2016-04-02

幼少期を海外で過ごすということ

桜が咲きはじめている。桜という花は、日本語のうちで特殊な地位を持ち、さまざまな意味がその花びらにべったりとへばりついている。それを無条件に肯定的に受け付けることができるものは、この国で一般的な日本人として、春を学年の開始とする学校に通い、大学に入学し、就職をしたものたちだ――だがこれを受け入れることができないアウトサイダーは、この花のもたらす意味の洪水の前に、立ちすくむほかない。

以前、帰国子女について書いた。あれは幼少期を海外で過ごした私の実体験に、同期の帰国子女たちの体験談を重ねたものだ(補足すると、それが「実話」かどうかは、読み手の側の判断にゆだねるものだ)。この社会で帰国子女として生活していると、日本で育った人々からは、「楽して英語がぺらぺらになってよかったね」や、「大学は別枠で受験勉強もせずに楽でいいよね」という見解がしばしばふつうに寄せられる。だからあまり自らの出自について語らない人も多いだろう。こういう話を家内(ソウル育ちの韓国人)にしていたら、韓国の大学でも同じように、「米国育ち」の韓国人に対する「受験もしないで、楽していいよね」という噂話がしばしば裏で語られるそうだ。これに対して当事者として感情的に反発する前に、このような意見の存在する歴史的経緯と文化的背景がわかる、と書いておかなければならないだろう。確かに、そう見えるだろう。なぜならほとんどの人は、主に欧米圏で「楽して」英語を学んだように見える帰国子女のことを、どこか別種の人間として捉え、純粋な日本人としては捉えないからだ。

私の話をすると、海外の学校での勉強は文字通りの地獄にほかならかった。中学一年生より英国式の学校に通わされたのだが、最初の二年のことは、いまもまだあまり思いだしたくない記憶にあふれている。ので、これまであまり公の場では書いてこなかった。ことばを強制的に奪われること、所属する文化を奪われること、ふつうの人々との共通の話題や記憶が消失すること、ことばがほとんど通じない環境で勉学やコミュニケーションを強いられること。これがどれだけ苦しく、アイデンティティを損ねられることなのか。これを経験したことがない人に説明することはきわめて難しい(し、だから前述のような意見がつねに寄せられる)。また、私も単なるプライベートな恨み言や愚痴のようなものを書きたいわけでもない。だが、前回のエントリに寄せられた帰国子女たちの読み切れないほどのたくさんの意見を読んでいて、こうした日本社会の側面について書き記しておくことが、個人的な出来事を越えた公益性を有するという結論に達した。それはこの国の社会のうちに帰国子女についての多くの無理解があり、そしてこういってよければ、透明な潜在的マイノリティに対する攻撃的圧力(はやりのことばを使えば、同調圧力)が存在しているからであり、こうした現実に対して、ことばを持つものが見解を述べておく必要があると思ったからだ。


1.

転学した時のことはよく憶えていないが、いくつか記憶に残っていることを書く。時期はシンガポールの日本人学校小学部を卒業してすぐのことだった。日本でいえば季節は春だったが熱帯なのでとにかく暑く、汗を流しながら丘の上の校舎へのぼったことを憶えている。私が転学した頃、学校には他三人しか日本人がいなかった。他はイギリス人、米国人、オーストラリア人、それから現地アジア人が中心だったように思う。その時出会った三名のことは、いまでも名前と顔を鮮明に思いだせる。学校では、肌の色も、人種も、言語も、なにもかも違う生徒と教師に囲まれ、他に誰一人頼るひとがいなかったからだ。自分がこれからどうなるのかもわからず、日本人のクラスメイトとは授業選択(選択制だった)の相談をしたが、かれらも入ったばかりで、右も左もわからない状況は共通していた。毎朝ホームルーム、というものがあり、それは授業前に担任教師が、学校の行事などについて説明する場なのだが、配られた英語のプリントの内容が、ほとんど何もわからなかったことを憶えている。まったく、そんな状況で、よく生き延びたものだと思う。授業は、ESL(English as a secondary language)という、英語を母国語をしない生徒向けに、比較的簡易に構成されたものを受けることになった。内容はほとんど覚えていないが、授業はぜんぶ英語で、一割もわからなかった。そんな状況で、とにかく毎日スクールバスで校舎まで通って、苦行のような授業に参加していた。

