2017-09-24

海東セラ「屋根雪」(『Rurikarakusa』 6号所収)

詩誌「Rurikarakusa」を頂いた。詩人三名(花潜幸、草野理恵子、青木由弥子)による合同誌だが、今回はゲストとして「屋根雪」という詩が収められていた。屋根に雪が積もる環境に住んだ経験はないが、家屋のすぐ外にさまざまな感情が堆積し雪と混ざりあって氷となり、それぞれの凍り付いた声が窓からひそかに入り込んでくる風景はきわめてグロテスクで、2017年の社会を想像力で捉えた姿としても読める。

「あの時覗いていたじゃないか」「耳を動かす手品はおじさんの方がうまいよ」「袋だけで跡形もないなんてねえ」「鼠を殺した犯人は別にいるさ」——。いびつな氷塊たちの声の質はさまざま。その時々の家族の感情、家の汚辱などを、屋根や窓越しに吸いとっていたのかもしれませんが、どれも心あたりがあるようでない言葉です。 
「屋根雪」 海東セラ

家屋の窓は外の異界と家の中の現実をつないでいる。わたしたちが日常的に使っている携帯電話にも小さな窓がついている。窓は現実と「あちら側」の存在しない現実をつないでいる。その経路から様々な負の感情が声としてあふれ出てくる。「家」の中にいれば安全かといえばそうではない。なぜなら、安全な家を守るために家から廃棄され、追い出され、埋葬されずに放置されたものたちが外にはあつまり、凝固し、家の住民を脅かしている。自らが産みだした悪意の集積場たる現実から安全な場所などない。

2017-09-23

週一育休

題名のための本日の更新はお休みとなります。

2017-09-22

無題(承前5)

風が少し冷たい。影もすこし柔らかくなり、枯れた葉がこすれる音がさらさらと頭上から聞こえる。世の中は大きく動いているが、自分の周りについていえばいつもと何も変わっていない。自分以外のものだけが変化してゆき、どこかに取り残されている。そういう感覚がどこかにあるが、おそらくそれを多くのひとが共有しているだろうということは肌感覚で理解できる。これを克服するために「怒り」を用いるひとびとがいる。わたしはそれを批判する気にはなれないが、真似をしたり推奨したりすることはできそうにない。なぜなら、怒りは、それを向けるべきではない弱いものを、踏みつぶして、殺してしまうからだ。怒りは、敵ではなく、自分の身近にいる人間を、まず最初に傷つけてしまうからだ。

2017-09-21

無題(承前4)

机に向かっている。それ以外にすることはない。

2017-09-20

無題(承前3)

秋が深まる。知己がアップロードしていた彼岸花の写真を見た。もうそんな季節なのだ。うちの近所にも咲いているはずだがまだ見る機会がない。毎日机などに向かっているからだろう。少し外に足を運ばねばならない。

2017-09-19

無題(承前2)

激しい頭痛に襲われている。三連休があけて天気は晴れ、少し暑さが戻ってきた。一日ずっと机に向かっていた以外に、とくに何も書くことはない。

2017-09-18

台風のすぎた島々

台風が去っていった。空はおそろしく青く、雲は吹き飛ばされた。

2017-09-17

深夜の離乳食

子供を寝かせて、深夜にひとりで離乳食をつくっている。かぼちゃの皮を分厚くそぎ落としたものを角切りにし、たっぷりのお湯で茹でる。ゆで汁を別にしておき、消毒したざるで裏ごしする。裏ごししたものを清潔なスプーンで密閉できる小分け容器に移す。移したものを少し冷ましてから冷凍庫へ保管する、といった工程。なにも考えない。ただ手を動かす。この世のすべてのものがそうであるべきではないか。だが、思い出すことは止められない。思い出したくないことを思い出すことは、この世のだれにも止められない。

2017-09-16

週一育休

皆様もよい三連休をお過ごしください。

2017-09-15

悪意のバーゲンセール

風邪を引いた。

2017-09-14

無題(承前)

ようやく木曜日が終わり、今週の激務も終わりに近づいている。今週は重い案件が立て続けに入り、それ以外にも年末にかけての大型企画の準備はずっと続けなければならない。なにかを削りたいが、なにも削れない。だがすべて自分で選んだことなので自分で続ける他はなく、黙って机に向かっている。

2017-09-13

無題

しずかに机に向かっている。とくに書くことはない。

2017-09-12

小さな世界

ふと気がつくと、多くのひとがプライベートモードでSNSをやっている。確認してみたら身の回りの1/4ほどがプライベートモードになっていた。怖いのだろうと思う。以前書いた通り、そしてその状況は2017年になってもまったく変わっていないが、インターネットで取りうるもっとも安全で賢い方法とは公の場でいっさいかたることなく、意見を言うこともなく、口をつぐんで過ごすことである。ただし、書くことを生業としている者には責任がある。だがもちろんブログやSNSで発信する以外にも責任を取る方法はいくらでもあり、わたしはブログが好きだからブログで書いているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。さて、今日は朝からこの時間まで仕事を続けて疲れたのでこれぐらいにして、腹立たしいほど小さな世界よ、また、明日。

2017-09-11

プールの思い出

ツイッターでプールについての書き込みを見かけた。昔カリフォルニアに出張した時、スーパーに自宅プール用の塩素がふつうに売っていた時には日本人として驚いたが、一方、熱帯では比較的プールは一般的だ。というのもとにかく暑いので、一軒家の庭でも、それからマンションの共有部分でも、プールを設置することは珍しくない。泳げなくなる季節の冬もないのでメンテナンスも楽で、365日使える。わたしが子供時代に住んでいたマンションにも共有プールがあり、他にひとがいない時も多く、ほとんど貸切状態で自由に使わせてもらっていた。原則プールはほとんど野外なので、夜に行って水に浮かんでいると夜空に閉じ込められたように感じられる。いま考えると監視員すらいないプールなど日本では考えられないが、誰もいないプールで泳ぐのは楽しく、その時のことをたまに思い出している。

2017-09-10

とくに書くことのない日記

「この世界」をあらわす適切なことばをさがしている。だが見つからない。いや、けして見つけられない。

2017-09-09

週一育休

週に一度はお休みさせていただいています。

※Tumblrの後継企画、『千日詩報』もよろしく。→こちら

2017-09-08

ゴミはゴミ箱へ

「ゴミはゴミ箱へ」と手書きで書かれた箱をみている。ゴミ、は、ゴミ箱にゆかねばならない。ゴミ、は、ゴミ箱に投げこまれなければならない。ゴミ、は、ゴミ以外のものになることはできない。ゴミ、は、ゴミになるべくしてうまれている。ゴミ、は、ゴミとして生きるほかない。なぜならーー。

2017-09-07

遅れてくるもの

理解はかならず遅れてやってくる。失うことによってしか、失ったものの輪郭を見ることができないからだ。つまりこう言い換えることができる。失うことが、知ることだ。

2017-09-06

雨の新宿

本日は新宿にて打ち合わせ。まだブログに書くことはできないが固まり次第報告できるかと思う。街は相変わらずごみごみしていて、故郷に帰ったような気持ちになる。どこにも帰るところがない人間にとって、他人だらけの都会ほど居心地がいい場所はない。

