2016-05-24

答のない朝

毎日一文にもならない文章を書いている。そのうちのいくつかは依頼された文章だったりする。乾いた笑がこみあげる。めざしていたものになっても、それは過去に自分が想像していたものとは違っている。若いころは、彼女ができたり、結婚したりしたら、ひとりぼっちではなくなるのかもしれないと思っていた。そういう愚かさから自由ではいられない。だがその愚かさを克服できるだろうか。ひとは自分で考えるほど、利口な生き物なのだろうか?

窓の外はよく晴れている。iPhoneの画面で見るニュース録画で、中高年受けする化粧と服装をした女性アナウンサーが、全国的に真夏日だと言っている。社内で決定権を持っている男たちへの配慮なのだろう。大変だろうなと思う。男は男で、おもに下半身にまつわる大変さを異性に説明するのは無理だと思う一方、男の、男のための、男による組織(=社会)でいきていく立場の大変さ、というものを想像する。だが肌感覚でわかるかというとわからない。わからないことだけはわかる。

他人をわかろうとする動機はない、そもそも社会は、「私」のことをなにもわかってくれないではないか? そういう問いを発するこころの動きがある。ひとは誰でも、自分に起因しない要素が強いる生の条件に閉じこめられている。そしてその大変さは個別なものであり、これを他人が理解することはそもそもできない。だが――と思う。自分ではないだれかをわかろうとする姿勢なく、孤独を克服することができるだろうか。自分をすくうために、他人のためにいきるという道があるのではないだろうか。

机に山積みになった原稿と詩誌、壁に貼り付けた推敲中のメモ書きに囲まれ、うんざりしながら窓を開ける。仕事をしているうちに朝になっていた。検索すれば、あらゆることがわかったような気がする時代だ。秘められていた身体の部位はいついかなるときにも見られる環境が配備され、男女間のもめ事がありとあらゆる地平で露出し、元彼女や元妻や元浮気相手を撮影した大量の写真・動画が今日も明日も明後日も流出し続けている。下半身がなければ、私たちはもっと自由で、しあわせだろうか。

私は答をもっていない。答がなくとも、愚かであっても、朝はやはりやってくる。

(2016年5月24日)

2016-04-10

料理はひとを裏切らない

誰でも、取り戻せないものを持っている。誰でも、帰りたい場所を持っている。だが、もちろん取り戻すことはできない。だが、もちろん帰ることはできない。ゆえに、ただひたすら、この巨大な不能性、ネットと呼ばれるこの偉大なる空虚のなかに留まるほかない。赦しや希望なく。取り戻すことなく。帰る場所などどこにもなく。

料理はひとを裏切らない。これまでの人生で行ってきた努力、これによって培った技術に、常に、あらゆる場所で、思いもよらない形で裏切られ続けてきた。信頼した人間に裏切られてきた。自分自身に裏切られてきた。だが、料理は違う。

ざるで濾して弱火で丁寧に焼いた錦糸卵のしっとりした肌感。茹でたての蓮根を唐芥子の輪切りを浮かせた調味料に浸けたその朴訥でやさしい歯ごたえ。干し椎茸を戻しこれを出汁と一緒に煮丁寧に仕上げた傘肉の深く甘美な味わい。粗塩をふり、皮をぱりぱりになるまで炙り、小骨を取り除いてほぐした鮭。酢飯の上にこれらを並べて載せる一手間。つまりちらし寿司は美味というほかなく、自分よりも大きな何かに感謝したい気持ちになる。

料理だけが自分を救ってくれる――そうとしか思えず、今日も台所に向かう。煮干しと昆布の金色の出汁はありとあらゆる一皿に使える万能の調味料であり、さまざまな具材の個性をぶつかり合わせることなく、逆に活かすことができる潤滑油であり、対立ではなく調和をもたらす魔術的な素材でもある。どこにも居場所がない自分の人生にもこのようなものが必要なのではないか、と思う。思うだけでもちろん実現しないが、一瞬そういう夢を見る。

最初に包丁を持って料理をしたのは十代の頃だった。その時作ったのは牛のタンシチューであり、なぜそんなものを作ったのか、作ろうと思ったのかよく憶えていない。湯がいた巨大な牛の舌をスライスするときにまな板の上に載せたが、長くくねる肉の塊が非常にグロテスクでいまもたまに夢にみる。その時、みにくいもの、気持ち悪いものはうまいということを、肌で学んだ。人間も同じだろうか。みにくいもの、気持ちの悪いものは、はたして立派な人間だろうか?

つまらない内省をしながら、今晩もまたまな板の前に立つ。本日つくるものはやや和風のビビンパである。具材は、粗塩を振り、強火で表面を炙った豚トロ、ニラの塩とごま油炒め、薄口醤油、酢、ニンニクすり下ろし、粉唐芥子で味付けした豆もやしのナムル、それからタレとして、ニンジン、タマネギ、ニンニクをすり下ろして少し煮詰めたものにコチュジャンとケチャップで味付けし作り置きしておいた肉用ソース。これら具材を少なめに持った丼の白飯の上に載せ、最後にじっくり弱火で黄身を半熟にした目玉焼きを載せて食す。

料理はいい。つくるとき、食べるとき、後片づけをするとき、または作り置きのために大量の野菜や肉の下ごしらえをするとき、満足と充足感を感じる。自分の努力が、料理本の読書が、包丁を握ってきた時間が、すべて料理の品質に即座に反映される。そんなものが他にあるだろうか。いやない。努力は基本的に報われぬものであり、なんの見返りも保証されない。料理は違う。皿が努力に応えてくれる。料理は差別をしない。料理には年齢も、容姿も、職業も、国籍も、年収も、なにも関係なく応えてくれる。

料理はひとを裏切らない。だが、自分はどうだろうか。ひとを裏切り続けてきただけでなく、いまも裏切り続けているだけでなく、取り戻せないものを取り戻そうとあがいているだけでなく、まるでネットに希望があるかのような嘘八百を今日も、明日も、明後日も、ならべて、書いて、嘘をついて、嘘を書いて、嘘ばかりで、赦されず、みにくく、ひとりぼっちで、気持ちが悪く、誰からも認められず、あこがれや尊敬とは無縁のどうしようもないネットなどといううつくしい国で、料理をして、書いて、料理をして、書いて、ただどうしようもなく、否だ、すべてが否だ!

