2017-11-24

我慢するひとたち

わたしはiPhoneをドコモで使っているのだが、近くにあるスーパーの半地下食品売り場が非常に電波が悪く、困っていた。電波状況が悪いと食材やレシピの調べものをしたり、家人にメッセージを送って食材の有無を問い合わせしたりすることができない。そのため、過去に何度か改善依頼を出した。ドコモ本体には二回、店舗側にも一回。携帯に異状がないかどうかAppleにも問い合わせを出した。

最初に依頼を出してから半年ぐらいが経過し、最近になってようやく電波状況が改善され、店舗のどこでもふつうにインターネットに接続できるようになった。じつは店舗に電話で問い合わせをした時、同じような文句をだれかがいっていないかどうか聞いたところ、他には一人もそういう人間がいなかったそうだ。みな、黙って我慢していたのだろう。

結局、だれかが言わないと、なにも改善されない、ということを実感する。なにかを声高に、あるいは過激なことばを用いてアジテーションする、というのもひとつの手で、ツイッターを中心にそのような攻撃的なクレーム手法が流通しているが、じつはそれ以前の話で、ふつうに何かしらの具体的な改善要望を出す、ということをだれもしていないのではないか、という疑いを持つようになっている。黙って我慢しているひとがあまりに多く、いつしかその鬱屈が爆発し、攻撃的なレトリックとして噴出しているのではないだろうか。

そういうことを思いながら、インターネットを眺める。仲間をつのって貌のないまま集団でなにかを攻撃し鬱憤を晴らす、その欲望を我慢できるだろうか。あらゆる場所で世間に監視され、一挙一動がさらされる閉塞的な社会に生きながら、そんなことが可能だろうか?

2017-11-23

無題(承前20)

ずいぶんと寒くなった。11月は30日しかない、ということを思い出して焦っている。日々の職務をこなすだけであっという間に一ヶ月が過ぎてしまうが、自分のやっていることが意味がないということ、書いているものがだれにも読まれていないことをあらゆる局面で思い出しておきたいと思っている。別の言い方でいうと、意味がある行為、というものはない。そこには何もかもを飲み込む非意味の砂漠が広がっているだけなのだ。

他、通常の職務。

2017-11-22

無題(承前19)

今日は冬もいよいよ本番という天気。一日机に向かう。

* * *

ミニストップが成人向け雑誌を撤去、というニュースを読んだ。この件に限らないが、たとえば成人向け雑誌という「醜いもの」を排除していった結果できあがった清潔な社会というものがある。そこからはじきだされたものがすべてインターネットに蓄積してゆく様子を、わたしたちはこの20年目撃してきた。検索すればその成人向け雑誌よりもはるかにひどい現実をわたしたちはだれでも、いつでも、どこでも閲覧することができる。そうした物理的なゾーニングは、インターネットのことを考慮していない、前時代的な規制なのではないだろうか。ほんらい規制すべきもの(そして規制できないもの)は別にあり、生け贄の羊が必要とされているだけのように見える。

* * *

裸は着衣があってはじめてひとを蠱惑するのであって、隠すものがないままさらけ出された裸は、単なる肉色の塊にすぎない。

* * *

他、「新鋭」同期のKさんと長電話。きわめてどうでもいい話で盛り上がる。

2017-11-21

読む、聞く、考えない

職務、家事、炊事。

2017-11-20

あのひとの脳髄

もちろんこの世のすべては下半身を中心にめぐっている。

いやもっと具体的にいえば、脳髄のあずかり知らぬところで動作する内蔵を中心にめぐっている。脳髄は「わたしは知っている」と思う。「わたしはわかっている」と思う。だがそれは単なる思い込みであり、実際のところ内蔵を動かしているのはそれ自身なのだ。

* * *

急に冷え込み、ずいぶんと寒くなった。わたしはほとんど運転しないが、免許の更新、それからいくつかの書類を申請するために役所まで足を運んだ。役所も銀行も、土日にやっていてほしいが、一方、夜八時にはすべての店舗が閉まる昭和的な地方のことを懐かしく思いもする。わたしはずっと都会育ちだったが、生まれは地方都市だ。それも夜中になると真っ暗になるような古い街で、空を埋め尽くす天の川の流れや、水田にあふれるホタルの明滅などが記憶に焼き付いている。その光景があまりに鮮烈すぎて、ひょっとしたらわたしの夢だったのではないか、と思うほどだ。だがおそらくそれは現実で、もうどこにも存在しなくなった現実だったのだろうということを思う。わたしたちは年をとり、社会は変化してゆく。いくら同じようにみえても、そこに不変のものはなにもない。

* * *

夜、原稿。

2017-11-19

冬の雑感

北国では大雪が降ったところもあるらしい。昔私用で秋の北陸に行ったとき、わたしは南国育ちなのでナメていて比較的薄着でいたら、道を歩いていたとき冷たい風で体温を奪われ、文字通り死にかけたので北国は苦手だ。真冬のソウルで積雪の下のマンホールに気がつかずすべって盛大にころんだこともある。冬の間は、大きな動きをしない。冬は蓄える時期なのだ。

* * *

とあるブロガーの記事を読んでいたらAmazonのウィッシュリストを公開していて、それなりに収益になっているようだ。ぱっと見てこのひとは嫌だな、と思ったが、よくよく考えてみると、それは売文業と何が違うのか、というとなにも違わないはずだ。名前を売る、原稿を売る、本を売る。そのために露出を増やし「無料」でブログを書くことは何も間違っておらず非難されるいわれはない……が、たとえばきわめて不幸な身の上話を書き連ね、同情や共感を呼ぶような虚構による操作を加えた上で「無料」でブログを書き、こころ優しい読者からの寄付をつのる、となると、少し話は変わってくる。わたしは、ブログは詐欺であってもいいと思し、その内容が嘘であってもいいと思うし、もちろん読者も書き手のことを完全に信頼していないにせよそれでも応援はする、という姿勢はありうると思うし、それはそれでいいと思うが、個人的には上記のようなことは嫌だし、思わず眉をひそめた、ということを書いておきたいと思った。

* * *

文章はお金にしなければならない。だがそれはどの時代、どのジャンルにおいても可能かというと、もちろんそうではなく、肌感覚としては、ますます困難になっている印象。

* * *

他、アボガドとサーモンが安価に手に入ったのでサラダをつくった。
今月、来月は、料理以外は、ひたすら机の前に座っているだけの日々だ。

2017-11-18

週一育休

題名のため本日の更新はお休みです。

2017-11-17

この世でもっとも孤独な場所

インターネットでは、今日も男女がお互いの欠点をあげつらって漫画化し、それをツイッターにアップロードして称賛されるという作法が流通している。あるいは匿名ブログに男女がお互いの悪口を書きつらねて掲載することがそれなりのページビューを獲得し、影響力を確保している。こうした事柄は数字には出ないが、わたしたちのこころを少しずつ毀損し、相互不信を蓄積させ、お互いの距離を果てしなく遠ざける。だがもうこれを止めることはできないし、止めるべきではない。一方、それによってなにが損ねられているか、それに形を与えておくことが必要だろう。むろん、損ねられているのは男女の繋がりであり、関係を持つことの大切さであり、理解への契機だ。

わたしたちはどんどん不幸になり、ますますひとりぼっちになり、しかも自らが望んでそうなっているのであり、この世の誰にもそれを止めることなどできない。

* * *

じゃがいもの皮を剝いている。ポテトサラダをつくっている。すでに塩ゆでしたブロッコリーが冷蔵庫の中にしまってある。剝いたじゃがいもを水に漬ける。それから出た生ゴミを処理し、シンクを洗い、コンロの汚れを拭きとり、洗った食器を拭いてから机に戻る。

机の前で、インターネットを眺めている。インターネットにあらわれる<社会>を眺めている。知的な人間たちが、インターネットはお遊びであり、真剣に考える必要などない、といっている。知的な人間たちが、インターネットに文章を書くのは時間の無駄だ、といっている。知的な人間たちが、インターネットは電話と同じで道具にすぎない、といっている。自分のことを知的だと思いたいひとびとが、今日も大量に生産されている。なぜそうか、と問うことはむなしい。なぜひとはひとに褒められたいのか、なぜひとは偉くなりたいのか、なぜひとは自分をより大きく見せたいのか、と問うこともむなしい。

* * *

男女関係においては、相手を無条件に「信じる」ということが必要になる局面がある。
これを逆にいえば、相手を疑うことが、その関係性を決定的に損ねてしまうことがある。
そして関係というのものは、一度欠けてしまえば、もう二度と水を満たすことができない器と同じで、もうそこに愛情をためておくことはできなくなるのだ。

* * *

不可能な関係を保たねばならない。いいかえればこころを守らねばならない。そのために必要なものは、ことばを取り戻すこと、「知的」で「わかりやすい」ことばではなく、誰にでも届くことば、しかも同時に、わかりやすさを拒否したことばを用いて語るほかない。すべての問題はことばの矛盾にたちかえる。ひとりぼっちで豊かな場所にたちかえる。

インターネットは、この世でもっとも孤独な場所、そして唯一の繋がりの可能性の場だ。

2017-11-16

無限に出会えるインターネット

だいたいわたしの知っている物書きは九割ぐらいが毎日死にたいと思っている。インターネットを見ていてもだいたい同じぐらいの比率だと感じる。冷たいことをいうようだが、それは自然なことなので、とくに何もしなくていいし、ほっておくのが一番だ。

つい最近、インターネットに弱音やくるしい生活を告白し、そうした気持ちを誰かにわかってもらいたいと思っていた女性たちが、それを悪意ある第三者に利用されて殺されるという事件があったばかりだが、このブログのような小さなアクセス数であっても、やはり同じような悩み相談メールがたまに届く。

この機会に、読者に注意喚起をしておきたいのだが、わたしがどんな人間かわからないのだから、そうしたことをしてはいけないし、そのメールの内容がどのように悪用されるかわからないのだから、個人情報など書くべきではないし、電話番号や住所を伝えようとしてはならない。

参考 → 「ネットで知りあったひとと会ってはいけない

わたしはそうした人々の気持ちがわかる。
わかるし、多くのひとが理解をもとめてさまよう現実のつらさも共感する。だが、2017年、それは悪用されるだけだとあらためて言わざるを得ない。

一方、読者はこう問うかもしれない。——それでは、ひとと付き合うことはできないではないか。弱音を吐いたらつけこまれ、自分の気持ちを伝える方法はなく、わかってもらうこともできないし、それを試みることも危険ということであれば……。

少し個人的な話をすると、性的な関係を持つことはさほど難しくはないし、結婚も実のところそうだが、ひととひととが出会う、ということはきわめて難しいというように思うし、その難しさにほんとうの意味で気がついたのは、30代に入ってからで、その理解の対価として婚姻生活を破綻させることになった。理解は無料では得られないのだ。

出会うことが昔よりもはるかに容易になったように見える反面、それがほとんど不可能になったと同時にいうこともできると感じている。その矛盾をわかりやすく説明することはできないし、する必要もないが、端的にいえばそれは「知らなくてもいいこと」を保つことが2017年には難しくなったからだろう。可視化はひとの心を不可逆的に損ねる。

ひとは、出会ってもいない相手と結婚もできるし、性的な関係を結ぶこともできる。
インターネットでひとは無限に出会える。だが誰とも出会えない。

2017-11-15

無題(承前18)

通常業務。自分が書いているものについていろいろ広報や宣伝をしなければならない立場なのだがやる気が出ない。というよりはっきりいうとインターネットでもそれ以外でもそういうことは一番嫌いで、うんざりで、その気持ちを忘れずにいたいと思う。自分のつくったものを読んでほしいと喧伝してまわる行為が楽しいはずがなく、苦痛でしかない。やる気が出るまでいっさい何もしないでおこう、とこころに決める。

2017-11-14

体験すること

通常業務。そういえば先日携帯ショップに足を運んだが、最近発売されたiPhone Xの円みを帯びたエッジは、昔持っていたiPhone 3Gを思い出させてとても欲しくなった。新しくおもしろいものが発売された時、それに否定的なことを並べ立てて買わないひとよりも、経済的に損をするかもしれないとわかっていながらも、やっぱり買ってしまうひとのほうがわたしは好きだ。損得ではなく、買い物は楽しいものであって、買うということはそれ自体が一種の遊びなのだから。

韓国の仁川に短期滞在していたころ、よく市場にいった。海産物や豚の内臓が並ぶ市場は行くだけで楽しい。通販のような利便性の高さとは違う、歩くこと、見ること、選ぶことの楽しさがそこにある。「体験」の楽しさといったらよいか。それはいくら科学技術が進歩しても代替できるものではない。自分の足を運んでみたものが、一番記憶に残るものであり、そのかけがえのない記憶を得ることがいちばんの買い物の目的なのだ。

それはともあれ、わたしは職務が終わった後、一キロある煮干しのワタを一時間かけて取った。これになんと総計三時間もかかった。苦行というほかない。だがジップロックで密閉したこの煮干しのおかげで、半年は美味なものが食べられそうだ。こうした苦労は好きだ。見返りがあるとわかっている。作業を終えて机に戻り、ブログを書いて眠る。

2017-11-13

無題(承前17)

なにをどこで書いても退屈だ。

2017-11-12

煮干しの日曜、後になって知るものたち

煮干し、を定期的に大量にもらっている。ほとんど出汁にして使っているのだが、料理をするみなさんは頭とワタは取る派だろうか、それとも取らない派だろうか。わたしは頭は残す、ワタは取る派だ。つまりどういうことかというと、何百匹もある煮干しの頭をちぎり、ワタを指でひとつひとつ取る、という作業が数ヶ月に一回は発生する。今日はそんな日だった。

2017-11-11

週一休暇

本日の更新はお休みします。

2017-11-10

捨て去ることのできないもの

ようやく今日で今週も終わり。定期検診で歯医者にいって、その足で先日転んだ時にどこかがおかしくなった自転車の調子を調べてもらいにいった。調べてもらうと、なんとフレームそのものが歪んでいるとのこと。わたしがたいした怪我をしなかったのは、フレームが曲がって衝撃を吸収してくれたからだということがわかった。自動車では事故があった時にわざとゆがむ部分を残しておくことで衝撃を吸収する、という考え方があるらしいが、わたしの場合は偶然だろう。ほとんど怪我をしないで幸運だった。手を痛めると、料理もできないし、家事もできないし、さらに職務にも差し障りが出てしまう。もちろんブログを書くのも難しくなる。

ニュースでは、自殺をしたがる若い女を優しいことばで騙して家に連れ込み連続して殺していた男の事件を毎日報道している。「わかってもらえた」と思ったとき、ひとはころりと騙されてしまう。あるいは「このひとはわたしの傷をわかっている」と思ったとき、ひとは相手のことを信じてしまう。インターネットはひとのこころを近づけることができる反面、悪意をもってつかえばはてしなく悪いことができる道具でもある。ひとこといえるのは、男でも女でも「わかってもらいたい」という強い欲望を持っており、ひとはこの欲望を捨て去ることはできないのだということ、そしてその捨て去ることができないもののとてつもない強度について、あらかじめ知っておくことが必要だということだ。

だがだれにもわかってもらうことなどできない。
ひとは不可能をもとめる。会えない誰かをずっと探すしかないのだ。

2017-11-09

無題(承前16)

ようやく週末が近づく。少し寒さが強くなり、上着を一枚増やした。といっても職務の内容が変わるわけではなく、いつもの日常を過ごした。

2017-11-08

外の内側

市がやっている年一度の健康診断の結果が出て、再検査しろという指示を受けた。仮に重い病気だったら土の下ではやく眠れると思ったのだが、扶養家族がいるのではやく死ぬこともままならず、仮にほんとうに病気であればすぐに治さないとならない。自分で自分の死に方すら決められない不自由な人生というほかない。

涼しさが増しているが、あまり寒くはない。息も白くはなく、肌寒いが寒さは感じない。どちらかというとあたたかい日々が続いている。携帯端末を見なければわたしの生活(そして多くのひとの生活)は退屈きわまりなく、職務と生活しかなく、さらにいえば季節の変わり目ぐらいしかイベントがない。机に向かい仕事をする、家族のために雑事をこなす。それだけの人生であり、それ以外になにもない。そしてそれでいいのだという実感がある。わたしにも夢や目標はあるが、それをインターネットに書くつもりはまったくなく、そもそも書く意味がない。だが、昔はあったかもしれない。インターネットに、何かを書く意味が、何か伝えたいことを書く意味が、あったのかもしれない。それがいまなくなったからといって、かつてあった価値が消えるわけではない。その程度には、わたしはインターネットが好きだ。いいかえれば2017年の、このどうしようもない国が好きだ。どこにも行きたくないし、どこにも「外」などない。ここで生きて、ここで死ぬ。何も得るものがなくとも、そういうことを思う。まわりに誰もいなくなっても、そう思う。不思議なものだ。

2017-11-07

男性に対する暴力をなくす運動

あなたは 悪くない。

女を性的な眼でみている。ありとあらゆる女を性的な眼でみている。この世のありとあらゆる穴のついたものを性的な眼でみている。この世のありとあらゆる<絵>であらわされる女を性的な眼でみている。この世のありとあらゆる<画像>であらわされる女を性的な眼でみている。性的な眼でみるほかなく、性的な眼でみる以外になく、性的な眼でみる以外の方法がなく、性的な眼しかあたえられてなく、性的な理解しか得られず、性的な衝動しかなく、性的な衝動しかあたえられてなく、性的な<暴力>にしかよろこびを見いだすことができない。

あなたは 悪くない。

あなたの衝動にふりまわされる人生、あなたの衝動におびえる人生、あなたの衝動にくるしめられる人生、あなたの衝動においたてられる人生、あなたの衝動にかりたてられる人生、あなたの衝動につきうごかされる人生、あなたのひそかな衝動にあまえてしまう人生、あなたの衝動にかなしんでいる人生、あなたの衝動におそれをなしている人生、あなたの衝動におどろいている人生、あなたの衝動をすてさることができない人生、あなたの衝動の巨大さにおびえる人生、あなたの衝動をどうすることもできない人生、あなたの衝動をどこにも捨てることのできない人生。

あなたは 悪くない。

暴力をなくしたいのに(暴力がたのしい)、暴力にくるしめられているのに(暴力がうれしい)、暴力をどこかに追い払いたいのに(暴力はかいらくで)、暴力でひとをきずつけているのに(暴力をもとめていて)、暴力で自分もきずついているのに(暴力がなによりも必要で)、暴力のこわさを知っているのに(暴力をふるう場所をさがしていて)、暴力をふるう手が血をながしているのに(暴力をあきらめられず)、暴力がなくなったほうがいいと思っているのに(暴力をすてさることができず)、暴力をなんとかしたいと思っているのに(暴力はなによりもたのしく)、暴力をなくしたいと思っているはずなのに(暴力にあらがえず)、暴力をなくせればいいと思っているのに(暴力をふるう側にいつづけたい)。

あなたは 悪くない。

そういってもらえたらよかったのに、そういってもらえたときそれを信じられたらよかったのに、そういってもらえたときあのひとを殴っていなければよかったのに、そういってもらえたとき自分より弱いひとにやつあたりをしていなければよかったのに、そういってもらえたとき自分が興奮していなければよかったのに、そういってもらえたとき自分がみにくくなければよかったのに、そういってもらえたとき楽しんでいなければよかったのに、そういってもらえたとき暴力が快楽であることを知らなければよかったのに、そういってもらえたときたのしい暴力のことを知らずにいられたらよかったのに、そういってもらえたとき自分を<被害者>だと思えていたらよかったのに。

あなたは 悪くない

なぜわたしは<加害者>なのか、なぜわたしは加害者以外のなにものにもなれないのか、わたしも被害者になりたい、わたしも被害者の顔をしたい、わたしも被害者になってひとからかわいそうといわれたい、わたしも被害者になってひとに同情されたい、わたしも被害者になってひとにかわいそうといわれたい、わたしも被害者になってひとに愛されてみたい、わたしも被害者になってさえいればひとに愛されたのかもしれない、なぜわたしは加害者以外のなにものにもなれないのか、なぜわたしは加害者としていきるほかなんの道もないのか、なぜわたしは加害者としていきる以外の道があたえられなかったのか?

あなたは 悪く あなたは 悪いもので あなたは よごれて あなたのゆく先に あなたがころがっていて あなたの死がころがっていて あなたは 悪く あなたは 暴力をうしない 鏡の わたしは わたしを うしなっている。

(2017年11月7日)

2017-11-06

冬近づく

わたしたちの人生となんの関係もない出来事が世の中を騒がせている。そんなものをいっさい知らなくとも、わたしたちには果たすべき職務があり、ともに生活する家族があり、経済的対価の有無にかかわらず続けなければならないひそかなライフワークがある、と言いたくなる。この世のあらゆるものが押し付けてくる関与への圧力はきわめてめんどうくさいもので、端的にいえば「大きなお世話」のひとことに尽きる。

突然寒くなって、窓の外を冷たい風が吹き抜ける音が聞こえる。そもそも、わたしの人生と関係があるものがあるだろうか、ということを思う。自分自身も含めてなにもない、という答が出そうになったので、存在しない猫と少し遊んだ。

2017-11-05

わたしたちのほんとうの姿

本日は日曜らしくいい天気だったが、一日職務で机からほとんど離れないまま過ごした。

その合間に、ツイッターで激しく傷つけあうひとびとの様子を眺めている。個人的な憎しみを見境なくぶつけるほかない人々がたくさんいる。あんな空間に存在していて誰も傷つかないのだろうか、と思う。いや、もちろん傷ついているはずである。それが自分のものでなくとも、憎しみやいかりは、こころを傷つける。だが、もう誰もそんなことを気にしていないようだ。いくらでも憎しみやいかりを転嫁できる都合のいい「弱者」がインターネットにいると思っているのだろう。それは間違っているが、結局、われわれは弱さというものを一度も克服できなかったし、いまもできないし、これからもできないのだろう、というしずかな理解だけがある。インターネットはわたしたちにわたしたちの姿をおしえてくれる。

2017-11-04

週一育休

本日の更新はお休みです。

2017-11-03

無題(承前15)

売れないとわかっている本を、なぜつくるのだろうか。

11月なのに、なぜかあまり寒くない。机に向かっていても少し汗ばむようなあたたかさ。子供も汗をびっしょりかいている。きっとまったく寒くないのだろう。とくに書くことはないが、今日は祝日だったので、一日料理の仕込みをしていた。より具体的には、一週間分の出汁をつくり、離乳食をつくった。

そして煮干しのワタを取って、タッパーにしまう退屈な作業を一時間ほどこなす。この世のあらゆることと同じように、やらねばならないこと、は、退屈なものだ。だれにとっても、なんの意味もないこと、だがやらねばならないこと、は、いつでも、退屈きわまりないものだ。そういうこと考えている。

2017-11-02

無題(承前14)

ますます料理がたのしくなってきている。今日はブリのいいものが手に入ったので、事前に仕込んでおいたレンコンを使ってちらし寿司をつくった。わたしが住んでいるところは銚子からさほど遠くないので比較的いい魚が手に入るが、港町に住めばならもっと鮮度の高いめずらしい魚介類が毎日手に入るのだろうと思う。美味い食材のためなら引っ越しぐらいしてもいいかなどとつい思ってしまう。もちろん思ってしまうだけで実際には実行しない……と思う。人生でもっともたのしい食事のためにもっとコストをかけてもいいのではないか、と思うが、本業に影響があるのでやめておこうと自分にいいきかせる。言い聞かせないと食材のためにもっと地方に家でも買ってしまいたくなる。早朝に採ったという地元の新鮮な野菜もたまにスーパーで売っているが、鮮度がぜんぜん違う。食べてみればその違いは歴然としていて、しかも搬送コストが安いから当然価格も安い。食事、という観点からすると、地方にはいい事しかない。

2017-11-01

無題(承前13)

ちょっとした事故があって一日休んでいた。自転車で転んだのだが、最初はとくに痛くもなかったのだが、後になって全身が痛み始めて、思った以上に身体のあちこちにダメージがあったらしきことに気がついた。まるで漫画のようなたんこぶができて驚いている。そのため、壊れた身体の部位を復旧させるためにほぼ一日横になっていた。結局、人間の身体は機械と同じで、壊れたら治る部分もあるが、一度壊れたら治らない部分もある。治らない部分は、それ以上壊れないように、大事に使わなければならない。

夜になって多少体調が回復してきたので、年末に約束した原稿があるのでそれに取りかかっている。だがまだ長い事机の前に座っていることができないので、もう少し体調が回復したら書評も再開したいと思う。

他、夕食には里芋や大根を入れたうどんをつくった。だが包丁を長時間持つのもきついので簡易版。

2017-10-31

お知らせ

怪我のため本日の更新はお休みです。

2017-10-30

通り過ぎる子供たち

職務の合間に買い物に行く。授業を終えたらしき小学校の子供らの側を通り過ぎる。近くを通ると子供らが怯えた顔をして遠ざかってゆき、迎えに来ている母親たちが眼を逸らす。その光景に内心苦笑しながらまっすぐスーパーに向かう。保守的な地方では、わたしのような風貌の人間はめずらしい。おそらく中身が日本人だとも思っていないのだろうと思うし、お互いにそれでなんの問題もなく平穏に過ごしてゆける。ただあらゆる場所で毎回職業について質問されることが面倒といえば面倒だ。家内は出産の際に入院している間、看護婦全員に夫の職業について聞かれたそうだ。おもしろいから無職とでも答えておけばと伝えたが、別にそんなに間違ってはいない。

机に戻ってきて、昼間見た光景を思い出している。小さな子供の手を引く母親の後ろ姿は、何かを思い出させた。だがそれが何なのか、よく思い出せない。これからも思い出すことはないだろう。通り過ぎるしかないのだ、この傍観者の人生のすべてにおいて。