2017-09-05

原田もも代詩集『御馳走一皿』、とりもどすための道しるべ

インターネット、いや、SNSには個人の物語にみちあふれている。つらい物語、かなしい物語、さみしい物語。そのいずれもがわたしたちの人生とは無関係であり、わたしたちの生活とは無縁なものであるにもかかわらず、わたしたちはそれを知りたいと思ってしまう。なぜそうなのか。なぜ無関係の他人の人生をわたしたちは必要としてしまうのか。

痛っ!
指ぬきをしているのに
指ぬきを通して針が刺さった
穴があくほどやわらかくなった皮
母が使った指ぬきだった
「指ぬき」
ひとには作品をえらぶ権利がある。だが作品はひとをえらぶことはない。作品はひとを主義主張によって分断しない。だれもがひとしく大切な思い出をもっている。大切な家族または大切なひとの思い出をもっている。それをうばわれないよう大事にもっている。ひそかに隠しているものを喚起するもの、それを詩または作家性とよびたい。作品は分断そのものがつくられるいちばんはじめの出来事へさかのぼる手助けをする。どこかのだれかの人生が、自分が思いださねばならぬものをとりもどすための道しるべとなる。

流れのゆるい浅いところ
母と妹のほかに人影はない
祖母たちに黙って出てきたのだろう
知らない風景の中にぽつんと座っている母が
切り取られ 浮き上がる 
「古い鏡台」

だが、わたしたちの思い出は遠く、とりもどせるものは少ない。鏡を見たときそこに両親の面影を見、年老いておとろえてゆく肌を見て亡くなった祖父母たちを思う。つたえるべきだったこと、つたえるべきと知っていたのにつたえられなかったことがよみがえる。それを誰かに理解してもらうことはできない。それを誰かに知ってもらうことはできない。SNSが可能にしたかのように思われる「共感」や「わかる」やそのツールとしての「いいね」ではできない。こころの底に沈んでいるものを引き上げるためには、どこかのだれかの人生の風景の裂け目をその触媒としなければならない。
ぶら下がった豚の身体を
切り取り 計り 買ってきた
ロース 肩肉 あばら肉
あばらには骨が並んで付いていた
無くしたなにかを抱くかたちで
「御馳走一皿」

だが得るためにはころさねばならない。だが知るためにはあやめねばならない。当り前のことをわたしたちはしばしば忘れる。見てみぬふりをしなければ、生きることはあまりにつらく、見てみぬふりをしなければ、2017年のSNSに立ち現れる現実はあまりにつらい。そこにぶらさがる死体にもかつては内臓としての秘密があったと考えるとき、わたしたちはことばをうしなう。ことばをうしなったその空虚からあふれでるものがある。それをわたしたちは共有する。見もしらぬ誰かの人生についての作品によって、わたしたちはわたしたちをとりもどすための道をみつける。こころを無くしたまま、みつける。

(2017年9月5日)

2017-09-04

福士文浩「傷ではなかった」(『狼』31号)

ひとり取り残される寂しさが/くりかえし押し寄せては/深い傷となる
『狼』31号、「傷ではなかった」(福士文浩)

わたしたちはだれしもが傷をかかえている。あるいは、傷ときづくことができない裂け目をかかえている。 それを他人が知ることはできない。知ることができないという認識がひとから希望をうばい、「挫折そのものよりも挫折への恐れが/最も深く人を傷つける」

SNSの台頭は傷の共有を可能にしたかのようにみえるが、それは幻想だ。いいかえれば相互理解はさらに困難になり、愛し合うことはむずかしくなり、にくしみが増幅され、ねたみとそねみと嫉妬は輻湊し強化され、むしろ傷についてかたることはだれにもできなくなった。

傷が理解されない世界にいきることは一種の地獄であり、「いつ終わるとも知れない痛み/その中に囚われて」と表現するほかない場でもある。ネットによってつながっているはずのわたしたちは個別に分断され、隔離され、共同体はばらばらになって、その痛みをだれかと共有することはできない。

まずはできないことをできないといわねばならない。不可能なことをふかのうといわねばならない。傷はえいえんに理解されないのだということをいわねばならない。そのときはじめて傷をいやすための契機がうまれるのであり、だれのことも理解できないみずからの不能をもってみずからの傷をいやすこころみを始めることができる。

動き始めた時間の中で/わたしはわたしを解き放つ/あなたとわたしの間の地面に/捨てられて転がる魂/よく見ればそれは傷ではなかった

なかった、ということはできない。わたしたちにできるのは、それは傷ではなかった、と読み替えること、みずからの運命をみずからの手で読み替えることである。

(2017年9月4日)

2017-09-03

さまざまな事柄についてかたらない

あたりはすっかり秋で夕暮れ近くになると虫の声が外からきこえてくる。たまにどこかから脱走したのか鈴虫の声らしきものもきこえる。それは近寄ってよく聞くととても精緻な音色で、張りつめた弦をやさしくつまびくような音で胸に染みる。一方、わたしは夏が終わって季節の変わり目なので気持ちが沈んでいる。一年じゅう夏が続けばいいのにと思うが、芥川の小説「芋粥」で念願の芋粥をたくさん食べたが満足どころか空虚しか得られなかった役人のように、きっとその終わらない夏はつまらないものになってしまうのだろう(話は変わるが、小説を読み返してみたら、閉鎖的な職場でのいじめのほうに焦点が当たっているように感じられ、かつて読んだ時とはかなり印象が変わった)。

他、世の中で起きているさまざまなことについて、色々書きたいことはあったのだが、子供をベビーベッドに待たせているため、本日はこれで失礼する。

2017-09-02

週一育休

週に一度のお休みの時期です。

2017-09-01

いつものキッチン

冷えた空気が窓から忍び込んでくる。涼しいと思うだけではなく寒いと感じる。そのふたつには微妙だが決定的な違いがあり、どこかに感覚のしきい値があって、それを越えたときわたしたちは寒いと感じるようにできている。しきい値、スレッショルド、は、さまざまな場所に存在する。交際相手に対する苛立ちはしきい値を越えたときにくしみに変わる。その結果なにが起こるか、は2017年のインターネットのなかに閉じこめられたわたしたちにとって想像することはむずかしくはなく、男または女が自分のことを正当化した逸話を匿名で吐露してアテンションを集め不特定多数の第三者にゆるしをもとめる作法が一般化している。だが、ゆるしは得られるだろうか。あなたはゆるされるだろうか?

2017-08-31

だまし絵の現実

もうなにも書くことがない、と絶望したとき、もう死ぬしかない、と希望をうしなったとき、それまで見えなかった道がとつぜんあらわれることがある。

2017-08-30

よごれた海に雨はふる

現在がつらいと過去がなつかしくなる。
いつでも過去がよかったといっている。だがそれはほんとうだろうか。
《あのころ》はいまよりも楽しかっただろうか。
それが自分についている嘘だとしたら?