同時期に、母がシンガポール人の家庭教師を雇った。やらされたのは、まずは英単語の丸暗記だった。週三回夕方から夜にかけての授業のため、とにかく暗記することに時間を使った。表にひとつひとつ単語の変化形(現在、過去、過去分詞)を書き記し、それを暗記するまで復唱した。繰り返し繰り返しいやになるまで読み返した。それに付け加えて、文法の習得と語彙の拡大が急務になった……というと、ふつうの外国語の勉強のようだが、幼少期の問題は、そもそも英語に対応する「母国語」を習得していないことにある。つまり、英語で学ぶべき単語が、日本語でどのような意味なのか、それをそもそも知らないということがしばしば起きた。よって、私の頭の中には、英語でしか意味がわからない単語が大量にあふれることになった。同様に、本来義務教育で習得すべきはずの日本語(主に漢字)の知識が、だんだん失われてゆくことになった。同音異義語がとてつもなく多く、漢字がなければ思考すら成り立たない日本語では、漢字の習得は文字通り絶対の必要条件である――このことは、あとになって私をひどく苦しめることになる。

学校での授業のうちでは、ドイツ系のA先生の授業が楽しかった。まだほとんど会話もできなかったが、どこか優しい顔立ちの先生の授業はまじめに聴いた。最初に英語で書いた「読書感想文」を褒められたことを憶えている。もっともいま考えると、どんな感想文だったのか、われながらあきれるほかないが。それは確か、テキストにすればわずか二ページほどのとても短い短編寓話で、大事なものをなくした男の物語だった。そんな文章を読むためだけに、何日もの時間を費やした。理解した後は、思ったことを使ったことのない言語で形にする作業がまっていた。つたない英語で、思ったことを書こうとして苦しみ、数日かけてようやく二〇〇ワードほどの感想を書き終え、満足したことを憶えている。そのとき感じた小さな誇りは、いまでも私の大切な記憶のひとつだ。

そうした授業を続けながら、私の頭の中には、二つの世界が存在することになった。ひとつが、私がうまれた日本の世界。もうひとつは、英語によって構成される熱帯の島国の世界。熱帯の光に焼かれるアスファルト、マレー人の褐色のつややかな肌、白熱する空に伸びるヤシの木、バス停にふり落ちる銀色のやさしい雨、これらに対し私は英語で名前をつけていった。日本語で付けることは後回しにせざるを得なかった。なぜなら英語でものを考え、英語で語り、英語で理解せねば、文字通り、生きていくことができなかったからだ。


3.

ほとんど記憶に残っていない最初の数年間が経過した時、私はいつのまにか普通に授業を受けられるようになっていた。物理、数学、科学、歴史(米国史)などの授業で、英語を母国語とするイギリス人よりもテストで高い成績を残すことができたことで、少なくとも英語による勉学のハンディキャップはない、と少しの自信をつけた。それは確か十六歳ぐらいのころだ。ただ、どこか不安はあった。それは自分はいったいこれからどうしたらいいのか、という漠然とした不安だった。