(2016年4月10日)

2016-04-02

幼少期を海外で過ごすということ

桜が咲きはじめている。桜という花は、日本語のうちで特殊な地位を持ち、さまざまな意味がその花びらにべったりとへばりついている。それを無条件に肯定的に受け付けることができるものは、この国で一般的な日本人として、春を学年の開始とする学校に通い、大学に入学し、就職をしたものたちだ――だがこれを受け入れることができないアウトサイダーは、この花のもたらす意味の洪水の前に、立ちすくむほかない。

以前、帰国子女について書いた。あれは幼少期を海外で過ごした私の実体験に、同期の帰国子女たちの体験談を重ねたものだ(補足すると、それが「実話」かどうかは、読み手の側の判断にゆだねるものだ)。この社会で帰国子女として生活していると、日本で育った人々からは、「楽して英語がぺらぺらになってよかったね」や、「大学は別枠で受験勉強もせずに楽でいいよね」という見解がしばしばふつうに寄せられる。だからあまり自らの出自について語らない人も多いだろう。こういう話を家内(ソウル育ちの韓国人)にしていたら、韓国の大学でも同じように、「米国育ち」の韓国人に対する「受験もしないで、楽していいよね」という噂話がしばしば裏で語られるそうだ。これに対して当事者として感情的に反発する前に、このような意見の存在する歴史的経緯と文化的背景がわかる、と書いておかなければならないだろう。確かに、そう見えるだろう。なぜならほとんどの人は、主に欧米圏で「楽して」英語を学んだように見える帰国子女のことを、どこか別種の人間として捉え、純粋な日本人としては捉えないからだ。

私の話をすると、海外の学校での勉強は文字通りの地獄にほかならかった。中学一年生より英国式の学校に通わされたのだが、最初の二年のことは、いまもまだあまり思いだしたくない記憶にあふれている。ので、これまであまり公の場では書いてこなかった。ことばを強制的に奪われること、所属する文化を奪われること、ふつうの人々との共通の話題や記憶が消失すること、ことばがほとんど通じない環境で勉学やコミュニケーションを強いられること。これがどれだけ苦しく、アイデンティティを損ねられることなのか。これを経験したことがない人に説明することはきわめて難しい(し、だから前述のような意見がつねに寄せられる)。また、私も単なるプライベートな恨み言や愚痴のようなものを書きたいわけでもない。だが、前回のエントリに寄せられた帰国子女たちの読み切れないほどのたくさんの意見を読んでいて、こうした日本社会の側面について書き記しておくことが、個人的な出来事を越えた公益性を有するという結論に達した。それはこの国の社会のうちに帰国子女についての多くの無理解があり、そしてこういってよければ、透明な潜在的マイノリティに対する攻撃的圧力(はやりのことばを使えば、同調圧力)が存在しているからであり、こうした現実に対して、ことばを持つものが見解を述べておく必要があると思ったからだ。


1.

転学した時のことはよく憶えていないが、いくつか記憶に残っていることを書く。時期はシンガポールの日本人学校小学部を卒業してすぐのことだった。日本でいえば季節は春だったが熱帯なのでとにかく暑く、汗を流しながら丘の上の校舎へのぼったことを憶えている。私が転学した頃、学校には他三人しか日本人がいなかった。他はイギリス人、米国人、オーストラリア人、それから現地アジア人が中心だったように思う。その時出会った三名のことは、いまでも名前と顔を鮮明に思いだせる。学校では、肌の色も、人種も、言語も、なにもかも違う生徒と教師に囲まれ、他に誰一人頼るひとがいなかったからだ。自分がこれからどうなるのかもわからず、日本人のクラスメイトとは授業選択(選択制だった)の相談をしたが、かれらも入ったばかりで、右も左もわからない状況は共通していた。毎朝ホームルーム、というものがあり、それは授業前に担任教師が、学校の行事などについて説明する場なのだが、配られた英語のプリントの内容が、ほとんど何もわからなかったことを憶えている。まったく、そんな状況で、よく生き延びたものだと思う。授業は、ESL(English as a secondary language)という、英語を母国語をしない生徒向けに、比較的簡易に構成されたものを受けることになった。内容はほとんど覚えていないが、授業はぜんぶ英語で、一割もわからなかった。そんな状況で、とにかく毎日スクールバスで校舎まで通って、苦行のような授業に参加していた。

同時期に、母がシンガポール人の家庭教師を雇った。やらされたのは、まずは英単語の丸暗記だった。週三回夕方から夜にかけての授業のため、とにかく暗記することに時間を使った。表にひとつひとつ単語の変化形(現在、過去、過去分詞)を書き記し、それを暗記するまで復唱した。繰り返し繰り返しいやになるまで読み返した。それに付け加えて、文法の習得と語彙の拡大が急務になった……というと、ふつうの外国語の勉強のようだが、幼少期の問題は、そもそも英語に対応する「母国語」を習得していないことにある。つまり、英語で学ぶべき単語が、日本語でどのような意味なのか、それをそもそも知らないということがしばしば起きた。よって、私の頭の中には、英語でしか意味がわからない単語が大量にあふれることになった。同様に、本来義務教育で習得すべきはずの日本語(主に漢字)の知識が、だんだん失われてゆくことになった。同音異義語がとてつもなく多く、漢字がなければ思考すら成り立たない日本語では、漢字の習得は文字通り絶対の必要条件である――このことは、あとになって私をひどく苦しめることになる。

学校での授業のうちでは、ドイツ系のA先生の授業が楽しかった。まだほとんど会話もできなかったが、どこか優しい顔立ちの先生の授業はまじめに聴いた。最初に英語で書いた「読書感想文」を褒められたことを憶えている。もっともいま考えると、どんな感想文だったのか、われながらあきれるほかないが。それは確か、テキストにすればわずか二ページほどのとても短い短編寓話で、大事なものをなくした男の物語だった。そんな文章を読むためだけに、何日もの時間を費やした。理解した後は、思ったことを使ったことのない言語で形にする作業がまっていた。つたない英語で、思ったことを書こうとして苦しみ、数日かけてようやく二〇〇ワードほどの感想を書き終え、満足したことを憶えている。そのとき感じた小さな誇りは、いまでも私の大切な記憶のひとつだ。

そうした授業を続けながら、私の頭の中には、二つの世界が存在することになった。ひとつが、私がうまれた日本の世界。もうひとつは、英語によって構成される熱帯の島国の世界。熱帯の光に焼かれるアスファルト、マレー人の褐色のつややかな肌、白熱する空に伸びるヤシの木、バス停にふり落ちる銀色のやさしい雨、これらに対し私は英語で名前をつけていった。日本語で付けることは後回しにせざるを得なかった。なぜなら英語でものを考え、英語で語り、英語で理解せねば、文字通り、生きていくことができなかったからだ。


3.

