2017-05-23

とりもどすことができないもの

iMacのハードディスクが壊れた話は以前日記で書いたが、その交換した元ディスクはどうしたかというと、京都産の噌屋の空箱にしまいこんで、そのまま放置して数ヶ月が経過していた。物事はなんでもこのように放置されるものだ。本日は多少時間があったのでその壊れたディスクからデータを可能な限り回収する作業にあたった。といっても大したことはしていない。別のマシンに接続し、データ修復プログラムを走らせるだけの簡単な仕事だ。幸いまだ動いたので、データはほぼ回収することができた。なかにはさまざまな音声データ等もあり、ブログを書籍化しようとしていた時の文字データなども大量に出てきた。なにもかもが懐かしい。

日記のほうでは過去に何度か書いてきたことだが、現在手元には三本の完成した長編詩があり、これをどうしたらよいか頭を悩ませている。知っているひとは知っているとおり、ほとんどすべての現代詩集は自費出版で、これは「私家版」とも呼ばれる。なぜ企画出版がほぼ見当たらないかというと、商業的に成立しないからだ。こうした本を出すためにはそれなりに資金が必要となるが、わたしはそれについてはすでに準備し、作品をもって複数の出版社に持ち込もうと思っていたのだが……そこで考えがとまっている。どうしたらよいのかわからない、というより……これらの作品ははたして現代詩なのだろうか、という疑いを持っている。

さまざまな第三者に作品を評価してもらったのはうれしかったが、これは卑下ではなく、わたしはしょせんブロガーなのではないだろうか、と思う。それ以上のものになるべきではないのではないだろうか。そういうことを考える。そしてデータ修復プログラムが実行されている液晶ディスプレイの画面をみる。修復できないデータが、「×」印で表示されている。ひょっとしたら修復できないものだけが、あるいはとりもどすことができないものだけが、人生において重要なのかもしれなかった。

2017-05-22

梅雨前の昼下がり

梅雨の前なのに真夏日が続いている。夏は好きだ。何かがはじまる予感を感じさせる桜の春よりも、ひたすら熱に浮かされたような夜がつづく夏のほうが好きだ。夜の中でだけはじまるものがある。

もっとも、暑いことは、子育て中の親にとっていいことは何もない。汗をかくので頻繁に服はかえなければならないし、汗疹は心配で、顔が赤かったりすると虫にでも刺されたのではないかと心配になってしまう。そういう心配そのものが無意味であるということを自分に言い聞かせるがそれでも心配になる。まあ人間なんていうのはそんなもので、正しい、とわかっていても、守れなかったりすることもある。あるいは、間違っていることが楽しかったりするということもある。ままならない。なにも片付かない。なにもうまくゆかない。だが偶然うまくゆくこともある。

娘の下半身から排泄物を洗い落として戻り、仕事のメールを出し、ゆるい風が吹く部屋にすわっている。

壁にはりつけた「仮象の塔」の原稿が揺れている。
社会に必要とされていないものを書く。だがそれは、どこかに読者がいるというわたしの確信とまったく矛盾しない。

2017-05-21

窓の内の怪物

晴れの日がつづいている。どさほど遠くない土地では通り魔が老人をバットで攻撃して負傷させ、わたしはいつもと同じように机に向かっている。穏やかな晴れの日がつづいていることをよろこびたく思う反面、さほど年が離れていない男を暴力にかりたてた怒りの正体について想像をめぐらせてしまう。それは端的にいえば、「レールを外れた者をこの社会は人間扱いしない」ということでもあり、あるいは「組織の中にいてもひとは道具としてみなされる」ことでもある。人間扱いされない、というのは、コミュニケーションが成り立たないということでもある。気持ちを打ち明けこれを通わせる契機が奪われている。この国を覆っているなんとも形容し難い息苦しさは、ネットに「本音」があふれているように見える反面、それを語る場が公にはいっさい存在をゆるされないことに起因しているだろう。政治について語る場はなく、恋愛について語る場はなく、生きることについて語る場はなく、ひたすら軋轢をさけるためだけの「お世話になっております」レトリックが蔓延している。洗練された礼儀作法による秩序は外国人(特にアジア人)からみればある意味うらやましいものかもしれないが、その中にいる者はそれを実現するためにどれだけのものが抑圧されているか知っている。ひとを型にはめるシステムは秩序ある社会を作るかもしれないが、そこに入らないものはハサミでひっそりと切り落とされていることを忘れてはならない。いや、わたしがそんなことを書くまでもなく、だれでもそのことに気がついている。この国に《人間》がいないことにだれでも気がついている。だがどうやってそれを取り戻せるか。どうやったら《人間》になれるのか。だれもできない。だれも《人間》にはなれない。そして暴力は断罪されすべてが忘れられる。

