2016-04-10

料理はひとを裏切らない

誰でも、取り戻せないものを持っている。誰でも、帰りたい場所を持っている。だが、もちろん取り戻すことはできない。だが、もちろん帰ることはできない。ゆえに、ただひたすら、この巨大な不能性、ネットと呼ばれるこの偉大なる空虚のなかに留まるほかない。赦しや希望なく。取り戻すことなく。帰る場所などどこにもなく。

料理はひとを裏切らない。これまでの人生で行ってきた努力、これによって培った技術に、常に、あらゆる場所で、思いもよらない形で裏切られ続けてきた。信頼した人間に裏切られてきた。自分自身に裏切られてきた。だが、料理は違う。

ざるで濾して弱火で丁寧に焼いた錦糸卵のしっとりした肌感。茹でたての蓮根を唐芥子の輪切りを浮かせた調味料に浸けたその朴訥でやさしい歯ごたえ。干し椎茸を戻しこれを出汁と一緒に煮丁寧に仕上げた傘肉の深く甘美な味わい。粗塩をふり、皮をぱりぱりになるまで炙り、小骨を取り除いてほぐした鮭。酢飯の上にこれらを並べて載せる一手間。つまりちらし寿司は美味というほかなく、自分よりも大きな何かに感謝したい気持ちになる。

料理だけが自分を救ってくれる――そうとしか思えず、今日も台所に向かう。煮干しと昆布の金色の出汁はありとあらゆる一皿に使える万能の調味料であり、さまざまな具材の個性をぶつかり合わせることなく、逆に活かすことができる潤滑油であり、対立ではなく調和をもたらす魔術的な素材でもある。どこにも居場所がない自分の人生にもこのようなものが必要なのではないか、と思う。思うだけでもちろん実現しないが、一瞬そういう夢を見る。

最初に包丁を持って料理をしたのは十代の頃だった。その時作ったのは牛のタンシチューであり、なぜそんなものを作ったのか、作ろうと思ったのかよく憶えていない。湯がいた巨大な牛の舌をスライスするときにまな板の上に載せたが、長くくねる肉の塊が非常にグロテスクでいまもたまに夢にみる。その時、みにくいもの、気持ち悪いものはうまいということを、肌で学んだ。人間も同じだろうか。みにくいもの、気持ちの悪いものは、はたして立派な人間だろうか?

つまらない内省をしながら、今晩もまたまな板の前に立つ。本日つくるものはやや和風のビビンパである。具材は、粗塩を振り、強火で表面を炙った豚トロ、ニラの塩とごま油炒め、薄口醤油、酢、ニンニクすり下ろし、粉唐芥子で味付けした豆もやしのナムル、それからタレとして、ニンジン、タマネギ、ニンニクをすり下ろして少し煮詰めたものにコチュジャンとケチャップで味付けし作り置きしておいた肉用ソース。これら具材を少なめに持った丼の白飯の上に載せ、最後にじっくり弱火で黄身を半熟にした目玉焼きを載せて食す。

料理はいい。つくるとき、食べるとき、後片づけをするとき、または作り置きのために大量の野菜や肉の下ごしらえをするとき、満足と充足感を感じる。自分の努力が、料理本の読書が、包丁を握ってきた時間が、すべて料理の品質に即座に反映される。そんなものが他にあるだろうか。いやない。努力は基本的に報われぬものであり、なんの見返りも保証されない。料理は違う。皿が努力に応えてくれる。料理は差別をしない。料理には年齢も、容姿も、職業も、国籍も、年収も、なにも関係なく応えてくれる。

料理はひとを裏切らない。だが、自分はどうだろうか。ひとを裏切り続けてきただけでなく、いまも裏切り続けているだけでなく、取り戻せないものを取り戻そうとあがいているだけでなく、まるでネットに希望があるかのような嘘八百を今日も、明日も、明後日も、ならべて、書いて、嘘をついて、嘘を書いて、嘘ばかりで、赦されず、みにくく、ひとりぼっちで、気持ちが悪く、誰からも認められず、あこがれや尊敬とは無縁のどうしようもないネットなどといううつくしい国で、料理をして、書いて、料理をして、書いて、ただどうしようもなく、否だ、すべてが否だ!

(2016年4月10日)