能なことだ。

* * *

だがまずは気持ちを共有しよう。私たちは苦しい。私たちは貧しい。私たちはみじめだ。私たちは米国だけではなく韓国や中国にも負けた。私たちの世界一の技術は空疎だった。私たちの「民度」は相互監視に過ぎなかった。私たちは過去何度も威張りくさっていていまそれが心の底から恥ずかしい。私たちの政治は機能不全だ。私たちの経済は弱者をさらに生産する。私たちは匿名で生き続けるしかない。私たちは無力だ。胸に穴が開いていてこれをどう埋めたらいいかわからない。私たちは異性も怖い。空虚を満たしてくれるはずの異性が恐ろしい。私たちは愛しあうことすらできない。ネットで悪口を書いている。ネットで人を中傷している。ほんとうに寂しい。ほんとうに情けない。ほんとうに居場所がない。私たちは、どこまでも、ひとりぼっちだ。

(2015年6月8日)

2015-05-10

新しい孤独

自分の家なのに、どこか自分の居場所がない。自分の学校なのにどこか自分の居場所がない。自分の国なのに、どこか自分の居場所がない。本来自分が所属しているはずのものから、いつのまにか自らが疎外され、のけ者にされ、つまはじきにされているように感じられる。

この曖昧模糊とした疎外感に形を与えることは難しい。これを「ソース」や「エビデンス」なしに、つまり一見客観的に見える恣意的な事象の取捨選択をすることなく、言葉にすることができるだろうか。

学者や評論家のように語るのはやめよう。私たち市井の人間は、一人の個人として、強いられた社会的状況の中で、自らによるものではない外的要因がもたらす苦しみや悲しみに形を与えることから始めなければならない。

しかし、「考える自由」は、様々な精神的・物質的拘束によって損ねられている。日本のネットに自由がないこと/なくなったことはすでに理解されている。考えるためには、人は書き、話さなければならない。ネットに何か書くことに自由がないならば、考える機会そのものが日々奪われている、と解釈される。

自由に話すこともまた奪われている。意見表明、議論は、一般社会において基本的忌避され、無視される。政治、原発、教育、沖縄。一例をあげるだけでも、これらの話をたとえば職場で行える人は稀だろう。大多数の人間は、ただ職務のためだけに机に座って生活をすることを強いられる。なぜか、と問うことは危険なことだ。それは社会秩序に対する反乱と見做される。

安定した豊かな社会であれば、それでもよかったのかもしれない。話す自由、書く自由、考える自由がなくとも、それなりに幸せに過ごせるのなら、それでもよかったのだ。20世紀は実際にそれで回ってきた。いまはそうではない。地域コミュニティは崩壊し不安定で貧しい社会が到来している。

私たちは政治家のように語ることもやめよう。軍事、経済、安全保障について語ることは控えよう。まずその前に、考えるべきことがある。疎外される私たち自身の姿について考えなければならない。

明日にはいいことがあるという希望、がんばれば報われるという公正な社会。いずれも消滅しつつあることが理解されている。

歳を取ればごみのように扱われる中高年たち。容姿によって換金され利用される十代の少女たち。自由が欲しいのにどこにもないと絶望し、弱いものを叩く排外主義に染まる若者たち。皆がこんなはずではなかった、と思っている。先進国だから大丈夫、と思いたがっている。世界一の技術でなんとか活力を取り戻せる、と思っている。そして思ってはいるが実は信じていない。心の底には不安があり、この国はほんとうに大丈夫だろうか、と思っている。

誰でも、自分にはほんとうの居場所がある、と思っている。思ってはいるがそんなものなどどこにもないと心の底では考えている。だがそれでもそれが欲しいと思っている。疎外感は、「うまくやっている」と思われる他人を見たときに生じるだけではなく、「本来ならうまくやれているはず」の自分がどこにもいないという認識からも生じる。この疎外感を克服するために様々なツールが今日も創出される。