おぼえておこう。ひとを怪物にするものは、いまここの安寧を守るためにだけ無視され、排除されてきたかなしみや怒りの声だということを。わたしたちはそれをこれからも目撃してゆくだろう。何度も何度もくりかえされるだろう。しかし、自分たちがつくってしまったこの怪物がこの社会に牙を剝くとき、わたしたちは怪物になることなく、これとあらがうことができるだろうか?

窓の外は暗い。日本人にうまれながらもっとも難しいこと。わたしは《人間》になりたいと思う。

2017-05-20

ファースト・ショッピングと戦争の午後

よく晴れている。平日は毎日早朝より作業に入る。土日祝日は一応休みという設定にしてあるため相対的にのんびりと過ごす。

本日は赤ん坊と買い物に行くためにベビーカーを出した。生まれてからまだ一度しか使っていない。定期検診以外で二人で出かけるのは初めてだ。日差しは強く、多少心配だったが、サンシェードが意外と機能的だったこともあり、起伏の少ない歩道にでると、すぐに娘は眠った。その顔をシェード越しに眺めながらいろいろなことを考える。そして黙って路上をあるく。

老人たちはにこにこしながら赤ん坊をみる。小学生や中学生はものめずらしそうにちらちら見る。そしてわたしと同世代の人間たちは目をそらすか、うつむいてなにも見ずに歩いてゆく――ひょっとしたら舌打ちしながら。それぞれの反応をみると、さまざまな思いが胸をよぎる。そして「戦争」とはなにか、と思う。戦争とは、「この人生」をリセットできる、あるいは価値観が逆立し、社会にまったく認められない自分が、死という献身を通してはじめて社会より認められるかもしれない救済の可能性のことだ。

英雄的な死によって、あるいは「金持ち」や「成功者」に平等にふりそそぐ死によって、ひょっとしたらこのどうしようもない自分も救われるかもしれない、というこころの動きがある。そう考えるわたしを前に、娘はわらっている。わたしは戦争を求めてはいない。だが、もとめる気持ちは理解できる。さらにいえば、ロスジェネ世代は戦争をもとめている。それをこの世のいかなるものもとめられない。

2017-05-19

冷えたサンドイッチ

赤ん坊の世話をしていると、ひととは糞を生産する機械にすぎないのではないかと思うことがよくある。人生に意味を求めるのは問いのたてかたが間違っているので、単なる糞製造機が自分をなにか別のものと勘違いしてしまうことにすべての人間的な問題があるのだろう。一方、自分の子供はおそろしく可愛く、これに負けそうになる。SNSで子供の写真を貼り付けているひとびとの気持ちがわかる。「世界でいちばんかわいい」と思っているのだろう。自慢、は根源的な欲求のひとつだということが、最近よく理解できるようになった。わたしも上記のように思うし、さらにいえば写真も貼りたいが、我慢しなければならない。子供は親の持ち物ではなく、愛玩物でもない。そのうち親のことを捨てて出ていく一時的な関係にすぎない。しょせん他人であり、所有することも支配することもできない。できると思っている親がいるだけだ。子は親を選べないが、親もまた子を選べない。また親が望むような性格に子を変えることもできない。ただ健康だけは親が守ることができる。というわけでわたしは今日も子供を風呂にいれ、ミルクを妻と交替で作り、哺乳瓶を消毒し、最後に妻と自分のために、氷のように冷たいコールドチキンを使ったサンドイッチをつくった。冷えたサンドイッチはうまい。