より具体的には、母から聞いた話をいまでもよく覚えているのだが、母の日本人の友人に、私と同じぐらいの年の息子がいた。かれは私よりも数年前からシンガポールで住んでいたのだが、ある時、桜を見て、「小さくて、つまらない花だね」と言ったという。母はそれを聞いて、「ああ、もうその子は日本人じゃないと思ったわ」と言った。私は心中穏やかではなかった。なぜなら、私もまた、そういうことを思っていたからだ。シンガポールの植物園に咲き乱れる蘭の花。華美でうつくしい熱帯の花々が、私にとってはなじみのあるものであり、すでに遠くなった日本という国の「サクラ」などという花は、私にとってはどうでもいいものになりつつあったからだ。私はひょっとしたら、母がいうように、もう日本人ではないのかもしれない、と思った。じゃあ何人なのか、と考えた。考えて、どちらでもない、中途半端な存在なのではないか、と思った。日本人にもなりきれず、かといって、シンガポール人でもない。どこにも居場所のない、どこにも祖国のない、中途半端なまがい物。母がいう「日本人じゃない」存在に、私もなるのかもしれない、いやもうそうなのかもしれないと思った。

当時、とくに私が飢えていたのが日本の雑誌やテレビだった。それは私だけではなく、他の日本人子女もそうだったようで、街のあちこちには日本の番組を録画したVHS(当時の映像記憶メディア)をレンタルする業者がいた。店に行くと、日本のバラエティ番組、ニュース番組、ドラマ、紅白歌合戦などを録画したテープが、ところ狭しと並べられていて、よく母がこれを借りてきて一緒に見た。いま思い返すと、どうしてあんなものを毎週楽しみにしていたのかと思うが、それは自分から奪われた日本社会へのつながりを取り戻そうとする試みだったのだろうといま思う。輸入されたすべてのコンテンツはシンガポール政府によって性描写が検閲されていたが、それを抜きにしてもどうしても手に入れたいものだった。なにしろ、日本語を話す機会はもう自宅でしかなく、実際に日本社会がどんな場所なのか知る方法は、こうしたコンテンツを通して知るほかなかったのだ。自分が所属していたはずの共同体へのつながりは、かろうじて保たれていたが、どんどん失われつつあった。


4.

卒業間際になって、私の前にはいくつかの選択肢があった。ひとつは米国の大学に進むこと、もうひとつは日本の大学に進むことだった。正直、どちらの道もありえたと思うのだが、私のこころには母の「もう日本人じゃない」ということばが、何かの呪いのように残り続けていた。このまま自分が海外に住み続けたら、自分は文字通りの外国人になってしまう、と思った。それもまたよかったのかもしれない。一方、シンガポール人の友人たちは、徴兵制によって軍事訓練に参加していたこともあり、このままシンガポールに滞在し続けると、永住権(Permanent Residence = PR という)を持っていた父の子として、二世の私には徴兵が考えられた。それはちょっと怖いな、と思ったことを憶えている。結局、私は帰国して、日本の大学に進むことになった。

帰国した私を待っていたものは、母のことばを裏付けるものだった。つまり、ふつうに会話をしていると、「日本語がちょっとおかしいね」と、阿佐谷にあったアパートの大家に言われたことをはじめ、漢字がまったく書けないことが判明し、他にも多種さまざまな「常識」が自分のうちより失われていた。当然といえば当然で、そもそも義務教育で三年、高校でさらに三年やるべきはずの日本語の基礎知識がすべて失われており、それを補う勉強もしてこなかったからだ。日本語の習熟にも時間を裂くべきだったが、時間のすべてを英語の習得に使ってしまい、文字通りそれだけを必死にやってきたつけがまわってきたのだ。他にも、基礎知識としての国語、社会、歴史など、すべてやり直すことになった。やりなおす、といっても、当然大学では教えてくれない。なぜならそのような学習は、当然「終わっているべきもの」とみなし、授業が行われるからである。そこで私はどうしたか。具体的には、優先度が高いと思われた漢字の書き取りを毎日実施することになった。最初のうちは暗い図書館の一角でやっていたのだが、一度日本育ちの同級生に見られて恥ずかしくなり、それ以来はずっと自宅でやるようになった。中学生・高校生向けの教科書も買った。買った上で、それを一から読み直した。けっきょく、これを二年ほど続け、友人も作らず、ほとんどを机の前で過ごした。