他、今日の夕食は値下がりしたタコのマリネと、豚バラ肉のたまり醤油炒めをご飯に載せたもの。それからレンコンの酢漬けを仕込むなどした。

2017-10-29

深まる秋

10月も終わりに近づき、だんだん冷え込むようになってきた。子供は少しずつ両手と両足で部屋を動き回るようになってきて、料理をつくっていると足下にまとわりついてかなり危ない。危ないのでマットレスをしいた空間に運んで戻すのだが、結局またそこから出てきてしまう。以下その繰返しだ。子供の好奇心を止めることはできない。どんな結果になるにしろ、それを止めてはならないのだろう、ということを思う。いくら親が止めたとしても、子は親の持ち物でも所有物でもなく、あっという間にこの手を離れ、どこかに消えてしまうのだ。

たらこでスパゲティをつくったが、塩辛過ぎてあまり美味ではなかった。

2017-10-28

週一育休

育休には「休」という文字が入るが、職務のほうがずっと楽だと思われる。

2017-10-27

とくに静かでもない金曜日

今週は激務だった。月末に合わせて雑事をこなし、ようやく一息ついて机の前に座っている。つまり、ブログの時間であって、誰も読んでいない(ように思える)ものを書く時間で、さすがにこういうことを何年も毎日続けていると慣れてきてしまって、誰も読んでいない(ように思える)ものを書くことが当り前になってしまった。率直にいえば、いまこのインターネットで誰もが読んでいる(ように思える)ものがあまりにもつまらなく、退屈なので、むしろ誰も読んでいない(ように思える)方向性でゆくべきなのかも知れないとヒネたことを思う。もちろん思うだけで、どんなにおもしろい作品も、読まれなければ意味はない、というようにわたしは思う。だれも信じてくれないが、そう思っている。

2017-10-26

詩誌『水盤』18号(2017年10月発行)

井上瑞貴さんより詩誌「水盤」が届いていた。机に積み上げられた原稿や本を除けて、スペースをつくって安酒をすすりながら読む。べつに飲まないと詩が読めなかったり、飲まないと書けなかったりするというわけではない。飲まないと生きていけないというだけのこと、とだれかに言い訳しながら読む。巻末近く、氏のエッセーが掲載されている。

<長く見つめられたものはみな汚れる>という理由で、一瞬しか見ることしかできない人というのは、愛の対象である。
最後には二種類あって、ひとつは<本当の最後>、二度と起こらない最後で、もうひとつの最後は<最後の一歩手前の最後>で何度も始まりと終りが繰り返される最後である。
夫婦ゲンカの最後のひとことやアル中患者の最後の一杯というのは何度も繰り返される「一歩手前の最後」にすぎない。もしそこで限界を踏み越えて本当の最後のひとこと、最後の一杯にしてしまうと夫婦は離婚、アル中患者は病院に運ばれてしまうだろう。
「窓から見る限り私は雨の外部にいる」 井上瑞貴

フィリップ・K・ディックの小説に”The Penultimate Truth”というのがあって、高校生だか大学生だった頃に読んで、肝心の内容はすっかり忘れてしまったのだが、その時にPenultimateが「最後から二番目」という意味の単語であることを知って、不思議とこの単語のことだけをよく覚えている。

最後から二番目、と最後の間には大きな差異があるようにみえるが、じつのところ、「二番目」を数えた時、わたしたちは最後を手に取っている。いいかえると、最後を不可能な形ですでに先取りしている。夫婦関係も、恋愛関係も、つねにそうした最後を先取りしていて、いつも関係性のどこか遠くには終わりがぼんやりと浮かんでいる。いいかえると終わりが確実にあるからこそ、わたしたちは不可能な愛情をはぐくんだり、相手のことを愛するそぶりをする動機を得てしまったりする。その自分のこっけいな姿を見てしまうとき、わたしたちは関係性の外に放擲される。だから一歩手前に留まらねばならない。雨が降る外のただ中ではなく、傍観する自分を窓の前で見つめておくことにとどめねばならない……ということを思う。理解はつねに残酷で、わかってしまうことは、いつでもつらい。

2017-10-25

志田道子『エラワン哀歌』(土曜美術社出版販売)

仕事が終わって、つい酒を飲んでしまい、ふらふらになったままポストまでゆくと、詩集が届いていた。スーパーによろめきながらそのまま行き、ネギを背負って帰ってきて、酔いを冷まし/たことにして詩集を読み始める。

バンコクでの爆発テロを題材にした詩が目に留まる。
鶏の皮の焼けた臭い
香草の臭い 油にはじける玉葱 人参 ピーマン もやし
一日中照り付けていた太陽の熱のなごり
吐き気をおぼえる人いきれ
男は何も考えていない
 悪こそ力 むかしからずっとそうだった
 変えなければならないのは確かなことだ 何かを
「エラワン哀歌」
子供時代を過ごした熱帯の島国のことを思い出している。太陽は文字通りひとを殺そうと中空にかがやいていて、白く光る塊は、地上にいきるものに対する殺意をもっているに違いない、そう思える天気が三百六十五日つづく。タイ・バンコクもまた同じような気候だそうだ。熱、はひとを興奮させる。熱、は、ひとを駆り立てる。だが日本にいきるわたしたちもまた、この「何も考えていない」状態をよく知っているのではないだろうか。さらにいえば、悪こそ力、とうそぶきたくなる空間が眼の前に広がっているのではないだろうか。弱者がひたすらふみつけられ、ひとをつるし上げることがエンターテイメントになり、傷ついたひとびとが永遠に大量生産されつづける2017年の風景を前に、悪こそ力、とつぶやく男の横顔をみる。

変えなければならない、そう思う自分にあらがう。志田の詩からそういう教訓を得ると同時に、暴力をふるう顔に浮かぶ小さな微笑みがみえる。それはわたしの顔なのだ。

(2017年10月25日)

2017-10-24

静かな火曜日

一日机に向かっていた。

職務以外にはインターネットをちらちら見るぐらいできなかったが、大きな案件を正式にすすめることになった。満足している。

文字通りずっと机に向かっていたので、外の世界で何が起きているかまったくわからない。わからない、というより、外の世界が存在しているのかどうかがわからない。窓を開けたら何もないのではないか。ひょっとしたらもう世界は死んでいて、自分だけが生きているのかもしれない。そしてそれはブログを書くとき、いつも思っていることでもあった。

2017-10-23

境界線

台風が去っていって、わたしはどこかから入り込んだ枯葉の破片が散らばったベランダを掃除している。ベランダからは地方都市の町並みが見える。静かで、生気がないようにみえるが、近所にはかなり子供の数は多い。都心部に職をもち、このあたりに家を買っている家族が多いのだろう。家賃は下落し、不動産は値下がりしていて、たまにびっくりするぐらい格安の家が売りに出されている。と思っているといつの間にか外国人が入居していたりする。つい先日も用があって入国管理局にいったが、永住権の申請がとてつもなく増えているそうだ。これからは、地方であっても外国人たちと暮らす生活が待っているのかもしれない。たまにスーパーで見かける外国人グループが、いつも同じ言語を解するものだけで集まって、日本人の知りあいがまったくいないらしきことが気になっている。いや、ほんとうはわかっている。実際に実現する「多文化共生」社会とは、お互いに無関心なまま徒党をくんで、お互いいっさいやりとりをせず、お互いを不可侵のものとして節度をもって距離を保ったままかかわることなく生活する、というものなのだった。

アジアに住んでいた頃、アメリカ人はアメリカ人と、英国人は英国人と、その他国籍の人間はその他国籍のグループで徒党を組んでいたことを思い出す。別に意図してやっているわけではなく、会話が通じやすいものを身の回りに置くと、どうしてもそうなってしまう。その区分を越えるためには、かなり意識して境界線を踏み越えるしかない。つまり「わからない」ものに接することを楽しもうとするしかない。だが、そんなことをしたがる人間がいるだろうか。わたしはそれは怪しいと思う。

不可侵で無関心のまま、相手を尊重した距離を保って互いに生きることができるか。そういうことが問われていると思う。別の言い方をすれば、わかろうとしないこと。きれい事まみれのこの社会で、わたしたちにそれができるだろうか?

2017-10-22

Between the Storms

嵐は必ずやってくるが、嵐と嵐の間にある平穏な時期にいる時、やがてくる嵐のことを想像することは難しい。嵐が来たときにはじめて平穏の価値がわかる。だが、それを事前に知ることはだれにもできない。事後的にしか見いだされないもの、その遅れの宿命をひきうけるほかないのだ。

2017-10-21

週一休業

本日は出張のためお休みとなります。

2017-10-20

無題(承前12)

書評委員としての今年最後の書評原稿を編集部に送り、ようやく一息ついている。
本日は一日冷たい雨が降っていた。今週はとにかく忙しく、書評以外にも悩ましい案件が山積みで、頭を悩ませている。
机の前から離れていないので、外でなにがあったかほとんどわからないが、ツイッターを見ているとある程度世の中の雰囲気がわかって便利だ。
いよいよ選挙が近いが、この騒がしさも週末までかと思うととりあえず安心ではある。
わたしは期日前投票を初日に済ませて、明日は東京で打ち合わせ後、立憲民主党の演説を聞いて帰宅する予定だ。

それでは明日の打ち合わせの準備のため本日はこれにて失礼する。
別に飲むためではないので、誤解なきようお願いしたい。

2017-10-19

無題(承前11)

わたしのブログの書評を読んで本を購入したという話を聞いた。率直にうれしいと思う。いまここにある現代日本社会のなかにいきるひとにとっておもしろいとわたしが信じる作品を、著者の許可をいっさい取ることなく(そして公的な著作について許可などそもそも必要なく)、きわめて勝手に、これからも紹介してゆきたいと思っている。

一応いま考えている方針としては、(1)対象は原則、自腹購入した詩集または詩誌。献本の場合はその旨を明記、(2)2011年4月以降に執筆または刊行されたもの、(3)(ほとんどないが)ベストセラーやすでに評価の定まった過去の著作は取り扱わない、といったところだろうか。

もう次の書評にとりかかっているが、そちらの公開については、大型案件が立て続けにあるのと、別件の〆切があるのでやや忙しく、来週後半になる予定。
そして本日も例によって飲み過ぎたので本エントリも唐突に終わる。

2017-10-18

無題(承前10)

またどこかの世界で不倫が行われて話題になっているらしい。不倫は過去、現在、未来にわたって繰り返され、浮気も過去、現在、未来にわたって繰り返される(ところで、「浮気」と「不倫」は同じようで用法が異なる。未婚のカップルは不倫できない)。とある女流小説家が不倫して炎上した著名人に対して「作家ならすべてゆるされるよ」とアドバイスしているところを以前見かけたが、その通りとはいえそれは不倫の体験を消化した上でちゃんとおもしろい価値ある作品を書いてくれた場合に限るのであって、生煮えのセンチメンタリズムや自己陶酔を並べ立てられても浮気された親族には怒りしかないだろうし、全国に数百万人から一千万人はいると思われる不倫予備軍も失望しか感じないことだろう。どんなに馬鹿なことをしていてもかまわないし、間違ったことをしていてもかまわない、その渦中から一般社会に戻ってきた上で、愚かさとは何か、間違いとは何か、そうした問いそのものを全身で提示することによって世の中にまなびをあたえる、それが作家の仕事ではないのだろうか。

そしてそうした世の中の物事とはいっさい関係ないわたしは離乳食を仕込むのに忙しく、書評の〆切が二日後であることにいま気がついたのだった。

2017-10-17

あたらしい読書の形

ネットのタコツボ化"フィルターバブル"を破る方法とは? http://bit.ly/2xN2Jqn
ネットの「タコツボ化」についての記事を読んだ。少し視点をずらして考えるに、わたしのブログにはいくつか十万PV規模の記事があるが、おもしろいことに、他の記事はほとんど、いやまったく読まれておらず、ほとんどゼロPVだといえる。ネットの読者は自分に興味があるところだけ読んで、他はいっさい読まない、という傾向は肌感覚で感じる。タコツボ化を別の言い方でいうと、読むという行為は断片化され、フラグメンテーションが起きている印象がある。

2017-10-16

雨もよう

ブログを書く時にはいつも雨が降っているような気がする。もちろん気のせいに違いないが、あの記事を書いた時も、あの記事を書いた時も、やはり雨が降っていた気がする。気のせいに違いないが。

2017-10-15

無題(承前9)

日曜日は書類をつくっているだけの一日だった。意味のある一日と意味のない一日を分ける線など存在しないのだが、なんとなく損をしたような気持ちになる。そしてそんな気持ちだけで一喜一憂するのはじつにばかばかしいと思う。ばかばかしいと思うが、結局気持ちがすべてなのだ、ということも思う。ひとはきわめてばかばかしいものに駆り立てられている。

そんなことを思いながらようやく書類を終える。だが月曜日の早朝から、大型案件が目白押しときている。忙しさに負けず、意味のない線を引きたがる自分に負けず、ただし勝つことはいっさいできないまま、気持ちを大事してやってゆくしかない。さようなら、10月15日。

2017-10-14

週一育休

題名のため、本日の更新はお休みとなります。

2017-10-13

梁川梨里『ひつじの箱』(七月堂)

時代にうらぎられた者たちが涙をながしている。あるいはだれかにうらぎられた者たちが涙をながしている。だが涙をながすための場所はない。涙をながすための場所がないので<インターネット>で涙をながしている。いや涙そのものがうしなわれているので代替品をながしている。水のようなやわらかいことばをながしている。ながしている音をただ聴いている。電磁的なこだまを聴いている。だがながしたものは届くだろうか。ながしたものはどこかへ届くだろうか。この世に届くものが、はたしてあるだろうか。

乱視がいいね
やっと、星の仲間入りをした
精確に見え過ぎるがために見過ごした目は
小瓶の中で凝視したまま足を抱えた姿勢で
溝に流されていった
「らんざつならんし」

病院の待合室で手術が終わるのを待っていた。夏の盛りで通りには強い光が射しているのが見えた。手術に必要な33万円は祖父に借りていた。女が手術室に入ってから時間がたっていた。わたしは待合室の椅子に座りながら梁川の詩を読んでいる。ガラス玉に凝縮した声(たち)がそこにある。声は七億のわたし(たち)となって散らばっている。雨粒となってこのなめらかな世界にふりそそいでいる。なめらかな水面を乱す櫂、それがなければしずんでしまったものをあきらかにすることはできない。傘を持っていたはずの手のやさしさを思い出すこともできない。ゆれる雨にながしたはずの喪失、それを取り戻すことができるだろうか。

この雨の漕ぎ手は誰ですか
ビー玉に閉じこめられた行き先が
捻じれながら振り返った先で
零れ落ちた一滴の話しをしようか
(……)
漕ぎ手は、わたし、です
傘をかさねて持つ手の先から
雨がスタートしてしまうので
何度もやり直すのだけれど
今日も、やはり上手くまとめることが出来ず、
落とした粒を拾いながら
なく、のです
なくす、のです
「雨を漕ぐ」

処分してくれといわれた家具は部屋ひとつぶんほどになっていた。実家近くの敷地内の土の上に積み上げたかつて家具だったものたちはひっそりと燃え上がっていた。だれでも蓋をしたい記憶をもっている。だれでも蓋をして閉じこめておきたい記憶をもっている。蓋をあけることはなかに潜んでいるものを暴くこと。そして暴くことは傷つくこと。なにもかもがあきらかにされる<インターネット>ではひとは傷つかざるを得ない。なにもかもが隠されない<インターネット>ではひとは際限なく損ねられてしまう。必要とされているのはむしろ蓋、この不可能なせかいを終わりにするための想像力による蓋だった。

蓋をした
せかいは消えた
終わりは わたしの手
ひかりを意識下に置くために
微細な静けさの触手で
消えて、見えて、最後に
蓋をする
「黒い瞬きの蓋」

ひとはしばしば、なにげなく語られたことだけを思い出す。あとになってからしか思い出せないことがあり、その遅れをひとはどうにもできない。いつの日かそこにしずかに置かれていた一行、それを追うしかなく、それをなぞって生きるほかない。だが最初に書かれていたものを思い出すことは難しく、それをとりもどすことはさらに難しい。最初に傷をあたえたものを思い出すことは、いてもいなくてもいいようなものと思っていたものの重さを取り戻すこと、そして星の合間に旅立ったものに重さをあたえ、この世にとりもどすことだということを想起する。

オリオン座とカシオペア座しか覚えていない
あれほどぎゅうぎゅうに押し込めた
教科書の最初の一行しか残っていないなんて
(教科書の欄外に書いた詩を消しなさい恥ずかしい子)
書いた詩の一語で
恋は終わったし、神は死んだ
いてもいなくてもいいようなものだったけれど
「地」

だがこの世のあらゆるものに例外がある。大切なときにそこにいなかったわたし、大事なときに選択をしなかったわたし、<インターネット>にとじこめられたわたしたちにも例外がある。例外とは、しなかったこととしてしまったことの間の無限の距離であり、見てみぬふりをしてきたことの別名でもある。テーブルの上の空白にそっと置かれた手紙を読まずに捨てたある日のわたしのように、ひとは読まなかったこと、しなかったことによって、いつまでも記憶してしまうものがあると書きたい気がする。それは空洞のかたちをしており、そのうつほを見るためには、見られていないと信じ込んでいる/擬態しているわたし自身を騙すしかない。

ちいさな声で骨を叩く
皮の下のことは何も知らない
人体模型の構造を知っていますか
「わたし」に例外はある
(……)
見た時にだけ差し替えされた
内臓は擬態ですね
見ていない時 そこは空洞ですね
「白い瞬きの蓋」

電磁的な場においてわたしは肉をうばわれている。わたし(たち)は身体をうしない水をただよう魂に似ている。その中ではやさしく永遠につづくいつわりの夜がいつまでもひろがっている。身体をうしない、打ち寄せる波になげるべきことばをうしない、大切にかくされたものをうしなう。取り戻したかのようにみえるものは取り換え可能なものでしかない。いかなるものとも取り換え不能なものがあると、あのひとは一人しかいないのだと信じてしまう瞬間はだれの夜にも訪れる。だがそれもまたうしなわれることが示唆される。

やっと夜を始められる
ばっさりと黒い夜着の着替えて
この瞬間のためだけに生きている
と呟いてみた
あまりに馬鹿馬鹿しくて
ひとりで笑い転げていると
水のない波に溺れてすこし泣いた
「夜のからだ」

時がたっても、時がたたなくても、しょせん傷とは治るもの。傷とは思い出してしまえば、どこの誰にとっても、しょせんつまらない思い出でしかない。<インターネット>にながれてゆくもの、そこにとじこめられているもの、あるいは膨大な数のつぶやきに埋没してしまうものたちのことを思い出す。梁川のことばを借りれば、「見知らぬわたし」を取り戻さねばならない。未だ認めることのできないわたしを取り戻すこと、それはだれかのためではなく、あのひとのためではなく、傷を癒すためではなく、不可能な輝きに満ちた浜へたどり着くためなのだ、ということを思う。

まだ生きていない港で
もう死んでいない夜が
泳ぎつかのま晴れ上がる
転がされた飴玉が
溶けた居留守をつかう
(……)
中はまだ見慣れぬ輝きに満ちた浜で
わたしはまだ見知らぬわたしだった
「未認」

あのうつくしい浜に小瓶たちはながれつくのかもしれない。だが赦されないものはある。梁川の詩集は、届けようとして届かなかったものをわたしに思い出させる。

(2017年10月13日)




ひつじの箱
七月堂
梁川梨里
2017年3月発行


2017-10-12

秋の雨

雨が降っていて、部屋から見える駐車場のアスファルトが黒く濡れている。一日じゅう机に向かっていて、気がついたら夜中になっていた。毎日ただ生きているだけでも時間はいつの間にか過ぎてゆき、子供は少しずつ大きくなってゆく。今年の夏のことを振り返ると、ほとんど記憶に残っていない。子供とずっと一緒だったような気がするが、思い出せることがそれしかないともいえる。

子供が大きくなると、責任も増大してゆく。だが子供はひとりで育てているわけではなく、多くのひとの力を借りているので、経済力がさほど高いわけではないが、あまり心配はしていない。なんとかなる、と思う。書くことはだれしもがそう思うようにひとりの作業ではなく、じつは読者に力を借りているのとちょっと似ている。だれかの顔やかなしみを思い浮かべると、文章があふれる。結局、そういう書き方しか身に付かなかった、ということなのかもしれない。

週末にかけて雨が降るらしい。秋の雨は記憶をつないでしまう。秋の雨はさみしい。

2017-10-11

無題(承前8)

だれでもそうだと思うが、雑事というのはやってもやっても終わらないものだ。今日は仕事の合間に市庁舎まで足を運び、衆議院選挙の期日前投票をしてきた。結構ひとが来ていて、それなりに注目度が高い選挙であることがわかる。もっとも、わたしが住んでいる地方都市は基本的に自民王国で、毎回勝ち残っている候補はかなり安定感のあるくせ者の爺さんという感じ。安倍政権とは異なり、保守政党たる古きよき自民党の雰囲気を漂わせている。一方、民進党の候補は、わたしのうまれた街の出身で、わたしの父と高校が同じだそうだ。毎回思うが、じつに頼りない顔をしている。頼りない顔をしているだけではなく「希望」などという空っぽの旗を掲げて立候補したので、今回はおそらく落ちるだろう。とはいっても応援はする。それとこれとは別。

帰宅してから夕食をつくり、書評の原稿に向かうが、外回りで疲れたのでこれぐらいにしておく。今日は酒が飲めない日でつらいからというわけではない。

2017-10-10

存在しないパッション

書評を書いてはいるが、さすがに毎日アップロードできるかというとそれは無理なので、小休止としてその間は日記を書いておこうと思う。世の中はすっかり秋で、わたしは役所に提出するとある複雑な書類をつくっていて一日が終わってしまった。役所の語彙や文体をみているとこれは別の日本語だという思いを強くする。日本語、とひとことでいっても、その中にはとてつもなく幅広く多種多様な文体が、プリズムで分光される前の光のように収斂し包含されている。そしてわたしたちは普段そのうちのひとつを選び取って自分の文体としてつかってはいるが、立ち止まって考えてみると、他の文体が自由に書けるかというと書けない。さらに自由に読めるかというと読めていない。母国語だからなんとなく意味がわかると思い込んでいるだけだ。そういうことを考えながら、奇怪な語彙が並ぶ役所の書式を眺めている。

そういえば、立憲民主党の枝野が、(市民に)「パッションを伝えなければならない」と、インタビューで語っていた。そうだと思う。ブログにせよ詩にせよ書評にせよ、パッションがなければ、そこにこころがなければ、生きているとどうしていえるだろうか。わたしは生きたいと思う。いま、ここで生きていたいと思う。対価(結果)も必要だ。だがそれ以前に、ひとをほんとうに鼓舞するものはなんなのか、そういうことを考えるべきなのだと思っている。

2017-10-09

裏切られるもの、裏切るもの

本日新宿で行われたらしきイベント「Bottom up democracy」の記事を読んだ。元SEALDsの奥田愛基氏のスピーチのうち「頑張っても結果が出なかったり裏切られたりしてつらい、」ということばが印象に残った。もちろん裏切りとは民進党、具体的にいえば前原代表の決定した希望の党への合流であり当初民進党内部で(後に離党した枝野を含め)だれひとりとしてそれに反対しなかった、ということを意味しているのだろう。

最近、とある米国の科学者のインタビューを読んでいて、日本人というのはとても保守的だから、受賞歴などの肩書きがあるかないかで(読者、視聴者)の反応が大きく異なる、ということをいっていて、あらためてその通りだなと思ったことを記憶している。原文ではもちろん保守的は「conservative」なのだが、ここでは本来の意味に従い、「既存の政治や古くからある考え方を変えることを好まない」国民性、といいかえたほうがわかりやすいと思う。

日本人は、あたらしい考え方を好まない。そういう空気の中では、あたらしいことにチャレンジしたり、なにかをしようとしたりしているひとが失敗したり、ひどく裏切られたり、疲弊していたりしていてもその痛みは理解されない。というよりも、傷ついていること自体が、そもそも自業自得だとみなされるふしがある。そして基本的に冷たくあしらわれる。既存の枠組を壊そうとしているものとして、潜在的な敵対者としてみなされるからだ。

そうした冷たさ、居心地の悪さは、この社会のなかで「なにかをしようとしている」ひとびと、あるいは「なにかをしようとしてつぶされた」ひとびとの共通理解なのではないだろうか。そしてやっかいなのは、後者の「なにかをしようとしてつぶされた」ひとびとというのは、基本的に前者を応援などせず、より具体的にいえば足をひっぱり、自分がつぶされたように、相手もつぶそうとするのが普通だ。要するに、あたらしいことをしようとすれば、「あきらめた」身内(と思っていたひとびと)もまた敵になる、ということだーーそれも、もっとも残酷でやっかいな敵に。

さきほどのスピーチは、「つらい、けど」とその後につづく希望も語られていた。ひとは、生きてゆけば、だれでも裏切られ、だれでも失敗する。個人的な話をすれば身内と思っていた人間に背中から刺されることはいちばんきつく、なにもかもが嫌になり自死が誘惑となった時期があった。わたしが「けど……」の後につづくものを思い出したのはいま一緒に住んでいる家人のおかげだが、このブログの読者に対しても言いたいのは、「失敗」や「挫折」にも意味があることを常に思い出してほしい、ということだ。保守的な社会ではだれもがそれを馬鹿にするだろうが、そもそも失敗や挫折ができるのは、なにかに挑戦したものだけが得られる誇りであって、それをこの世のだれもあなたたちから奪うことはできないのだということ、それを常に思い出してほしい。

話は変わるが、SEALDsということばを見たときいちばん最初に想起したのは三島由紀夫のつくった「楯の会」だった。かえすがえすも、解散せずに候補者を自分たちの中から出して選挙に出るべきだったとは思う。それができなかったのはかれらが若くてひとを裏切る(あるいは平然と息をするように嘘をつく)側に回れなかったからだろう。それは理解できるが、残念ではある。