2017-05-18

雨音のバラード

とつぜんの雨が近づいている。仕事をしながら片目で窓の外をみる。強い風が吹き始めている。嵐は好きだ。と、いっても、わたしが育った熱帯の島国には台風は来ない。かわりに熱帯にはスコールが降る。葡萄の大きさの雨粒が、弾丸のようにふりそそぐ。屋根のあるバス停の下、バスを待っていると、雨音が薄っぺらい屋根をたたき、まるでバラードのように聞こえる。アスファルトには巨大な川ができ、幾億の波紋ができては消え、できては消える。雨がふりしきる中、銀色の雨の壁にくぎられたそのバス停で、誰かをよく待っていた。だが、それはもう遠い記憶であり思い出すことができない。思い出せないことを思い出せるのはさいわいなことだ。なぜならいちばん大事なものであっても、忘れたことさえ忘れてしまえば、この世界に存在しなかったことと同じことだからだ。だがそれを書きのこしてもなにもとりもどせない。それでいいのだ、と思う。

そして結局雨はふることなく、わたしは仕事に戻った。

2017-05-17

深夜の飛行機

地元住民との協定により、近くにある空港から、深夜に飛行機は飛ぶことがない。

だいたい毎日夕方頃が交通のピークで、空には複数の飛行機がキラキラと光りながら滑空しているのがみえる。午後に天気がよい日は、仕事部屋の窓を開けて、ぼんやりと空を眺めることが多い。飛行機雲がいくつか横に刷毛で描いたように伸びている。目の前のベランダの日差しはあたたかい。どこかで猫が遊んでいるらしき声が聞こえる。生まれて二ヶ月になる娘は居間のソファで眠っているようだ。小さなベッドも生まれる前に購入したのだが、結局ソファが気に入ってしまったらしく、ソファでないと長いこと眠ってくれない。子供をあやしていると、自分がいつのまにか笑顔になっていることに気がつく。それはほとんど使ったことのない筋肉をいつのまにか使ってしまっている一種不気味な感覚で、自分の顔にはこれだけ生きてきても、まだ一度も使ったことがない機能があったのだ、ということを思う。そしてそのことをもっとはやく知る方法はなかったのか、ということを思う。

夜になり、空を飛行機が明滅しながら、並走してどこかへ飛んでゆく。人は死んだら土になり、魂の存在は虚構であり、そこにはなにも残らない。自分は死に、子供もいつかは死に、人生はひとしく無意味だ。その後に「だが」も「しかし」もつなげることなく、机に向かう。あなたたちは、なにを犠牲にして《仕事》をつづけるのか。あなたたちはどんな代償をはらっていきるのか。だれも、答をもっていないのだ。

2017-05-16

わたしとあなたのインターネット

がっかりしており、失望しており、希望をうしなっており、目的をなくしており、夢の残り火はきえている、わたしとあなたのインターネット。
うつくしい雨がふりしきる空っぽの公園で、電磁的なみぶりで宛先のない手紙を書いて、蒼いあのひとにたどりつかない、わたしとあなたのインターネット。
いずれの約束もいつわりで、さめきった情熱はくずれきえさり、信じたものには裏切られる、わたしとあなたのインターネット。
わたしとあなたの二人称的、わたしとあなたの現実の、わたしとあなたのインターネット。

(2017年5月16日)

2017-05-15

なぜひとは浮気するのか

いつでも浮気したがっている。男はみな浮気している。人妻はみな浮気している。隣人のあのひとは浮気している。午前七時にかならず掃除機をかける豹柄のパンツを穿いた下階のAさんは浮気している。政治家も浮気している。芸能人も浮気している。野良犬は浮気していない。人工知能も浮気している。ひととひとが作ったこの世、そのなにもかもが浮気している。貞操は存在しない。不倫だけが現実である。

さて外は雨が降っている(ような気がする)。机の前で自分の読者層というものを考える。閉ざされた世界の外にむけて開かれたことばとはどのようなものでありうるか。閉ざされたことばとはもちろんこの国のあちこちに存在している蛸壺的村社会にむけてのみ語られることばだ(「玉稿拝読しました」「いつも某会合でお世話になっております」「XX賞を受賞されたあの作品は感動いたしました」)。わたしはひとまず解説や説明を排除し、真偽不明のアレゴリカルな《意見》をこのブログにおいてゆきたい。それはきわめてありふれたものであり、日本社会に携帯端末の数だけ存在しているに違いない。