ほとんど記憶に残っていない最初の数年間が経過した時、私はいつのまにか普通に授業を受けられるようになっていた。物理、数学、科学、歴史(米国史)などの授業で、英語を母国語とするイギリス人よりもテストで高い成績を残すことができたことで、少なくとも英語による勉学のハンディキャップはない、と少しの自信をつけた。それは確か十六歳ぐらいのころだ。ただ、どこか不安はあった。それは自分はいったいこれからどうしたらいいのか、という漠然とした不安だった。

より具体的には、母から聞いた話をいまでもよく覚えているのだが、母の日本人の友人に、私と同じぐらいの年の息子がいた。かれは私よりも数年前からシンガポールで住んでいたのだが、ある時、桜を見て、「小さくて、つまらない花だね」と言ったという。母はそれを聞いて、「ああ、もうその子は日本人じゃないと思ったわ」と言った。私は心中穏やかではなかった。なぜなら、私もまた、そういうことを思っていたからだ。シンガポールの植物園に咲き乱れる蘭の花。華美でうつくしい熱帯の花々が、私にとってはなじみのあるものであり、すでに遠くなった日本という国の「サクラ」などという花は、私にとってはどうでもいいものになりつつあったからだ。私はひょっとしたら、母がいうように、もう日本人ではないのかもしれない、と思った。じゃあ何人なのか、と考えた。考えて、どちらでもない、中途半端な存在なのではないか、と思った。日本人にもなりきれず、かといって、シンガポール人でもない。どこにも居場所のない、どこにも祖国のない、中途半端なまがい物。母がいう「日本人じゃない」存在に、私もなるのかもしれない、いやもうそうなのかもしれないと思った。

当時、とくに私が飢えていたのが日本の雑誌やテレビだった。それは私だけではなく、他の日本人子女もそうだったようで、街のあちこちには日本の番組を録画したVHS(当時の映像記憶メディア)をレンタルする業者がいた。店に行くと、日本のバラエティ番組、ニュース番組、ドラマ、紅白歌合戦などを録画したテープが、ところ狭しと並べられていて、よく母がこれを借りてきて一緒に見た。いま思い返すと、どうしてあんなものを毎週楽しみにしていたのかと思うが、それは自分から奪われた日本社会へのつながりを取り戻そうとする試みだったのだろうといま思う。輸入されたすべてのコンテンツはシンガポール政府によって性描写が検閲されていたが、それを抜きにしてもどうしても手に入れたいものだった。なにしろ、日本語を話す機会はもう自宅でしかなく、実際に日本社会がどんな場所なのか知る方法は、こうしたコンテンツを通して知るほかなかったのだ。自分が所属していたはずの共同体へのつながりは、かろうじて保たれていたが、どんどん失われつつあった。


4.

卒業間際になって、私の前にはいくつかの選択肢があった。ひとつは米国の大学に進むこと、もうひとつは日本の大学に進むことだった。正直、どちらの道もありえたと思うのだが、私のこころには母の「もう日本人じゃない」ということばが、何かの呪いのように残り続けていた。このまま自分が海外に住み続けたら、自分は文字通りの外国人になってしまう、と思った。それもまたよかったのかもしれない。一方、シンガポール人の友人たちは、徴兵制によって軍事訓練に参加していたこともあり、このままシンガポールに滞在し続けると、永住権(Permanent Residence = PR という)を持っていた父の子として、二世の私には徴兵が考えられた。それはちょっと怖いな、と思ったことを憶えている。結局、私は帰国して、日本の大学に進むことになった。

帰国した私を待っていたものは、母のことばを裏付けるものだった。つまり、ふつうに会話をしていると、「日本語がちょっとおかしいね」と、阿佐谷にあったアパートの大家に言われたことをはじめ、漢字がまったく書けないことが判明し、他にも多種さまざまな「常識」が自分のうちより失われていた。当然といえば当然で、そもそも義務教育で三年、高校でさらに三年やるべきはずの日本語の基礎知識がすべて失われており、それを補う勉強もしてこなかったからだ。日本語の習熟にも時間を裂くべきだったが、時間のすべてを英語の習得に使ってしまい、文字通りそれだけを必死にやってきたつけがまわってきたのだ。他にも、基礎知識としての国語、社会、歴史など、すべてやり直すことになった。やりなおす、といっても、当然大学では教えてくれない。なぜならそのような学習は、当然「終わっているべきもの」とみなし、授業が行われるからである。そこで私はどうしたか。具体的には、優先度が高いと思われた漢字の書き取りを毎日実施することになった。最初のうちは暗い図書館の一角でやっていたのだが、一度日本育ちの同級生に見られて恥ずかしくなり、それ以来はずっと自宅でやるようになった。中学生・高校生向けの教科書も買った。買った上で、それを一から読み直した。けっきょく、これを二年ほど続け、友人も作らず、ほとんどを机の前で過ごした。

結果として、一般的な日本人としてふるまうことができるようになった。いまの私は誰がどうみても表面上は日本人だろうし、実際、日本語と英語を適切に運用することで日々の職務を遂行している。だが、それでも失われたものは戻ってはこないし、二つに分断された世界は、いまもなお私のこころを隔てている。それは「こうであるべきだったもの」と「実際にそうであったもの」の間に広がる断絶であり、死ぬまで越えることができないものだ。人は、誰でもそのような断絶を持っている。いいかえれば、誰もが個人的な疎外を、自分ではどうにもならない宿命とこれがもたらす分断を生きるほかない。私は幼少期を海外で過ごし、これがもたらした断絶と向き合い、誰もがそうするように、ひとりでこれと格闘してきた。だが、実際には、同じような境遇の何百万人ものひとびとがいた/いることを、ネットの反応を見て知った。そうした生の声の数々は、固定の数の読者しかいない紙メディアに文章を書くときには得られないもので、ネットという媒体に文章を書く意義、価値、存在事由について、私にいま一度思いださせてくれた。