2017-10-08

なぜ書評を書くか、「いま・ここ」とはどこか

世の中は相変わらず騒がしいが、その騒がしさといっさい無縁の多くのひとびとと同じように、わたしも粛々と連休を過ごしている。粛々と、というのは、つまりいつもと同じことしかしていないということで、離乳食を一週間ぶんつくったり、来週の食材の買い出しをしたり、書評のための本をあたらしく仕入れたり、積んだままにしてあった本を読んだりとか、そういうじつに地味でつまらないことをしているうちに日曜日は過ぎていった。結局、人生には地味でつまらないことしかない、ということなのかもしれない。SNSでくりひろげられる「派手で、おもしろい人生」は、2017年、さすがに見飽きた感があり、このブログではごくふつうのことをふつうに書いてゆきたいと思う。

なぜ詩の書評をインターネットで書きはじめたか、ちょっと書いておく。今年度わたしは某誌で書評委員なるものをやっていて、その任期がそろそろ終わりなのだが、その職務の中で、現在販売されている詩集をまじめに読む機会がたくさんあった。そこでやはり衝撃だったのは、いい詩集を書いている著者に、ほとんど経済的利益が発生していないということで、素直な第一印象を思い出して書くならば、「そんなのはあまりにもアンフェアだ、こんな世の中は間違っている」というものだ。もちろん、その他多くの経済性のない表現様式と同じように、作者は覚悟を決めてやっているのでそれはそれで良いのだが、わたしがつよく思ったのは、この世には、2017年に生きる「いま・ここ」について書かれているおもしろい詩集がたくさんあるのに、それが一般社会にほとんど知られていないということ、そしてそれは端的にいえば「もったいない」ということだった。

と、いうわけで、わたしはおもしろい詩が読まれるための紹介の場を、有料でもなく、手に入れにくい紙媒体でもなく、携帯で(ほぼ)無償で読めるブログという形式にて、自分でつくることにした。
ないものは自分でつくる、Do-It-Yourself精神ということになる。

個人的な話をすれば、ゼロ年代、おもしろいブログを書いていたひとびとが、ほとんど対価を得ていなかったことをその時思い出したともいえる。今かれらのほとんどは皆書くのをそもそも辞めたか、たんに失望してネット社会から姿を消していった。だが、かれらのおもしろさを、だれかが形にする努力をすべきだったのではなかったか。かれらがこの社会のためにインターネット上に書き残した大小様々なエントリは、価値があるものだったのに、それをだれも拾い上げたり、評価したりせず、ただ黙殺したことが、かれらが姿を消してしまった理由なのではないか、そして「派手で、おもしろい」書き手しかインターネットに残らなかった原因なのではないか、ということを思う。わたしはかつての自分がすべきだったことをさまざまな読まれない詩集を読んで気がついた、といってもよいのかもしれない。

もちろん、詩の書評ブログといっても、経済力の弱い個人がやっている企画に過ぎないので、試みにはうまくいくものもあれば、うまくいかないものもたくさんあるし、このブログもまた近いうちに終わってしまうのかもしれない。わたしは守れない約束はそもそもしない主義だ。なのでわたしは自分の目的をシンプルに保ちたい。おもしろいものをおもしろいと書く、そしてなぜおもしろいか、なぜいま読む意味があるか書く。それを広く一般社会に向けて語ってゆく。ただそれだけのことを実現してゆきたいと思っている。

最後に、わたしがよく書く「2017年の「いま・ここ」」とはなにか、ということについて、簡単にまとめておきたい。

それは、


経済的衰退をはじめとする諸要素による閉塞的な希望を持ちにくい状況下において
抑圧のつよい日本社会の偽善性に対するカウンターとして生じる感情のはけ口およびこれを無制限に増幅する装置として機能するネットワーク上に生きるほかなく
雇用等の自由化がすすみ共同体が弱まり連帯を失った個人が帰属意識を失い、名前と貌を失い
無限に他者と繋がるネットワークで他者との繋がりは昔よりもさらに困難になり
あるいは繋がるために必要なことばが損ねられ、剥奪された時代


ということになる。


(2017年10月8日)

2017-10-07

週一育休

本日は定例の育休です。本も読みません。

2017-10-06

本ブログの運営方針について

このブログ「仮象の帝国」、英語表記 "Marginal Realm of Imaginary Empire"(以下、「ブログ」)に掲載されている詩、書評、その他エントリ(以下、「記事」)を読むにあたっては、以下のことにご留意ください。

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3.本ブログの記事のうちすべての書評は、対象となるそれぞれの作品作者の直接的または間接的利益のために書かれるものではありません。いずれの書評の内容に関しても、それが作者当人であれその代理人からのものであれ、修正、削除、加筆などの要請に応えることはできません。ただし明確な事実関係の間違いにかかわるものは除きます。

4.本ブログの記事の一部を他インターネットサービス(例:TumblrまたはTwitter)または他何らかのデジタル媒体に転載することは、常識の範囲内において、任意の形式にて自由に行ってもらってかまいません。ただし出典の明記のない引用は剽窃・盗用とみなし、しかるべき対応をとる可能性があります。一部を越えた分量の転載は許諾しません(かかる線引きは常識の範囲内において筆者が単独の裁量で判断するものです)。

5.本ブログの記事の一部を書籍、雑誌、詩誌、その他紙媒体に転載することは、常識の範囲内において、掲載先が規定するそれぞれの形式にて、自由に行ってもらってかまいません。実施する場合は事後報告でかまいませんのでご連絡ください。

上記すべてに関するお問い合わせはメールにて受け付けます。
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なお本記事は運営方針の変更に伴い随時修正されます。

更新履歴
1.0版 2017年10月1日

2017-10-05

麻生有里『ちょうどいい猫』

あのひととわたしは分断されている。あのひとに届くのことないことばがいまここにちらばっている。自分のなかにいるあのひととすら分断されている。インターネットの男女は分断されている。趣味嗜好で分断されている。社会に分断されている。イデオロギーで分断されている。蓄積されたにくしみで分断されている。支持政党で分断されている。マニピュレーターたちの上手な嘘で分断されている。この世のだれもがもとめる<つながり>は手に入るだろうか。それを得ることがだれにできるだろうか。わたしたちが得られるもの、それは換金可能なものだけである。わたしたちは、換金され得ないもの、はてしなく分散される<わたし>を夢みる。それが不可能であっても、求める。

流行り廃っていく天気を
蹴破って助け出してあげよう
きみだけが
同じ色で見上げている
アイドルの乱れない前髪と
欲しがらない望みとの合間で
ほんとうのことが
走れなくなっている
「くわだて」

ギリシャ神話によれば、ひとはそもそも四本の手、四本の足、ふたつの貌をもってうまれてきた。ある日切り裂かれたひとは、いつもうしなわれた半身をさがしているという。失われた半身は、ほんとうの速度で遠ざかる。だがそれには追いつくことはできない。追いつけないだけではなく、もといた場所に戻ることもできない。記憶はうしなわれ、そこねられ、風にゆれてどこまでも転がってゆく。風がふきすさぶ道を、猫がよぎってゆく。猫はうしなわれたものへ接続される道をよぎる鍵。それはなにかを指し示すが、なにを示しているかは語られない。語れば、物語は終わる。あるいは麻生の詩は終わる。

きみのところでも
そろそろ風向きが見えるのだろうか
裏返って一周回ったところで
ぼくに経っている時間が
交わるだろうか(きみに似た何かと)
草がさわさわしているのが
寂しいのだと誰かがつぶやく
街と街の合間に
たくさんの背中が丸まっていて
それはもう回帰願望だね
なんて知ったかぶる友人の名前を
ぼくはもう覚えていない
「野良」

まじわるのことのないなにかが注意深く語られる。まじわることを常に拒否するこころの動きがある。まじわることは不可能を可能と嘘を書くことでしかない。わたしたちが過去を回想するとき、その過去はよって常に改竄されている。過去はわたしたちが思ったとおりにねじまげられ、都合よく書き換えられている。丸まっている背中はまっすぐな背中(または威風堂々たる背中)になり、「きみに似た何か」がいつのまにか創出され、記憶の隣に立っている。それらはすべて偽物であり、まがいものであり、偽物を偽物とみとめたくない自分のこころが生みだした夢のあぶくだ。インターネットに大量に流出するあのひとの動画を想起しよう。女たちはいつでも微笑んでいる。だがそれはすでに滅んでいて、だがそれはすでに拒否されたものでしかない。

ざっくり刃を入れれば
半分ずつ それともふたつ
それ壊れているだけだよ
ぽんと叩けば直るのではないかしら
時代遅れのシールを
台紙にまとめて貼って重ねた
これでください
ふたつはもちろんだけど
猫にもくださいね
ほんとうは
これらの入った袋を叩くと
どうなるのか知らない
卵ぐらいは潰れるかもしれないけど
「レジ袋いりません」

ひとつあるものをふたつに分かつ。だがわかたれた半身は「それともふたつ」と読み解かれる。半分ではない、最初からふたつあったのだ、と現実が読み替えられる。ひとりの中に複数のひとりが隠されているともいえる。その境界線を自由に行き来する文体と意味の歪みによってほんらいかたられるべきだったものが隠される。麻生の詩を読むことはインターネットを毎秒流星のようにながれてゆくつぶやきの中になにかを見つけようとする行為にも似て、見いだそうと目を凝らした瞬間にこわれてしまうものがそこにある。その隙間にぽんと置かれたそぶりで猫のようななにかが棲んでいる。切断されたもの、分断されたもの、こわれたもの、打ち捨てられたもの、それらをいっさい縫合することなくまとめてしまい込むことができる裏返った想像力による袋、それを詩とよんでみたい誘惑にかられる。

今日は天気がよいのです
空には車が飛んでいて
あれは車ではないでしょうと
だけどちゃんと車輪がついていますもの
かあさま ほかの人には
あなたは人の姿に見えるようです
だけどちゃんと
尻尾がしまってありますもの
かあさま ぶよぶよした球体を
わたしが拾ってきた時のことは
忘れることができません
かあさま あの時の叱責は
雷などではなく
もっとぶよぶよした
かあさまの車輪の音だったのです
欲しいものを数えるより
捨てたいものを叫びたかった
それが叶わないなら
かあさま あなたの車輪を回して
空に飛ばしたかった
もうひとつだけ
伝えたいことがあったのに
残念でした とても
「車輪の空」

ことばをいくらつくしてもあのひとに届くことばはない、ということ。2017年のインターネットがつくる社会のなかに住んでいるわたしたちにとって自明のことは、コミュニケーションが不可能ということ、伝えることはできないということ、あのひとを理解することはできないということ、分断を避ける方法はないということ、疎外される自らを救うことはできないということ、池に落ちた自分の髪の毛を引っ張って水上に引き上げることはできないということだ。わたしたちは「かあさま」を救うことはできない。わたしたちは叱責された自らを救うことはできない。わたしたちは車輪を飛ばすことができなかった自らをゆるすことはできない。だが、読み替えることは可能である。だが、半分に切り取られたわたしが、じつは半分ではなかったのだと気付くことはなお可能である。

埋めることのできない欠落に、想像力であらがう。
麻生の詩はそういうことをわたしに語りかける。

(2017年10月5日)

2017-10-04

無題(承前7)

飲み過ぎて書けなくなった。

2017-10-03

カレーをつくる

もう五年も前のことだが、自宅で倒れてその後救急車で運ばれたことがあった。その時のことはこのブログでも記事にしたが、憶えているのはその夜カレーをつくって食べていたことで、わたしは自分が調理したカレーを家族と食べて、ソファに座って休んでいて、そこで眩暈を起こしてそのまま倒れたのだった。食事は美味かったが全部吐いてしまった。それ以来、カレーというものが苦手なのである。

2017-10-02

宮尾節子『明日戦争がはじまる』(宮尾節子アンソロジー、集英社)

あのひとのことが好きだった、と嘘をいっている。いや、嘘ではない。嘘ではないがいつのまにか嘘になっている。事後的に見いだされる「好き」という気持ちは、別れを経てはじめて見いだされる。「あなたとはもうやっていけない」と女にいわれた時、はじめて「好き」という気持ちが発見され、創出される。ひとは思っていることとやっていることを同じにはできない。ひとは書いていることとやっていることを同じにはできない。

まいにち
満員電車に乗って
人を人とも
思わなくなった
インターネットの
掲示板のカキコミで
心を心とも
思わなくなった
虐待死や
自殺のひんぱつに
命を命と
思わなくなった
「明日戦争がはじまる」

インターネットにはひとを傷つけることばで満ちあふれている。いや、こういいかえよう。ひとを傷つける無理解であふれている。だれもが理解をもとめているがだれも理解をえられない。だれもが理解がえられると誤解しているがだれも理解をえられない。だれもが理解を「いいね!」やリツイート数に比例してえられると誤解しているがだれも理解をえられない。だれもがベストセラー作家はよく読まれていると誤解しているがだれもよく読んではいない。よく読むとはなにか。そもそも理解とはなにか。

わたしは
かかなかった
戦争詩を。
わたしは
しなかった
苛めを。
(……)
わたしは
とめなかった。
「とめなかった」

詩連の改行に現れる空隙を埋めようとする読者であるわたしはよごれている。それは子供に「このばか」と叫ぶ紅潮した頬であり、妻に「そんなこともできないのか」と叱責する父親ぶった声であり、障害者が駅で困っているところを見てみぬふりして通り過ぎるクリーニング済のスーツの香りだ。ひとは「しなかったこと」と「してしまったこと」の間の絶望的な乖離の中にいきている。ひとは「してしまったこと」をなぜしてしまったのかと考える永続的な問いの中にいきている。答を得ることはできない。答はけして見つからない。「とめなかった」自分だけが事後的に見いだされる。

みんな
てのひらになにかのってた
ひびのはんどる
あかんぼう
はくぼく
つちのふくろ
くすりばこ
じゅんばんひょう
(……)
みんな
てのひらになにか
のせてた
みんなでない
からっぽの
てのひらがなにか
いのった
みんなのために
「てのひら」

だが祈りはとどくだろうか。事後的に見いだされたものだけが価値あるものであり、ひとはいま手のひらに乗っているものをあたりまえのものとしか思わないのではないか。ひとはいま手のひらに持っているものをあたりまえにあるものとしか思わないのではないか。その遅れ、不可避的な遅れについて宮尾が知らぬはずがなく、一見成立したかのように見えうる祈りもまた「のってた」から「からっぽ」への推移によってうしなわれることが示唆される。インターネットでわたしたちはいつでも誰とでもつながっている。だがそこには実のところつながりが剥奪された空虚しかない、そういうことを思い起こさせる。


言ってくれたらと
思うことが、何度もあった 
言ってくれたら、そうしたのに
言ってくれたら、そばにいたのに
言ってくれたら、それを買ったのに
言ってくれたら、そこに行ったのに
言ってくれたら、それが分かったのに
「惜別」

ことばは常に遅れて届く。わたしたちの理解もまたかならず遅れて届く。この世に遅延せずにとどくものはなく、わたしたちの祈りはつねに遅れ、今日もインターネットが傷を無限に再生産し、拡散しつづける。あのひとがいなくなった場において、あのひとがかえってこない場において、われわれはあのひとへメッセージを送り続ける。読むことは、その遅れについて知ること。そして書くとは、理解されることのないことばをとりもどせぬ過去へと送ろうとすることだ。宮尾の詩は不可避の遅延について書く。その矛盾と真正面から向き合った時、ことばは壊れる。それが「戦争」だとわたしは理解している。

(2017年10月2日)

2017-10-01

プライベート・ストーリーズ

明日は早朝から定例健康診断であることをすっかり忘れていて、その準備に追われている。疲労がたまっているが、下の世代もがんばっているようだし、おもしろいものを書いておかねばならない、と思い、こうしたひとびととは永遠に交わらないものを書かねばならない、と思い直す。書く上では「仲間」や「友達」は要らないーーただし飲む相手は必要だ。酒がなければ精神的疲労を回復する方法がなくなってしまう。

2017-09-30

週一育休

皆様もよい週末をお過ごしください。

2017-09-29

葉山美玖『スパイラル』(モノクローム・プロジェクト/らんか社)

店の女たちは名をいつわる。ほんとうの名前は男に教えるべきものではない。大切に隠されたもの、それを一晩数万円程度の相手に売却はしない。いつわりはつねに細心の注意をはらってつくられるものであり、それをほんものと区別することは、つくった本人にもできない。「マクベス」の魔女を思い出すまでもなく、いつわりはほんものであり、ほんものはいつわりである。その矛盾、それを希望とよんでみたい気がする。

わたしはことばを信用しない
一万円札なんまいかを信用する
あんたが一万円札なんまいかを
いつでも投げ出したいひとがあんたの希望だ
「あまえない」

ひとは、生々しい現実の手応えを人生におけるさまざまな出来事によって掴んでゆく。わたしの個人的な思い出を語るならば、それは「日本語もろくにできないくせに」と学校でいわれて帰宅する路上に延びる影であり、「あなたが好きなのは自分だけ」と女が出ていった後ホテルの部屋で煙草を吸う夜であり、「子供を捨てたくせにえらそうなことをいうな」と親戚に説教される午後三時の喫茶店でもある。現実、はさまざまな形を取る。現実、の手応えはどのようなものか。葉山はそれを「自分の足で歩く」と表現している。

父とまたしても喧嘩して
しばらく会わないことにして
靴の裏をぺたんぺたんと
地面にくっつけて歩いていると
私はようやく自分の足で歩くことができた
「ミント色の靴」

現実はさまざまな出来事の断片の総体として立ち現れる。読み進めながら、わたしは夏の朝が自分のもっとも好きな時間であるということを思い出す。きらきらと輝く光が東の空から街を覆い尽くすその瞬間をきらいな人間がいるだろうかということを思う。遠くにかすむ夏のある朝のことを、他人の記憶を通してあざやかに思い出してしまう。あるいは取り戻してしまう。詩にはそういう力があり、そこに不可能な繋がりを取り戻す可能性があるということを思う。もちろん、それは嘘だが、その嘘は好ましい。

あなたの精液を根こそぎ絞り取った朝
井の頭公園の夏というより春めいた街灯を歩き
各停の始発はゆっくりとよろめき
セーラー服の少女の出立姿を見つめている学生服の少年の
視線にきらめくような陽光が浮かび上がり
そうあれはわたしでした
「朝の街灯」

だが現実はそのほとんどの局面において残酷なものだ。生まれなかった子供、障害を持った子供、こわれてしまった婚姻関係、破綻してしまった事業等、ひとの命をぎりぎりまで追いつめる出来事に事欠かないわたしたちの困難な人生において、殺意はもっとも親しい隣人というほかない。一度生じた殺意はまるで当然のような貌をしてこころの中に居座る。居座ってたまに叫び声をあげる。追いだそうとしても殺意は出ていくことはない。いつでもそこにいて刃を磨いでいる。それは自分のこころにも向けられている。

私は殺す
五才の時の朝焼けを殺害する
十七才の時のうろこ雲を殺害する
三十二才の時の俄か雨を殺害する
(/)
人を殴りつけていると
私はどんどん空の電線に縛り付けられて行くようだ
「私の咎」

葉山は詩「IN/OUT」で、詩で他人を傷つけてはいけない、と言われたと書く。だが他人を傷つけない行為があるだろうか。他人を傷つけないことばがあるだろうか。わたしたちは知っている。この世のいかなる行為も、いかなる感情も、いかなる事象も、だれかの開かれた傷の中からしか生じないのだということを。2017年に生きるわたしたちは知っている。この世のいかなるものも、はてしなくひとを傷つける<インターネット>を経由することなしには、いっさい手に入れることができないのだと。

昨日、先生に言われたこと。
「詩で他人を傷つけてはいけない」
シデヒトヲキズツケテハイケナイ
シデヒトヲキズツケテハイケナイ
その言葉は私を何だか不意に打ちのめした
(/)
イン・アウト
イン・アウト
呼吸をしているうちに、
私は今、世界と生まれて初めて繋がり始めた
「IN/OUT」

葉山の傷こそが世界へとつながる道だという理解に不意に打ちのめされる。そのぎりぎりの理解と、それがもたらす眩暈をわたしは共有する。あるいは、裂け目からしか見ることができないこの世界のほんとうの風景を共有する。

<インターネット>には傷があふれている。<いま・ここ>は傷からながれる血であふれている。それは詩の読者だけではなくありとあらゆるひとをとじこめる電磁的牢獄であり、そこから逃れる道は、INとOUTと標識が貼り付けられた裂け目にしかない。

不可能な解がそこに転がっている。ひとを傷つけてはならない。だが……の後につづく不可聴のことば、それが希望なのかもしれない。それを他人に与えてもらうことはできない。

(2017年9月29日)

2017-09-28

人間性の最後の砦

雨が降っていて、雨が降っていて、雨が降っている。

プライバシー、ということを考えた時、本棚というものが頭に浮かぶ。自分の本棚にはひとに見られたくない本、より具体的にいえば子供に読ませたくない本がかなりの数ある。ある世代にとってはそれはゲームのパッケージであったり、同人誌であったり、その他もろもろの趣味のものであったりするだろう。これらをだれにも見せたくないと考えた時、そしてプライバシーがある空間に住んでいない場合、そもそも本棚をなくしてしまおう、というのは自然なことだ。より具体的にいうならばデジタル化したものをはじめから買えばよいのであって、スマートフォンの中に格納されているデータは本人以外には原則まず漏れることはなく、さらにいえばそれを閲覧するのに広い場所も必要とせず、たとえばベッドの中にこもって読むことができる。さらに具体的に想像力を働かせるならば、恋人が寝ているその隣で、こっそり読むことすらできる。

プライバシーを守っているもの、あるいは、秘密、という、人間性の最後の砦を守っているもの、それが衰退する貧しい時代における携帯端末である、ということを誰も書いていないようなのでわたしが書いておく。

秘密がなければひとは生きられない。なにもかもオープンに語るのは地獄であって、その場においてはこころは焼き尽くされてしまう。ひとのこころを滅ぼすものが、ひとのこころを守っているという矛盾がある。だがどうしようもない。

雨が降っていて、雨が降っていて、雨が降り続いている。

(2017年9月28日)

2017-09-27

馬鹿で阿呆な元民主党のみなさんへ

元民主党には希望がありませんか
元民主党にはやる気がありませんか
元民主党には人気がありませんか
元民主党には元気がありませんか

元民主党には節度がありませんか
元民主党には政策がありませんか
元民主党には戦略がありませんか
元民主党には責任がありませんか

元民主党には意気込みがありませんか
元民主党には気骨がありませんか
元民主党には経験がありませんか
元民主党には知的資産がありませんか

元民主党には理念がありませんか
元民主党には能力がありませんか
元民主党には運がありませんか
元民主党には自民党にあるものがありませんか

元民主党はいつまで倒れていますか
元民主党はいつまでひとのせいにしていますか
元民主党はいつまで負け犬ですか
元民主党はいつまでなにもしないのですか

元民主党はいつまで寝ていますか
元民主党はいつまで知らないままですか
元民主党はいつまで自虐していますか
元民主党はいつまで不倫をしていますか

元民主党はいつまで眠っていますか
元民主党はいつまでさぼっていますか
元民主党はいつまでずるをしていますか
元民主党はいつまで遊んでいますか

元民主党はいつまで黙っていますか
元民主党はいつまで自己嫌悪をしていますか
元民主党は原発事故が自分のせいだと思っていますか
元民主党は自民党とどこが違いますか

元民主党はたちあがりますか(たちがれています)
元民主党はたちあがりますか(たおれています)
元民主党はおきあがりますか(はずかしくてわらっています)
元民主党はたたかいますか(あきらめています)

元民主党は声をあげますか(ばかにされています)
元民主党はやる気をみせますか(さぼっています)
元民主党はすねていますか(うつてがありません)
元民主党はなげだしていますか(気がかわっています)

元民主党は前をむいていますか(部屋のすみでねています)
元民主党は挑戦していますか(なにもしていません)
元民主党は復活しますか(しんだふりをしています)
元民主党は矜持をとりもどしますか(意味がわかりません)

元民主党はまなんでいますか(うまい嘘もつけません)
元民主党は理解していますか(自民党の真似もできません)
元民主党は知っていますか(真似がわかりません)
元民主党はわかっていますか(真似さえもできません)

公正さはどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
正義はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
平等はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
フェアネスはどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)

情報公開はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
男女同権はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
社会の多様性はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
労働者の権利はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)

コンクリートから人へはどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
脱原発はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
アジアの友愛はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
基地の沖縄県外移設はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)

分断のない国はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
助け合う国はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
日本人の小さな誇りはどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)
義憤はどこへゆきましたか(自民党がもっていますか)

… … …

元民主党は消滅していて
元民主党はきえてなくなっていて
元民主党はこの世からさよならしていて
元民主党は世界から必要とされていなくて

元民主党は日本から必要とされていなくて
元民主党は少しずつきえていたのですが
元民主党は少しずつなくなっていたのですが
元民主党はほんとうになくなっていて

元民主党はほんとうにいらなくなっていて
元民主党はほんとうにきえてなくなっていて
元民主党になにかを信じたひとたちもいなくなって
元民主党になにかをたくしたひとたちもいなくなって

元民主党になにかをねがったひとたちもいなくなって
元民主党のあった場所にはなにものこらなくなって
元民主党のあった場所にはただつめたい風だけが吹いていて
元民主党のあった場所にはただこわれた夢と希望だけがゆれている

(2017年9月27日)

2017-09-26

無題(承前6)

通常業務。それから育児。他に書くことはない。

2017-09-25

奥主榮 『白くてやわらかいもの.をつくる工場』(モノクローム・プロジェクト/らんか社)