ひさしぶりなので、自分の読者層というものがよくわからなくなってしまった。読者はどのような人生を送ってきたのか。どのような教育を受けてきたのか。なぜわざわざブログなどを読もうとおもったのか。もちろんわたしにはわからない。なにもわかるはずがなく、あなたの人生についてなにひとつわかることなく、またわかることをかたく禁じながら、ひとつのイメージを頭に描く。それは夜中、小さな携帯やスマートフォンの淡く輝く画面をみながら、寝具の中で眠るまでの時間をこのブログとともに過ごすひとの姿だ。同居人、親、親類等に知られることのない、同僚にも妨害されることのないプライベートな空間。ひそかに、誰かに知られずに読まれるような状況を想定している。そのようなつもりで書いてみたい。

誰でも浮気している。男は誰でも浮気したがっているだけではなく実際に浮気している。つい最近も自民党の議員が、わざわざ妻が出産間際で不在のところを狙って、よその女を家に連れ込んで浮気していたというニュースがあった。「またか」とおもったひとも多いだろう。女性は「男なんてそんなもの」とおもっただろう。「育休をとっても、家事しない、育児しない、でも浮気はする」と思った女性も多いだろう。権力者はお金などをもっているので浮気が比較的に容易だ。もちろんお金がなくても浮気は毎日、毎時間、毎秒、いついかなる場でも可能であり、実際にしているひとが山ほどおり、「証拠」や「エビデンス」を出す必要などない。

だがしかし、さらに踏み込まねばならない。肉のよろこびが必要だろうか。肉の快楽が必要だろうか。これらは生きるために必要なものだろうか。いやちがう。そんなものはどうでもいい。このようなものは大したものではない。しょせん歯磨きをする快楽にすぎない生理的欲求によってひとは根源的に動かされたりしない。ひとを動かすのはもっと巨大なものであり、とりかえのきかない欲望であり、それは《傷》である。あるいは傷という空洞をうめるための肉でもある。空洞を埋めるためならひとはどんなことでもする。穴を埋めるためならひとはどんなことでもする。この《苦痛》を癒すためならひとはどんなことでもする。女をとっかえひっかえしなければ生きられないのは痛みがあるからだ。

一般的には、男は性欲があるからと言い訳して浮気をしている。そういうことになっている。だがそうすることによって妻を傷つけることはあきらかではないだろうか。なぜそんなことをするのか。答はあまりにも明快であり浮気は手段であってほんらいは相手を傷つけたいということそのものが欲望なのである。相手を傷つけたいからこそひとを裏切るのである。相手が自分のことをまったく理解しない愚か者で裏切り者でゆるせないとおもっているからこそそれを理解してほしくて相手を傷つけるもっとも手っ取り早い方法として浮気があるのである。

どこを見ても世の中は清潔でありどこを見ても世の中はきれいでありどこを見てもおためごかしと「お世話になっております」的レトリックしかない。いつまでこのくだらない空気はつづくのか。だれしもがおもうことをわたしもおもっている。まともにものをかんがえてまともに生きようとする者たちとわたしは同じ怒りを共有している。いつまできれいごとにまみれたくだらない説教がつづくのか、きわめて腹をたてている。わかってほしいから浮気をしている。悪をなすことで見てほしいから浮気をしている。なぜわかってほしいという欲望を馬鹿にするのか。それはきわめてまっとうで真剣な悩みでありこれを馬鹿にする自分のことを頭がいいとおもっているひとびとの醜悪なしたり顔こそ唾を吐きつけるべきだということをなぜ誰もいわないのか。

誰もいわないのでわたしがいわねばならない。誰もいわないのでわたしが書かねばならない。なんという損失! なんという無駄! いや、違う。いや、違った。いや、なにかが違う。そもそもわたしは《現代詩》を書いていると第三者に評価されているのではなかったか。いや、わたしは《ブログ》を書いていると第三者に評価されていたのではなかったか。いや、違うのだ。違うのだ。わたしがしたいことはこんなことではないのだ。わたしがしたいことはどこか別にあるのだ。だがそれはどこにあるのか、なにもわからないのだ。なにもわからないことだけがわかっているのだ。えらそうなことをいって《文化人》ぶっていたいわけではないのだ。えらそうなことをいってもなにもいやされないのだ。ああ、あの窓の向こうへゆきたいのだ。なにもない、あの窓のあちら側へ!