例えば、腰痛の原因を直さず、痛み止めを飲み続ければ、病状はどんどん悪化する。疎外感を克服する様々なツールは、痛み止めの麻薬であり、人がネットまたはSNS等から離れられないのは、日常から逃れるネットという一瞬の麻薬がなければ、一日たりとも生きてはいけないからだ。しかし原因はそのまま放置され、忘れられている。積極的忘却が、人生の処世術としてもてはやされる。

2015年。新しい孤独が私たちを蝕んでいる。ネットが可視化したのは人の愚かさだけであり、愚かさによって日々再生産される断絶が、私たちの歩み寄りを阻害する躓きの石となる。私たちは日々大量生産される新しい「区別」や「クラスタ」によって分断される。学歴、性差、社会的地位、年齢によって、本来きわめてどうでもいい区分が創出され、増幅され、私たちの対立を煽る。その対立によって商業的な利益を得る連中が今日もそこに油を注いでいる。だがもちろんその連中に資金を与えているのは私たちでもある。人の不幸を面白がる不幸な人生を送ることを強いられる私たちの苦しい生活が、こうした風景を電子空間に投影してしまう。

「馬鹿が馬鹿なことをして顰蹙を買う様子」がエンターテイメントとなる。「威張っていた学者をつるし上げる」ことが遊興となる。「金持ちに泥を皆で投げつけること」が快楽となる。このいずれも、一歩引いて考えればきわめて醜悪だが、すでに社会はそうなっている。良識ある人間は沈黙している。豊かで良識ある人間は「壁の向こう側」にこもって外の世界には出てこない。そして壁の外で暮らさなければならない私たち市井の人間は、分断と断絶のただ中で、どうしようもなく独りぼっちだ。

あるいは、「壁の外」で過ごすための処世術として、いっさいの意見表明を行わず、閉じた生態系の中で、一部の趣味嗜好を共有する仲間同士だけで集団を形成し、その中で生きていく、というストラテジーが考えられる。これはおそらく有効な方法であることが理解される。半クローズドなSNSや、様々な動画・画像投稿サイト、これにまつわる同人的・横繋がりの空間が、こうした生き方を肯定的に支援する。問題は、これが永続的なものではありえないことで、社会が大きく変わっていけば、いずれも特定の権力者や経営者の恣意的な判断によって、あっと言うまに叩きつぶされるものであるという事実がそこにあることだ。

いくつかの一時的な逃避先はあるにせよ、ネットの醸成する空気に囲まれた社会において、私たち市井の人間の新しい孤独が癒されることはありえない。これからも疎外され、居場所を失い、自分の気持ちを話すことも、書く事もできない状況が続いていく。

もちろん匿名で書くことは許されているし、実際ほとんどの人間はそうして正気を保っている。匿名の切実さを私たちは理解している。だがそれは、結局さらなる孤独をもたらすものであることを、私たちは知っている。

2015年、人間性を賭けた、出口の見えない長い防衛戦が続いている。さらに悪化するのか。ここで踏みとどまるのか。どちらにせよ、その間にも、私たちの居場所、いいかえれば心のより所はどんどん失われていく。

この国は衰退しつつあることが理解されている。そしてその事実に対する心理的反動(例、「日本を取り戻す」)が排外主義として台頭している。この現状を前にして、私たちにまず必要なことは、この国の衰退を受け入れ、多くの「私たち」とともに、その凋落を悲しむこと、二度と戻ってこない豊かさや成長の潰えた夢を悼むこと、そして、この分断と断絶のただ中にいる困難さについて、まずこれを共有することだと考えられる。

オルタナティブメディアとして活用されるはずだったツイッターの惨状、そして同窓会の延長でしかないフェイスブックの閉鎖性を鑑みて考える。ツイッターにもフェイスブックにもできない/できなかったこと、そしてブログでなければできないこと。それは気持ちを共有することだ。

かのように、私も疎外されてここに立っている。
あなたは、どこに立っているのだろうか?

(2015年5月10日)