2016-05-24

答のない朝

毎日一文にもならない文章を書いている。そのうちのいくつかは依頼された文章だったりする。乾いた笑がこみあげる。めざしていたものになっても、それは過去に自分が想像していたものとは違っている。若いころは、彼女ができたり、結婚したりしたら、ひとりぼっちではなくなるのかもしれないと思っていた。そういう愚かさから自由ではいられない。だがその愚かさを克服できるだろうか。ひとは自分で考えるほど、利口な生き物なのだろうか?

窓の外はよく晴れている。iPhoneの画面で見るニュース録画で、中高年受けする化粧と服装をした女性アナウンサーが、全国的に真夏日だと言っている。社内で決定権を持っている男たちへの配慮なのだろう。大変だろうなと思う。男は男で、おもに下半身にまつわる大変さを異性に説明するのは無理だと思う一方、男の、男のための、男による組織(=社会)でいきていく立場の大変さ、というものを想像する。だが肌感覚でわかるかというとわからない。わからないことだけはわかる。

他人をわかろうとする動機はない、そもそも社会は、「私」のことをなにもわかってくれないではないか? そういう問いを発するこころの動きがある。ひとは誰でも、自分に起因しない要素が強いる生の条件に閉じこめられている。そしてその大変さは個別なものであり、これを他人が理解することはそもそもできない。だが――と思う。自分ではないだれかをわかろうとする姿勢なく、孤独を克服することができるだろうか。自分をすくうために、他人のためにいきるという道があるのではないだろうか。

机に山積みになった原稿と詩誌、壁に貼り付けた推敲中のメモ書きに囲まれ、うんざりしながら窓を開ける。仕事をしているうちに朝になっていた。検索すれば、あらゆることがわかったような気がする時代だ。秘められていた身体の部位はいついかなるときにも見られる環境が配備され、男女間のもめ事がありとあらゆる地平で露出し、元彼女や元妻や元浮気相手を撮影した大量の写真・動画が今日も明日も明後日も流出し続けている。下半身がなければ、私たちはもっと自由で、しあわせだろうか。

私は答をもっていない。答がなくとも、愚かであっても、朝はやはりやってくる。

(2016年5月24日)