仮象の雨がふっている。あのひとのことを思い出している。肉のよろこびだけが、わたしをすくってくれる。

(2017年5月15日)

2017-04-11

ほんとうの保守のためのノート

「この国にほんとうの保守はいない」と、ある小説家はいった

ほんとうの保守とはなにか
そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか

それは憲法か
それは平和か
それは子供らか
それは誇りか
それはプライドか
それは世界一の技術か
それは安倍晋三か
それは自民党か
それは沖縄の米軍基地か
それは先進国か
それはG7の地位か
それはうつくしい国か
それは東芝の原子力事業か
それは台湾企業に買収されたシャープか
それは教育勅語を暗唱させる幼稚園か
それは共謀罪か
それは言論の自由か
それは性交の自由か
それは性行為をインターネットにアップロードする自由か
それは君が代か
それは天皇陛下か
それは男の男による男のための国か
それは女のものではない女によるところのない女のためでもない国か
それは自涜する自由か
それはツイッターで自涜する自由か
それはフェイスブックで自涜する自由か
それはありとあらゆるSNSで自涜する自由か
それはいつでも自涜ができる《わたしたち》の自由か

守るべきものがずれている
守るべきものがいつでもずれている
守るべきものがいつでもずれてしまっている
守るべきものをふみつけている
守るべきものをうらぎっている
守るべきものをいつの間にかきずつけている
守るべきものをいつの間にかよごしてしまっている
守るべきものがないている
守るべきものをなぐってしまった
守るべきものをころしてしまった
守るべきものをうしなってしまった

さまざまなひとが、それぞれ守るべきものをさけんでいる
(ツイッターであばれている)
さまざまなひとが、それぞれたたかうべきものをさけんでいる
(フェイスブックで慇懃なめくばせをしている)
毎日さけんでいる。毎日糞をなげつけあっている。毎日つぶやいている
(だれもかれもが血走った眼!)

そのどこにも《わたしたち》が守りたかったものはない
そのどこにも《わたしたち》がほんとうに守りたかったものはない
そのどこにも《わたしたち》がほんとうに守りたかったはずのものはない

くりかえされている
なんどもくりかえされている

なんども問うことをくりかえしている
なんども問うことをくりかえしてそのたびに答をうしなっている

ほんとうの保守とはなにかという問いをたてている
ほんとうに守るべきものはなんなのか問いをたてている

ほんとうの保守とはなにか
そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか

いや、嘘を書いてはならない
いや、嘘をいってはならない
いや、ブログといえども、嘘を書いてはならない
いや、ブログといえども、《現代詩》といえども、嘘を書いてはならない

だがしかし、ほんとうのことは苦痛で
(そのすべてがいつわりで)
だがしかし、ほんとうのことはくるしく
(そのすべてがうそっぱちで)
だがしかし、ほんとうのことは血を吐くようなことばで
(そのすべてがご立派な表現で)
だがしかし、ほんとうのことがなければ……ほんとうのことがなければ!
(そのすべてが自己満足で)

なかった
そもそもなかった

そもそもこの国に守るべきものなどなにもなかった
そもそもこの国に守るべきものなどどこにもなにもなかった

そもそも《わたしたち》のこの国に守るべきものなどなにひとつ残されていなかったのだということ
そもそも《わたしたち》のこの国のいまここに守るべきものや愛すべきものなどなにひとつ残されていなかったのだということ

保ち守るべき美徳はすべて幻影だったのだということ
保ち守るべき美学はすべて幻想だったのだということ
保ち守るべき《あのひと》はすでに彼岸へ旅立ってしまったのだということ

よってほんとうの保守はついに不可能で
よってほんとうの保守はついにふかぎゃくで
よってほんとうの保守はついにかなうことなく
よってほんとうの保守はついにきえさり
よってほんとうの保守はついに実現することなく
よってほんとうの保守はすでに滅んでおり
よってほんとうの保守は二度滅ぶことはできない