2017-08-29

日本語はわかりますか

すっかり秋めいた天気。早朝に某国からミサイルが発射されたらしいが、それについて声高にかたりたいというだれしもが体験する誘惑にさからって、黙々と机にむかって作業をしている。ひとは犯し、殺し、略奪する。だがどこかで略奪が起こっていても飯は食べねばならないし、家族を守らなければならない。インターネットに目を向けると、《この世界》に関与せよ、または《この社会》に関与せよ、と高圧的に主張する声たちにあふれている。むしろこのような世の中では、傍観せよ、ということ、身の程を知って手の届く範囲の小さなものに目を向けよ、ということが必要なのかもしれない。

日本語がわかりますか、と問われている。いや、わたしにはまったくわからない。わかると思ったことはなく、今後もわかることはけしてないだろうということだけはわかる、そう答えるほかないように思っている。

2017-08-28

まなびが増えるとかなしみも増える

ツクツクホーシが鳴いている。すっかり秋の雰囲気である。携帯版だけが対象だが、デザインを秋向けのものに変更。いつの間にか、というかわたしの認識が古かったのだが、読者の75%はすでに携帯端末からブログを閲覧するようになっている。というわけでこのブログもあたらしい器にしたがった文体をかくとくしなければならないということを思う。昔のものを懐かしむことをいっさいやめて、いま・ここに合わせたものを書いてゆこう。

2017-08-27

たのしい掃除

やさしいことばでかたらねばならない。
だがやさしいことばで複雑なことをかたれるだろうか。
にくしみがたやすくうらがえる現実についてかたることができるだろうか。

2017-08-26

週一育休

土曜日の更新はお休みとなります。

2017-08-25

未完成なるもの

八月下旬、外は摂氏三七度。終わったはずの夏がよみがえっている。終わりというものはそういうものだ。終わったはずなのにしつこく戻ってくる。これをただしく埋葬せねばならない。そういうことを思いながら煮干しのガラをフライパンで炒っている。出汁をとった後の煮干しのガラは、しょうゆ、砂糖、みりん、ゴマなどで炒めると、ちょうどよい酒のつまみ……といってもわたしはあまり飲まないのでもっぱらビールを水代わりに飲む国のひと用だが……になる。噛めば噛むほど味が広がって美味い。

2017-08-24

もう来ない夏休みに夫婦で効果的に語り合うあたり前の方法

子供ができたら親は人間ではなくなるのか
子供ができたら親は人間から自由になるのか
子供ができたら親は人間以外のなにものかになれるのか

2017-08-23

身体をいくら鍛えてもこころは鍛えられない

身体をきたえる方法をさがしていて
身体をきたえる方法をいつもさがしていて
身体をきたえる方法をいつもさがしているのだけど
身体をきたえる方法をいつでもさがしているのだけど
こころをきたえるほうほうがないので
こころをきたえるほうほうがわからないので
こころをきたえるほうほうだけはだれもしらないので
こころをきたえるほうほうをだれもおしえてはくれないので
こころはよわくてなさけないまま
ちっぽけな窓だらけの部屋でふるえている

2017-08-22

紙とブログの境界線

夏の暑さが一時的に戻ってきた。夏が大好きなわたしにとっては元気が出る。とはいっても今日もいつもとなにも変わらない生活で、ごくふつうの一生活者として諸事をこなすほかない。

2017-08-21

自意識ストリップ現代詩(またはFへ)

いつでも脱ぎたがっている
いつでも裸をみせたがっている
いつでもほんとうの自分を知ってもらいたがっている
いつでも《理解》してもらいたがっている

2017-08-20

夏祭の後

地元の夏祭があったので家族三人で観てきた。といってもベビーカーで近くを往復しただけで、それ以上のことはあまりできなかった。涼しくなってくるとあたりには蚊が結構いて、子供が喋れない状態で噛まれたらどこが噛まれたのかわからないので心配していたが、それは杞憂ですんだ。祭りにはたくさんの人が集まり、これまで一度も見かけたことのないような数の若者たちが集まって奇声をあげている。

若者というものは奇怪な格好をして奇怪な叫び声をあげながら走り回るものであり、わたしもかつてはああした猿のような形をした生き物だったことを想起する。だが、ひとはどれだけ成長してもやはり猿にすぎないのではないか。猿の解剖は人間の解剖に役立つ、という哲学者のことを思いだしながらベビーカーの中をみる。子供はあたりの物音が嫌らしく、ずっと不機嫌そうに眠っている。かわいくない。

郊外の夜は暗く、祭りの往来を離れれば人通りは少ない。ベビーカーを押しながら歩いてゆくと、少し前を背中を曲げた老人が杖をつき、煙草を吸いながらゆっくり歩いている。わたしは元ヘビースモーカーで一日最低二箱吸っていたので、暗い道で煙草を吸う老人の気持ちがわかる反面、子供に煙がかかるのは嫌だという気持ちにとらわれて、足が止まる。家内がわたしをみる。あたりの音がさらに小さくなる。

それは何十年かして家族をうしなって老人になったわたしだった。老人がいる施設は禁煙で、外にしか煙草を吸う場所はなく、喫煙所は毎年削減され、あるいは移設して歩いて何分もかかる場所に移動されている。通りがかった世間の仮面をかぶった若者が、上気した頬で説教をはじめるーーここは煙草を吸うところじゃないんだよ、じいさん、あんたの居場所はここじゃないんだよ、あんたのいるべきところは、もうこの国の、どこにもないんだよーー。

2017-08-19

週一育休

土曜日は更新はお休みとなります。

2017-08-18

身体で覚える

オクラが安売りしていたので大量に買ってきて、茹でる前にまな板で板ずりをしていたら、トゲが指に刺さって血が出てきて驚いた。トゲがある野菜はたくさんあるがオクラにもあったとは知らなかった。注意深く抜いて、二次被害を避けるためにトゲを包んで捨てる。二分ほど沸騰したお湯でゆがくとトゲは柔らかくなった。注意しないと怪我をする処理、というものがある。無知はケガの元だ。

2017-08-17

近況あれこれ

年に一度開かれる某誌のコンテストに参加するための作品を書いている。第三者の客観的なまなざしに作品を投じるコンペはわりと好きだ。もちろん結果も出さねばならないが、一次や二次審査を通るという事実は最終的な勝利が得られなくとも書き手に自信をもたらすだろう。基本的に経済的対価の生じえないものを書いている以上、第三者に評価を受けるしか価値を生じせしめる方法がない、ともいえるが。

2017-08-16

今日も手をあらう

今日も手をあらっている。落ちないよごれをあらっている。だがいくら洗っても手はきれいにはならない。毎日あらっても手はきれいにはならない。なぜそうなのか。

2017-08-15

八月の終わり

ようやく大きな企画が決まって一安心している。ネットと違って動きだしても数ヶ月、場合によっては半年から一年以上かかる世界だ。このブログで情報を公開できるのは当分先になるだろうが、うれしい知らせには違いない。

2017-08-14

裏切りの道

お盆休みなので掃除に忙しい。本が大量にあると埃もたまりやすい。本棚にたまる埃がたいへんなことになっている、ということでマスクをし、頭に手ぬぐいを巻いて、窓をすべて開け、子供を別の部屋に避難させて、部屋の大掃除を行う。

2017-08-13

(Don't) Be Open

なぜほんとうのことをいおうとするのか
なぜほんとうの気持ちをいおうとするのか
なぜほんとうにあったことをかたろうとするのか

2017-08-12

定例育児

題名によって土曜日はお休みとなります。

2017-08-11

火鍋シミュラクル

ようやく週末。これから夏休みというひとも多いのではないか。もちろんネットなどはいっさい読むことなく、現実世界に遊びに出かけるのがよいだろう。わたしはいつも通り、机に向かうだけの人生だが、これを書くのももう何度目だろうか。さてみなさんは熱中症等には気を付けましょう。