5.帰還者である帰国子女のみなさんへ

四月は日本では出発のシーズンである。私/私たち海外で育ったものにとって、それは正ではない。そもそも卒業も春とは限らない(私は日本で言う夏に卒業した)。だから桜が咲いたとしても、それを素直に出発や、新生活や、新たなる人生の門出の象徴として読み取ることができない境遇におり、さらにいえば、共同体が準備する時系列の物語に参加することができない立場におり、それは今後も変わることがないだろう。だが日本に帰国したからには、それに慣れなければならない。2016年現在の今年から日本の学校で勉強をはじめたり、日本の会社で勤めるひともいるだろう。

日本社会のマジョリティは、海外で育ったものたちが経験しなければならなかった苦労や、おそるべき断絶についてなにひとつ、なにも知らない。自分たちが知らないということすら知らない。そのような無知は、だが避けがたいものだ。人間は自分の知っていることしか知りえない。だから外国語が堪能という側面だけを見て、あなたたちをその無知で傷つけるだろう。そのことが帰納的に予測される。そして胸を痛める。私はそれをサバイブした。だが、私の同期たちは生きのびただろうか。あなたたちは、これから生き残ることができるだろうか。潜在的マイノリティとして、この社会で、「日本人」としてふるまうことを強制され、自分の境遇をまったくなにもわからない人々の中で、傷つかずに生きていくことができるだろうか。

結論からいえば、それは無理だ。あなたたちの人生の前には、無知と、疎外と、得体のしれないコンプレックスによる攻撃と、村社会に所属しない異端に対する大小さまざまな攻撃が繰り返される。あなたたちは反撃するだろうか。あなたたちはかれらと同じように攻撃するだろうか? あなたたたちはかれらと同じように、無知によりひとを傷つける生き物になるのだろうか? 自分を受け入れてくれない日本の悪口をネットに匿名で書き連ねるひとびとになるのだろうか?

さまざまな道がある。だが傷のない道はない。それは誰もが与えられた生の条件だ。だがあなたたちにはハンディキャップがある。それを越えるためには、場合によっては「純粋」な日本人の十倍勉強しなければならないかもしれない。二十倍勉強しなければならないかもしれない。がんばれなどと言えるはずもない。だが私もまた、かつてはそいう応援を欲していた。だが得られなかった。それはそのようなことばが存在しなかったからだ。そのような問題について明確にことばにしたひとがいなかったからだ。

喪失感は取り戻せず、大多数の人々との共通の思い出を奪われた子供時代は帰ってこず、共同体への所属意識は損ねられ、外国語習得によって損ねられた母国語の生の感触、記憶や経験に基づいた母国語の手応えは永遠に取り戻せない。くるしいと言う他ない道が続くだろう。

世の中は春であり、出発の季節だ。けして「ただいま」と言えることのない国のうちにいて、あなたたちになにができるのか。あなたたちの困難な人生はあなたたちだけのものである。ほとんどの人に理解されないかもしれないが、それでもなお、あなたたちのものである。グッドラック、異邦よりの帰還者たち。

(2016年4月1日)

2016-03-14

Fallout4についての走り書き

この作品をゲームというより一冊のSF小説として読んだ。ゲーム性について適切に語ることができるひとが他にたくさんいるだろうと思うのでそれについては省略(また、カジュアルなプレイヤーに過ぎない私にその資格があるとも思えない)。本作はゲームなので基本的に「操作」しながら読み進めることになるが、これをマウスやキーパッドがいわば「進む」キーとして機能する長大な電子書籍として捉え、このFallout4をかなりおもしろく読んだ。とても楽しんだので以下その感想という名前の走り書きとなる。

本作は、(1)核戦争後の旧ボストン「コモンウェルズ」を舞台にし、(2)核戦争勃発前の200年前にコールド・スリープ装置で冷凍された主人公が、(3)一緒に装置で眠っていたはずの子供を誰かに誘拐され、(4)200年後の様変わりした世界に旅立ち、(5)町の復興に携わりながら、子供を取り戻すためにさまざまな勢力と協力または敵対してゆく、という筋書きになっている。いくつかの選択肢がありかつてのゲームブックのように、選んだ結果によっておおきく結末が変更される。複数の結末が準備され、いずれかのタイミングでこれを選ぶことができる。

核戦争後の世界は、いくつかの勢力が激しくぶつかりあう無法地帯になっている。荒れ地は放射能汚染がつよく残り、日本の古い特撮映画のような設定として、放射線による生物のミュータント化が進んでいる。要するに外は追い剥ぎや化け物がうようよしており、共同体はほとんど崩壊していて、わずかな集落が汚染された都市の残骸にあちこち散らばっている。

以下、おもな勢力を紹介する。

(1)BOS/ブラザーフッドオブスティール
パワーアーマーという強化外骨格が特徴的な、おもに米軍の生き残りによって構成された武闘派集団。戦前のテクノロジーを集約し、これを管理することを重要課題と考えており、「間違った手」に技術が落ちることを極度に嫌い、武力によって敵対勢力を破壊し、収奪することをいとわない人々。重火器を始めとする高い技術を所持しており、空飛ぶ巨大な飛行船「プリドゥエン」を旗艦とし、コモンウェルズで活動する。コモンウェルズでのかれらの目的は、高いテクノロジーを要すると思われる技術者集団「インスティチュート」の殲滅である。

(2)ミニットマン
主人公が一番始めに巡り合う勢力であるコモンウェルズの自警団。もっとも、カリスマを有するリーダー没後は分断されほぼ崩壊している。基本的に自警団であるため、農民などといった市民のボランティアで構成されており、火力組織ともに脆弱。レーザーマスケットという特徴的な外観の武器をよく所持している。主人公が協力することによって組織をある程度復活させることができ、以降「キャッスル」という拠点より、コモンウェルズ全域にわたってラジオを放送、市民の安全な生活を支援するようになる。それぞれの居住地を防衛するのもかれらの仕事。

(3)レールロード
無法地帯にあるまじき、高邁な理念を掲げた人権活動集団。コモンウェルズに徘徊する人間そっくりな人造人間「シンス」に人権を与えようとする、ラディカルな思想に基づいた活動を行う。人権という概念がそもそも崩壊した世界で見上げた根性をみせる地下秘密組織。シンスを制作し、これを「奴隷化」しているインスティチュートと敵対関係にある。リーダーはデズデモーナという美人で、高度な専門性を兼ね備えたエージェントたちを取りまとめ、コモンウェルズのあちこちでゲリラ的な諜報活動と工作を行っている。最終的な目標は不明だが自意識をもったシンスを回収し、ひとりの人間として「解放」する運動を続けている。