愛する方法を知らなかったので
愛する方法をまちがえたので
愛する方法を知りえなかったので

ほんとうの保守よ、おまえは夢見た庭へとかえり
ほんとうの保守よ、おまえは安らかに星いだいて眠れ

(2017年4月10日)

2017-04-07

ブログ名称の変更を行いました

本日付けで、ブログの名称の変更を行いました。

新名称:仮象の帝国
旧名称:Marginal Soldier

よろしくお願いします。著作リスト等はTumblrを参照してください。

2017-03-31

「jpgの魔女ベアトリス」、またはロスジェネの不可能な紐帯

現実はおそろしい速度で変容してゆくが、わたしたちの人生はなにも変わらずすぎてゆく。この取り残されている気持ち(レフト・アローン)を克服するために、ひとりぼっちのネット右翼(ライト・アローン)が連帯せぬまま台頭する、と冗談を書いてみたくなる。だが、冗談をいって冷笑していられる幸福な時代はすでに終わった。わたしたちは眼前に広がる、左右、男女、上下階級が毎日いがみあうまずしい空間、すなわち自らが作りだした業と向きあわなければならない。

『詩と思想』2017年4月号にて、「現代詩の新鋭」なるものに選出されると連絡があったので、知己の詩人・井上瑞貴さんに解説を書いてもらった。わたし本人といえばそもそも詩と現代詩の違いがわからず、さらにいえば文芸とそれ以外の違い(あるいはブログとそれ以外の違い)もわからない人間なのだが、第三者より評価してもらえるのはめずらしい機会なので、ありがたく思っている。快諾してくれた井上さんに深く感謝を。編集部のみなさんもありがとうございました。

詩作品は、ストリップ劇場を舞台とした「jpgの魔女ベアトリス」を寄稿した。魔女とは男を狂わせる裸体であり、かつ男を救う(かもしれない)貌のない裸体でもある。このブログでも何度も書いているとおり、女だけが男をすくってくれる(可能性がある)ーーただし、それは実在する女である必要はない。それを「jpg」(ジェイペグ)と名付けた。男には女が痛切に必要だ。そしてそれは、肉のよろこびとはなんの関係もない。

この二〇年で、さまざまなものがわたしたちの人生から奪われていった。
だが奪われたものはとりもどせない。無限に遠い、たどりつけない<魔女>へのいのりを経由してとどくかもしれないことばについて書いてゆく。

(2017年4月1日)

* * *

作品以外には、「喪失の時代」という小文を寄せた。以下全文掲載する。

喪失の時代
 数年前、渋谷のストリップ劇場に足を運んだ。鮮明に思いだすのはきらびやかな舞台の最前列、よれよれの汚れたシャツを着た中高年たち、かろやかに踊る女たちの前に跪き、手を合わせる男たちの姿だ。かれらの表情には、神仏を拝む真摯さ、切実さがあり、それは胸が痛くなるような光景だった。
 前妻と暮らしていた頃、地元の駅前にアジア人の娼婦が働く店があった。営業日には小さなネオンが点灯し、秘かに客を呼び込んでいた。妻子が待つ家に帰宅する際、その前をよく通った。残業続きでバスが終わり、歩いて帰ったある雨の夜、道に小さな銀色の川ができて、私と店を隔てていた。川を越えた時に、喪失とは何か知った。
 成長や希望といった幻影を信じていられた八〇年代、アジアの小国で十代を過ごした。あちこちでパーティが開かれ、邦人の集まるホテルで食事を取ると、いつも歓声や笑い声が響いていた。家には阿媽(あま)がいて、学校に行くときは起こしてもらっていた。一番おぼえているのは彼女が洗濯をしている姿で、熱帯の白熱する空に洗濯物が揺れていた。だがいまは二〇一七年であり、揺れてぼやけているのは記憶だけだ。
 jpgは現在(プレゼンス)を保存する。陽炎のあちら側にいる裸体の女たちを。そして喪失の空虚さに耐えられず、弱さを暴力に変換し、告白によって赦しを求める男たちを。だが劣化は避けられない。複製を試みたとしても、記録されたものは不可逆的にこわれてゆく。
 書くことはその不可能を可能にすること。衣類をはぎ取られた肉体、いいかえれば虚構の前に跪き、ほんとうのことを現前させることだった。ひとは老い、夢はこわれ、共同体はばらばらになり、孤立と断絶だけが蔓延してゆく。この喪失の時代をいきる。