わたしたちの<こころ>はだれがつくっているのか。わたしたちの気持ちはだれがつくっているのか。それはわたしたちを取り巻く環境がつくっている。わたしたちをとりまく<インターネット>がつくっている。2017年、インターネットはすでに社会でありこういいかえることもできる、外部装置にすぎないインターネットがこころをわたしたちから強奪したのだと。

何か憂鬱で 何かも行き止まりの時代
そこからどこへ抜けだせば 光が見えるのか
確信がないまま 毎日がすぎていく
(/)
憂鬱さが 僕らを支えている
今この瞬間を耐えることができれば
その向こうに何かがあるのではないかと
無力なものは 無力なまま
価値のあるものとして扱われたい
そんなことを夢見ることに
付け入られ 大切な生命を使い捨てられ
「行き止まりの時代から」

まったく知らないはずの書き手の人生が、自分の人生のある一日と重なる。それは裁判所で弁護士の笑みの前に敗北した日であり、「あなたがわたしをこんな人間にした」と元妻になじられる日であり、「あなたのことなんてまったく好きじゃなかった」と恋人にいわれる日であり、「おまえなんて親のふりをしているだけ」と親戚にいわれる日でもあり、そのそれぞれは他人にとってはどうでもよいものに違いないが、自分にとってだけは重要なかくされた出来事のことを想起させる。いいかえると「この本は、自分のために書かれたのではないか」と誤解してしまう。もちろん誤解にすぎないが、そう思ってしまう。同じ2017年に生きるものとしての生々しい共通するリアリティがそこにはある。

街に悪意が満ち溢れ
夥しい情報の群れがただ
嫌悪や 他者の排除へと向けられていく
一度でもしくじった人間は
どこまでもなじられ嘲笑され
一人が陥れられれば誰もが
足並みをそろえて非難しなければ不安になる
そんな時代になれきった僕たちに
おいわいを 言おう
「おいわい」

街にあふれる悪意、は、もちろんネットワーク上に流通する悪意のことだが、よくよく考えてみると、われわれは実在する社会において悪意をあまり目撃しない。街にゆけばみな笑顔で、礼儀正しく、お互いにマナーを守って生きている。一方、インターネット上のSNSに眼をやれば、そこは文字通り、ひとが毎日、毎秒、石を投げつけあう地獄というほかない場になっているのはみなさんもご存知の通りだ。そしてその「石を投げ合う様子」をまとめてさらしあげ、それから広告費を得る業者たちが毎日、毎秒、ひとの悪意を増幅している。それは、ひとのこころを傷つける。それは、ひとの価値を傷つける。だがそれは眼に見える形ではない。傷はいつでも眼に見えない。それがいちばんの問題なのだ。そうして傷ついたひとびとは忘れられてさらに傷ついてゆく。

灯火が街にともっていき
家路を急ぐ人々の吐息が重な合う刻限に
問いかける言葉は全て空々しく
振り返る風景はただ虚しく
華やいだ時代に もう戻れないことは
厭というほど思い知らされて
「長く辛い時代を歩かなければならないから」
つらい時代とは、行き止まりの時代であり、停滞の時代であり、過去がなつかしく見える時代であり、老人が自殺する社会であり、同質性が称揚され排外主義が強化される時代であり、障害者が殺される社会であり、おそろしいことに、そのすべてが2017年にあてはまる。どうしたらよいのか。奥主の詩はそれにいかなる答もあたえない。そもそも希望などないことがくりかえし語られる。そこに著者のつよい誠実さと現実に対する確かな手応えを感じる一方、次のような詩にこころを打たれる。
男の子と女の子が 砂浜に座り
ただ無心に砂をかいている
遠い水平線から広がる空には
ぽっかりと雲が浮かび
午後の日差しを浴びている
(/)
時折触れる お互いの指先に
胸が騒ぐのが何故か理解できないまま
二人はただ 自分たちの空白を
埋めようとしている
寄せてくる潮の音も聞くまいと
(/)
水底は二人からは遠いところにある
あらゆる地獄が世界を覆おうと
二人の世界はそれと無縁だ
すべての悲惨を自分に仕えるしもべのように
二人はあしらう
それは子どもであることの特権

そしていつしか
浜辺にはいのちが満ち溢れている
「砂山」

ひとりの個人として感想を言うならば、この詩「砂山」の最後の連、「いのちが満ち溢れる」浜辺、は嘘だと思う。そんなものは存在しないと思う。この世は地獄でしかなく、浜辺はよごれていると思う。作者は誰よりもそれがわかっていると思う。
だが、わたしはこの詩が好きだ。だが、わたしはその嘘が好きだ、といえる。

(2017年9月25日)

2017-09-24

海東セラ「屋根雪」(『Rurikarakusa』 6号所収)

詩誌「Rurikarakusa」を頂いた。詩人三名(花潜幸、草野理恵子、青木由弥子)による合同誌だが、今回はゲストとして「屋根雪」という詩が収められていた。屋根に雪が積もる環境に住んだ経験はないが、家屋のすぐ外にさまざまな感情が堆積し雪と混ざりあって氷となり、それぞれの凍り付いた声が窓からひそかに入り込んでくる風景はきわめてグロテスクで、2017年の社会を想像力で捉えた姿としても読める。

「あの時覗いていたじゃないか」「耳を動かす手品はおじさんの方がうまいよ」「袋だけで跡形もないなんてねえ」「鼠を殺した犯人は別にいるさ」——。いびつな氷塊たちの声の質はさまざま。その時々の家族の感情、家の汚辱などを、屋根や窓越しに吸いとっていたのかもしれませんが、どれも心あたりがあるようでない言葉です。 
「屋根雪」 海東セラ

家屋の窓は外の異界と家の中の現実をつないでいる。わたしたちが日常的に使っている携帯電話にも小さな窓がついている。窓は現実と「あちら側」の存在しない現実をつないでいる。その経路から様々な負の感情が声としてあふれ出てくる。「家」の中にいれば安全かといえばそうではない。なぜなら、安全な家を守るために家から廃棄され、追い出され、埋葬されずに放置されたものたちが外にはあつまり、凝固し、家の住民を脅かしている。自らが産みだした悪意の集積場たる現実から安全な場所などない。

2017-09-23

週一育休

題名のための本日の更新はお休みとなります。

2017-09-22

無題(承前5)

風が少し冷たい。影もすこし柔らかくなり、枯れた葉がこすれる音がさらさらと頭上から聞こえる。世の中は大きく動いているが、自分の周りについていえばいつもと何も変わっていない。自分以外のものだけが変化してゆき、どこかに取り残されている。そういう感覚がどこかにあるが、おそらくそれを多くのひとが共有しているだろうということは肌感覚で理解できる。これを克服するために「怒り」を用いるひとびとがいる。わたしはそれを批判する気にはなれないが、真似をしたり推奨したりすることはできそうにない。なぜなら、怒りは、それを向けるべきではない弱いものを、踏みつぶして、殺してしまうからだ。怒りは、敵ではなく、自分の身近にいる人間を、まず最初に傷つけてしまうからだ。

2017-09-21

無題(承前4)

机に向かっている。それ以外にすることはない。

2017-09-20

無題(承前3)

秋が深まる。知己がアップロードしていた彼岸花の写真を見た。もうそんな季節なのだ。うちの近所にも咲いているはずだがまだ見る機会がない。毎日机などに向かっているからだろう。少し外に足を運ばねばならない。

2017-09-19

無題(承前2)

激しい頭痛に襲われている。三連休があけて天気は晴れ、少し暑さが戻ってきた。一日ずっと机に向かっていた以外に、とくに何も書くことはない。

2017-09-18

台風のすぎた島々

台風が去っていった。空はおそろしく青く、雲は吹き飛ばされた。

2017-09-17

深夜の離乳食

子供を寝かせて、深夜にひとりで離乳食をつくっている。かぼちゃの皮を分厚くそぎ落としたものを角切りにし、たっぷりのお湯で茹でる。ゆで汁を別にしておき、消毒したざるで裏ごしする。裏ごししたものを清潔なスプーンで密閉できる小分け容器に移す。移したものを少し冷ましてから冷凍庫へ保管する、といった工程。なにも考えない。ただ手を動かす。この世のすべてのものがそうであるべきではないか。だが、思い出すことは止められない。思い出したくないことを思い出すことは、この世のだれにも止められない。

2017-09-16

週一育休

皆様もよい三連休をお過ごしください。

2017-09-15

悪意のバーゲンセール

風邪を引いた。

2017-09-14

無題(承前)

ようやく木曜日が終わり、今週の激務も終わりに近づいている。今週は重い案件が立て続けに入り、それ以外にも年末にかけての大型企画の準備はずっと続けなければならない。なにかを削りたいが、なにも削れない。だがすべて自分で選んだことなので自分で続ける他はなく、黙って机に向かっている。

2017-09-13

無題

しずかに机に向かっている。とくに書くことはない。

2017-09-12

小さな世界

ふと気がつくと、多くのひとがプライベートモードでSNSをやっている。確認してみたら身の回りの1/4ほどがプライベートモードになっていた。怖いのだろうと思う。以前書いた通り、そしてその状況は2017年になってもまったく変わっていないが、インターネットで取りうるもっとも安全で賢い方法とは公の場でいっさいかたることなく、意見を言うこともなく、口をつぐんで過ごすことである。ただし、書くことを生業としている者には責任がある。だがもちろんブログやSNSで発信する以外にも責任を取る方法はいくらでもあり、わたしはブログが好きだからブログで書いているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。さて、今日は朝からこの時間まで仕事を続けて疲れたのでこれぐらいにして、腹立たしいほど小さな世界よ、また、明日。

2017-09-11

プールの思い出

ツイッターでプールについての書き込みを見かけた。昔カリフォルニアに出張した時、スーパーに自宅プール用の塩素がふつうに売っていた時には日本人として驚いたが、一方、熱帯では比較的プールは一般的だ。というのもとにかく暑いので、一軒家の庭でも、それからマンションの共有部分でも、プールを設置することは珍しくない。泳げなくなる季節の冬もないのでメンテナンスも楽で、365日使える。わたしが子供時代に住んでいたマンションにも共有プールがあり、他にひとがいない時も多く、ほとんど貸切状態で自由に使わせてもらっていた。原則プールはほとんど野外なので、夜に行って水に浮かんでいると夜空に閉じ込められたように感じられる。いま考えると監視員すらいないプールなど日本では考えられないが、誰もいないプールで泳ぐのは楽しく、その時のことをたまに思い出している。

2017-09-10

とくに書くことのない日記

「この世界」をあらわす適切なことばをさがしている。だが見つからない。いや、けして見つけられない。

2017-09-09

週一育休

週に一度はお休みさせていただいています。

※Tumblrの後継企画、『千日詩報』もよろしく。→こちら

2017-09-08

ゴミはゴミ箱へ

「ゴミはゴミ箱へ」と手書きで書かれた箱をみている。ゴミ、は、ゴミ箱にゆかねばならない。ゴミ、は、ゴミ箱に投げこまれなければならない。ゴミ、は、ゴミ以外のものになることはできない。ゴミ、は、ゴミになるべくしてうまれている。ゴミ、は、ゴミとして生きるほかない。なぜならーー。

2017-09-07

遅れてくるもの

理解はかならず遅れてやってくる。失うことによってしか、失ったものの輪郭を見ることができないからだ。つまりこう言い換えることができる。失うことが、知ることだ。

2017-09-06

雨の新宿

本日は新宿にて打ち合わせ。まだブログに書くことはできないが固まり次第報告できるかと思う。街は相変わらずごみごみしていて、故郷に帰ったような気持ちになる。どこにも帰るところがない人間にとって、他人だらけの都会ほど居心地がいい場所はない。

2017-09-05

原田もも代詩集『御馳走一皿』、とりもどすための道しるべ

インターネット、いや、SNSには個人の物語にみちあふれている。つらい物語、かなしい物語、さみしい物語。そのいずれもがわたしたちの人生とは無関係であり、わたしたちの生活とは無縁なものであるにもかかわらず、わたしたちはそれを知りたいと思ってしまう。なぜそうなのか。なぜ無関係の他人の人生をわたしたちは必要としてしまうのか。

痛っ!
指ぬきをしているのに
指ぬきを通して針が刺さった
穴があくほどやわらかくなった皮
母が使った指ぬきだった
「指ぬき」
ひとには作品をえらぶ権利がある。だが作品はひとをえらぶことはない。作品はひとを主義主張によって分断しない。だれもがひとしく大切な思い出をもっている。大切な家族または大切なひとの思い出をもっている。それをうばわれないよう大事にもっている。ひそかに隠しているものを喚起するもの、それを詩または作家性とよびたい。作品は分断そのものがつくられるいちばんはじめの出来事へさかのぼる手助けをする。どこかのだれかの人生が、自分が思いださねばならぬものをとりもどすための道しるべとなる。

流れのゆるい浅いところ
母と妹のほかに人影はない
祖母たちに黙って出てきたのだろう
知らない風景の中にぽつんと座っている母が
切り取られ 浮き上がる 
「古い鏡台」

だが、わたしたちの思い出は遠く、とりもどせるものは少ない。鏡を見たときそこに両親の面影を見、年老いておとろえてゆく肌を見て亡くなった祖父母たちを思う。つたえるべきだったこと、つたえるべきと知っていたのにつたえられなかったことがよみがえる。それを誰かに理解してもらうことはできない。それを誰かに知ってもらうことはできない。SNSが可能にしたかのように思われる「共感」や「わかる」やそのツールとしての「いいね」ではできない。こころの底に沈んでいるものを引き上げるためには、どこかのだれかの人生の風景の裂け目をその触媒としなければならない。
ぶら下がった豚の身体を
切り取り 計り 買ってきた
ロース 肩肉 あばら肉
あばらには骨が並んで付いていた
無くしたなにかを抱くかたちで
「御馳走一皿」

だが得るためにはころさねばならない。だが知るためにはあやめねばならない。当り前のことをわたしたちはしばしば忘れる。見てみぬふりをしなければ、生きることはあまりにつらく、見てみぬふりをしなければ、2017年のSNSに立ち現れる現実はあまりにつらい。そこにぶらさがる死体にもかつては内臓としての秘密があったと考えるとき、わたしたちはことばをうしなう。ことばをうしなったその空虚からあふれでるものがある。それをわたしたちは共有する。見もしらぬ誰かの人生についての作品によって、わたしたちはわたしたちをとりもどすための道をみつける。こころを無くしたまま、みつける。

(2017年9月5日)

2017-09-04

福士文浩「傷ではなかった」(『狼』31号)

ひとり取り残される寂しさが/くりかえし押し寄せては/深い傷となる
『狼』31号、「傷ではなかった」(福士文浩)

わたしたちはだれしもが傷をかかえている。あるいは、傷ときづくことができない裂け目をかかえている。 それを他人が知ることはできない。知ることができないという認識がひとから希望をうばい、「挫折そのものよりも挫折への恐れが/最も深く人を傷つける」

SNSの台頭は傷の共有を可能にしたかのようにみえるが、それは幻想だ。いいかえれば相互理解はさらに困難になり、愛し合うことはむずかしくなり、にくしみが増幅され、ねたみとそねみと嫉妬は輻湊し強化され、むしろ傷についてかたることはだれにもできなくなった。

傷が理解されない世界にいきることは一種の地獄であり、「いつ終わるとも知れない痛み/その中に囚われて」と表現するほかない場でもある。ネットによってつながっているはずのわたしたちは個別に分断され、隔離され、共同体はばらばらになって、その痛みをだれかと共有することはできない。

まずはできないことをできないといわねばならない。不可能なことをふかのうといわねばならない。傷はえいえんに理解されないのだということをいわねばならない。そのときはじめて傷をいやすための契機がうまれるのであり、だれのことも理解できないみずからの不能をもってみずからの傷をいやすこころみを始めることができる。

動き始めた時間の中で/わたしはわたしを解き放つ/あなたとわたしの間の地面に/捨てられて転がる魂/よく見ればそれは傷ではなかった

なかった、ということはできない。わたしたちにできるのは、それは傷ではなかった、と読み替えること、みずからの運命をみずからの手で読み替えることである。

(2017年9月4日)

2017-09-03

さまざまな事柄についてかたらない

あたりはすっかり秋で夕暮れ近くになると虫の声が外からきこえてくる。たまにどこかから脱走したのか鈴虫の声らしきものもきこえる。それは近寄ってよく聞くととても精緻な音色で、張りつめた弦をやさしくつまびくような音で胸に染みる。一方、わたしは夏が終わって季節の変わり目なので気持ちが沈んでいる。一年じゅう夏が続けばいいのにと思うが、芥川の小説「芋粥」で念願の芋粥をたくさん食べたが満足どころか空虚しか得られなかった役人のように、きっとその終わらない夏はつまらないものになってしまうのだろう(話は変わるが、小説を読み返してみたら、閉鎖的な職場でのいじめのほうに焦点が当たっているように感じられ、かつて読んだ時とはかなり印象が変わった)。

他、世の中で起きているさまざまなことについて、色々書きたいことはあったのだが、子供をベビーベッドに待たせているため、本日はこれで失礼する。

2017-09-02

週一育休

週に一度のお休みの時期です。

2017-09-01

いつものキッチン

冷えた空気が窓から忍び込んでくる。涼しいと思うだけではなく寒いと感じる。そのふたつには微妙だが決定的な違いがあり、どこかに感覚のしきい値があって、それを越えたときわたしたちは寒いと感じるようにできている。しきい値、スレッショルド、は、さまざまな場所に存在する。交際相手に対する苛立ちはしきい値を越えたときにくしみに変わる。その結果なにが起こるか、は2017年のインターネットのなかに閉じこめられたわたしたちにとって想像することはむずかしくはなく、男または女が自分のことを正当化した逸話を匿名で吐露してアテンションを集め不特定多数の第三者にゆるしをもとめる作法が一般化している。だが、ゆるしは得られるだろうか。あなたはゆるされるだろうか?

2017-08-31

だまし絵の現実

もうなにも書くことがない、と絶望したとき、もう死ぬしかない、と希望をうしなったとき、それまで見えなかった道がとつぜんあらわれることがある。

2017-08-30

よごれた海に雨はふる

現在がつらいと過去がなつかしくなる。
いつでも過去がよかったといっている。だがそれはほんとうだろうか。
《あのころ》はいまよりも楽しかっただろうか。
それが自分についている嘘だとしたら?

2017-08-29

日本語はわかりますか

すっかり秋めいた天気。早朝に某国からミサイルが発射されたらしいが、それについて声高にかたりたいというだれしもが体験する誘惑にさからって、黙々と机にむかって作業をしている。ひとは犯し、殺し、略奪する。だがどこかで略奪が起こっていても飯は食べねばならないし、家族を守らなければならない。インターネットに目を向けると、《この世界》に関与せよ、または《この社会》に関与せよ、と高圧的に主張する声たちにあふれている。むしろこのような世の中では、傍観せよ、ということ、身の程を知って手の届く範囲の小さなものに目を向けよ、ということが必要なのかもしれない。

日本語がわかりますか、と問われている。いや、わたしにはまったくわからない。わかると思ったことはなく、今後もわかることはけしてないだろうということだけはわかる、そう答えるほかないように思っている。

2017-08-28

まなびが増えるとかなしみも増える

ツクツクホーシが鳴いている。すっかり秋の雰囲気である。携帯版だけが対象だが、デザインを秋向けのものに変更。いつの間にか、というかわたしの認識が古かったのだが、読者の75%はすでに携帯端末からブログを閲覧するようになっている。というわけでこのブログもあたらしい器にしたがった文体をかくとくしなければならないということを思う。昔のものを懐かしむことをいっさいやめて、いま・ここに合わせたものを書いてゆこう。

2017-08-27

たのしい掃除

やさしいことばでかたらねばならない。
だがやさしいことばで複雑なことをかたれるだろうか。
にくしみがたやすくうらがえる現実についてかたることができるだろうか。

2017-08-26

週一育休

土曜日の更新はお休みとなります。

2017-08-25

未完成なるもの

八月下旬、外は摂氏三七度。終わったはずの夏がよみがえっている。終わりというものはそういうものだ。終わったはずなのにしつこく戻ってくる。これをただしく埋葬せねばならない。そういうことを思いながら煮干しのガラをフライパンで炒っている。出汁をとった後の煮干しのガラは、しょうゆ、砂糖、みりん、ゴマなどで炒めると、ちょうどよい酒のつまみ……といってもわたしはあまり飲まないのでもっぱらビールを水代わりに飲む国のひと用だが……になる。噛めば噛むほど味が広がって美味い。

2017-08-24

もう来ない夏休みに夫婦で効果的に語り合うあたり前の方法

子供ができたら親は人間ではなくなるのか
子供ができたら親は人間から自由になるのか
子供ができたら親は人間以外のなにものかになれるのか

2017-08-23

身体をいくら鍛えてもこころは鍛えられない

身体をきたえる方法をさがしていて
身体をきたえる方法をいつもさがしていて
身体をきたえる方法をいつもさがしているのだけど
身体をきたえる方法をいつでもさがしているのだけど
こころをきたえるほうほうがないので
こころをきたえるほうほうがわからないので
こころをきたえるほうほうだけはだれもしらないので
こころをきたえるほうほうをだれもおしえてはくれないので
こころはよわくてなさけないまま
ちっぽけな窓だらけの部屋でふるえている

2017-08-22

紙とブログの境界線

夏の暑さが一時的に戻ってきた。夏が大好きなわたしにとっては元気が出る。とはいっても今日もいつもとなにも変わらない生活で、ごくふつうの一生活者として諸事をこなすほかない。

2017-08-21

自意識ストリップ現代詩(またはFへ)

いつでも脱ぎたがっている
いつでも裸をみせたがっている
いつでもほんとうの自分を知ってもらいたがっている
いつでも《理解》してもらいたがっている

2017-08-20

夏祭の後

地元の夏祭があったので家族三人で観てきた。といってもベビーカーで近くを往復しただけで、それ以上のことはあまりできなかった。涼しくなってくるとあたりには蚊が結構いて、子供が喋れない状態で噛まれたらどこが噛まれたのかわからないので心配していたが、それは杞憂ですんだ。祭りにはたくさんの人が集まり、これまで一度も見かけたことのないような数の若者たちが集まって奇声をあげている。

若者というものは奇怪な格好をして奇怪な叫び声をあげながら走り回るものであり、わたしもかつてはああした猿のような形をした生き物だったことを想起する。だが、ひとはどれだけ成長してもやはり猿にすぎないのではないか。猿の解剖は人間の解剖に役立つ、という哲学者のことを思いだしながらベビーカーの中をみる。子供はあたりの物音が嫌らしく、ずっと不機嫌そうに眠っている。かわいくない。

郊外の夜は暗く、祭りの往来を離れれば人通りは少ない。ベビーカーを押しながら歩いてゆくと、少し前を背中を曲げた老人が杖をつき、煙草を吸いながらゆっくり歩いている。わたしは元ヘビースモーカーで一日最低二箱吸っていたので、暗い道で煙草を吸う老人の気持ちがわかる反面、子供に煙がかかるのは嫌だという気持ちにとらわれて、足が止まる。家内がわたしをみる。あたりの音がさらに小さくなる。

それは何十年かして家族をうしなって老人になったわたしだった。老人がいる施設は禁煙で、外にしか煙草を吸う場所はなく、喫煙所は毎年削減され、あるいは移設して歩いて何分もかかる場所に移動されている。通りがかった世間の仮面をかぶった若者が、上気した頬で説教をはじめるーーここは煙草を吸うところじゃないんだよ、じいさん、あんたの居場所はここじゃないんだよ、あんたのいるべきところは、もうこの国の、どこにもないんだよーー。

2017-08-19

週一育休

土曜日は更新はお休みとなります。

2017-08-18

身体で覚える

オクラが安売りしていたので大量に買ってきて、茹でる前にまな板で板ずりをしていたら、トゲが指に刺さって血が出てきて驚いた。トゲがある野菜はたくさんあるがオクラにもあったとは知らなかった。注意深く抜いて、二次被害を避けるためにトゲを包んで捨てる。二分ほど沸騰したお湯でゆがくとトゲは柔らかくなった。注意しないと怪我をする処理、というものがある。無知はケガの元だ。

2017-08-17

近況あれこれ

年に一度開かれる某誌のコンテストに参加するための作品を書いている。第三者の客観的なまなざしに作品を投じるコンペはわりと好きだ。もちろん結果も出さねばならないが、一次や二次審査を通るという事実は最終的な勝利が得られなくとも書き手に自信をもたらすだろう。基本的に経済的対価の生じえないものを書いている以上、第三者に評価を受けるしか価値を生じせしめる方法がない、ともいえるが。

2017-08-16

今日も手をあらう

今日も手をあらっている。落ちないよごれをあらっている。だがいくら洗っても手はきれいにはならない。毎日あらっても手はきれいにはならない。なぜそうなのか。

2017-08-15

八月の終わり

ようやく大きな企画が決まって一安心している。ネットと違って動きだしても数ヶ月、場合によっては半年から一年以上かかる世界だ。このブログで情報を公開できるのは当分先になるだろうが、うれしい知らせには違いない。

2017-08-14

裏切りの道

お盆休みなので掃除に忙しい。本が大量にあると埃もたまりやすい。本棚にたまる埃がたいへんなことになっている、ということでマスクをし、頭に手ぬぐいを巻いて、窓をすべて開け、子供を別の部屋に避難させて、部屋の大掃除を行う。

2017-08-13

(Don't) Be Open

なぜほんとうのことをいおうとするのか
なぜほんとうの気持ちをいおうとするのか
なぜほんとうにあったことをかたろうとするのか

2017-08-12

定例育児

題名によって土曜日はお休みとなります。

2017-08-11

火鍋シミュラクル

ようやく週末。これから夏休みというひとも多いのではないか。もちろんネットなどはいっさい読むことなく、現実世界に遊びに出かけるのがよいだろう。わたしはいつも通り、机に向かうだけの人生だが、これを書くのももう何度目だろうか。さてみなさんは熱中症等には気を付けましょう。