結果として、一般的な日本人としてふるまうことができるようになった。いまの私は誰がどうみても表面上は日本人だろうし、実際、日本語と英語を適切に運用することで日々の職務を遂行している。だが、それでも失われたものは戻ってはこないし、二つに分断された世界は、いまもなお私のこころを隔てている。それは「こうであるべきだったもの」と「実際にそうであったもの」の間に広がる断絶であり、死ぬまで越えることができないものだ。人は、誰でもそのような断絶を持っている。いいかえれば、誰もが個人的な疎外を、自分ではどうにもならない宿命とこれがもたらす分断を生きるほかない。私は幼少期を海外で過ごし、これがもたらした断絶と向き合い、誰もがそうするように、ひとりでこれと格闘してきた。だが、実際には、同じような境遇の何百万人ものひとびとがいた/いることを、ネットの反応を見て知った。そうした生の声の数々は、固定の数の読者しかいない紙メディアに文章を書くときには得られないもので、ネットという媒体に文章を書く意義、価値、存在事由について、私にいま一度思いださせてくれた。


5.帰還者である帰国子女のみなさんへ

四月は日本では出発のシーズンである。私/私たち海外で育ったものにとって、それは正ではない。そもそも卒業も春とは限らない(私は日本で言う夏に卒業した)。だから桜が咲いたとしても、それを素直に出発や、新生活や、新たなる人生の門出の象徴として読み取ることができない境遇におり、さらにいえば、共同体が準備する時系列の物語に参加することができない立場におり、それは今後も変わることがないだろう。だが日本に帰国したからには、それに慣れなければならない。2016年現在の今年から日本の学校で勉強をはじめたり、日本の会社で勤めるひともいるだろう。

日本社会のマジョリティは、海外で育ったものたちが経験しなければならなかった苦労や、おそるべき断絶についてなにひとつ、なにも知らない。自分たちが知らないということすら知らない。そのような無知は、だが避けがたいものだ。人間は自分の知っていることしか知りえない。だから外国語が堪能という側面だけを見て、あなたたちをその無知で傷つけるだろう。そのことが帰納的に予測される。そして胸を痛める。私はそれをサバイブした。だが、私の同期たちは生きのびただろうか。あなたたちは、これから生き残ることができるだろうか。潜在的マイノリティとして、この社会で、「日本人」としてふるまうことを強制され、自分の境遇をまったくなにもわからない人々の中で、傷つかずに生きていくことができるだろうか。

結論からいえば、それは無理だ。あなたたちの人生の前には、無知と、疎外と、得体のしれないコンプレックスによる攻撃と、村社会に所属しない異端に対する大小さまざまな攻撃が繰り返される。あなたたちは反撃するだろうか。あなたたちはかれらと同じように攻撃するだろうか? あなたたたちはかれらと同じように、無知によりひとを傷つける生き物になるのだろうか? 自分を受け入れてくれない日本の悪口をネットに匿名で書き連ねるひとびとになるのだろうか?

さまざまな道がある。だが傷のない道はない。それは誰もが与えられた生の条件だ。だがあなたたちにはハンディキャップがある。それを越えるためには、場合によっては「純粋」な日本人の十倍勉強しなければならないかもしれない。二十倍勉強しなければならないかもしれない。がんばれなどと言えるはずもない。だが私もまた、かつてはそいう応援を欲していた。だが得られなかった。それはそのようなことばが存在しなかったからだ。そのような問題について明確にことばにしたひとがいなかったからだ。

喪失感は取り戻せず、大多数の人々との共通の思い出を奪われた子供時代は帰ってこず、共同体への所属意識は損ねられ、外国語習得によって損ねられた母国語の生の感触、記憶や経験に基づいた母国語の手応えは永遠に取り戻せない。くるしいと言う他ない道が続くだろう。

世の中は春であり、出発の季節だ。けして「ただいま」と言えることのない国のうちにいて、あなたたちになにができるのか。あなたたちの困難な人生はあなたたちだけのものである。ほとんどの人に理解されないかもしれないが、それでもなお、あなたたちのものである。グッドラック、異邦よりの帰還者たち。

(2016年4月1日)