2017-08-10

だるい夜のひろがる

夏なので青唐辛子の酢漬け(グリーンチリ)をつくる。東南アジアでは広く食べられるものだが日本ではあまりみない。というか以前都内のシンガポール料理店Kにいったらこれを置いていなくて驚愕したことがあり、まあおそらく店員がたまたま知らないアルバイトだったのだろうと思うが、あちらの料理には空気のように当り前に付け合わせとして出てくる。ないと始まらない。

2017-08-09

何もいわず励ましあわない

夏本番。あまりの暑さに蝉の声すら聞こえなくなった。わたしは南国育ちなのでむしろ元気だが、読者諸氏におかれましては熱中症等に気を付けて業務と生活を行っていただきたい。ブログなどを昼間から読んでいると健康に悪いのでやめましょう。

2017-08-08

日本ファースト現代詩

蝉がうるさいので日本ファーストといっている。
エアコンが壊れているので日本ファーストといっている。
机がよごれているので日本ファーストといっている。
寝癖で髪の毛がからまっているので日本ファーストといっている。

原稿の整理がままならないので日本ファーストといっている。
子供がいうことをきかないので日本ファーストといっている。
郊外のスーパーにいったら店員に鼻でわらわれたので日本ファーストといっている。
コンビニにいったら客に白い目でみられたので日本ファーストといっている。

ネットに書き込みしたら「(笑)」しか反応がないので日本ファーストといっている。
ひとの悪口を書いたらほめられてしまって日本ファーストといっている。
ひとをつるし上げたらよろこばれて日本ファーストといっている。
徒党を組んでひとを叩いたらたのしくて日本ファーストといっている。

戦争反対と書いたら友達Aができて日本ファーストといっている
戦争賛成と書いたら友達Bができて日本ファーストといっている。
いま戦争ははじまると書いたら友達Cができて日本ファーストといっている。
すでに戦争ははじまっているのでひとりで日本ファーストといっている。

原発事故が収束しないので日本ファーストといっている。
被災者の生活をテレビでみて日本ファーストといっている。
台風で家がながされているのをみて日本ファーストといっている。
NHKのアナウンサーのひきつった笑顔をみて日本ファーストといっている。

忖度のまね事をする幼稚園児をみながら日本ファーストといっている。
産経新聞を購読しながら日本ファーストといっている。
朝日新聞の詩人欄をみながら日本ファーストといっている。
優生学的に選別されながら日本ファーストといっている。

きもちわるいと若い女性にいわれながら日本ファーストといっている
ブロックしますと若い女性にいわれながら日本ファーストといっている。
かわいそうなひとと若い女性にいわれながら日本ファーストといっている。
あなたはひとを愛せないのよと元妻にいわれながら日本ファーストといっている。

毎日torrentでダウンロードして日本ファーストといっている。
毎日Onion Browserでダウンロードして日本ファーストといっている。
毎日匿名掲示板にさみしいと書き込んで日本ファーストといっている。
毎日ツイッターにフォロワー募集と書き込んで日本ファーストといっている。

毎日SNSで政治的な発言をして日本ファーストといっている。
意識の高いひとびとにまざって日本ファーストといっている。
自分を外国人のようにおもって日本ファーストだといっている。
国籍で階級をつくって日本ファーストだといっている。

自分をえらいひとだとおもって日本ファーストだといっている。
かわいそうなわたしをポエムにして日本ファーストだといっている。
かっこいいおれをポエムにして日本ファーストだといっている。
毎日お金にならないものを書いて日本ファーストといっている。

ひとりぼっちなので日本ファーストといっている。

日本がどんどん衰退していくから日本ファーストといっている。
日本がよわくてなさけなくて卑劣だから日本ファーストといっている。
日本がこんなになさけない国だとおもわなかったので日本ファーストといっている。
日本にいきていると毎日つらいので日本ファーストといっている。

とりもどしたいとおもっているので日本ファーストといっている。
だがとりもどせないので日本ファーストといっている。
あなたの願いはかなわないわ、と女がいっている。
あなたのとりもどしたいものは滅んだのよ、と女が、いっている。

(2017年8月8日)

2017-08-07

台風、コンビニ、スーパー

台風が近づいている。台風が来るとベランダが掃除しやすくなる。なにをいっているかというと、水をまいてブラシでコンクリートを磨いて掃除すると下の階の高齢者世帯に迷惑がかかるかもしれないので、台風や大雨の時は大掛かりな掃除をするチャンスなのである。そもそも社会に迷惑をかけるようなものしか書いていないので、あまり目立ちたくない。ということで台風を楽しみにしている。はやくこないかなとかいいながら窓から外をみている。

夜中に徒歩十分の距離にあるコンビニに行くと、帰り道に近所に住んでいるらしい奥さんとすれ違う。ものすごくきちんと化粧をして、服装も新宿伊勢丹の一階にいる主婦のような感じ。会釈をしてすれ違う。近くで車が迎えにくるのだろうと思う。郊外の住宅といってもとにかく多種多様な家族が住んでいる。子供も少しいるがほとんどは高齢者だ。さきほどの奥さんについていえば昼間ジャージを着て小学生らしき子供を学校に送ってゆくところを以前目撃したことがある。旦那はなにをしているのかはわからない。

スーパーにいくと、いつもたくさんの外国の人々が小規模のグループで特売品を買いに来ている。わたしはアジアの言語ならわりと聞けばどこ出身ぐらいかは想像がつくのだが、ちょっと聞いたこともないような雰囲気のことばで会話していて、どこから来ているのか検討もつかない。かれらは近くの工場で日本語の研修をうけながら働いているようだ。なぜ知っているかというと、以前研修生という名札がついた工場のバッジをつけて買い物をしていたから。機会をみつけて話しかけてみようかと思っている。

ここしばらく大きな企画を動かしていて、その行く末が心配であまり新しいことを考えている余裕がない。というところでしばらくは現状のまま、ごくごくふつうのことを書いてゆきたいと思っている。

2017-08-06

海をわたる瓶

日曜日なので午後から酒を飲んで書いていたらどうしようもない文章にしかならなかったので削除して、冷房の効いた室内から光ふる郊外の埃にまみれた風景をみながらこの文章を書き直している。すっかり酒が好きになってしまって、都内で開催されるさまざまな会合の飲み会に参加できないのはたいへんつまらないというかさみしいのである。だが子供がもう少し大きくなるまでは自粛ということになるだろう。

2017-08-05

土曜日は育児のためお休みです

一日じゅう子供の面倒をみて先ほど机に戻ってきた。もう夜中になっているが毎日のノルマは一行も進んでいない。ようやく机に座れるようになったので、疲労困憊したまま少し酒を身体に入れて、チェックしていなかった仕事のメールの返事から始める。

2017-08-04

日々の記録

某誌のI編集長から詩集の書評依頼が来たのでやりますと書いて返送。今年度の書評委員としての役目は今回分で最後ということになりそうだ。小さな枠とはいえ一年間書評を続けたのは初めての経験だったのでたいへんおもしろく、率直に勉強になった。ただ書評はどちらかというとネット媒体向きだと思う。読んだあと購入に繋がりやすいし、感想を共有することにも適している。なるべく属人的な政治コミュニケーションを排して(「お世話になっております」「詩集拝読いたしました」「たいへん興味深く拝読させていただきました」etc)、来年度に向けて自分でもこのブログで書いてゆきたいと思っている。詩集はもっと読まれるべきおもしろいジャンルだ、ということをあらためて書いてゆきたい。