(4)インスティチュート
シンスを制作する謎の組織。その実態は、かつてコモンウェルズにあった大学の研究員たちによる生き残りによって作られた科学者集団。BOSに比肩する強力なテクノロジーを有し、人間そっくりのシンスを制作、これをコモンウェルズじゅうにばらまいて情報収集および工作活動を行っている。町の人間を誘拐し、その代わりに外見見分けがつかないほどそっくりなシンスを送り込んでいることで知られ、その目的もわからないため、コモンウェルズ住民の畏怖の対象。人造のシンスにも自意識があることを承知しており、シンスが裏切った場合、回収・人格のリセット作業をひそかに行っている。ひとつBOSも知らない超テクノロジーを隠し持ち、運用している。

(他)レイダー、ガンナー
レイダーはいわゆる「追い剥ぎ」や「野盗」。ガンナーは武装し訓練をつんだ「武装レイダー」とでもいうべき存在。どちらも基本的に略奪することしか考えていない。

物語は、荒れ地と化したコモンウェルズに出て右も左もわからない主人公が、ミニットマンの生き残りと遭遇するところから始まり、ミニットマンと協力し、荒れ地のあちこちに残された居住地を建て直し、ミニットマンを復活させ、居住地の防衛に従事させながら、ばらばらになったコモンウェルズをまとめてゆく、といったものになる。もちろん、行方不明の息子も探さなければならない。息子を探して、一番大きな町にゆき、上記の勢力と協力したり敵対したりしながら、手がかりを探してゆくことになる。

以降ネタバレだが、この物語の特徴をよく表しているサブシナリオを紹介する。ある町で、ひとがしばしば行方不明になると評判になっている。その町を訪れた主人公は、さらわれた女性のひとりがどうなったのか探すことになるのだが……最終的には、さらわれた人々は、人間のうちに紛れ込んだシンスを特定する実験のために犠牲になっていることが明らかになる。首謀者はシンスに家族を殺された科学者で、人間そっくりなシンスを特定の質問とそれに対する応答によって見つけ出すことができる心理テストを開発(「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」のフォークト=カンプフテストみたいなもの)していた。テストは心理的・肉体的な苦痛を与えることによってその応答を確実にする残酷なものだ。

さらわれていた女性も檻の中にいた。さて、主人公にはふたつの選択肢がある。ひとつは、科学者に協力すること。もう一つは実験をやめさせることだ。結論から言うと、さらわれていた女性は文字通りシンスだった。つまり、科学者のやっていた残酷な実験は、実在する危険のためのテストだったということになる。最終的に、女性を助けるか、科学者の味方につくか、どちらかを選ぶことになる。どちらを選んでも、後味は悪い。科学者は手法こそ残酷だが、実際に人間になりすまし、紛れ込んでいるシンスという脅威が存在していることになるからだ。基本的に、Fallout4の物語は、この「選択しにくく、どちらにも一定の正義があり、何が正しいのかわからない」という対立するふたつの人間や思想についての選択を通じて語られてゆく。

私は「インスティチュート」ルートを読み進めた。つまり、シンスを制作し、コモンウェルズの人々を恐怖に陥れている技術者集団に協力したことになる。なぜインスティチュートに協力したのか……それはここで書かないほうが面白いと思うが、息子は誰に誘拐されて、いまどこで何をしているのか。そうした疑問について明らかになる、つらい真実の瞬間が待ち受けており、それを知った私はインスティチュートに全面的に協力することを選んだ、とだけ書いておく。インスティチュートに味方することは、他の集団と手を切ることであり、私の場合はBOSとレールロードと敵対することになり、物語の過程で何度か協力関係を結んだこともあるかれらを滅ぼすことになった(ちなみに、逆の場合はインスティチュートを滅ぼすことになるそうだ)。これは文字通り、読み進めるこころが折れそうになる展開だった。BOSもレールロードも、それぞれの理念と守りたいものを持っている人々だったからだ。

何もかもが終わった後、あとには膨大な死人と、かつて仲間だった人々の墓が残された。そして私の分身としての主人公を待ち受ける喪失感はとてつもないものだった。インスティチュートを中心とした物語のテーマは、ひとことでいえば、「たった一人の人間の幸せのために、他の人間を犠牲にしても許されるのか」というものである。たったひとりのため、その人生を満足させるためだけに、多くの血を流し、かつての仲間を裏切ることを強いられるこの物語を読み終えて、なぜフィクションでここまでつらい思いをしなければならないのか、と思った。そして、こういうものを読みたかった、という感想を持った。そしてどこか、この作品を作った人々への敬意の気持ちをもって、この走り書きを記している。

なお本作は、私の目から見ても翻訳の品質はよくないが、日本語版の声優たちの頑張りは驚くべきもので称賛してよいのではないかと思う。間違いは確かに多いが日本語版もお勧めしたい。

2016-03-11

衰退のつらさ、私たちの責任について

「鎮魂せよ、いや無理である思いださねば
 鎮魂せよ、いや不可である呼び戻さねば
 鎮魂せよ、死んだものを死んだものとして
 鎮魂せよ、新しき呪いの成就のために」

私は日本の古い街で生まれ、アジアの小国で育った。現地は先の対戦で日本軍によって一時的に占領されていた島で、街の中心部には虐殺された人々の魂を鎮めるための巨大な慰霊碑が立ち、日本人墓地にはからゆきさん(日本より売られた売春婦)の墓が並び、塹壕など戦争の遺構があちこちに残されていた。もっとも、当時の私は、外国語を覚えるのにせいいっぱいで、その歴史を何か遠いものとして眺めるほかなかった。日本に戻り、大人になってから、詳しくあの戦争について、調べたり読んだりした時、自分が住んでいた島で何が行われたのか知った。そのときの衝撃はちょっとことばにはできない。