2017-08-10

だるい夜のひろがる

夏なので青唐辛子の酢漬け(グリーンチリ)をつくる。東南アジアでは広く食べられるものだが日本ではあまりみない。というか以前都内のシンガポール料理店Kにいったらこれを置いていなくて驚愕したことがあり、まあおそらく店員がたまたま知らないアルバイトだったのだろうと思うが、あちらの料理には空気のように当り前に付け合わせとして出てくる。ないと始まらない。

2017-08-09

何もいわず励ましあわない

夏本番。あまりの暑さに蝉の声すら聞こえなくなった。わたしは南国育ちなのでむしろ元気だが、読者諸氏におかれましては熱中症等に気を付けて業務と生活を行っていただきたい。ブログなどを昼間から読んでいると健康に悪いのでやめましょう。

2017-08-08

日本ファースト現代詩

蝉がうるさいので日本ファーストといっている。
エアコンが壊れているので日本ファーストといっている。
机がよごれているので日本ファーストといっている。
寝癖で髪の毛がからまっているので日本ファーストといっている。

原稿の整理がままならないので日本ファーストといっている。
子供がいうことをきかないので日本ファーストといっている。
郊外のスーパーにいったら店員に鼻でわらわれたので日本ファーストといっている。
コンビニにいったら客に白い目でみられたので日本ファーストといっている。

ネットに書き込みしたら「(笑)」しか反応がないので日本ファーストといっている。
ひとの悪口を書いたらほめられてしまって日本ファーストといっている。
ひとをつるし上げたらよろこばれて日本ファーストといっている。
徒党を組んでひとを叩いたらたのしくて日本ファーストといっている。

戦争反対と書いたら友達Aができて日本ファーストといっている
戦争賛成と書いたら友達Bができて日本ファーストといっている。
いま戦争ははじまると書いたら友達Cができて日本ファーストといっている。
すでに戦争ははじまっているのでひとりで日本ファーストといっている。

原発事故が収束しないので日本ファーストといっている。
被災者の生活をテレビでみて日本ファーストといっている。
台風で家がながされているのをみて日本ファーストといっている。
NHKのアナウンサーのひきつった笑顔をみて日本ファーストといっている。

忖度のまね事をする幼稚園児をみながら日本ファーストといっている。
産経新聞を購読しながら日本ファーストといっている。
朝日新聞の詩人欄をみながら日本ファーストといっている。
優生学的に選別されながら日本ファーストといっている。

きもちわるいと若い女性にいわれながら日本ファーストといっている
ブロックしますと若い女性にいわれながら日本ファーストといっている。
かわいそうなひとと若い女性にいわれながら日本ファーストといっている。
あなたはひとを愛せないのよと元妻にいわれながら日本ファーストといっている。

毎日torrentでダウンロードして日本ファーストといっている。
毎日Onion Browserでダウンロードして日本ファーストといっている。
毎日匿名掲示板にさみしいと書き込んで日本ファーストといっている。
毎日ツイッターにフォロワー募集と書き込んで日本ファーストといっている。

毎日SNSで政治的な発言をして日本ファーストといっている。
意識の高いひとびとにまざって日本ファーストといっている。
自分を外国人のようにおもって日本ファーストだといっている。
国籍で階級をつくって日本ファーストだといっている。

自分をえらいひとだとおもって日本ファーストだといっている。
かわいそうなわたしをポエムにして日本ファーストだといっている。
かっこいいおれをポエムにして日本ファーストだといっている。
毎日お金にならないものを書いて日本ファーストといっている。

ひとりぼっちなので日本ファーストといっている。

日本がどんどん衰退していくから日本ファーストといっている。
日本がよわくてなさけなくて卑劣だから日本ファーストといっている。
日本がこんなになさけない国だとおもわなかったので日本ファーストといっている。
日本にいきていると毎日つらいので日本ファーストといっている。

とりもどしたいとおもっているので日本ファーストといっている。
だがとりもどせないので日本ファーストといっている。
あなたの願いはかなわないわ、と女がいっている。
あなたのとりもどしたいものは滅んだのよ、と女が、いっている。

(2017年8月8日)

2017-08-07

台風、コンビニ、スーパー

台風が近づいている。台風が来るとベランダが掃除しやすくなる。なにをいっているかというと、水をまいてブラシでコンクリートを磨いて掃除すると下の階の高齢者世帯に迷惑がかかるかもしれないので、台風や大雨の時は大掛かりな掃除をするチャンスなのである。そもそも社会に迷惑をかけるようなものしか書いていないので、あまり目立ちたくない。ということで台風を楽しみにしている。はやくこないかなとかいいながら窓から外をみている。

夜中に徒歩十分の距離にあるコンビニに行くと、帰り道に近所に住んでいるらしい奥さんとすれ違う。ものすごくきちんと化粧をして、服装も新宿伊勢丹の一階にいる主婦のような感じ。会釈をしてすれ違う。近くで車が迎えにくるのだろうと思う。郊外の住宅といってもとにかく多種多様な家族が住んでいる。子供も少しいるがほとんどは高齢者だ。さきほどの奥さんについていえば昼間ジャージを着て小学生らしき子供を学校に送ってゆくところを以前目撃したことがある。旦那はなにをしているのかはわからない。

スーパーにいくと、いつもたくさんの外国の人々が小規模のグループで特売品を買いに来ている。わたしはアジアの言語ならわりと聞けばどこ出身ぐらいかは想像がつくのだが、ちょっと聞いたこともないような雰囲気のことばで会話していて、どこから来ているのか検討もつかない。かれらは近くの工場で日本語の研修をうけながら働いているようだ。なぜ知っているかというと、以前研修生という名札がついた工場のバッジをつけて買い物をしていたから。機会をみつけて話しかけてみようかと思っている。

ここしばらく大きな企画を動かしていて、その行く末が心配であまり新しいことを考えている余裕がない。というところでしばらくは現状のまま、ごくごくふつうのことを書いてゆきたいと思っている。

2017-08-06

海をわたる瓶

日曜日なので午後から酒を飲んで書いていたらどうしようもない文章にしかならなかったので削除して、冷房の効いた室内から光ふる郊外の埃にまみれた風景をみながらこの文章を書き直している。すっかり酒が好きになってしまって、都内で開催されるさまざまな会合の飲み会に参加できないのはたいへんつまらないというかさみしいのである。だが子供がもう少し大きくなるまでは自粛ということになるだろう。

2017-08-05

土曜日は育児のためお休みです

一日じゅう子供の面倒をみて先ほど机に戻ってきた。もう夜中になっているが毎日のノルマは一行も進んでいない。ようやく机に座れるようになったので、疲労困憊したまま少し酒を身体に入れて、チェックしていなかった仕事のメールの返事から始める。

2017-08-04

日々の記録

某誌のI編集長から詩集の書評依頼が来たのでやりますと書いて返送。今年度の書評委員としての役目は今回分で最後ということになりそうだ。小さな枠とはいえ一年間書評を続けたのは初めての経験だったのでたいへんおもしろく、率直に勉強になった。ただ書評はどちらかというとネット媒体向きだと思う。読んだあと購入に繋がりやすいし、感想を共有することにも適している。なるべく属人的な政治コミュニケーションを排して(「お世話になっております」「詩集拝読いたしました」「たいへん興味深く拝読させていただきました」etc)、来年度に向けて自分でもこのブログで書いてゆきたいと思っている。詩集はもっと読まれるべきおもしろいジャンルだ、ということをあらためて書いてゆきたい。

2017-08-03

人づくり革命担当現代詩

ことばがひとをつくっている。きれいできたないことばがひとをつくる。きたなくてきれいなことばがひとをつくる。
ひとはことばによってつくられている。自民党もまたことばでできている。自民党はいつでもことばでできている。自由なことばでできている。民が主ということばでできている。ことばでできているので自由なはずで、ことばでできているので民が主なはずで、ことばできている自由民主党がひとをつくるというのなら、ことばでできている自由民主党がかくめいするというのなら、ひとをつくってかくめいするというのなら、ことばでできているじゆうみんしゅとうが実行するといっているのだから、それはとてもたしかなはずで、ことばでできているかくめいにわたしたちもまた参加しないとならないのだ。

ひとはことばによってできており現代詩もまたことばでできている。

つるつるとしたガラスの板をこすってことばを放出するのはがまんがならないからでがまんがならないからいつも不満をかかえていてがまんがならないからいつも下半身がむきだしになっていてがまんがならないからいつも不倫していてがまんがならないからいつもカネをもらっていてがまんがならないからいつも威張っていてがまんがならないからいつもひとを馬鹿にしていてがまんがならないからいつも語尾に(笑)をつけていてがまんがならないからいつもごまかしていてがまんがならないからいつも自由をもとめていてけして手に入ることのない自由をもとめているのだ。

ひとはことばによってできておりわが国もまたことばでできている。

だれしもがことばを軽視していてだれしもがことばを軽んじていてだれしもがその力をあなどっていてそれでもなおだれしもがことばをもとめていてことばで救ってもらいたがっていてことばで褒めてほしがっていてことばでゆるしてほしがっていてことばで認めてもらいたがっていてことばで愛してもらいたがっていてだれしもがことばを自由にあつかうことができなくてだれしもがことばで縛られていてだれしもがことばで慰めていてだれしもがことばを喪失していて喪失したことそのものがうしなわれている。

ひとは矛盾することばによってできている。

自由がないのに自由があって永遠におきることのないかくめいが起きると夢みていてひとは疲れていてひとは消耗品でひとはすり減っていてひとは分断されていてひとは孤独でひとは孤立していてひとはひとりぼっちでひとは最低賃金ではたらかされていてひとはお金をもらっていてもなおしあわせではなくひとはいつでも「w」をつけて会話をしていてひとはいつでも分断されていてひとはいつでも異性をもとめても得られなくてひとはいつでもさみしくてひとはいつでも自らを慰める方法をしらなくてひとはいつでもなくしていてひとはいつでもこわれていてひとはいつでもくるしんでいてひとはいつでもしあわせになる道をさがしている。

ひとをつくりたいですかくめいをおこしたいです現代詩を書きたいですでもああすべてがふかのうででもこの国のすべてが自由民主党ですべてが古びていてすべてが男根主義ですべてがわずかにずれた二重性をめぐっていてわたしたちはこの卑劣さからにげることができないのでわたしたちはこの不能さの外にでることができないのでせめて夢みるのですことばによってつくられる不可能な国ことばによってつくられる不可能なふるさとわたしたちがほんとうに帰るべきだけれどもたどり着くことのけしてできない故郷、ひとづくりの、かくめいの、たんとうの、わたくし。

(2017年8月3日)

2017-08-02

詩を書いてもあなたは不幸

特筆することがなにもないやや涼しい一日。つまり通常業務。毎日書くのは当り前だと思っていて、忙しくても必ずノルマ分は書くことを何年も続けている。気が向いた時にだけ書くというのもひとつの手法でありそうした同業者の姿勢に反対する気はないが、どうも毎日書いているというと引かれることが多いのであまり公言していない。ただわたしが仮想敵として考えているひとびとは基本的に多作(もちろん、そうはいわないで隠しているひともいる)なので、そういう属人的な配慮はやめて、毎日書いていることを隠すこともやめる。大量に書くし、毎日書くし、そこに隠すべきことはない。隠すべきことがあるとしたらそれはそこにはないといいかえてもいい。参考までにわたしは毎月完成原稿が三十枚、プラスアルファ五枚ぐらいが限度だ(書評やブログ、それからデッサンは除くが)。

2017-08-01

慰霊の八月

本日より八月。窓より夏のつよい光が射し込んでいる。
八月は戦争責任月間でもある。しずかな追想のための季節がまた今年もやってきた。

2017-07-31

ごくまれに書かれる私信的なもの

なんというか、ネットでも現実でも、実は「おもしろいね」という感想や「お疲れさま」という気持ちはほとんど伝えられるべき形で伝えられていない、というように思う。悪意は目立つのですぐに目に入るが、その逆のものについては悪意ほど目立たないのは当然といえ、もっと単純に書き手(ブログでも現代詩でも)におもしろいと伝えるだけのことがどうして難しいのだろう、ということを思う。

前にも書いたが、「一人より応援のフィードバックがあったら、その後ろに百人は応援してくれている読者がいると思え」というのはわたしの偽らざる実感でもあり、要するにみな内気で遠慮しているのだ。さてわたしは読者諸氏に遠慮しないで応援しようなどと説教がしたいのではない。そんなことはだれにも要請できないしすべきでもない。今日わたしが書きたいのは、知己のK氏がブログの更新を休む、という宣言をしていたのを見かけて、ご本人とは個人的に会ったことはないので知っている範囲でいうと、氏は本を出しながらそしてライスワーク(=お金のための仕事)をやりながらほぼ対価のないブログを書いて、ずっとそれを続けていたはずである。その姿勢は立派だったと思う。

まず第一に、ブログを書き続けていたこと。紙でもできることを、わざわざなんの利益も得られない紙以外の場で公開してくれること、それは立派なことである。読者から反応があればそれは確かに嬉しいものだが、ネットに文章を書きつづけるというのはやはり一種の苦行ではあり、それを続けるのは立派なことである。そしてネットにおいては悪意のほうが相対的につよく可視化されるので、その日々の頑張りは上にも書いた理由で、書いている本人にとってはあまり報われているように感じられない傾向があるだろう。長い間更新を休まずに続けてきたことは立派なことで、それを休むと決断したからといって、これまでの頑張りの価値が損ねられるわけではない。

本や雑誌や新聞といった古きよき伝統的な人文の媒体もよいが、ある程度の長さがあるブログなどの形式で、いつでも・どこでも・だれにでも読めるインターネットにも「おもしろい文章がある」と読者に思ってもらえること、書き手の誠実さを信じてもらえること、文章を愛してもらえること、そうした見えない交歓が可能な場を創出しようとこころみることは立派なことである(追記すれば、おそらくそれは言論プラットフォームの創出によって実現できるものではなく、あくまで書き手という個人の同時多発的で独立した努力によるほかないというのがわたしの考え)。

ネットであっても本であっても、氏はこの社会のねじれたありようにわたしたちはどう向き合えばよいのか、その問いに答えようとした書き手のひとりだと理解している。きわめて身勝手な親近感をいだきつつ、K氏の選択を応援し、そのライフワークにさらなる形を与えられることを願っている。

2017-07-30

すでに匿名ではないブログの諸原則

一応あらためて方針として、本ブログは、わたしの日々の日記として使う以外には、その日の時事についての感想を述べたり、身近なまたは関心のある作家の作品について書いてゆく、ということを原則としたい。より具体的にはこれらを身分を明らかにした上で記述し、「ふざけたこと書いているとぶん殴るぞ」「あまり調子にのっていると髪の毛むしるわよ」といつでもいわれる(可能性がある)場にとどまるということが、わたしのブログの基本方針ということになる。もっともわたしの尊敬する作家のみなさんのうちにはネットなど知らないしやり方もわからないひとも多く、紙以外の場になにを書こうがそもそも一行も読んでいない、ということは十分に想定されるが。まあ、原則は自らを責任という半径の内側に置く、ということとご理解いただきたい。日付と署名、がわたしのおろすことのできない看板である。

2017-07-29

負けてみせる

都心にて某編集部のOさんと打ち合わせ。わたしが好きな作家が自分の半分ぐらいの背丈の女性詩人にこてんぱんに口論でやられたという話をきけておもしろかった。きちんと負けることができる人間は好きだ。いろいろごまかして言い訳をして取り繕うのはみっともない、というのは美意識の観点からのみ考えた話で、負けを認めるためには知性や勇気や覚悟といったさまざまな人間性の諸要素が問われ、それができるというのはたいしたものである。

いまわたしが思い出すのは、何年か前、過激な発言で知られる某作家がコメント欄で若者にぼろぼろに挑発され論破されていた時のことで、それをあるアルファブロガーが「かれはきちんと負けていて立派」と評したことだ。そのことをたまに思い出すが、それはつまり、コメント欄できちんと匿名の第三者と相対して負けてみせたこと(本人は相手を打ち負かすつもりだっただろうが)は誠実だ、ということではないだろうか。これを別の言い方でいうと、ネットで誰も読まないようなものを書いて社会に完全に無視されることは負けかもしれないが、その負けている様子をきちんとさらしてみせること、が大事なことであるような気がしている。

無敵のひとだらけのネット(と社会)で負けてみせるということは大変なことだが、一方、わたしはちょっと美味しいオリーブ油をひとにいただいて、なんとなく誰かに勝った気になってサラダを食べた。それからなにもかもに疲労を感じながら皿を洗って今日も机に向かうのだった。

2017-07-28

夏へ飛びだしてゆく

今年の夏はきわめて忙しく、普段はあまり遠出しないのだが、とにかく打ち合わせのために外出がとても多い。わたしが住んでいるところは昔はほぼ山だったらしく、野生の蛍などがいるようなところなのだが、当然、打ち合わせは都心部ということになり、人がものすごく多い都心部での仕事を終えて、電車に一時間以上のって帰ってきて、郊外の誰もいない暗いバス停で降りるとほっとする。わたしは子供時代からずっと大都市の周辺部に住んでいたので郊外での生活は新鮮だったが、最近はもうすっかり慣れてしまってここ以外の生活が考えられなくなってしまった。生活コストが安いためその分の経済的余剰をまったくお金にならないことに回すことができるので、読者諸氏にも郊外での生活をお勧めしたい、と書きたいところだが、残念ながら懇親会、研究会、読書会、朗読会、勉強会、新年会などのおもしろいイベントは例外なくすべて都心で開催されるので、けっきょく都心にいたほうが楽なのであった。わたしは不幸だ。

それはともあれ、ブログに書いたかどうか忘れたが、数年前の夏、カブトムシが家に迷い込んできたことがあった。すでにかなり弱っていて、スイカや桃のあまりものを食べさせて、二日ほど涼しい場所に置いておいたところ、じっとしてずっと汁を吸っていた。まっすぐ歩くこともできないような状態だったのでもう駄目かもと思ったが、三日目の朝、すっかり元気を回復して、窓から陽射しの照りつける中へ猛スピードで飛び出していった。あの虫けらはなにをしているかと思うが、もちろんとっくの昔に死んでいて、その子孫がこのあたりを元気に飛び回っているかもしれない。虫だけではなくひとだってしょせん夏が終われば死ぬかもしれない身であって、美味いものを食べて体力をつけて、夏の中へ勢いよく飛び出してゆく、そういう人生がよいのではないかということを思う。窓の外はすっかり夏である。

2017-07-27

千日の夜をこえて

今朝ぴったり百枚の新作を仕上げて某編集部に送付した。おもしろいかどうかはわたしが判断することではないのでどうなるかはわからないが、できるだけはやく世の中に届けたいと思っている。Tumblrの「千日詩行」も本日付けでようやく千日に到達した。この三年間一日も休むことなく続けられた千回強にわたる投稿とその背後にかくれる詩作をふりかえってみると、ことばにならない数々の思い出がよみがえる。それは第三者にとってはなんの意味もないものであるが、わたしにとってはかけがえのない財産ということになるだろう。ただひたすら机の白紙に向かい続けたこの三年を支えてくれた家族と名前のない/ある友人たちに感謝したい。

2017-07-26

机上の空論

仕事をはやめに終えて夕食の買い物へ。豚肉が安かったので大量(1kg)に買ってしまう。ゴーヤも安売りしていた。ということで買い物カゴにこれらを入れた瞬間自動的に今晩のメニューが決定してしまう。それはともあれひさびさにツイッターを見にいったら同業者たちがみながんばっていて勇気づけられる。がんばる、とは、この世の不条理にあらがうこと。がんばる、とは、不可能なことに挑むことだ。その姿勢だけがひとに勇気をあたえるのであって、敗者の愚痴も勝者の自慢話もいずれもこの世に必要ないものである、とここまで書いて、まあ、なにしろ人生というのはうまくいかないことだらけというか、むしろうまくゆかないことの連続体というほかなく、よって、この世に愚痴は必要かもしれない。愚痴をきいてもらいたい知己のひとは連絡ください。ゴーヤチャンプルーも作らねばならないので本日はここまで。

2017-07-25

傷と快楽

わたしのことをおぼえていますか、という題名のスパムメールを眺めている。差出人はどこにでもある平凡な名前で、その本文には話したいです、とだけ書かれている。わたしはあなたのことなどおぼえていない——たとえおぼえていてもそれを口にすることはない。
どこかの世界でそれなりに有名らしき男性がリベンジポルノの被害にあった、という記事を読んでいる。女性が意図的な悪意をもった側というのはめずらしい。大量のリベンジポルノと思われる性行動画が星の数ほど閲覧できる2017年のインターネットの世界では、流出を行うのはほぼすべて元彼氏や元夫であろうと推測されるが、そうだとほぼ確信できるのは男性の側の顔が隠されているからで、そこには男性側の明確な悪意がある。一方、女性側がこれを行うということは、彼女のいかりの大きさ、あるいは傷の深さを示唆していると思う。わたしはこの男女のいずれも知らないし今後も知りえないが、この女性のブログを少し読んで憂鬱になった。第三者の直接的ないかり、かなしみ、くるしさを目の当たりにすると、ひとは元気を奪われる。そうしたことをネットに書くのは、現実においてむくわれない場合、はけ口として仕方のないことだとはいえ、やはり元気は奪われる。そしてなんともいえない嫌な気持ちだけが残る。

このなんともいえない嫌な気持ちはネットが閲覧可能にしてしまったものであり、もちろん誰でも見ないようにすることはできるが、ひとのもっとも醜悪な側面を、いつでも、だれでも、どこでも、無限に閲覧できるという現実のなかに生きるほかないということはもはや誰にとっても避け難く、傷害、殺人、性暴力といったほんらいほとんど一般生活とは縁のなかった事象は、ネット登場以前の時代(もうそれを思い出すことは困難だが)よりも、はるかにこの社会に充満しているように感じられる。そしてそのことが当り前になってしまっている。しかしそれ自体ほんらい異状なことで、そういう現実にわたしたちの倫理や情緒が対応しきれていないという印象がある。オーディオビジュアル媒体による上記のような復讐を意図した暴力的表現の力は圧倒的なもので、無関係な第三者にすら傷をおわせるのだから、それが当事者であればどれだけの傷を受けてしまうのか、と思わずにはいられない。

そしてここはブログなのでさらに踏み込んだことを書けば、そうした動画はいまこの瞬間も新たに流出し続けており、それがどれだけのひとを傷つけているのか、ということを思う反面、そうした当事者を傷つけるものが、無関係な第三者にとっては、性的興奮のために消費されうるものであるという事実を思い起こさないわけにはゆかず、2017年の現実はきわめてグロテスクな様相を帯びてくる。ひとを傷つけるもので、ひとは快楽を得ることができる。そう書かねばならない。きれいごとばかりをいってみにくいものをなかったことにすればネットは便利な空間でしかないのだ。どうしたらよいのか。そんなことは知らないが、わたしが思うのは、ブログは、この奇怪な現実について記すために使われるべきだということ。書くということの誠実な原則に立ち返り、嘘を排除し、見たこと、感じたことを、ページビューや「いいね」とは無縁の力学に基づいて、できるだけ写実的に記述するために使われるべきだということ。そういうことをあらためて考える。

そこまで考えて、スパムメールに返事を書く——わたしのことをおぼえていますか。わたしはあなたがきらいです。

2017-07-24

理解や共感のあちら側

午前に永田町で打ち合わせ、それから帰りに銀座のアップルストアに寄った。例のワイヤレスイヤフォンは全部売り切れだったがサンプルがあったので視聴はさせてもらった。耳につけて頭を動かしても不思議と落ちない。かなり購買意欲が向上したがこれからお金がかかるイベントが目白押しなので自粛して家にまっすぐ戻る。帰宅してすぐに手などを消毒し、子供を風呂に入れて、机に戻ってきてメールを何本か書く。それからひさしぶりに知己のブログをまじめに読むとおもしろかったので感想を書きたいと思ったのだが……ネットにおける文章のおもしろさが「わかる」や「共感」であるならば、わかりもしない、共感もされえない感情の居場所はどこにあるのだろうか、ということを思う。もちろんどこにもない、ということが回答であり、どこにもない、ということを書く人間がもっと必要かもしれない、ということを思った。より具体的にいうならばこの清潔なネット(と社会)には醜いものの場所が相変わらずない。「ないならつくればいい」などという希望を語る前に、まずその現実が共有され理解されていなければその希望とやらは単なるたわごとにすぎないのではないか。だがそれについて書くには疲れすぎたので明日以降にすることにする。疲れた。

2017-07-23

名をうしなう雲

二十代の頃は小説家になりたいと思っていて、複数の編集部に持ち込みをしては断られていた。ふりかえって考えるとあまりおもしろいものを書いてはいなかった。わたしにとっての転機、は、2006年前後に起こった不可逆的な出来事で、それ以降わたしの書くものは変わってしまった。わたしは「なりたい」と思わなくなった。いまこころのなかにあるのはただ灼けるような義務感、自分が見たもの体験したものを書き残さねばとても死ぬことなどできない、という激しい怒りに似た気持ちだけである。某編集部に仕上げた作品の原稿を送り、好意的な返事をもらって、その手紙を読みながらその当時のことを思い出し、そして不思議となんのよろこびもない自分の気持ちをみつめながら、机の前に座っている。自分は、なにになりたいのだろう。と思う。なににもなりたくない、という声がする。なににもなりたくない、が、自分が見たものを書き残しておきたい。ただそれだけが、正直な自分の気持ちのようだった。そういうきわめて私的な動機に基づいたプライベート・ストーリーズを、現代詩の様式にて書き記す。それはおもしろくないだろう。それは第三者に評価されないだろう。だがそれは仕方ないことだということも思う。選んだものは選んだものであって、船が沈むときはわたしも一緒に海に沈むほかなく、それはそんなに悪くないのではないかという気もしている。そういうことを日記的に書き記しながら、窓の外を見る。空は名を失ったまま曇っている。だが名をうしなっても人生はつづいていく。