2017-08-03

人づくり革命担当現代詩

ことばがひとをつくっている。きれいできたないことばがひとをつくる。きたなくてきれいなことばがひとをつくる。
ひとはことばによってつくられている。自民党もまたことばでできている。自民党はいつでもことばでできている。自由なことばでできている。民が主ということばでできている。ことばでできているので自由なはずで、ことばでできているので民が主なはずで、ことばできている自由民主党がひとをつくるというのなら、ことばでできている自由民主党がかくめいするというのなら、ひとをつくってかくめいするというのなら、ことばでできているじゆうみんしゅとうが実行するといっているのだから、それはとてもたしかなはずで、ことばでできているかくめいにわたしたちもまた参加しないとならないのだ。

ひとはことばによってできており現代詩もまたことばでできている。

つるつるとしたガラスの板をこすってことばを放出するのはがまんがならないからでがまんがならないからいつも不満をかかえていてがまんがならないからいつも下半身がむきだしになっていてがまんがならないからいつも不倫していてがまんがならないからいつもカネをもらっていてがまんがならないからいつも威張っていてがまんがならないからいつもひとを馬鹿にしていてがまんがならないからいつも語尾に(笑)をつけていてがまんがならないからいつもごまかしていてがまんがならないからいつも自由をもとめていてけして手に入ることのない自由をもとめているのだ。

ひとはことばによってできておりわが国もまたことばでできている。

だれしもがことばを軽視していてだれしもがことばを軽んじていてだれしもがその力をあなどっていてそれでもなおだれしもがことばをもとめていてことばで救ってもらいたがっていてことばで褒めてほしがっていてことばでゆるしてほしがっていてことばで認めてもらいたがっていてことばで愛してもらいたがっていてだれしもがことばを自由にあつかうことができなくてだれしもがことばで縛られていてだれしもがことばで慰めていてだれしもがことばを喪失していて喪失したことそのものがうしなわれている。

ひとは矛盾することばによってできている。

自由がないのに自由があって永遠におきることのないかくめいが起きると夢みていてひとは疲れていてひとは消耗品でひとはすり減っていてひとは分断されていてひとは孤独でひとは孤立していてひとはひとりぼっちでひとは最低賃金ではたらかされていてひとはお金をもらっていてもなおしあわせではなくひとはいつでも「w」をつけて会話をしていてひとはいつでも分断されていてひとはいつでも異性をもとめても得られなくてひとはいつでもさみしくてひとはいつでも自らを慰める方法をしらなくてひとはいつでもなくしていてひとはいつでもこわれていてひとはいつでもくるしんでいてひとはいつでもしあわせになる道をさがしている。

ひとをつくりたいですかくめいをおこしたいです現代詩を書きたいですでもああすべてがふかのうででもこの国のすべてが自由民主党ですべてが古びていてすべてが男根主義ですべてがわずかにずれた二重性をめぐっていてわたしたちはこの卑劣さからにげることができないのでわたしたちはこの不能さの外にでることができないのでせめて夢みるのですことばによってつくられる不可能な国ことばによってつくられる不可能なふるさとわたしたちがほんとうに帰るべきだけれどもたどり着くことのけしてできない故郷、ひとづくりの、かくめいの、たんとうの、わたくし。

(2017年8月3日)

2017-08-02

詩を書いてもあなたは不幸

特筆することがなにもないやや涼しい一日。つまり通常業務。毎日書くのは当り前だと思っていて、忙しくても必ずノルマ分は書くことを何年も続けている。気が向いた時にだけ書くというのもひとつの手法でありそうした同業者の姿勢に反対する気はないが、どうも毎日書いているというと引かれることが多いのであまり公言していない。ただわたしが仮想敵として考えているひとびとは基本的に多作(もちろん、そうはいわないで隠しているひともいる)なので、そういう属人的な配慮はやめて、毎日書いていることを隠すこともやめる。大量に書くし、毎日書くし、そこに隠すべきことはない。隠すべきことがあるとしたらそれはそこにはないといいかえてもいい。参考までにわたしは毎月完成原稿が三十枚、プラスアルファ五枚ぐらいが限度だ(書評やブログ、それからデッサンは除くが)。

2017-08-01

慰霊の八月

本日より八月。窓より夏のつよい光が射し込んでいる。
八月は戦争責任月間でもある。しずかな追想のための季節がまた今年もやってきた。

2017-07-31

ごくまれに書かれる私信的なもの

なんというか、ネットでも現実でも、実は「おもしろいね」という感想や「お疲れさま」という気持ちはほとんど伝えられるべき形で伝えられていない、というように思う。悪意は目立つのですぐに目に入るが、その逆のものについては悪意ほど目立たないのは当然といえ、もっと単純に書き手(ブログでも現代詩でも)におもしろいと伝えるだけのことがどうして難しいのだろう、ということを思う。

前にも書いたが、「一人より応援のフィードバックがあったら、その後ろに百人は応援してくれている読者がいると思え」というのはわたしの偽らざる実感でもあり、要するにみな内気で遠慮しているのだ。さてわたしは読者諸氏に遠慮しないで応援しようなどと説教がしたいのではない。そんなことはだれにも要請できないしすべきでもない。今日わたしが書きたいのは、知己のK氏がブログの更新を休む、という宣言をしていたのを見かけて、ご本人とは個人的に会ったことはないので知っている範囲でいうと、氏は本を出しながらそしてライスワーク(=お金のための仕事)をやりながらほぼ対価のないブログを書いて、ずっとそれを続けていたはずである。その姿勢は立派だったと思う。

まず第一に、ブログを書き続けていたこと。紙でもできることを、わざわざなんの利益も得られない紙以外の場で公開してくれること、それは立派なことである。読者から反応があればそれは確かに嬉しいものだが、ネットに文章を書きつづけるというのはやはり一種の苦行ではあり、それを続けるのは立派なことである。そしてネットにおいては悪意のほうが相対的につよく可視化されるので、その日々の頑張りは上にも書いた理由で、書いている本人にとってはあまり報われているように感じられない傾向があるだろう。長い間更新を休まずに続けてきたことは立派なことで、それを休むと決断したからといって、これまでの頑張りの価値が損ねられるわけではない。

本や雑誌や新聞といった古きよき伝統的な人文の媒体もよいが、ある程度の長さがあるブログなどの形式で、いつでも・どこでも・だれにでも読めるインターネットにも「おもしろい文章がある」と読者に思ってもらえること、書き手の誠実さを信じてもらえること、文章を愛してもらえること、そうした見えない交歓が可能な場を創出しようとこころみることは立派なことである(追記すれば、おそらくそれは言論プラットフォームの創出によって実現できるものではなく、あくまで書き手という個人の同時多発的で独立した努力によるほかないというのがわたしの考え)。

ネットであっても本であっても、氏はこの社会のねじれたありようにわたしたちはどう向き合えばよいのか、その問いに答えようとした書き手のひとりだと理解している。きわめて身勝手な親近感をいだきつつ、K氏の選択を応援し、そのライフワークにさらなる形を与えられることを願っている。