ネットでは、そしてネットの生み出す空気に支配される現実では、総体としてのいわゆる行動する保守と、これを支持する人々の草の根的なブログとSNS活動が幅を利かせている。ここはブログであり私は正直に書かなければならないが、私はかれらと心情的な共通点を持っている。これをより具体的に腑分けすると、(1)衰退する日本に対する強い苛立ち、(2)アジア唯一の先進国だった地位が消失しつつある/したことについての不安・恐怖、(3)これらのどうにもならない現実に対する無力感と感情的反発、の三つにおおきく分けられると思う。私もこれら三つの感情を確実に持っている。

端的にいうと、これは「自分の国が弱っていくのを見るのはつらい」という感情だ。やっかいなのは、このつらさは、本人にとって受け入れがたいことであり、それを指摘することがさらなる怒りと反発を招くからだ。私もこれを書きながら、こうしたことを告白することのきつさを噛みしめている。私たちはやはり、自らが所属する土地や共同体や国が、ある程度は強くあってくれないと、あるいは、「将来はよくなる」という希望がそこに感じられないと、誇りと呼ばれる何かを持ち難くなるものらしい。だが、まずはここからはじめよう。自分が生まれた国が弱っていくのをみるのは、つらい。

少し世代を選ぶ話になるが、私が子供の頃、日本製品は文字通り世界を席巻していた。アジアのショッピングモールに行けば、そこに陳列された家電製品はほぼすべて日本産だった、といえば、ある程度は当時の空気が伝わるだろうか。こうした現実の中で、アジア人たちから羨望のまなざしを浴びながら生活をしていた。いまはどうだろうか。実はそれなりに羨望される底力のある国(と、信じるぐらいには私も愛国者だ)だが、ここ二十年ばかりの凋落に関しては、正直、それをまともに考えてみると、こころのどこかが損ねられるような、そんな気がする。そしてこの感情は、いまこの国に生きる多くの中高年(と、おそらく一部の若者)が共有しているものであると感じる。

そうしたどうにもならぬ喪失感、無力感に付け加えて、前回も書いた擬似共同体としての会社、イエのゆるやかな崩壊があり、そこに所属できないものが共同体より放擲されて、不安定な雇用という経済的条件に加え、正社員とそれ以外の間に格差と断絶をもたらし、後者はイエから疎外されて、つよい孤独感を深めている現状があるだろう。さらにつけくわえるならば、男女間の断絶はもっとひどくなり、男も女もお互いにあちこちで石を投げつけあい、会ったこともない相手への憎しみをつのらせている。しかし、ほんらい、共同体に所属できない人間が、ゆいいつ救われる可能性が高いのは、伴侶や家族を持つことなのだ。それもなければ、もうどうしようもないではないか。

個人的な話をすれば、2011年の原発事故は、ここ20年ばかり感じていた喪失感の最終幕だったように思う。いま思いだしても、原発にヘリで水をかける様子をテレビで見たときのどうしようもない絶望感は強烈に焼き付いて離れない。あの時、多くのひとのこころのうちで、誇りのひとつであった「技術大国」が死んだ。そしてそれはいまも回復していないし、今後も、技術大国の驕慢が作り出した小さな燃える地獄を今後何十年かに渡って見続けることになることは確かだ。だが私は誰か第三者に責任を押し付けてそれを批判したりしたいわけではない。それは政治家と政治屋の仕事であり、さらにいえば、そもそも原発を推進してきたのは私たちが選挙で選んだ(または、無為によって当選させてしまった)自民党であり、さらに、その電力を使って豊かな生活を享受してきたのもまた私たちであることは、疑いようのない事実だからだ。

私はむしろ、私たちの責任とは何か、という問いをここで立ててみたい。それは前の戦争についてもそうだ。いわゆる総体としてのリベラルが主張する謝罪や反省ではなく、私たちひとりひとりの取るべき道義的な責任とは何か、という問いを立ててみたい。なぜなら政治家が謝罪しても、あるいは国家が謝罪しても、死んだ人間は帰ってこず、奪われた人生はかえってこず、とりかえしの付かない現実はかわらない。必要なのはこれらを弔うことばであり、そのことばを作りだすこころであり、それは目に見えない倫理的な姿勢によってしか生み出されない。一般的には、裁判であれば謝罪にはあまり意味がない(なぜなら、誰でも口先で謝罪できるからである)ので、金銭による賠償が行われる。それはあくまで司法上の「反省」であって、責任を取る、ということは、それとは違うはずだ。

私たちの責任とは、私たちがやったことを直視すること。ことばにすると陳腐きわまりないがその一言に尽きると思う。そしてさらに、現状を直視すること、であると思う。私たちが政治に興味を持たず(そして、政治関与についての忌避感情には歴史的な経緯があることを承知しつつ)長い間自民党政権を野放しにしたことによって、国のあちこちに過剰な数の原発が作られ、そのうちのひとつが事故を起こし国土が失われたが、これを一方的に責める資格を有するわけでもなく、電力を享受して生活を送ってきたという本質的な矛盾を直視すること。そして衰退する国のなかで、そのつらさ、くるしさから眼をそむけ、いわゆる「うつくしい国」に代表されるような、自画自賛・夜郎自大な言い訳によって自らの閉塞感を欺いてきたこと、少しも幸せではないのに、「日本はいい国」とうそぶいて、みずからの涙を隠してきたこと。

この国に参画する/してきた一人の市民として自分は何をしてきたのか。あるいは、過ちをおかした二世代前の者たちのやってきたことの上に自分たちの安寧な生活が成り立っていることをどう受け止めるのか。そして衰退する国のうちにいて、そのつらさとどう向き合ったらよいのか。こうしたことに自分なりのことばを与えることが現在における私たちの根本的な責任として考えられる。責任とは、きつく、つらいものだ。そして私が思うのは、そうした思索はプライベートで内的な問答によるほかなく、そこに自らがかくとくした納得がなければ、そこより出でるどんなことばも空虚に響くであろうということである。

(2016年3月11日)

*引用は『詩と思想』2015年10月号所収「骨の海」より

2016-03-09

イエのない社会

考えてみよう。私たちが「日本を取り戻し」た世界。私たちの国が「うつくしく」なった世界。私たちはいまよりも幸せだろうか。私たちはいまよりも恵まれているだろうか。私たちはいまよりも許されているだろうか。いや、違う。私たちは、私たちの孤独をどうにもできないのだ。

また、雪が降っている。ここしばらく、東京と地方を往復する生活が続いている。電車に乗っているスーツを着た人々の顔を見て、昔、会社勤めをしていたころのことを思いだす。私には正社員勤務の経験はないが、一年単位で契約更新される専門職として、外注される業務を請け負う形で、とある大手企業に十年ほどいた。それは都心部にある大きなガラス張りのビルで、東京に行くと、その時のことが車窓のむこうによみがえる。