2017-07-22

耳を閉ざさず意見を聞き入れない

梅雨が明けて夏らしくなってきた。土曜日なので原稿や書類の整理をする。手紙やら書籍やらがいつも山積みになっていてひどいことになっていて、自分がどんなものを書いているか思い出すのも一苦労だ。しかしひとに読んでもらわないと形にすることはできないので送付前に仕方なく自分でも原稿を再読する。再読してうんざりする。それなりにおもしろいこと、それからまったく商業性というものを考慮していないことが二重に腹立たしい。一般的にいえば、私の書いているものはひとに読ませる気がまるでない原稿だと批判されても仕方がないが、そうした批判に耳を傾けながら、そうした意見を作品にいっさい反映させない、という姿勢が必要だ。完全に無視してしまえば一般社会との接点が失われてしまうし、逆に耳を傾けすぎれば先鋭的な部分がそこねられてしまう。よりブログ的な言い方をするならば「コメントをすべて読み、かついっさい応答しない」という二重の姿勢ということになる。やはり傷は必要なのだ。自分の書いているものが、なんの価値もないと社会に見なされていること、その事実を誰よりもまず自分が知ることなしに、いかなる先鋭的なものもうまれるはずがない。

と、書いたところで、地元の図書館に知己の新詩集がおいてあって驚いたと家人から連絡があった。地方の図書館に新刊を置いてもらえる、そういうことを目的にしてゆきたい。

2017-07-21

Enough Internet (for Today)

"Enough Internet For Today"というgif画像を見かけた。確かに、インターネットはもう十分かもしれない。

2017-07-20

そして誰もいなくなった

一度書いておいたほうがいいかと思うが、わたしは『詩と思想』という雑誌が主催している研究会に二年ほど足を運んでいて、子供が産まれてからは足を運ぶことができなくなったが、その参加者とはいまも親しくしており、詩友たる彼らの詩は重点的に読んでいる。オープンなネットで何か書いている人はほぼいないのでわたしが唯一のブロガーということになり、その立場から言うならば、主にネット以外の詩集や詩誌を経由して発信されているかれらの作品は(戦前でもなければ戦後でもない)2017年のいま・この現実に生きるわたしたちにとって、おもしろいものであることはわたしが保証する。より詳しくいえばゼロ年代以前からつづくホームページ、テキストサイト、ブログ、ツイッターといった連綿とつづくこの国の非主流なテキスト(とそれをめぐるメタテキスト)のおもしろさを愛しているすべての同世代と同時代を生きる読者にとってもおもしろいものだというように思うし、それがどうおもしろいのか、これからこのブログでもたまに詩集などを紹介してゆければと思っている。

さて梅雨明けもした。夏本番である。みなどこにいったのだろうか。
誰もいなくなってしまった。いや、最初から誰もいなかったのである。

2017-07-19

梅雨の終わりに読む『積雪前夜』(平井達也著)

梅雨が開けた。夏だがあまりうれしくはない。娘もまだ離乳食すら始まっておらず、予防接種も毎月順番に注射を続けているような状況で、行楽にいけるはずもなく、日焼けも心配なので海など論外、ということで今年の夏は家族で徹底したインドア生活ということになりそうだ。

夏といえばやはり夏にふさわしい読み物、つまり後になってその夏のことを思い出すことを容易にする触媒としての詩が必要なのではないだろうか。
とはいってもあまりにも暑いので、むしろ寒い詩がいいのかもしれないと思う。そう思いながら手元にある詩集を開く。

平井達也の『積雪前夜』(2016年12月発行)。この詩集に収録されている詩作品のうち、氏の会社生活を題材とした詩が印象にのこっている。巻頭詩の「ネクタイ」を引用する。

ネクタイに誘われて茶色いのを買う/茶色いネクタイにぶら下がって仕事する/昼にはネクタイが窮屈そうなので/解いてポケットに収めてやる

「ネクタイ」

「茶色いネクタイにぶら下がった仕事」というものがどんなものか、詳しく知らなくとも想像力によって喚起される光景がそこにはある。ネクタイに誘われているのはネクタイが自分の声であるからで、拘束しているのは社会だがそれを受け入れている自分自身の姿でもある。それを解いてポケットに収める昼休みの一瞬がこころに残る。そういう瞬間が誰の生活にもあると感じる。

また、飲み会(と思われる)の光景が、「拒否」では描かれる。

グラスにビールを注ごうとして/きょう言おうとして言えなかった/言葉の重さ分ぐらい手元が狂う/ビールの泡がグラスからあふれる/テーブルが濡れ/言い出せなかった言葉も湿る

「拒否」

ここだけ抜き出すと男女の話のようだが、ここで言えなかったのは職務上の拒否のことばで、ひとは言えることと言えないことの中間を生きるほかないということを思う。そこではビールは常にほんのわずかこぼれていて、乾いているべきことばはわずかに湿っている。手元が狂うのは、そこに誤差があるからだ。そしてその誤差は避けようがない。なぜなら言おうとして言えなかったことはつねに溢れるほかないからだ。

出社前の姿はより直裁な形で描かれている。

みんな真面目にやっている。こっちだって真面目にやっている。雪が降る中を夜の仕事に出かける父親がいる。窓から雪を見ながら明朝の出勤に備える息子がいる。雪が降っているのも知らず泣き続ける妹がいる」

「積雪前夜」

一読してふと、わたしだって真面目にやっているんだよ、と思う。そしておそらく世の中のだれしもが真面目にやっている。だが真面目にやっているからといってそれが誰かに伝わったり評価されたりすることもなく、詩はその伝わらないことそのものを記憶しようとする。伝わらないことこそが伝えなければならないことで、その不可能な夜にはいつも輝く雪が降っている——雪は予感でしかなく、結局は降らないのだ。わたしたちは常に事象の前夜を生きるほかないのである。

2017-07-18

路傍の犬

暑くて仕事にならない、と愚痴をいいながら机に向かっている。そういえばさきほど昼のニュースで105歳の現役医師が亡くなったというものを見た。わたしも死ぬまで仕事したい派だし、尊敬する作家たちもみな引退とは遠い生活を送っているのでこの医師のことをうらやましい人生だと思うが、一歩ひいて考えると、やはり勤労が美徳の社会では年を取っても休むこともままならずこうした「美談」によって働くことをいつまでも強いられる空気があるな、ということも同時に思う。ただほんとうは仕事=生業は楽しいものであるはずで、それを営利団体に悪用されている(いわゆるやりがい搾取)ことに問題があるだから、仕事の楽しさ、仕事の誇り、仕事の満足、これらを自分の手に取り戻してゆく、といくのがこの国で満足に生きてゆく方法なのかもしれない。それは職人になる、という理路と解釈される。古いしきたりが生きる保守的で古い国のなかで「ゆるく」生きたり、これから距離を置いた「無頼」な生き方はひとつの考え方であると思うが、ひとつの技術を研鑽することに没頭する生き方があってもよいと思うーーそれが第三者にどう評価されるかはどうでもよいことで、いわゆる美談などは犬にでも食われたらいいと思った。

最近の困惑

若くてリベラルでやり手の共産党の女性議員みたいな髪形にしてくる、といい残して家を出ていった家人が、なぜか知りあいの詩人にそっくりな髪形になって戻ってきた。

2017-07-17

興味のもてないもの

異様に湿度が高く、暑い。どんな人間も書いている以上はその原稿を形にしなければならない、ということで、わたしもふたつほど現在推敲の作業をしており、そのうちのひとつがようやく著者校の段階。形にするのは難しいが、暑さや社会の無関心というものと黙々とたたかってゆきたいと思っている。なぜなら書いているものは誰でもそうしているからであって、わたしが尊敬する作家たちがそうしているからであって、わたしもそうする。

ひとはおもしろくないものに関心を持てない。それは仕方のないことであって、きわめて個人的な主題に基づく関心事が他人にとって興味を持ちにくい内容なのは当然のことである。それを無理に読者に興味をもってもらおうと工夫すればさまざまな軋みが産まれ、結果として表現の強度は不可逆的に劣化する。それを防ぐためにはいっさいの説明や解説を排除したわけのわからないものをわけのわからないまま提示しなければならない。そしてそうした表現は一部の人間だけがよむ雑誌や本ではなく日本語を解するすべての人間が参加できるフラットな場に向けて開かれていなければならないということを思っていて、それを実践してきている。

基本的にわたしが書いているものはそのすべてをTumblrに一部引用しているので、それを読むとわたしがどんなものを書いているのか経済的な負担なくご理解いただけるのではないかと思っている。そちらも合わせてみていただけると幸いだ。それはともあれ、三ヶ月書き続けてきた長編がようやく終盤にさしかかっていて、これをがんばって形にしてゆきたい。題名はまだ決めていないが。

2017-07-16

夢のなかでもまがい物

なにひとつ書くことがなくなってからが勝負、ということはその通りで、何年も毎日書いていると、自分にはなにもない、からっぽだ、と思う瞬間がかならず(何度も)来る。その時にあきらめないでいると新たな水脈がわき出てくる。これを繰り返しているといかにつまらない日常を送っていようとも書くことを見つけることには困らない。さてわたしは昨日一日子守をしていた疲れが出たのか、午後は無為に寝てしまって気がついたら夜になっていた。

こうして人生というのはただ無駄に浪費されていくのだということを思うが、もちろんそんなことをいったら産まれたことそのものが無駄なので、気をとりなおして机の前に座って、夢のなかでみたまがい物の家族について考えている。夢のなかではわたしはどこかの家族に息子として迎えられている。そのまがい物の家族はブリキでできた人形のような姿をしている。わたしはしょせん偽物にすぎないので、ほんとうの家族にはなることはできずその家を去る。

夢ではわたしが子供の立場だったが、子供を持つ親の立場になってみれば、親は最初から親ではなく、なんの知識もない二人の人間にすぎず、親のふりをしたまがい物であるほかない。ひとは収入があるだけでは、世間に親と呼ばれるだけでは、育児手当てを受給するだけでは、「親は子供を愛するべき」と説教されるだけでは、ほんとうの意味での親になることはできない。

また、親とはこういうものだという思い込みによって親になることもできない。そうして家族のふりをしたまま、親のような顔をして子供に接してゆく……他、ないのだろうか。ということを思う。まがい物以外の道はないのだろうか。ないのかもしれない。理想はどこにもないのかもしれない。まがい物なのでほんものにはなれないし、まがい物なのでどんなものがほんものかわからず、どうやってなれるのかわからず、わからないのでいつまでもまがいもので家族のふりをつづけてゆく、ということを思う。

だがほんものではなくとも朝はやってくるし、国には税金を収めなければならない。そしてつまらない日曜日がこうして終わってゆく。

2017-07-15

先払いのかなしみ

気象庁によればまだ梅雨明けしていないが、もう完全に盛夏の蒸し暑い天気が今日も続いている。だんだん季節が熱帯に近づいているような気がする。地球温暖化のせいなのか、いろいろ見聞きして結局わたしにはよくわからないのだが、夏は昔よりもより暑くなって、冬はより寒くなっているような印象がある。子供の頃は夏はクーラーなどなくともわりと快適に過ごしていたが、あれは木造の日本式家屋に住んでいたから可能だったので、コンクリートに囲まれた都市でクーラーなしでは当時も無理だったのではないかということを思う。石が昼の間に日光で焼けて夜中になっても熱を発するからだ。木造家屋だとそんなことはない……というかなかったように思う。昼間に庭の土に水をまくとその周辺がひんやりしていたことを憶えているが、コンクリートは水をまいてもまさに焼け石に水という感じだ。わたしの生家は築百年程度のものすごいぼろ家だったのでよくその時のことを思いだすが、いまとなっては貴重な体験だったということを思う。冬場は畳や壁の隙間から冷風が吹き込んでくるし、軒下には猫が住み尽くし、梅雨には雨漏りするし、最低のぼろ家だったが、わたしは好きだった。いまではもう取り壊されて存在しないが、その時の記憶がいまでもかけがえのないものとしてのこっている。誰でもそういうかけがえのない記憶があるだろう。

熱帯の島国に住んでいた少年時代にはよく引っ越しをした。その時に住んでいたフラットのことはどれもよく憶えている。といっても断片的な記憶で、なぜか鮮明に思いだすのは、窓の前、スコールを眺めている自分を後ろから見つめている様子だ。不思議だが、記憶の中ではなぜか自分のことを後ろから見つめている。とても大きな雨粒がアスファルトに降り注いでいて、大きな水たまりにたくさんの波紋をえがいているーーそこには当時のわたしには存在しえない、理由のないかなしみがあった。その後に起こることをすべてその時知っていたとしたらどうだろう、ということを思う。たぶん、わたしは、まったく同じことをするだろう。またしても同じ間違いを繰り返すだろう。

ひとの人生には後悔などない。ただ先払いのかなしみがあるだけである。

2017-07-14

知らないまま

明日から三連休ということだが、わたしの生活はあまり変わらない。毎日同じことをして、毎日料理をする。それ以外にやりたいことはなく、すべきこともなく、ああ、そういえばブログとツイッターとTumblrがあったと思い出している。やりたいことかどうかはよくわからないがやりたいことのような気がする。さて今日もまだ梅雨明けしていないはずだが晴れていてきわめて蒸し暑く、わたしはアブラゼミらしき鳴き声が風にのってきこえてくる中、自転車に乗って歯科検診をうけにいった。狭い待合室に入ると暇そうな顔をした主婦たちがならび、わたしはその中に混ざってソファに座る。定期的に歯石を除去してもらっているのだが、味覚が向上したことに加えて、前よりも疲れにくくなった。という話を医者としたら口内環境が改善するとそういう効果もあるらしい。世の中知らないことだらけで、むしろ知っていることなどなにもないのではないか、と思えてくる。いや、おそらく知っていると思っていることしか世の中にはないのだろう。検診を終えて、受付で試供品の歯磨き粉をもらって外に出る。いつの間にか蝉の声はきこえなくなっていて、アスファルトが陽炎でゆらめき、風は止んでいる。少し離れたコンビニの駐車場でしゃがみこんで煙草を吸っている若者がいて、わたしをみてすぐに目をそらした。

帰り道、スーパーの食品売り場に行くと、店舗はなにも買う気がないのにクーラーの冷気を浴びたいがためにおとずれる子供たちと老人たち、そしてなにを買ったらよいのかわからず棚の前で右往左往している中高年男性たちであふれていた。夏はすぐそこで、街には知らないことがあふれている。そして知らないまま死ぬ。

2017-07-13

趣味にすぎないもの

がんばっているのに報われない、と弱音を吐いているアーティストのSNSの書き込みを見かけた。もちろん努力は報われず、やってきたことはすべて徒労で、必死につくったものはあっという間に忘れ去られ、いっさい評価も受けることなく生きて、そして死ぬしかない。

やたら暑いのだが梅雨明けはまだらしい。仕事が終わると趣味の時間、つまりわたしにとっては料理の時間だ。鳥のもも肉の両面を焼いて皮をカリカリにしたものを、人参と玉葱とピーマンを強火で炒めたものと合わせ、甘酢タレをからめて食べる。食べ終えてからは明日のためにキッチンの掃除をする。毎日やらないと汚れがたまり衛生的によくない。衛生的によくないと気分が悪い。よって毎日やるほかなく毎日やるものだというように思う。

だいたい仕事と料理が終わると疲れ切っていて、机の前でブログの空っぽのエントリフォームを眺めてぐったりする。社会的要請があるわけではなく読者がたいしているわけでもないブログを書く理由は……なんだろう。正直にいうとよくわからない。よくわからないが続けてきた。そしてよくわからないまま続けるような気がする。いや、これはおそらく趣味なのだ。料理と同じように、ものすごく時間がかかり、ものすごく手間がかかり、人生の半分以上を無駄にしているかのように思える、趣味なのだ。そして趣味だから意味なく手が勝手に動いてしまう。そういうものなのである。

そして今日も完成したら某編集部に送る約束をしている趣味にすぎない原稿をやっている。なにもかもが趣味にすぎず、なにもかもが好きでやっているだけであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、うれしさもたのしさもなく、かなしさもむなしさもなく、ただ書くという行為を経由した世界のスケッチを一枚一枚積み重ねて、どこにもたどり着くことなく、どこかに目的地があるわけでもなく、机の前で白い枠組みを眺めている。

しょせん趣味なのだから、本をまとめてみようか、と思う。
そして手紙を書き始める。ーーしょせん、趣味にすぎないのですがーー。

2017-07-12

外へのプロトコル

子供が生まれてから朝方の生活にシフトしている。親が深夜まで起きているとそれに伴い子供も起きているようになり、子供の生活リズムが作れなくなる。自分は深夜がいちばんすきな時間帯なのだが、なかなかそうもいっていられないようになった。携帯電話も一日の半分はオフにするようにして、自分の時間のコントロールをとりもどしてゆく作業を粛々と行う。こうして生活というのはどんどん変化してゆくが、かつて大事にしていたものが変化ともにうしなわれていく感覚はそんなに悪いものではない。空隙を埋めるなにかが手に入っているからだ。自分の時間はいちばん大事な仕事と、それから子供のためのものであり、それ以外のいかなる第三者または組織の利益のために使うべきものではないということを思うようになった。そして思うだけではなくそれを実現してゆく、そして実現するためにまずはことばにしてゆく、というプロトコル=手順がある。わたしにいわせれば世の中のありとあらゆるもめ事はことばを軽視すること、あるいはことばの力をナメていることから生じているが、より具体的にいうならばそれは「曖昧模糊としたみえない概念をことばにする努力をする」ことでもある。ライオンはライオンと名付けられる前はジャングルに潜む不気味な怪物だったが、ライオンという名前が与えられたことで単なる動物に貶められた、と書いたどこかの哲学者の例をあげるまでもなく、ことばにできないものをことばにしようとすること自体は容易なものではないが、一度成功すればその効果は大きい。ことばにあふれているようにみえる2017年のネット空間に足りないものはことばにしなければならないものたちであり、この場にあふれているのは手あかにまみれたクリシェと閉鎖的な村社会でしか通用しないジャーゴンばかりであるということはいえる。《いまこの場》に存在しないものにことばを与えなければならない。つくづく生きるのが難しい時代だということを思うが、その難しさについてかたちを与えるために、蛸壺化した限られた場所にとどまることなく、ブログという誰にでも表面上は読める形式を大事にしてゆきたいと思っている

2017-07-11

月は誰もみていない

いよいよ暑さも夏本番という感じで、今日は四川風の麻婆豆腐にニラを入れたアレンジ料理を作った。あまり美味しくなかった。アレンジつまり正統的なレシピから離れたものをつくるということは、そもそも正統的な技術がなければうまくいかないのだ。サブカルチャーはカルチャーの知識がなければつまらないし、亜流は本流があってはじめて価値が生じる。別の言い方をすればブログがおもしろくあるためには本流がなければならない。さて本流とはどこか。そういう問いがあるが、わたしは今日はそういうことを書きたいのではなく、よく聞く生きづらさとはなにかということを考えている。

生きづらさということばだけをみれば、「衣食住がある程度保証されているなかにおいて人生に対する痛苦のたえがたい大きさ」と翻訳できるだろうが、これは特定の時代の特定の安定した状況、より具体的にいえば紛争も飢餓も疫病もないG20の内側でしか通用しない概念ではないかということは思う反面、だからといってその生きづらさのたいへんさがその事実によって軽減されるわけではなく、この国に生きるひとびとに幅広く共有されているつらさであることに変わりはないように思われる。と、いうより、わたしの知っている作家はほとんど全員が生きづらさを抱えているし、その読者もまたこれと向き合って生きているように思う。そしてその生きづらさとはなにかと考えたとき、「ひとは、衣食住が保証されているだけでは、しあわせになることはできない」、というシンプルな解にたどり着く。いろいろなことができるはずなのに、前近代的な制約から自由になったはずなのに、「自分」がしあわせになることは難しい。

そのしあわせを得るために様々な装置が毎日つくられては消えてゆく。しあわせはネットが可視化する格差社会で「下」の人間をあざわらうことによって得ることはできず、衣食住が保証されていないひとびとを「下」にみてわらうことによって得ることはできず、あるいは他人の愚行を「笑った」などとコメントして安全地帯から嘲笑することよって得ることはできず、特定の年代や性別の欠点をひたすらあげつらってネットにアップロードして仲間をつくって一緒にそれとなく笑みをかわしあう洗練された嫌がらせによっても得ることはできず、こうした装置をいくら毎日いじってさわってくりかえし操作してみても、ひたすらむなしく、ひたすらかなしく、ひたすらさみしく、ただただ人生は空虚になっていくばかりである、ということはわたしがいうまでもなく、エビデンスも物証も必要としない。眼を開いて、目の前に広がるたとえばツイッターを見ればいい。

だれでもしあわせになりたがっている、といえる。そのためにネットでは毎日新しいジャーゴンが創出される。ひとに自慢の性器を自慢したくてたまらないスーツの男たちが今日も日記を書いている。ひとに自慢の年収を自慢したくてたまらないひとびとが今日もブログを書いている。ひとに自慢したくてたまらない女たちが今日もツイッターにグルメ写真をアップロードしている。とにかく自慢したくて、自慢がしたくて、自分はしあわせだといいたくて我慢がならない。なぜならさみしいから。なぜならつらいから。なぜならひとりぼっちだから。なぜならだれも 「わたし」を愛してくれないから。生きづらくて仕方ないけどどうしたらよいのかわからないからただひたすら他人と自分を比較して、ほんの一瞬でもいいからひとよりも自分がすぐれた存在だと思いたくて、とにかくひたすら自分はこの世界に一瞬でもいいから必要とされていると感じたくて、ただひたすら自分をほめてもたいらくて、認めてもらいたくて、愛してもらいたくて、かまってもらいたがっていて、生きづらくて、生きづらくて、仕方がないと思っている。

だれもがそうおもっていてだれもがそういっていて、生きづらいことについて書く詩はうれるかもしれなくて、ああ、くだらない、ああ、つまらない、ああ、なんとつまらない人生だろうかと思い、カネのことしか考えない、みとめてもらいたいだけの、なんとさみしく、あさましく、どうしようもない人生ということを思い、窓から仮象の月をみていて、月からわたしはみえることなく、月はいつでも、誰のこともみていない。

2017-07-10

社会活動またはわかるものとわからないものの区別

日曜日は現代詩のイベントに参加したりと様々なことがあったが、その後の夜は知己のS・K氏に誘われて新宿のデモ「March for Truth」を見にいった。氏はかつては反原発デモなどにも参加していたという話を聞いたが今は色々あって参加はしていない。なぜ参加をやめたのかその理由をはっきりと聞いたわけではないが、わたしと(そしておそらく他の多くの市民と)同じように、アンビバレンツな意識を社会活動に対して抱いているということを想像している。わたしにとってその曖昧さを保つ根拠は「正しいものがなにかがわからない」ということでありさらにいえば「どの政治勢力がいずれがわたし(たち)をしあわせにしてくれるのか」ということがわからないということでもある。理由はいくつかあるが例としてあげれば翼賛体制下で全面的に戦争協力した作家たちの多くは「みなのしあわせ」を信じていたことは疑いようがなく、何が最適解かはあとになって振り返らねばだれにもわからない、という端的な事実による。

そしてそうしたアンビバレンツな姿勢を2017年多くの言論に携わる作家たちが取り続けていること、あるいはツイッターでいっさい政治的な発言をしないかれらの弱腰の姿勢が活動家たちを激しく苛立たせているーーということはそのうちの一人と一緒に飲んだのでよくわかった。実際上記のイベントに参加した詩人のうちデモに参加したと公の場で発言したひとはひとりもおらず、わたしも厳密には参加したわけではなく現場にいただけである。そしてその活動家たちの苛立ちをわたしは理解する反面、わたし本人はわからないもののためにはたたかえない、ということを思う。作家はそれぞれのフィールドで自分がわかるものについて語るしかなく、わたしもまたそうするほかないと思う。男は自分が抱えざるをえない暴力性によって他人を不幸にしており結果として自分が不幸になっている、ということがわたしがわかることであり、それを作品にまとめていくことがわたしのこれまでの仕事であり、現在の仕事であり、これからの仕事だ。

一方、活動家のひとの発言でこころに残ったのは、社会というものは作家の発言を求めるときがあるんだということで、普段は作家なんて馬鹿にしているけれども、たとえば震災のような大きな出来事があったとき、その喪失感や衝迫に応えられるような作家の発言を、社会は求めているんだよということで、その発言は胸に来るものがあった。おそらくそれは雑誌や書籍ではなくネットでやるしかないし、2017年の読者は、誰でも自由にアクセスが(ほぼ無料で)できるネットで、文学、詩歌、アカデミズムから離れた開かれた場で、まともな作家が社会についてきちんと発言する(場合によっては血まみれでたたかう)ことを求めているのだと思う。場合によってはそれは「わからない」ものについて非誠実に語る、ということも含まれるかもしれない。さらにいえば「わからない」ものについて嘘八百を書き連ねて多くの読者の人生を狂わせる、ということも含まれるかもしれない。世の中はわからないことだらけで、わかるわからないなどいう区分にはなんの意味もない、という理解もまた含まれるかもしれない。