2017-03-02

若さの埋葬

現代詩と呼ばれるものを毎日書いてほぼ三年が過ぎた。さまざまなことが起こった。だれの人生とも同じような退屈な毎日のくりかえしだった。一方社会は大きく動いているように感じられた。だが社会が食べ物を恵んでくれるわけではなく、税金を払っていても事故や天災から守ってくれるわけでもない。社会が変わろうが(あるいは大統領という大家が変わろうが)飯の種を稼ぐ行為は変わるはずもなく、水は今日も高いところから低いところへと流れ続ける。

一方、書くことはおもしろい。一円の対価も(ほぼ)なくともおもしろい作品はおもしろい。このおもしろさをわたしから奪おうとする人間こそがわたしの敵であり、それはかたちのない「世間」という形をしている。創作に携わる者すべてがたたかっているものとわたしもたたかっている。しかしもちろんかれらを応援することなく、仲間も必要としていない。そんな連帯になんの意味もない。この考え方をある詩人は「旗を振りません」と表現した。

昨日、SS新人賞の選考委員R・K氏の新人賞授賞式でのことばを某誌で読んだ。知己のH氏が紹介していたが、「とくに男性詩人は、自分の一番弱い部分を隠さずに言葉にしていってもらいたい」というものだった。わたしはしばらく雑誌の頁を開いたまま考え込んだ。というのも、「自分の一番弱い部分」をことばにして、はたしてそれがおもしろいかどうか、わたしは常々疑問に思っているからだ。ネットにあふれる「告白」や「反省」や「体験談」のつまらなさ、退屈さ(あるいは、告白を装った卑劣な身振り)を見れば、読者諸氏にもわたしの疑問が伝わるのではないかと思う。

ただおそらく、書いておくべきことはあるのだろう。わたしが何度も核心的なモチーフにしている「洋子」=「Y」は、産まれることが許されなかった子の仮の名前だ。ほんとうに女の子であったかどうかは永遠にわからないが、手術のあった日の夜に夢を見た。夢の中では女の子が舟に乗ってながれていた。その時ふしぎと、ああ、女の子だったのかもしれない、と思った。

わたしはつい最近まで、自分には経済的な理由で産むことができなかった最初の子供がいた、ということを忘れていた。子供をころして自分は生きている。あるいは、ひとを不幸にしてなお自分はいきながらえている。そのことから眼を背けたかったのかもしれなかった。去年の春ごろのことだったと思うが、毎日詩作をしてゆく中で、夢の中で見たその子のことをはっきりと思い出した。そしてあの子をころしたわたしに生きる資格があるのか、と日々問うようになった。

答は出ていない。

わたしはもうひとつの問いをたてた。それは自分にもし経済的な力があったら、あの子を生かすことができただろうかと。その問いにはすぐに答が出た。おそらくむりだっただろうと。なぜなら出産とは相手がいなければ成立しないものであり、相手が「あなたのことが信頼できないから産みたくない」と言ったら、男はどうにもできない。ひとの気持ちを理解することが多種多様な失敗を経てはじめて可能になるのであれば、その遅延する理解の過程で命がうしなわれてしまうこともある。

答はないが、問いはあった。ひとは弱さや愚かさから、ひとを殺してしまうことがある。あるいは修復不可能なまでに傷つけてしまうことがある。いくら後悔してもとりかえしはつかない。ばらばらになったものはとりもどせない。ひとは、いや、わたしは、どのような理由によって、これから生きていくことがゆるされるのだろう。どのような理由によって、自分をゆるすことができるのだろう。

問いはある。そしておそらくR・K氏がいっていたのは、その不可能な問いに、<答えようとせよ>ということだとわたしは受け止めた。それがいかに滑稽で、みっともなく、恥ずかしいことであっても。

わたしはあの子を埋葬したいと思っている。

それは自分のおろかな若さを埋葬することでもあり、あるいは弱さにかたちを与えることであり、なにひとつ告白せずに<ほんとうにあったこと>を作為を経由して語りつづけることなのだろう。きっと、埋葬は不可能なのだ。あの子を生かしてやりたかった。

(2017年3月2日)