2017-07-30

すでに匿名ではないブログの諸原則

一応あらためて方針として、本ブログは、わたしの日々の日記として使う以外には、その日の時事についての感想を述べたり、身近なまたは関心のある作家の作品について書いてゆく、ということを原則としたい。より具体的にはこれらを身分を明らかにした上で記述し、「ふざけたこと書いているとぶん殴るぞ」「あまり調子にのっていると髪の毛むしるわよ」といつでもいわれる(可能性がある)場にとどまるということが、わたしのブログの基本方針ということになる。もっともわたしの尊敬する作家のみなさんのうちにはネットなど知らないしやり方もわからないひとも多く、紙以外の場になにを書こうがそもそも一行も読んでいない、ということは十分に想定されるが。まあ、原則は自らを責任という半径の内側に置く、ということとご理解いただきたい。日付と署名、がわたしのおろすことのできない看板である。

2017-07-29

負けてみせる

都心にて某編集部のOさんと打ち合わせ。わたしが好きな作家が自分の半分ぐらいの背丈の女性詩人にこてんぱんに口論でやられたという話をきけておもしろかった。きちんと負けることができる人間は好きだ。いろいろごまかして言い訳をして取り繕うのはみっともない、というのは美意識の観点からのみ考えた話で、負けを認めるためには知性や勇気や覚悟といったさまざまな人間性の諸要素が問われ、それができるというのはたいしたものである。

いまわたしが思い出すのは、何年か前、過激な発言で知られる某作家がコメント欄で若者にぼろぼろに挑発され論破されていた時のことで、それをあるアルファブロガーが「かれはきちんと負けていて立派」と評したことだ。そのことをたまに思い出すが、それはつまり、コメント欄できちんと匿名の第三者と相対して負けてみせたこと(本人は相手を打ち負かすつもりだっただろうが)は誠実だ、ということではないだろうか。これを別の言い方でいうと、ネットで誰も読まないようなものを書いて社会に完全に無視されることは負けかもしれないが、その負けている様子をきちんとさらしてみせること、が大事なことであるような気がしている。

無敵のひとだらけのネット(と社会)で負けてみせるということは大変なことだが、一方、わたしはちょっと美味しいオリーブ油をひとにいただいて、なんとなく誰かに勝った気になってサラダを食べた。それからなにもかもに疲労を感じながら皿を洗って今日も机に向かうのだった。

2017-07-28

夏へ飛びだしてゆく

今年の夏はきわめて忙しく、普段はあまり遠出しないのだが、とにかく打ち合わせのために外出がとても多い。わたしが住んでいるところは昔はほぼ山だったらしく、野生の蛍などがいるようなところなのだが、当然、打ち合わせは都心部ということになり、人がものすごく多い都心部での仕事を終えて、電車に一時間以上のって帰ってきて、郊外の誰もいない暗いバス停で降りるとほっとする。わたしは子供時代からずっと大都市の周辺部に住んでいたので郊外での生活は新鮮だったが、最近はもうすっかり慣れてしまってここ以外の生活が考えられなくなってしまった。生活コストが安いためその分の経済的余剰をまったくお金にならないことに回すことができるので、読者諸氏にも郊外での生活をお勧めしたい、と書きたいところだが、残念ながら懇親会、研究会、読書会、朗読会、勉強会、新年会などのおもしろいイベントは例外なくすべて都心で開催されるので、けっきょく都心にいたほうが楽なのであった。わたしは不幸だ。

それはともあれ、ブログに書いたかどうか忘れたが、数年前の夏、カブトムシが家に迷い込んできたことがあった。すでにかなり弱っていて、スイカや桃のあまりものを食べさせて、二日ほど涼しい場所に置いておいたところ、じっとしてずっと汁を吸っていた。まっすぐ歩くこともできないような状態だったのでもう駄目かもと思ったが、三日目の朝、すっかり元気を回復して、窓から陽射しの照りつける中へ猛スピードで飛び出していった。あの虫けらはなにをしているかと思うが、もちろんとっくの昔に死んでいて、その子孫がこのあたりを元気に飛び回っているかもしれない。虫だけではなくひとだってしょせん夏が終われば死ぬかもしれない身であって、美味いものを食べて体力をつけて、夏の中へ勢いよく飛び出してゆく、そういう人生がよいのではないかということを思う。窓の外はすっかり夏である。

2017-07-27

千日の夜をこえて

今朝ぴったり百枚の新作を仕上げて某編集部に送付した。おもしろいかどうかはわたしが判断することではないのでどうなるかはわからないが、できるだけはやく世の中に届けたいと思っている。Tumblrの「千日詩行」も本日付けでようやく千日に到達した。この三年間一日も休むことなく続けられた千回強にわたる投稿とその背後にかくれる詩作をふりかえってみると、ことばにならない数々の思い出がよみがえる。それは第三者にとってはなんの意味もないものであるが、わたしにとってはかけがえのない財産ということになるだろう。ただひたすら机の白紙に向かい続けたこの三年を支えてくれた家族と名前のない/ある友人たちに感謝したい。

2017-07-26

机上の空論

仕事をはやめに終えて夕食の買い物へ。豚肉が安かったので大量(1kg)に買ってしまう。ゴーヤも安売りしていた。ということで買い物カゴにこれらを入れた瞬間自動的に今晩のメニューが決定してしまう。それはともあれひさびさにツイッターを見にいったら同業者たちがみながんばっていて勇気づけられる。がんばる、とは、この世の不条理にあらがうこと。がんばる、とは、不可能なことに挑むことだ。その姿勢だけがひとに勇気をあたえるのであって、敗者の愚痴も勝者の自慢話もいずれもこの世に必要ないものである、とここまで書いて、まあ、なにしろ人生というのはうまくいかないことだらけというか、むしろうまくゆかないことの連続体というほかなく、よって、この世に愚痴は必要かもしれない。愚痴をきいてもらいたい知己のひとは連絡ください。ゴーヤチャンプルーも作らねばならないので本日はここまで。

2017-07-25

傷と快楽

わたしのことをおぼえていますか、という題名のスパムメールを眺めている。差出人はどこにでもある平凡な名前で、その本文には話したいです、とだけ書かれている。わたしはあなたのことなどおぼえていない——たとえおぼえていてもそれを口にすることはない。
どこかの世界でそれなりに有名らしき男性がリベンジポルノの被害にあった、という記事を読んでいる。女性が意図的な悪意をもった側というのはめずらしい。大量のリベンジポルノと思われる性行動画が星の数ほど閲覧できる2017年のインターネットの世界では、流出を行うのはほぼすべて元彼氏や元夫であろうと推測されるが、そうだとほぼ確信できるのは男性の側の顔が隠されているからで、そこには男性側の明確な悪意がある。一方、女性側がこれを行うということは、彼女のいかりの大きさ、あるいは傷の深さを示唆していると思う。わたしはこの男女のいずれも知らないし今後も知りえないが、この女性のブログを少し読んで憂鬱になった。第三者の直接的ないかり、かなしみ、くるしさを目の当たりにすると、ひとは元気を奪われる。そうしたことをネットに書くのは、現実においてむくわれない場合、はけ口として仕方のないことだとはいえ、やはり元気は奪われる。そしてなんともいえない嫌な気持ちだけが残る。