その会社は、仮にI社としておくが、悪い会社ではなかった。同じ部署にいる同僚たちは親切だったし、基本的に善意をもって人に接していた。それはいま考えれば、最近しばしば話題になるブラック企業とは対照的な、財務的に健全で、世界的にも高い評価を受けている自らの事業に対する自信の裏返しでもあったのだろう。人間は、困窮すればするほど、負の感情を制御することが難しくなる。かれらは、外部業者である私に対しても敬意をもって接してくれていたと思う。

だが、つねに疎外感は感じていた。それは会社員同士であれば敬称なしで名字で呼びあう慣習、「入社同期」の社員たちの間にある強い絆、家族ぐるみのつきあいがごく普通である社風などにあった。この空気を外国の人間、あるいは会社勤めしていない人間に説明することは難しい。見えない絆、といったらよいか。それはほとんど家族のそれであり、ブラザーフッドだった。正社員によって構成される日本の会社は、疑似的なイエなのだ、ということを、私はその時考えた。そこに入れないものは「さん」づけで呼ばれるよそ者に過ぎないわけだ。

私の祖父はよく「会社勤めをしろ」と言っていたが、それはつまり、自らが所属するイエを持て、ブラザーフッドに参加せよ、という意味だったといま思う。なぜならそうしなければ、この社会では永遠に所属するべき場所を持たないよそ者であり、部外者でありつづけることになる。「正社員」とは、単に福利厚生や身分の安定性だけを提供している立場ではない。それは小さな共同体へ参加するためのパスであり、だからこそ、入社試験はあれほど厳しく、入った後は軽々しく首にはできない仕組みが保たれなければならないのだ。なぜなら家族の一員となったものを、簡単に切り捨てるようなイエは、イエとしての体面や尊厳を保てないからだ。

そう考えた時、私たちの多くが抱える「孤独」が増大した/している理由が少し見えてくる。それはバブル崩壊後、企業を守るために非正規雇用を増やしていった国の政策と一致し、社会的情勢によってイエに参加できなかった若者と、その中で歳をとった中高年者が、どこにも所属意識を持てないまま、みずからの寄る辺をもとめてネットをさまよう現実が見えてくる。そして所属するイエをもてないこと、部外者であることは、じつは、人間にとって、とてもつらいことなのだ。なければ、死を選んだほうがましだと思うほどに。

私は幸運にも、職人としての道を選び、ほぼ一人で生活している。上記のような共同体には参加こそしていないが、職人集団の末端として、職務に誇りを持っている。だが、それでも、所属がないということはつらいものだ。つい先日、とある会合で団塊世代の元会社員と話す機会があったが、いまの若い世代の苦しさについて、何もわからないという印象を受けた(そして、とてもいい人だった)。そして、それは普通のことだ。イエに所属しているものには、それが提供しているアイデンティティのありがたさがけしてわからないのだから。

この社会を眺め渡してみて、この孤独をなんとか解決しようとする同年代の試みがすでになされているように感じる。それはたとえばお金がないまま田舎に移住する若者たちだったり、ゆるいつながりを毎日確かめあう家族の代替品としてのSNSであったり、こうした孤独を忘れるための祭りとしての即売会だったり、あるいは「いつでも祭り」のニコニコ動画だったりするのだろう。だが残念なことに、会社というイエが高度成長期に提供していた代替品にはなりえないようだ。

私は以前、景気が回復しても、私たちのつらさは消えてなくならない、と書いた。政権与党の人々は政治家であり、ひとの心については鈍感きわまりない。と、いうよりも、鈍感でなければ政治などという過酷な職業は続けられないのだろう。だからかれらが「取り戻す」日本は、なにが悪いのかわからず、何がつらいのかわからず、何がひとびとにとって良いことなのかわからず、よって経済の物差しでしかものを考えられない人々が思いついた日本ということになり、さらにいえば、かれらが目指す「うつくしい国」は、上っ面だけを取り繕ったまがい物、という結論が導き出される。

正直、どうしたらよいかはわからない。自分がどうしたら幸せになれるのか。それはわかる。だがほかの人々がどうすべきなのか。この社会をどうしたらよいのか。それは私の手にあまる課題のように感じられる(ので、私は政権与党の人間にも一定の敬意を払う)。だから、私にできることをしようと思う。私にとってそのひとつは、こうしたブログで、私たち世代の人間、現代に顕著なつらさやくるしみにかたちをあたえ、その原因について考えることだと思える。

イエがないことはつらいことだ。家族として見なされないまま会社に勤めるのもつらいことだ。そしてそのつらさは経験したことのないひとにはわからないものなのだ。そうした何百万、何千万もの孤独が、この社会に充満している。私たちは解決できない問題と向き合っている。どうしたらよいか。わからない。わからないが、私はこの国の目に見えない良識と底力、つまりネットには可視化されることのない善意や知性の存在を信じて、こうしたことを記してゆこうと思う。

(2016年2月25日)

2016-02-20

黙っていること、責任について

本日は雪が降った。テレビのニュースは毎日昼に見ている。ネットでニュースも見る。そのどちらもきわめて偏向している、と感じる。そしてそこには何か重要なものが抜け落ちている、と感じる。それが具体的に何なのか。形にすることは難しいが、前者から抜けているのは本音、いいかえればほんらいは報道すべきであるが、さまざまな配慮の結果抜け落ちてしまうことであり、後者から抜けているのは建前であり、ほんらいは報道すべきではないことを、「言論の自由」を重んじるあまり垂れ流してしまう、と仮に置いてみることができるだろう。

法務省要請によりニコニコ動画の差別動画が削除された事件があったが、その運営母体である会社の手のひら返し具合や、同じ動画を放置しつづけているYouTubeの運営母体である会社をきちんと批判することは重要だ。だが私はむしろ、たとえば前者から本を出していたり、あるいは、ニコニコ動画で動画を制作していて、そこから収入を得ている作家が、その問題に対して口をつぐむ、黙っている、傍観している、という現状のほうがまずいし、恥ずかしいことだ、というように感じた。そしてもちろん恥ずかしく感じるだけではなく、他人事ではないと思える。

つい最近も大きな文学賞を出している出版社が出しているゴシップ誌が、芸能人の不倫問題のスクープを出して世論を騒がしていた。もちろんゴシップ誌は必要だし、それをおもしろく思う自分もいるのだが、さすがにまゆをひそめて「芸能人も芸能人であるまえに人間であり、いくらなんでもひどすぎないか」と言いたくなる。だが、その文学賞を欲しいと思っている作家は、それに対して「ノー」と言えるだろうか。批判できるだろうか。お金をいただいておきながら、そのお金を出している母体を批判することができるだろうか?