これらの事柄について、一度きちんと書いておきたかったのでこのエントリを書いた。

2017-07-09

朝食に鯖を焼く

朝からつよい光が斜めに部屋に差し込んでいる。子供にミルクをあげている家内を横目に朝食をつくる。といっても別に大したものではなく皿はそれぞれ鯖をフライパンで焼いたもの、大量に大根の入った味噌汁、大根の葉をまぜた納豆、それから昨晩しこんだ白菜の浅漬け。東南アジアの料理ならここでグリーンチリの酢漬けなどもつけたいところだが(つくるのはわりと簡単)、スーパーでその代用品として使える青唐辛子を売っているところを見ない。安く新鮮なものを使って料理をしていると当然のように和食中心になってゆく。塩分を多く摂りすぎないよう味噌や塩はふつうのレシピの半分ぐらいしか使わないようにしているのだが、料理をまじめにするようになってから家族の体調はよく、わたしについていえば健康診断ではすべての測定値がここ数年で大きく改善して医者に驚かれている。もっとも、すでに悪くなった臓器はもう治らない。それから悪くなった人生も治らないし、悪くなった人間関係も修復できないし、うしなった信頼はかえってこない。とはいえ、料理は好きだし、家族がふえればさらに料理がたのしくなるということはよいものだ。調理師免許はどうやって取るのか、昨日は美容室の待ち時間に真剣に調べてしまった。学校にいかない場合は二年間の店舗での実務経験、が必要だそうだ。二年間か……といっしゅんまじめに考えてしまう自分がいておもしろい。

どんな創作のジャンルにおいても経済的な対価がこれでじゅうぶん得られない場合は兼業するほかないが、ほんらいひとはふたつの理念をひとは同時にいきることはできない。いつかはいずれかをやめなければならない、ということを思う。だがそれはいまではない。そういうことを思いながら、朝の光のなかで鯖を焼いている。

2017-07-08

盛夏前夜

夏は好きだが、こう災害ばかりが起きていると、自分が安全な場所で平穏にいきていることを申し訳なく思うこともある。SNS時代では不幸なことは目の前で生じているように感じられ、遠いどこか事故や災害がとても身近なものに転じるので仕方のないことではあるが、そうした不幸な事件が立て続けに起きていても、自分はこの一日をたのしくいきてよいのだ、と自分を説得するにはそれなりの胆力を必要とする。というより答がでない問いではある。答はないが、いつものように週末をすごしている。具体的には美容院にいって、食材を買込んで(サバが安かったので朝食用に買った)、書評用に本をいくつか買って、それから家に帰ってきて日課として机に向かっている。

本日は土曜日で、この曜日は原則としてはブログなどは休みにして知己の参加するイベントや詩集の広報に当てようかと思ったのだが、本日はたまたま手元に紹介したい本やイベントがない。もうすぐ盛夏で、わたしが一番すきな季節がやってくる。夏がやってくる予感がこの世でいちばんすきだ、とだけ書いたエントリを、ここにおいておきたい。

2017-07-07

雨のない昼

窓の外は炎天下のようにみえる。仕事のメールを何本か書き終えてから、ニュースを眺める。九州北部の豪雨の被害が大変なことになっているようだ。最近はなぜか九州地方の知己が増えてしまったせいか心配している。家財道具を失ったり怪我をしていないだろうか。夏場とはいえ雨に濡れたまま体を冷やすと経験上体調をひどく壊しやすいのでなるべく衣類を乾燥させた場で過ごしてほしいと思う。実際に被害に合われた方にはこころからお悔やみ申し上げる。つらいことは自分だけのものなので誰とも共有できないが、つまらないブログでも読む時間をつくってご笑覧いただければ幸いだ。

最近の出来事としては、夏本番に合わせて、ここ三年の集大成ともいえる作品「ワイルドハント」(仮題)の仕上げに入った。といっても第三者にとっておもしろいかどうかはわからないし評価されるかどうかもわからない。わからないがそれなりの確信を持つことができる水準には到達したと考えており、これをはやく世に問いたいと思っているが、その前にもやることがたくさんある。いずれにせよ、Tumblrからここを読みに来ている読者や、古い読者のために書いておくと、そんなに遠くないうちに発表できると思っているーーなお題名について某有名ゲームとはなんの関係もなく、適当につけてある。内容は「マリエ」という女性とともに星の降る丘で過去を回想する形式の抒情的なもの。

雨は抒情的だが、それはあくまで身の安全が確保されたときにのみ感じられる贅沢な感情ともいえる。いきるのに精一杯で、抒情的なものなどに向ける余裕がないひともたくさんいると思う。もっともつらいとき、自分を救ったり励ましたりしてくれたのはわたしにとっては一部の小説や詩だったが、だれにとっても同じではないだろう。読者には、第三者がいっているものではなく、自分がもっともこころ動かされるものを大事にしてほしい。

2017-07-06

友人のいない午後

断固たる決意デターミネーション、という単語が出てくる小説を読んでいる。決意、がなければ人間は目標を達成できないが、それはしょせん起爆剤にすぎないので、火をもやし続けるためには別の燃料が必要となる。その燃料は社会的評価だったり友人だったりする。どちらもない場合はネットが役に立つといいたいところだが、すっかりネットの代名詞となったツイッターをみていると、それは決意を薄め、弱体化させ、ほんらい継続すべきことをできなくさせる、ということがわかる。それは子供を甘やかして駄目にする典型的な親そのものであり、言い方をかえれば仲間内の作法で盛り上がる閉鎖的な村社会を維持する便利な装置ともいえる。

そうしたものを批判するのは楽しい。悪口と正当な批判は厳密にいえば違うが一般的な意味においてこれらを区別する必要はなく、三島がしばしば書いていたように悪口は楽しい。閉鎖的な村社会に首まで漬かって楽しくツイッターで悪口を書けば「仲間」が手に入るのかもしれない。だがもっとも避けなければならないのは仲間を作ることであり、徒党を組むことではないだろうか。悪口とは、ひとりで考えて相手に対して発するものであり、誰かと共有することを企図したり、誰かに理解を求めて湿った眼で頷きあうようなものではないのではないだろうか。

一方、わたしの一部エントリの文章のように、社会に幅広く拡散することがうれしくないかというと、うれしくないわけではないし、評価されればうれしい。ただそれを企図することは間違いであって、文章とは、そもそもひとりの読者も要らないし、求めるべきではないのだということを思う。そんなものとはなんの関係もなく、ただ自分のために書いているだけであって、それを経由して社会への経路が結果として偶然ひらかれてしまうことがあるだけで、実はわたしは、それは意思や努力ではどうにもできないのではないか、ということを思っている。

結果として偶然ひらかれたものの結果、友人が得られることはある。仲間の容易さにくらべて、友人をえることは、どうしてこれほどまでに難しいのか。そんなことを友人がいない午後に考える。友人はどこにいるのか。そんなものはどこにもいないのだろう。

2017-07-05

今晩の夕食

小松菜が大量に安く手に入ったので台所で洗っている。葉物は根っこのところに土が入りやすい。土、とわたしは書いたが、それは土に見えるだけで、実際には虫の死骸や排泄物であることも多いだろうということが経験から類推される。よって丁寧に洗う。さらに加熱もわりと念入りにする。野菜を生で食べてよいのだろうかということは、台所を預かるものとしてはいつも気になる。けっきょくインフラが整った現代社会とはいってもバクテリアや寄生虫やウィルスの知識はある程度もって自衛しなければならないということを最近よく考える。海外から入ってきた害虫のヒアリ等やデング熱もそうだが、これまでの常識が変わることもあり、また一方で古くからの思い込みが間違いであったと科学的に証明されるような事例もよく見聞きする。結局、常日頃から読み、考えていなければならないのだろうということを思う。ネットもある程度は頼りになるが、不正確な情報が多すぎ、しかもそれぞれが散逸しており、それを守るべきインターネットサービスプロバイダといえば恣意的にホスティングしていた情報を削除したり改竄したりする現実を見ていると、結局変更や修正に時間がきわめてかかる本という媒体の信頼性は高いままだと思わざるをえないので、料理についての本を集めるようになった。いろいろな料理をするようになって、調理師の免許なども面白そうだな、ということも思うが、残念ながらすでにいま兼業なので、そこまでする時間はなさそうなのがわたしの人生でいちばんの心残りだ。家族のために料理に集中できる人生であればよかったのにということを思う。きわめて残念な話だが、人生というのは、思うようにはいかないものらしい。

結局よく洗った小松菜で、しっかり火を通したオイスターソース炒めをつくった。

2017-07-04

そこだけの夏

シャッター商店街の裏手にあるショッピングモールという名前の零細商店が集まる広場の看板が台風で倒れてから一年が過ぎた。店はそれぞれなんとか営業をしているが、看板はこわれたまま放置されていた。本日クリーニングした衣類を持って帰宅するときその近くを通ると、看板が立っていた柱のところに、シュロの木らしきものが植えられ、蒸し暑い風に揺られていた。そこだけが夏だった。

猫たちは郵便局の前で暑さでだれてぐったりしている。腹が大きいところをみると妊娠しているようだ。次から次へと子供をつくり増えては消えてゆく。草むらにひそんでいる虫たちは秋にむけて食欲が旺盛であり、たくさん食べたものは大きな卵を産むに違いなかった。ひるがえって旧公団住宅は静かで、老人たちしか住んでいない。わたしの家では子供が眠っているはずだったが、あたりは風が吹く音以外はとても静かだ。

夕暮れの強い日差しが路上に斜めに落ちており、どこかで救急車が出動するサイレンの音が遠くにきこえる。アスファルトに自転車の影が落ちている。うつむいた老人たちとすれ違うが、かれらは一様に疲れた顔をしている。なにに疲れているのか。本人にもわからないかもしれない。おそらくわたしも疲れた顔をしている。笑った顔をつくってみると、土に落ちた影がわらっている。きりとられた夏の夕べがやってくる。

2017-07-03

わからないもの

夕暮れが近い。蒸し暑いが、様々なことが片付き、気持的には爽やかな午後だ。某紙の編集長から書評依頼がハガキで来たのでその文面を眺めながら窓の外をみている。

それは「やさしい言葉でわかりやすく書くことを心がけた」という詩人の本だという。やさしいことばでわかりやすく書く、とはどういう意味だろうか、と考える。やさしいことばでわかりやすい文章が、たとえばネットにはあふれているのではないだろうか。読みやすく「共感」しやすい文章が、たとえばネットにはあふれているのではないだろうか。

だがそうすることによって、もっとも大事なことが失われているのではないか。それは「わからない」ことをわかる、というシンプルなことなのではないか、ということを思う。そしてもちろん、「難解な言葉でわざと分かりにくく書く」衒学的な作品のつまらなさ、ということも同時に想起する。どちらがよいのか。

誰でも知っていることばで、わかりやすく書こうとすることは必要だ。だがその結果、文章は必ずしも「わかりやすく」なるとは限らないのではないか。困難に困難を重ねて必死に書いたものが、やはりわかりにくくなってしまう。そういうことはあるのではないか。そういうことを思う。難解さが必然であるような作品はある。そういうものを読みたいし、そういうものを評したい、ということを思う。

思っているうちに日が暮れる。自分のこともわからないのに、わかった気になるものだ。

2017-07-02

夏の大きなお世話

七月になった。だんだん暑くなってきて、夏が好きなので精神的に高揚してくる。どんなものでも書けるし評価もされるような気がする。もちろん気がするだけでまったく評価されない のだが別にいいのだ。なぜならそもそも場が疲弊しており、社会が疲弊しており、個人が疲弊しており、「読む」という営為が縮小しマーケットが滅びつつあるのだから、みなが同じことにくるしんでいて、わたしもまた例外ではなく、その認識自体はそんなに悪いものではない。みな読まれないという困難な時代を生きているということだ。ネットで共感や理解を排除した上でさらになにか書こうとすればそうならざるを得ない。それでいいのだ。

と、いっても別にわたしは悲壮感にあふれているわけでもなく、きわめて楽観的に生きているし今日も書いている。ただ同業者たちの顔は暗く、もっというならネットで明るく振るまう笑顔や「お世話になっております」は暗い。まあ、それはそうだろう。だが敵を間違えずにゆこう。敵は自民党でも、安倍政権でも、都民ファーストでも、民進党でも、共産党でも、ネトウヨでもサヨクでもなく、さらにいうならばそれは親でも、共同体でも、世間体でも、うつくしい国でも、この世に存在するありとあらゆる事象でもなく、それらがあらわすものではない。敵はおもしろいものを書こうとするものを邪魔するなにかであり、多くの場合それは鏡に映った(またはけして映らない)自分自身の像だ。

あなたもまたなにもかもに《この社会》におまえは無意味だといわれているのだろうか。
ここで「汝の隣人を愛せよ」、ということばにジジェクはどう返したか思い出そう。「大きなお世話(ノー、サンクス)」だ。

2017-07-01

《土曜広報投瓶》——「月と光と詩の夜会  詩人:文月悠光さんに聞く」

読者各位

「詩と思想」の青木由弥子氏より告知をいただいたので以下広報します。
席数はあまり余裕がないことが想定されるのでご希望の方はお早めにどうぞ。

ーーー以下、オフィシャル情報そのままーーー

日時:9月8日(金) 18:30 開場 19:30 開演(21時終演予定)
司会:青木由弥子   聞き手:梁川梨里(詩と思想新鋭)

費用:1500円(参加費1000円+ワンドリンク)
定員:20~25名
場所:Title (荻窪の書店)
・JR荻窪駅 北口より青梅街道を西へ徒歩10分 
・JR西荻窪駅 北口より東へ徒歩18分 
・八丁バス停(関東バス、西武バス)から徒歩1分 
*荻窪駅北口・0番、1番、4番乗り場発車のバスなら、
 全てのバスが八丁バス停に停車。
 荻窪駅~八丁バス停は5分程度。

予約はこちらからどうぞ。
https://ssl.form-mailer.jp/fms/bf0898f5516229

ーーー広報ここまでーーー

2017-06-30

夏きたる前の雑記または楽観主義者

金曜日。あまり一般の世間とは関係がない生活だが、土日にむけて仕事の密度は減る。
週末というものはいいものだ。

最近のネットの読者の印象として、薄く広く眺めてみると、短時間で読めるものしか読んでおらず、特定の作家名を帯びず、散逸した状態でも読めるもの(=匿名に類するもの)が好まれる傾向があると思う。読み手知らずの短歌や俳句、あるいは短い漫画はネットに最適な作品ということは言えるだろう。短歌がとくに盛り上がっているという話は某出版社のひとに聞いたが、そうだろうと思う。時系列に読む必要もないし、それぞれ自立している。

わたしのブログ、Tumblr、ツイッターはそれぞれ別々の目的と主題をもって製作しているが、基本的に読者からの反応というものはない。ごく一部の古い読者や一部の読み手に拾われ、それがかろうじて広まったりわずかに読まれたりする以外に、フィードバックというものはない。わたしは短時間で読めるものとは正反対のものを書いており、時代=フォルムに適合していない。と、いうより、適合できないことそのものを書いている、と言い換えたほうがいいかもしれない。

一方、わたしのネットにおける目的というのはシンプルで、ぼんやりとした言い方になるが、「読者共同体」、別の言い方なら読者ベースと呼ばれるものになるだろうか、それを創出していくのが、ブログ、Tumblr、ツイッターでのわたしの仕事ということになる。わたしの尊敬する作家は、長い作品を書いていたので、わたしもそれにならって、長いものを書こうと思っているし、いま書いているし、それを形にするための努力をしている。長い作品が読まれ(う)るためには、読者共同体が存在していなければならない。

また、ここはブログなので正直に書いておくと、わたしは「現代詩の新鋭」という呼称はあるが、自分が詩人とは思っていないし、現代詩を書いているとも思っていない。ただわたしの名前が記された作品群を書いているだけだ。それを第三者が後付けで分類する。それはそれでかまわない。ただネット的なことをついでに書いておけば、わたしは自分のことを作家とはまだ名乗りたくない。特定の雑誌に多少原稿が載ったからといって、その人物は作家だろうか。違う。第三者に書いているものが評価され《続ける》ことだけが作家の条件である。

ブログでも、Tumblrでも、ツイッターでも、雑誌でも、本でも、ありとあらゆる場所で、器用に文体を使い分けることいっさいなく、同じひとつの名前のもとに書いてゆきたいと思っている。ブログやTumblrやツイッターで「読みやすい」文章を求める読者に応えられないのは申し訳なく思っているが、これがわたしの考える読者に対する誠実さだとご理解いただければ幸いだ。

わたしは読者は存在していると思うし、ネットになにか書くことが無意味だという意見には賛成しない。まったくフィードバックがないから、まったく反応がないから、まったくアクセスがないから、だから《無意味》だと言う意見にはまったく賛成しない。書くこと、伝えようとすること、考えること、理解しようとすること、そのどれもが困難であり、そのどれもが貴重な人生の一部であって、書くという一連の姿勢と行為には、わたしたちがいきるこの世界がいったいいかなる場所なのかそれを知るための重要な契機をもたらす可能性があると考える。その程度にはわたしは楽観主義者だといえる。

2017-06-29

マイノリティのわたし

今日もスパムメールが届いている。メールには"I need to be loved"と書かれている。だれもかれもが愛されたがっている。だれもかれもが認めてもらいたがっている。だれもかれもが褒めてもらいたがっている。だれもかれもが意味を求めている。だがそれはけして得られない。だがそれはけして手に入らない。
この社会はマイノリティに冷たい。いやこう言い換えよう。マジョリティに同化しないでとどまっているマイノリティに冷たい。さらにこう言い換えることができる。マジョリティに同化する「ふり」をするみんなのルールを守らないまたは理解しないマイノリティに冷たい。マジョリティはこういっている。なぜ同化しないのか。なぜみんなと同じ顔をしないのか。なぜみんなと同じことをしないのか。なぜみんなと同じ《ふるまい》をしないのか。マジョリティはいつもそういってマイノリティを攻撃している。あるいは攻撃的な抑圧を企図する。なぜそうか。

いや、なぜそうかと問うことには意味はない。そんなものになんの意味もない。ツイッターの《学者》や 《知識人》にまかせておこう。そういったむずかしい話題はツイッターのひとびとにまかせておこう。わたしたちが問わなければいけないのはシンプルなことであり、ごく普通の語彙で表現することができる。それはなぜ愛されたいのかということ。それはなぜ認められたいのかということ。それはなぜ褒められたいのかということだ。それこそを問わねばならずそれは小難しい理論をいっさい必要とせずツイッターで手に入る《学問》や《知識》をいっさい必要としない。なぜならわたしたちは自らのこころに問うだけでなぜという疑問に対する答を手に入れることができる。鏡をみてそこに映るものを見つめるだけでこの世界のすべての答を手に入れることができる。

マイノリティなので今日もつまはじきにあっている。マイノリティなので今日もどこにも居場所がない。マイノリティなので今日も電車で隅に座っている。マイノリティなのでお金がない。マイノリティなので思ったことを書くことができない。マイノリティなので匿名で活動している。マイノリティなのでツイッターでも本音がいえない。マイノリティなので日陰にかくれている。マイノリティなので実家に住んでいる。マイノリティなので黙っている。マイノリティなのでいつも怒っている。マイノリティなので共産党と民進党に投票している。マイノリティなので不具合がある。マイノリティなので人生がいきづらい。マイノリティなので憎んでいる。マイノリティなのでくやしがっている。マイノリティなのでのろっている。マイノリティなのでブログを書いている。

だがしかし敵はどこにいるのか。だがしかしにくむ相手はどこなのか。にくい相手はどこなのか。愛されるためになにが必要なのか。認められるためになにが必要なのか。褒めてもらうためになにが必要なのか。いまここにいる自分のためになにが必要なのか。なにもわからないのでただ生きている。なにもわからないのでツイッターをやっている。なにもわからないのでスパムメールを読んでいる。なにもわからないのでスパムメールに返事をしている。なにもわからないのでloveがわからない。なにもわからないので受動態がわからない。なにもわからないので能動態がわからない。なにもわからないので区別がつかない。なにもわからないので匿名と顕名の違いがわからない。なにもわからないので、なにもわからないので、なにもわからないので、鏡をみている。鏡にはなにも映ってはいない。

2017-06-28

ネットで知りあったひとと会ってはいけない

今日も平等に夜がおとずれる。あるいは不平等な夜がおとずれる。めぐまれているものはめぐまれていることを知らず、まずしいものはまずしさそのものを強いられている。愛されているものは愛されていることを知らず、愛されたことがないものは愛されたことがないというその欠乏自体を知りえない。
なぜネットで知りあったひとと会おうとするのか。なぜひとはネットで出会ってしまうのか。なぜひとはネットで出会ったひととあろうことか性交してしまうのか。なぜひとはネットで尊敬できるひとが現実でも尊敬できると思うのか。なぜひとはネットで知識人のひとが現実でも知識人だと思うのか。なぜひとはネットでインテリのひとが現実でもインテリだと思うのか。なぜひとはネットで頭がいいひとが現実でも頭がいいと思うのか。なぜひとはネットで美人のひとが現実でも美人だと思うのか。なぜひとはネットでイクメンのひとが現実でも子育てをしていると思うのか。なぜひとはネットで料理の写真がきれいなひとの台所が現実でもきれいだと思うのか。なぜひとはネットで高収入を自慢しているひとが現実でも高収入だと思うのか。なぜひとはネットで性器の大きさを自慢する男が現実でも性器が大きいと思うのか。なぜひとはネットと現実に共通項を求めてしまうのか。なぜひとはネットで《理解》を求めてしまうのか。

それはさみしいから。それはかなしいから。それはひとりぼっちだから。それは現実に居場所がないから。それは世界が不公正だから。それは世界がアンフェアだから。それは繋がりがうしなわれているから。それは連帯が損ねられているから。それは《世界一の国》が夢まぼろしだから。それは《うつくしい国》が存在しなかったから。それは共同体がこわれているから。それはコンビニのおにぎりが値上げされたから。それは人口減少で地元のバス停の運行が削減されたから。それはつい先日までたのしくみていたビデオ配信サービスが日本企業に買収されてしまったから。それはネットでしか威張ることができないから。それはネットでしか知識人のふりができないから。それはネットでしか格好いいことがいえないから。それはネットでしか自慢ができないから。それはネットでしか楽しさが見いだせないから。それは現実になにひとつ楽しいことを見つけられないから。それはなによりも現実から逃避したくてたまらなくて逃避先ですこしでもいいからくるしみから逃れる麻薬がほしいから。それはネットにだけ麻薬があってネットにだけ人工甘味料があってネットにだけ孤独をいやしてくれるなにかがあるように思えるから。

ネットで知りあったひとと会ってはいけない。ネットで知りあったひとと会おうとしてはならない。ネットで知りあったひととつきあってはいけない。ネットで知りあったひとと性交してはいけない。ネットで知りあったひとと結婚してはならない。ネットで知りあったひとと交流してはならない。無理なのです不可能なのです。なにもかもが嘘でごまかしなのです。なにひとつ楽しくないのですなにひとつうれしいことなどないのです。なにひとつすくいなどないしなにひとつゆるしなどもないのです。なにもないからつい会いたくなるのはわかります。なにもないからついネットで出会ったひとに理解を期待してしまいます。だがだめなのです無理なのです。あなたの願いはけしてかなうことはないのです。あなたはえいえんにひとりぼっちなのです。あなたはそこでかわいてゆくしかないのです。あなたはそこでひとりでいきてゆくしかないのです。この世界でネットですべての人間とつながっていながらだれにも理解されずひとりぼっちの場でいきていくしかないのです。なぜならなにもかもが嘘だらけでそれを避けることができないからですそれを拒むことができないからですなぜならなぜならなぜなら《わたし》こそが嘘を求めているからなのです。

だからネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとを信用してはいけません。ネットで知りあったひとを愛してはいけません。ネットで知りあったひとをゆるしてはいけません。ネットで知りあったひとを尊敬してはいけません。ネットで知りあったひとを知ろうとしてはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ああ、インターネット、おまえの孤独はだれにもいやせない。

2017-06-27

当たり前のことたち

忙しくしていたら深夜になっていた。今日の夕食は鳥のささみを使った炊き込み飯で、時間がなかったので仕上げには失敗したが、それなりの味。それからセールで見つけて買ったその日に味噌につけておいた豚ヒレ肉をグリルで焼いたもの。それから大根の味噌汁。

料理には、冷蔵庫の中身を把握すること、いまある食材を使う予定を立てること、コスト管理をすること、調理すること、生ゴミの処理方法を考えておくこと、等の様々な要素があり、人生にとって必要な気づきを与えてくれる、わたしにとって貴重な作業だ。

最近の気づきは、台所や調理器具は常に清潔にしておくことが大事とよく言われるが、その実践は大変だということ。それには常日頃の努力が必要なのだが、それは「当たり前のこと」として毎日やるもので、矛盾するようだが、努力が必要と思ってはならないこと、必ず、毎日、息を吸うようにやらなければ続けられないのだ、ということだった。

大事なことは毎日やらなければならないし、努力などということばを意識から徹底的に排除したうえで、当たり前にやらなければならない。というより、そうしなければ疲労してしまって続けられない。「がんばり」や「努力」はひとを疲労させる。当たり前にやるしかない。毎日、当たり前のことを当たり前にやるしかないのだ。わたしは以前それは才能だと書いたことがあるが、一方、これは後天的にかくとくできる技術だと思う。

どこかで野菜が腐っている。ひとは、努力によって変わることができるだろうか?