このなんともいえない嫌な気持ちはネットが閲覧可能にしてしまったものであり、もちろん誰でも見ないようにすることはできるが、ひとのもっとも醜悪な側面を、いつでも、だれでも、どこでも、無限に閲覧できるという現実のなかに生きるほかないということはもはや誰にとっても避け難く、傷害、殺人、性暴力といったほんらいほとんど一般生活とは縁のなかった事象は、ネット登場以前の時代(もうそれを思い出すことは困難だが)よりも、はるかにこの社会に充満しているように感じられる。そしてそのことが当り前になってしまっている。しかしそれ自体ほんらい異状なことで、そういう現実にわたしたちの倫理や情緒が対応しきれていないという印象がある。オーディオビジュアル媒体による上記のような復讐を意図した暴力的表現の力は圧倒的なもので、無関係な第三者にすら傷をおわせるのだから、それが当事者であればどれだけの傷を受けてしまうのか、と思わずにはいられない。

そしてここはブログなのでさらに踏み込んだことを書けば、そうした動画はいまこの瞬間も新たに流出し続けており、それがどれだけのひとを傷つけているのか、ということを思う反面、そうした当事者を傷つけるものが、無関係な第三者にとっては、性的興奮のために消費されうるものであるという事実を思い起こさないわけにはゆかず、2017年の現実はきわめてグロテスクな様相を帯びてくる。ひとを傷つけるもので、ひとは快楽を得ることができる。そう書かねばならない。きれいごとばかりをいってみにくいものをなかったことにすればネットは便利な空間でしかないのだ。どうしたらよいのか。そんなことは知らないが、わたしが思うのは、ブログは、この奇怪な現実について記すために使われるべきだということ。書くということの誠実な原則に立ち返り、嘘を排除し、見たこと、感じたことを、ページビューや「いいね」とは無縁の力学に基づいて、できるだけ写実的に記述するために使われるべきだということ。そういうことをあらためて考える。

そこまで考えて、スパムメールに返事を書く——わたしのことをおぼえていますか。わたしはあなたがきらいです。

2017-07-24

理解や共感のあちら側

午前に永田町で打ち合わせ、それから帰りに銀座のアップルストアに寄った。例のワイヤレスイヤフォンは全部売り切れだったがサンプルがあったので視聴はさせてもらった。耳につけて頭を動かしても不思議と落ちない。かなり購買意欲が向上したがこれからお金がかかるイベントが目白押しなので自粛して家にまっすぐ戻る。帰宅してすぐに手などを消毒し、子供を風呂に入れて、机に戻ってきてメールを何本か書く。それからひさしぶりに知己のブログをまじめに読むとおもしろかったので感想を書きたいと思ったのだが……ネットにおける文章のおもしろさが「わかる」や「共感」であるならば、わかりもしない、共感もされえない感情の居場所はどこにあるのだろうか、ということを思う。もちろんどこにもない、ということが回答であり、どこにもない、ということを書く人間がもっと必要かもしれない、ということを思った。より具体的にいうならばこの清潔なネット(と社会)には醜いものの場所が相変わらずない。「ないならつくればいい」などという希望を語る前に、まずその現実が共有され理解されていなければその希望とやらは単なるたわごとにすぎないのではないか。だがそれについて書くには疲れすぎたので明日以降にすることにする。疲れた。

2017-07-23

名をうしなう雲

二十代の頃は小説家になりたいと思っていて、複数の編集部に持ち込みをしては断られていた。ふりかえって考えるとあまりおもしろいものを書いてはいなかった。わたしにとっての転機、は、2006年前後に起こった不可逆的な出来事で、それ以降わたしの書くものは変わってしまった。わたしは「なりたい」と思わなくなった。いまこころのなかにあるのはただ灼けるような義務感、自分が見たもの体験したものを書き残さねばとても死ぬことなどできない、という激しい怒りに似た気持ちだけである。某編集部に仕上げた作品の原稿を送り、好意的な返事をもらって、その手紙を読みながらその当時のことを思い出し、そして不思議となんのよろこびもない自分の気持ちをみつめながら、机の前に座っている。自分は、なにになりたいのだろう。と思う。なににもなりたくない、という声がする。なににもなりたくない、が、自分が見たものを書き残しておきたい。ただそれだけが、正直な自分の気持ちのようだった。そういうきわめて私的な動機に基づいたプライベート・ストーリーズを、現代詩の様式にて書き記す。それはおもしろくないだろう。それは第三者に評価されないだろう。だがそれは仕方ないことだということも思う。選んだものは選んだものであって、船が沈むときはわたしも一緒に海に沈むほかなく、それはそんなに悪くないのではないかという気もしている。そういうことを日記的に書き記しながら、窓の外を見る。空は名を失ったまま曇っている。だが名をうしなっても人生はつづいていく。

2017-07-22

耳を閉ざさず意見を聞き入れない

梅雨が明けて夏らしくなってきた。土曜日なので原稿や書類の整理をする。手紙やら書籍やらがいつも山積みになっていてひどいことになっていて、自分がどんなものを書いているか思い出すのも一苦労だ。しかしひとに読んでもらわないと形にすることはできないので送付前に仕方なく自分でも原稿を再読する。再読してうんざりする。それなりにおもしろいこと、それからまったく商業性というものを考慮していないことが二重に腹立たしい。一般的にいえば、私の書いているものはひとに読ませる気がまるでない原稿だと批判されても仕方がないが、そうした批判に耳を傾けながら、そうした意見を作品にいっさい反映させない、という姿勢が必要だ。完全に無視してしまえば一般社会との接点が失われてしまうし、逆に耳を傾けすぎれば先鋭的な部分がそこねられてしまう。よりブログ的な言い方をするならば「コメントをすべて読み、かついっさい応答しない」という二重の姿勢ということになる。やはり傷は必要なのだ。自分の書いているものが、なんの価値もないと社会に見なされていること、その事実を誰よりもまず自分が知ることなしに、いかなる先鋭的なものもうまれるはずがない。

と、書いたところで、地元の図書館に知己の新詩集がおいてあって驚いたと家人から連絡があった。地方の図書館に新刊を置いてもらえる、そういうことを目的にしてゆきたい。

2017-07-21

Enough Internet (for Today)

"Enough Internet For Today"というgif画像を見かけた。確かに、インターネットはもう十分かもしれない。

2017-07-20

そして誰もいなくなった

一度書いておいたほうがいいかと思うが、わたしは『詩と思想』という雑誌が主催している研究会に二年ほど足を運んでいて、子供が産まれてからは足を運ぶことができなくなったが、その参加者とはいまも親しくしており、詩友たる彼らの詩は重点的に読んでいる。オープンなネットで何か書いている人はほぼいないのでわたしが唯一のブロガーということになり、その立場から言うならば、主にネット以外の詩集や詩誌を経由して発信されているかれらの作品は(戦前でもなければ戦後でもない)2017年のいま・この現実に生きるわたしたちにとって、おもしろいものであることはわたしが保証する。より詳しくいえばゼロ年代以前からつづくホームページ、テキストサイト、ブログ、ツイッターといった連綿とつづくこの国の非主流なテキスト(とそれをめぐるメタテキスト)のおもしろさを愛しているすべての同世代と同時代を生きる読者にとってもおもしろいものだというように思うし、それがどうおもしろいのか、これからこのブログでもたまに詩集などを紹介してゆければと思っている。

さて梅雨明けもした。夏本番である。みなどこにいったのだろうか。
誰もいなくなってしまった。いや、最初から誰もいなかったのである。

2017-07-19

梅雨の終わりに読む『積雪前夜』(平井達也著)