懐のさみしい作家が、つまり生殺与奪権を組織に握られている作家が、会社員化する。はっきりとことわっておくと、会社員という存在が悪いのではない。家族や生活のために我慢することは立派な行為である。それをばかにする人は、野良犬にでも食われて死ね、と言っておけばよい。問題は、会社に所属していないはずの作家が、あたかも会社員のようにふるまってしまうこと、あるいは、金銭的に不利益があることにおびえて、作家にしか言えないことを言わなければならない公益性が必要とされる局面において、なんの発言もしないで重要な事柄を黙殺することだ。

私は他人事のようにこれを批判できる立場にはない。そもそも私は公益性が必要とされる過去数年間の局面において何か責任を果たしてきたのか。いや、現実で敗北しており、ほとんど何も果たせなかった。そしてその反省の上でこの文章を書いている。さらに仮定の話をすれば、私が現在深く付き合っている出版社が、上記のようなことを始めたらどうするか。自分の文章を載せてくれている雑誌がそのようなことを始めたらどうするか。そういう事例がすぐに想定される。ネットでは好き勝手に放言するだけの「無敵の人」の立場というものがある。それは端的に言ってばかげており、なんの覚悟もなく、なんの公益性もない。

すべての人が囚われている経済的条件、社会的条件のうちに私もいる。そこから自由な立場などない。つまり公の人間として、発言は不自由であり、私が何か書くこと、言うことで経済的不利益、社会的不利益がもたらされ、原稿は棄却され、賞は獲れず、友人を失う、かもしれない。しかし、2016年現在、ネットがつくりだす空気に支配される社会を見ていて、言うべきことを言う人間がもっと必要だ、というシンプルな結論を出さざるを得なかった。もちろんそれはネットの中だけにとどまる話ではない。だがまずは端緒としてブログがここにある。白いエントリフォームが、責任を果たせと言っている。黙っていることは悪であり、言葉を持っている人間が黙っているのは、不作為を超えた裏切り行為だ。

雪は止んでいる。
状況は最悪でありネットは狂っている、と以前書いた。私たちのうちに内在する弱さが、私たちを醜さやあさましさに駆り立てる。そのことを受け入れるほかない、と思っている。

(2016年2月15日)

2016-02-19

道を外れて

地方都市の旧公団住宅の五階。窓から暗いままの街の通りを眺めている。世の中というものは、私たちが何もしなくても、何もできなくても、どんどん前へ進んでゆく。ただしその「前」とはどこなのか。それはいまよりもよい場所なのか。それには答えることはできない。ただ変化だけが永遠である。変化だけが真実であり、変わっていないように見えるものも、その中身はいつのまにか入れ替わっている。善人は守銭奴になり、道徳をとくものが裏切り者になり、健全さをもとめて病人になり、故郷は「うつくしい国」になる。それを止めることはだれにもできない。

机の上には、年明けに行われた某誌の新年会の写真がある。社主から送っていただいたもので、私と一緒に映っているのは、G誌で活躍しているAさん、それからSS誌第23回新人賞を受賞したHさんなどだ。私はめずらしくスーツを着ている。私も候補の一人で、実際の受賞者であるA・Yさんに敬意を払う意味でその服装で行ったのだ。その日はとても寒く、私はなぜかA・Yさんとホテルのロビーで偶然会い、ふたりで並んで会場へと向かったことを覚えている。新年会では緊張してタバコをひっきりなしに吸っていた。料理のためにやめたタバコは、こうした会合のときだけ解禁している。

詩を書いて発表するようになって、そしてさまざまな会合に足を運ぶようになって、色々なことが変わったように見える。私はネットに文章を書くことをきわめて恥ずかしいことだと思うようになり、その時間を使って原稿に向かうべきであって、頼まれているもの、賞のための作品に集中すべきではないか、と思うようになった。そしてそれは実はネットに文章を書きたくてたまらない自分に対する言い訳だった。結局、私にとって詩は「ほんとうに書くべきこと」からの逃避に過ぎないということだった。

同じ新人賞の候補に、Y浜詩人会賞を受賞されたK・Rさんがいた。研究会にて知りあった彼女の作品は、障害を持つ子供と真正面から向き合ったうえに成り立つもので、私のような失敗した父とは対極にある人生だと思った。子供が熱を出して新年会を欠席したK・Rさんの話を聞くと、そういうものをすべて放棄した自分の弱さ、醜さ、駄目さかげんというものがよく理解できる。そうした認識を得るために私はこの人に巡りあったのだろう、と思って、自分より大きな、偉大な何かに感謝する気になっている。

本日は春らしい陽気で、いまも外はつよい風が吹いている。ひさしぶりにブログの白いエントリフォームに向かいながら、ほんとうに書くべきこととは何だろうか、と自問してみる。そもそも何を書きたかったのか。なんのために書きたかったのか。尊敬する作家に近づきたいと思って書き始めたのは間違いなかった。だが自分が歩んできた道は、もう最初の目的とはどうしようもないほど違っていて、2016年に作家として生きるということはどういうことなのか、なんの答も見つからなかった。名誉だろうか。お金だろうか。たぶん違った。そもそも、私が最近巡りあった才気ある作家たちは、そんなくだらないことのために書いていない。

最後に子供と会った数年前、息子と駅構内を歩いた。足にやや障害があり、息子が転ばないよう、私はその手を握った。それは私がもっとはやくからすべきだったことであり、さらに、ほんらいいますべきことのはずだった。自分という人間にできなかったこと、その与えられた人生の枠内において、能力が足りずにさまざまなものを捨てなければ生き延びられなかった事実があった。弱く、情けなく、どうしようもない人間の姿があった。おそらく作家の仕事とは、けして赦されることのない、そのどうしようもなさをそのまま形にすることなのだ。ほんとうに書くべきことは最初からそこにあった。

(2016年2月14日)