2017-06-26

光のつよさ、夏のつよさ

暑さがましてきている。窓から斜めに差し込む光の強度があがっている。光のつよさは夏のつよさで、夏にきりとられた部屋ではさまざまなことが起こる。

昔、四季のない熱帯の島国にいた頃は建物はすべてコンクリート製で木造家屋などは見たことがなかった。自然が過酷なので、木造では長いこと家屋が持たないからだ。熱帯では地震もなく台風も赤道直下のため来ない。このため石造りの建物は英国の植民地だった頃から多くが残されていて、当時の雰囲気をそのまま伝えていた。

コンクリートの建物は昼間のうちに日光をあびて熱を蓄え、夜中になっても熱を放射し、寝室も居間もとにかく壁が暑く、海からの風が吹いてこない夜などは、何もしていなくてもだらだらと汗がながれた。

当時の知己のひとりXは寝るときにはいつも下着をつけないで裸で寝ているの、と言っていたことを憶えているが、おそらくからかわれていたのだろう。なにしろXは近くのマンションに住んでいて、わたしのいた棟から彼女の部屋はさほど遠くなかったはずだったからだ。

住んでいた部屋のベランダに出ると眼下には遠く水平線が見え、未開発の野原が広がる側に、彼女が住むマンションがぽつんと建っていた。ある日、何かの用があって、居間の電話からXの家に電話をした。窓の外には焼けつくような日が落ちていた。

しばらくコール音がして、やがてXに似た声の女が電話に出た。「Xはいないわよ」と女はいった。わたしはいっしゅん戸惑い、Xの住むマンションの方角をみる。陽炎のあちら側のどこにXの部屋があるのか、当然わかるはずもなかった。「Xはもうどこにもいないの」と、女は続ける。なにもかもが、あなたのせいなのよ。

2017-06-25

事後の場所

週末にショッピングモールに出かけた。郊外のショッピングモールはここで何度か書いたように愉快な人々であふれているが、もちろん自分もその一員であるほかなく、所与の条件から自由であるかのようにふるまうことはおろかだというほかない。別の言い方をすれば日本にいながら日本人であることから自由であるかのようにふるまうことは滑稽だということになる。安全な場所などない。

さて本日は三ヶ月になった子供をともなっての外出だった。ベビーカーではなくベビーキャリアを使った。よく外にゆくとリュックサックを背負って子供を前に抱いてさらに両手に買い物袋をぶら下げた母親を見かけるが、あれがどれぐらい大変かということはやってみなければわからない。ベビーキャリアで六キロちかくある物体を持ったまま買い物をする、ということがどれぐらい大変か、今日はそれを学んだ。そして夏は暑さ対策が大変だということも。汗まみれになってとてもかわいそうだった。

へとへとになって帰ってきてすこし休んだが、あまりに疲れたので子供の身体を洗ってミルクをやってから気絶するようにすこし眠った。ソファで家内にあやされる子供の顔をみていて感じるのは、きっと時がたてば、この時の大変さはいい思い出になるのだろう、というぼんやりとした予感だ。子育てに関与できないとくに男親は、子供を愛する契機の多くを奪われているということを思う。大変なことを苦労しながらすることは、けして悪いことではないのだ。子育てから逃げて仕事に逃避していたかつてのわたしは、恥ずかしい人間だったということを思う。だがひとは、「ほんとうはこうすべきだった」と、《事後》に気付くのだ。なぜなら理解とは苦い喪失を経ないとあらわれないものだからだ。

いつでも事後の場所にいる。痛みや愚かさから自由な安全な場所などない。

2017-06-24

月の影

土曜日になった。外はよく晴れている。今日は都心で会合があるのでその準備をしている。原稿を印刷したり本を準備したりといったことだ。けっきょくどんな分野の仕事も会社員の身振りでビジネスライクにやらざるを得ないが、情熱がある分野というものはある。とはいってもいくら情熱があっても読者がまったく付いてこない作風というものもあり、それはそれでわたしの努力の範疇を越えた宿命というか、より一般的な言い方をすれば「仕方がない」ことであって、それに関して文句をいうのは既存の読者に失礼だというようにも思っている。わたしは人間としてどうしようもなく駄目な存在で、正直なところはやくこの世界からいなくなりたいとしか思っていないのだが、文章だけはそれなりにまともなものを書いているので、これで社会に(間接的に)恩返ししてゆくのが筋なのだろうと思う。もっとも「読者」というのは届かない他者のことであって、湖面に映った月の影のようなもので、触れることはできないし、触れたしゅんかんに崩れてしまうものなのである。話せない、語れない、わかりあえない。読者のみなさん、こんにちは、根本正午です。

2017-06-23

偽の生活

梅雨の湿気が街を覆っている。外国で買ったコートをクリーニングに出そうとしている。タグが外国語で読めないので引き受けられない、と受付の老人はいっている。日本語か英語じゃないとね、といわれている。そうですよね と回答し、服を持ち帰ることにする。

コートは真冬になると壁のような吹雪に襲われる街の市場の一角で買った。野外市場には凍りついた土にじかに座り込んだ老婆や子供がおり寒さに震えながらものを売っていた。店にある蒸し器からは真っ白な蒸気が吹き出して視界を遮っていて、道のあちこちに屠殺された獣の血が凍ってへばりついていた。

このあたりの霧が多い郊外にあるスーパーにも外国人がたくさん働いている。最初は台湾の人かと思ったがベトナム出身のようだった。だがかれらにいっさい話しかけることなくレジに並ぶ。同じ列には子供たちが並び、わたしの髪の毛の色をみて話しかけたいような顔をしている。結局、クリーニングに出すはずだったコートを家にもってかえる。日本語でものを書くのは、日本語が満足に理解できないからなのだ。

2017-06-22

優しくないものたち

仕事の合間に買い物に出かけて夏物のスラックスを何本か仕入れて、職場に戻ってきて自民党の女性議員が暴言で辞職したというニュースをみている。テープも一部聴いてみて、あまりのひどさに正気を疑ったが、いったいふだん職場たる自民党ではどんなひどい目にあっているのだろうと思ってしまう。プライドや尊厳をあらゆる意味で踏みにじられる非人間的な職場に勤めていなければ、自分よりも弱いものをここまで執拗に攻撃しようとはしないだろう。人間、自分がやられたことしか、ひとにできないものだ。

こうした負の連鎖は止めることができないし、たとえば自分が誰かに寛容にしたとしても、それを相手が感謝するかというとほとんどそんなことはなく、むしろ舐めてかかってくることがほとんどで、さらにいえば「優しさ」に甘えてもたれかかってくることがほとんどではないだろうか。つまり人間、嫌なやつになって、自分のいいたいことだけをいって、相手のいうことはいっさい耳を貸さず、怒鳴り散らしてひとにいうことを聞かせる人生がいちばんお得……ということかもしれない。そう思って苦笑してしまう。

上記と矛盾するようだが、わたしは、どこかの作家が言っていたが、優しいひと、が最終的には勝つと思う。舐めているひと、思い上がっているひと、馬鹿にするひとを打ち負かすと思う。現実をみればそんなことはない、と読者はいうかもしれない。それはわかる。だがそれでも、わたしは優しさを守り抜けるひとこそが強いと思うし、人生の究極的な一面において、優しいひとこそが最終的に幸せに生きられるのだ、と思っている。ひとを傷つけることでしか自らの傷をいやすことができないひとたちは、端的にいってかわいそうなのだ。

2017-06-21

交差点の女

ひとが歩く速度と同じ速度で雲が南から北へとながれている。もちろんそれは錯覚にすぎない。遠くにあるためひとと同じ速度のようにみえるだけで実際にはもっと速く動いている。わたしは交差点で自転車に乗って信号が変わるのを待っている。信号はなかなか変わる気配がない。昼間に降った大雨はすでにながれて水たまりは強風に吹き飛ばされてなくなり、ちぎれた雲のあちら側に沈む夕日の光がもえあがるのが見える。道は濡れていてそこに枯葉が散らばってへばりついている。わたしの隣、路上では髪の毛を紫色に染めた若い女が車中で口紅を直している。後部座席には乳幼児が窮屈そうにシートに収まっている。運転席には疲れた表情の男がハンドルを握っている。女はわたしをちらりと見て目をそらした。子供のほうは生まれておそらく三ヶ月ぐらいだろうかよく眠っているようだ。待っている間に、午後五時になると鳴り響く時報が聞こえてくる。あたりはすでに夜のように暗い。闇に溶ける精悍な肌の色をしたアジア人たちが道の反対側を自転車で走ってゆく。どこかで老人が咳き込んでいる。信号が青に変わる直前、女がまたわたしを見た。そして真っ赤な唇をひらいて何かを言おうとした。どこかで会ったことがあったか、とわたしは思う。だがそれを思い出す前に信号が変わり、あちこちがへこんだ車に乗った女とその家族は、わたしを置き去りにして道の彼方へと消えていった。

夜がふたたび訪れる。ようやく待ち望んだものがやってくるのだ。

2017-06-20

虚栄の詰まったずだ袋、またはGoogle+を辞めた理由

ネットでは無限に嘘がつける。嘘の真偽を検証する方法はない。先日、わたしはとある恥ずかしい事件があってGoogle+というSNSを辞めたと書いたが、結局のところ、それ以降ネットの上でのすべてのやり取りを中止することになった。それから三年、コメントやコミュニケーション機能を意図的に排除したTumblr等でしかネットでは書いてこなかった。

どうでもいい話、つまりきわめてプライベートな話になるが、なぜ辞めたかというと、とある作家のことを読んでいないのに読んだと書いてしまったから、というシンプルなものだ。きわめて恥ずかしいことで、それ以上でもそれ以下でもないが、ひとつはっきりしているのは、ネットはそういう知的な不誠実さを実行するのにもっとも適した空間であるということだ。

一方、読者はこう言うかもしれない。現実においても知的な不誠実さが横行しているではないか。たとえば、野心で眼を輝かせた若者に「きみはXを読んだか」と聞いたら、「読みました」と精一杯の嘘がかえってくるではないか、というかもしれない。そのとおりだ。若者や未熟者が知らないものを知っていると強がるのはいい。だが、その若者は次に会うときまでにそれを読んでおく必要が生じるだろう。嘘をついてしまったら嘘を守る必要があるからだ。

ネットではそうではない。いつでも嘘がつける。いつでも嘘をごまかせる。いつでも嘘を塗り重ねることができる。次から次へと嘘を糊塗することができる。誰もそれを検証などしないしできない。ここまで読んで、読者の脳裏に浮かんでいるAからZの人気ブロガーや「知識人」たちの顔をわたしも共有しているといわねばならない。だがわたしは彼らを批判する気にならない。ネットにとどまればそうなってしまう。虚栄の詰まったずだ袋になってしまう。それは避けられない。

その時、わたしはSNSから完全に去ることにした。それはGoogle+で巡り合った貴重な友人たちとも永遠に別れることを意味した。それはつらい選択だったが、他に選択肢はなかった。不可避的に生じる嘘への衝迫、衝動、欲求、これらから誰もが自由ではないことはたとえばツイッターをみれば明らかで、ひとにとって自然なこうした欲求を受け入れてネットという現代を楽しむ、という姿勢はありうる。だがわたしはそうした道は選べそうにない。

自分の言いたいことを書いて市場の流通に乗せること、商業的な価値がないかもしれないものをつくってゆくこと、現実社会に無視されるかもしれないものをつくってゆくこと、これをネットとネット以外の貌をもった現実の相反するふたつの場で行うこと、それがわたしのすべきことであり、していることであり、今後もしてゆくことだ。

だがさみしさはある。Google+はいいSNSで、巡り合ったひとびととの絆は貴重なものだった。わたしが自らの愚かなふるまいでそれをうしなったことを後悔している。それをここに書いておきたかった。

2017-06-19

真剣な病気

書くのは楽だが校正はつらい。夜になって、ふたたび机に向かっている。それしかできないので、家事以外の時間は机に向かうしかない。印刷し、再読し、間違いがあるかどうか確認する……のだが、読み返す気にならない。もっとはっきりいうと読み返したくない。

だが仕事なので仕方なく読み返す。携帯端末で読める文章を書くのもいいが、手に取れる物理的媒体としての紙の雑誌や本もやはり必要だ。過去十年、わたしは紙媒体にする努力をどちらかというとさぼってきた。そのつけをいま支払っているということになる。

努力、というものは、正しい方向でやらなければ、ただ時間が浪費されてしまう、と頭の表層では思うが、「無駄」とか「浪費」といった単語に過度に反応してしまうことこそが避けなければならないことで、むしろ無駄なものこそがおもしろいといわなければならないのだろう。

机で原稿を読み返していると、外を十代の少年たちがなにやら奇声をあげながら走ってゆくのが聞こえる。おそらく楽しくて仕方ないのだろう。だが外からみればそれは病気にすぎない。真剣に無駄なことをする、それもやはり病気というほかない。

2017-06-18

兼業主夫の日曜日

だんだん暑さが増している。キッチン用に布巾を何枚か買った。コンロ用、床用、テーブル用ととりあえず三種類に分ける。そしてコンロから掃除する。コンロは油汚れが付着しており、泡立てた洗剤を使って溶かすと非常によく落ちる。以前は専用の洗剤を使っていたがちゃんと泡立てれば「キュキュット」で十分だ。終わってから一度手を洗浄し、消毒してからミルクを作りはじめる。

ミルクは沸騰したお湯でなければならず、哺乳瓶は薬液に漬けて殺菌しておいたものを使わねばならない。作り置きは雑菌が発生するのでできないため、毎回新しく作ることになる。ミルク専用の薬缶を買ったのでお湯を沸かす間、テーブルと床をそれぞれ別々の布巾で拭く。

そこまでやって子供が泣き始めたので、おむつを確認し、変える必要があるようなのでこちらを優先して交換を行う。脱がし、かぶれがないかどうか目視して、おむつを専用の容器に捨て、新しいおむつを履かせ、手をふたたび洗浄、消毒し、沸騰したお湯でミルクを作る。飲ませる。飲ませるのにも20分ぐらい。さらにげっぷをさせないと吐いてしまうことがあるので背中を優しくたたいて胃の中に入った空気を出させる。

げっぷするとだいたい眠りにつくことが多いが今日は眠らなかったので、背もたれがあるソファに上半身を起こして座らせて一緒にホラー映画を見る。もっとも見ていたのはわたしだけで子供はすぐに眠っており、テレビの前でひとりでクライブ・バーカー最高などとつぶやきながら「ミッドナイト・ミートトレイン」を途中まで見て飽きる。

外は暑く、日差しが強い。わたしはそっと立ち上がり、音を立てないように夕食の準備を始める。トマトをざっくり切ったものをボウルに入れ、これにケチャップと酢と砂糖を混ぜて適当なソースを作り、これをチキンサラダにかけて食べようと思う。そしてまな板の前で、そういえばブログを書いているのだったと思う。

そういえば他にも意味のないものをたくさん書いている。だが意味のあることがあるだろうか。掃除や料理に意味があるだろうか。子育てに意味があるだろうか。意味などないというほかない日曜日がこうして過ぎてゆく。

2017-06-17

勝嶋啓太の詩を紹介します

薄曇りの道を予約したケーキをぶらさげて帰ると、郵便ポストに、某クラブで知り合った詩人・勝嶋啓太氏より朗読会の招待状が届いていた。わたしは氏の作品が好きで、ゼロ年代に青春を過ごした、あるいは現在進行形で青春をおくっているひとびとのこころに鋭く刺さるのではないかと思う。招待状には詩がひとつ、新作と思われるものが同封されていた。

ぼくたちは もうずいぶん長いこと 歩いてきたのだ
だけど
いまだにどこにたどりつくのか
さっぱりわからない
わからないまま

ぼくたちは もうずいぶん長いこと 歩いてきたのだ

(///)

ずいぶん前に 誰かが
そろそろ もどった方がいい と言ったが
ぼくたちは それは間違ってる と思っていたので
無視して 前に進んできた
でも

今は もう もどりたい とぼくたちは思っていた

(///)

もう みんな 前に進むことに うんざりしていたのだ
しかし もどろうと 後ろをふりかえったら
そこには なにも なかった

ぼくたちは もう もどれなくなっていたのだ

勝嶋啓太 「ぼくたちは もうずいぶん長いこと 歩いてきたのだ」


「前」はどこか。それにむかって進むことはわたしたちを幸せにしたのか。前にたどりついたわたしたちは幸せになったのか。そして前にすすむために犠牲にしたものたちはどうなったのか。よそ見をしないでまっすぐ進んできたときえらばなかった脇道にはどんなうつくしいものがあったのか。この詩はそういう問いをわたしたちになげかける。氏の作品にはどれも、「いま・ここ・わたし」についての同時代性が色濃く出ていて、読んでいてつらく、直接こころに届く平易な(意図的に選択された)文体は、幅広い共感を得られるのではないかと思う。

詩を音読して、「そうだ、なにもなかったな」とつぶやく。そう、そこにはなにもなかった。そしてもどることもできない。そのつらさは、現代に生きる(そしてひょっとしたら他の先進国に生きる)数多くのわたしたちの人生に共通するものではないかと思う。いきることは失うこと。そして失ったことそのものを失うことなのだ。

2017-06-16

雨の中の花

仕事をふたつこなし、子供が生まれて100日が経過したのでお祝いのために買い物に行った。スーパーのレジに並んでいたとき、ガラスの外の雲行きが怪しくなり、後ろに並んでいた主婦たちが「ゲリラ豪雨ですって」と誰かと携帯で電話をしている。ゲリラも豪雨もいずれもかなり乱暴な印象をうける単語だが、東南アジアでは一般的にこうした突発的な雨はスコールと呼ばれ、驟雨や夕立といった単語よりもわたしはそちらのほうが好きだ。そもそもこうした突発的な豪雨が増えたのは温暖化と呼ばれている気象変動のせいだと理解しているのだが、わたしたちの国も少しずつ熱帯化していくのだろうか。南極や氷河の氷がとけてあちこちが亜熱帯化して生態系が変わってゆく悪くない未来なのかもしれないが、あちらの動植物は毒が強いものが多いので、そういう意味ではかなり過ごしにくくはなるように思う。ただ雪で毎年亡くなるひとを報道でみると、雪も同じぐらい危険なのではないだろうか。いずれにせよ思ったとおりにいかないものだ。そういうことを思いながら、レジを出て、真っ黒な雲をガラスの内側から見上げる。レジ近くの花屋でとても無愛想な店員から小さな花を買った。家内は花と子供の写真を撮って友人に自慢するそうだ。ガラスが風で揺れている。わたしは花を折ることなく、家にかえることができるだろうか。頼まれたこと、委ねられたことをやりとげることができるのだろうか。

2017-06-15

意味のない千の夜

今日もずっと机に向かう通常通りの一日だった。暑くもなければ寒くもない。わたしもすべてのひとと同じように仕事はしているがそれ以外にはなにもあたらしいことはなく、なにも古いものもなく、ただ時間が浪費されている、ような気がする。もちろん時間というのは浪費できるものではない。そんなことをいえば人生そのものが浪費にすぎず、ただ生Aから死Yへ向かう動きの影にすぎないはずだが、いつでも意味を求めたがるものだ。

赤ん坊をみているとこの子はどこから来たのだろうと思うしどこか敬虔な気持ちになるが、しょせん死んだら土になるだけでありそれは道で死んでいる猫や犬となにが違うのかと自問するとなにも違わないという答が自分のこころからかえってくる。冷蔵庫の中には獣を殺してさばいた肉がたくさん冷蔵保存されていて夕食には豚肉を食べた。殺して食べる。食べなければ死ぬ。食べても死ぬ。赤ん坊はミルクを飲まねば死ぬが飲んでも病気で死ぬ。

ニュースでは、幼稚園で二人の子供が感染症で死んだ、と伝えている。自分が親だったらどうするか。いや、自分は果たして親なのだろうか。そんな資格があるのか。戸籍上は親だがいつから親のような顔をしはじめたのか。あなたにそんな資格があるの、このひとでなしとわたしを責める声がきこえる。

窓を閉める。なんの意味もなくとも、仕事をしなければならない。

2017-06-14

枠組の外

豚肉を味噌につけたものを強火で炙った一皿をつくった。とても美味だったのでまた仕込んでおこうと思うが、フライパンによって仕上がりが結構異なるので、これだけ情報が氾濫しているのだから、調理器具の素材別特性について書いてくれたウェブサイトはないかなと思うが、いまのところ見つけてはいない。料理に関する本はすこしずつ集めているのだが、これといった決め手にかけている。最近、お湯の味、というものをはじめて意識する機会があった。子供が特定の薬罐でつくったミルクだけ飲まない、ということがあったのだ。それで実験して味を比較してみたら一方は鉄くさく、もう一方は無臭だった。意識するとすぐにわかる。ふだんは「別に違わない」と思っているから違いがあるけど見えないのだ。つまり、みようとしなければ、そもそも違いなどは存在しない。違いというのはファクトではあるはずだが、それは意識にのぼらなければ存在しないのと同じなのだ。

けっきょく気付きというのは、自分の知らない、外の意外なところからしかやってこないのだと思う。作品もそうだが、さまざまなひとに読ませてみてはじめて理解しうるものもある。ネットではまったく無視されていたものが評価されることもあるし、一方、その逆もある。ある瞬間に壁をこえる経験はおおくの成長をする書き手が経験することでもあるしわたしも経験があるが、そうしたブレイクスルーは、同じことをやっていることだけではけして得られないものであったりもする。もちろん、同じことを続けることも必要だ。だがいつもと違う道を歩いてみる必要もある。わたしが思うのは、いつもと同じことを維持しつつ、新しいことをやる、つまり両方やらねばならないのではないか、ということだ。現在のわたしにとってブログというのは、いつもと違う道でもあり、いつもと同じ道でもある。外部はどこにあるか。それは特定の雑誌やグループ、またはネットのなかにないことだけは確かだ。外へゆきたい。

2017-06-13

ある冬の夜とM・Sさんの思い出

――なんであんたは男なんだよ、と彼女はわたしにいった。あんたが女だったらよかったのに。ともだちになれたのに。

その夜は冷え込んでいた。外を冷たい風が吹きつける音がする。カーテンは閉じられていて、窓はがたがたゆれていた。わたしは仕事を終えて、ヒーターの前でかじかんだ指をあたためている。小さな電気ヒーターは、仕事部屋全体をあたためることはできない。キーをたたきすぎて爪が割れ、指先は麻痺している。作業に集中していると、寒さも痛みもなにも感じないまま数時間が経過していることがある。それらは終わった時、まとめてやってくる。わたしはその夜、部屋が冷え込んでいることにようやく気付き、ぶるぶると震えながら、マウスを操作して、ブラウザで古いメールを開いた。それはちょうど数年前のその日、彼女に送ったメールだ。

ーーあなたがいなくなって、さみしく思っています。

彼女とは、Google+というSNSに参加していた頃に知りあった。わたしと彼女はそれなりに親しくしていた。わたしは彼女の本当の名前や、職業は教えてもらっていなかったが、わたしはなぜか彼女のことを友人だと思っていて、彼女からも無形の好意のようなものを感じていた。ゼロ年代からネットにいるような読者なら経験があると思うが、ネットでは、ひとはふと誰かとめぐりあって、相手の気持ちをなぜか理解してしまったりすることがある。そして名前も知らないまま、いつのまにかほんとうの友達になってしまったりすることもある。彼女とはそういう関係になれるような気がしていた。もちろん気がしていただけで、わたしが間違っていたのだ。

彼女はある日、だれにもなにも説明せず、とつぜんネットからもSNSからも姿を消した。わたし本人も、その後とある恥ずかしい事件があってからGoogle+からは完全に撤退することになるのだが(そのうち書く機会もあるだろう)、当時、彼女がいなくなったことをとても寂しく思った。そして同じように感じているひとが他にもいたことを知って、しばらくしてから彼女にメールを送ったことがあるが、もちろん返事はなかった。これから会うこともないだろう。ひとが付き合いをやめる理由はさまざまなものがある。それを詮索するのは、たぶんやってはならないことなのだ。出会いもあれば別れもある。だが……彼女との別れは、どこか気になって、こころのどこかにひっかかっていた。

ある時、わたしが契約している動画サービスで、趣味のホラー映画鑑賞をしていた時(わたしは居間でこうした動画を見るのが好きだ)、あるアニメ作品を見かけた。それは「僕は友達が少ない」という作品で、その時わたしは、彼女がまだSNSをやっていた頃、何度もこの作品をわたしに見てほしい、ぜひ感想を聞かせてほしい、と繰返しいっていたことを思い出した。ついでにいうと「原作の小説を読むように」と彼女はなんどもくりかえしていて、このひとはなぜこんなに強烈にこの作品を推すのだろう、と不思議に思っていた。結論から言うと、わたしはそれを観なかった。他にさまざまな問題を抱えていた当時のわたしは、それをさして重要なものだとは思わなかったのだ。

わたしはその作品を夜中までぐらいまでかけて観た。それは「友達が少ない」高校生同士が友達をつくるための部活をつくる、という内容のコメディ作品だった。とくに興味を引いたのは、かつては幼なじみだった男女二人の物語だったが、幼い頃、女は自分の性別を隠して男として相手と付き合っていた。つまりその頃二人は「友達」だった。だが、高校生になり、女は女にならざるを得なかった。よって、友達に戻ることはできず、過去の友情も取り戻せず、そこには新たな男女の関係を模索するほかないくるしい現実が待っている、という筋立てで、その喪失感には奇妙な手応えがあった。表向きはコメディを装っているが、これは男女間の友情についての物語なのだ、ということを思った。

わたしは消えたテレビの前に座っている。朝はまだ遠い。もうすこしはやくこの作品をみていれば、彼女は突然消えたりしなかったのではないか、という直感めいた思いがあった。もちろんそれは仮定の話にすぎないが、ひとつだけ間違いないことは、当時わたしはこれを観るべきだった、そして彼女にその感想を伝えるべきだった、ということだった。本を友人に送るということは、その本の記憶を共有したいということ、あるいはそこに書かれた物語についてともに考えるということにほかならないはずだった。それはかけがえのない機会であり、絶対に逃してはならないものだったのだ。

男女の間に友情など成立するはずがない。だがそれを求める気持ちがあって当然ではないか。わたしも当時それを求めていた。わたしが欲しかったのは不特定多数の夜の相手ではなくひとりだけでよい友達だったのだ。そのことをいまある痛みとともに思い出す。性差をこえた理解や共感がなければ、いくら夜の相手がいたとしても、わたしたちは死ぬまでひとりぼっちなのだ。そしていつも、「すべきだったこと」をその時知ることはできない。かならず後になってわかるのだ。自分は、ほんとうはこうすべきだったのだ、と。

窓は曇っている。夜は、いつ明けるのだろう。