梅雨が開けた。夏だがあまりうれしくはない。娘もまだ離乳食すら始まっておらず、予防接種も毎月順番に注射を続けているような状況で、行楽にいけるはずもなく、日焼けも心配なので海など論外、ということで今年の夏は家族で徹底したインドア生活ということになりそうだ。

夏といえばやはり夏にふさわしい読み物、つまり後になってその夏のことを思い出すことを容易にする触媒としての詩が必要なのではないだろうか。
とはいってもあまりにも暑いので、むしろ寒い詩がいいのかもしれないと思う。そう思いながら手元にある詩集を開く。

平井達也の『積雪前夜』(2016年12月発行)。この詩集に収録されている詩作品のうち、氏の会社生活を題材とした詩が印象にのこっている。巻頭詩の「ネクタイ」を引用する。

ネクタイに誘われて茶色いのを買う/茶色いネクタイにぶら下がって仕事する/昼にはネクタイが窮屈そうなので/解いてポケットに収めてやる

「ネクタイ」

「茶色いネクタイにぶら下がった仕事」というものがどんなものか、詳しく知らなくとも想像力によって喚起される光景がそこにはある。ネクタイに誘われているのはネクタイが自分の声であるからで、拘束しているのは社会だがそれを受け入れている自分自身の姿でもある。それを解いてポケットに収める昼休みの一瞬がこころに残る。そういう瞬間が誰の生活にもあると感じる。

また、飲み会(と思われる)の光景が、「拒否」では描かれる。

グラスにビールを注ごうとして/きょう言おうとして言えなかった/言葉の重さ分ぐらい手元が狂う/ビールの泡がグラスからあふれる/テーブルが濡れ/言い出せなかった言葉も湿る

「拒否」

ここだけ抜き出すと男女の話のようだが、ここで言えなかったのは職務上の拒否のことばで、ひとは言えることと言えないことの中間を生きるほかないということを思う。そこではビールは常にほんのわずかこぼれていて、乾いているべきことばはわずかに湿っている。手元が狂うのは、そこに誤差があるからだ。そしてその誤差は避けようがない。なぜなら言おうとして言えなかったことはつねに溢れるほかないからだ。

出社前の姿はより直裁な形で描かれている。

みんな真面目にやっている。こっちだって真面目にやっている。雪が降る中を夜の仕事に出かける父親がいる。窓から雪を見ながら明朝の出勤に備える息子がいる。雪が降っているのも知らず泣き続ける妹がいる」

「積雪前夜」

一読してふと、わたしだって真面目にやっているんだよ、と思う。そしておそらく世の中のだれしもが真面目にやっている。だが真面目にやっているからといってそれが誰かに伝わったり評価されたりすることもなく、詩はその伝わらないことそのものを記憶しようとする。伝わらないことこそが伝えなければならないことで、その不可能な夜にはいつも輝く雪が降っている——雪は予感でしかなく、結局は降らないのだ。わたしたちは常に事象の前夜を生きるほかないのである。

2017-07-18

路傍の犬

暑くて仕事にならない、と愚痴をいいながら机に向かっている。そういえばさきほど昼のニュースで105歳の現役医師が亡くなったというものを見た。わたしも死ぬまで仕事したい派だし、尊敬する作家たちもみな引退とは遠い生活を送っているのでこの医師のことをうらやましい人生だと思うが、一歩ひいて考えると、やはり勤労が美徳の社会では年を取っても休むこともままならずこうした「美談」によって働くことをいつまでも強いられる空気があるな、ということも同時に思う。ただほんとうは仕事=生業は楽しいものであるはずで、それを営利団体に悪用されている(いわゆるやりがい搾取)ことに問題があるだから、仕事の楽しさ、仕事の誇り、仕事の満足、これらを自分の手に取り戻してゆく、といくのがこの国で満足に生きてゆく方法なのかもしれない。それは職人になる、という理路と解釈される。古いしきたりが生きる保守的で古い国のなかで「ゆるく」生きたり、これから距離を置いた「無頼」な生き方はひとつの考え方であると思うが、ひとつの技術を研鑽することに没頭する生き方があってもよいと思うーーそれが第三者にどう評価されるかはどうでもよいことで、いわゆる美談などは犬にでも食われたらいいと思った。

最近の困惑

若くてリベラルでやり手の共産党の女性議員みたいな髪形にしてくる、といい残して家を出ていった家人が、なぜか知りあいの詩人にそっくりな髪形になって戻ってきた。

2017-07-17

興味のもてないもの

異様に湿度が高く、暑い。どんな人間も書いている以上はその原稿を形にしなければならない、ということで、わたしもふたつほど現在推敲の作業をしており、そのうちのひとつがようやく著者校の段階。形にするのは難しいが、暑さや社会の無関心というものと黙々とたたかってゆきたいと思っている。なぜなら書いているものは誰でもそうしているからであって、わたしが尊敬する作家たちがそうしているからであって、わたしもそうする。

ひとはおもしろくないものに関心を持てない。それは仕方のないことであって、きわめて個人的な主題に基づく関心事が他人にとって興味を持ちにくい内容なのは当然のことである。それを無理に読者に興味をもってもらおうと工夫すればさまざまな軋みが産まれ、結果として表現の強度は不可逆的に劣化する。それを防ぐためにはいっさいの説明や解説を排除したわけのわからないものをわけのわからないまま提示しなければならない。そしてそうした表現は一部の人間だけがよむ雑誌や本ではなく日本語を解するすべての人間が参加できるフラットな場に向けて開かれていなければならないということを思っていて、それを実践してきている。

基本的にわたしが書いているものはそのすべてをTumblrに一部引用しているので、それを読むとわたしがどんなものを書いているのか経済的な負担なくご理解いただけるのではないかと思っている。そちらも合わせてみていただけると幸いだ。それはともあれ、三ヶ月書き続けてきた長編がようやく終盤にさしかかっていて、これをがんばって形にしてゆきたい。題名はまだ決めていないが。

2017-07-16

夢のなかでもまがい物

なにひとつ書くことがなくなってからが勝負、ということはその通りで、何年も毎日書いていると、自分にはなにもない、からっぽだ、と思う瞬間がかならず(何度も)来る。その時にあきらめないでいると新たな水脈がわき出てくる。これを繰り返しているといかにつまらない日常を送っていようとも書くことを見つけることには困らない。さてわたしは昨日一日子守をしていた疲れが出たのか、午後は無為に寝てしまって気がついたら夜になっていた。

こうして人生というのはただ無駄に浪費されていくのだということを思うが、もちろんそんなことをいったら産まれたことそのものが無駄なので、気をとりなおして机の前に座って、夢のなかでみたまがい物の家族について考えている。夢のなかではわたしはどこかの家族に息子として迎えられている。そのまがい物の家族はブリキでできた人形のような姿をしている。わたしはしょせん偽物にすぎないので、ほんとうの家族にはなることはできずその家を去る。

夢ではわたしが子供の立場だったが、子供を持つ親の立場になってみれば、親は最初から親ではなく、なんの知識もない二人の人間にすぎず、親のふりをしたまがい物であるほかない。ひとは収入があるだけでは、世間に親と呼ばれるだけでは、育児手当てを受給するだけでは、「親は子供を愛するべき」と説教されるだけでは、ほんとうの意味での親になることはできない。

また、親とはこういうものだという思い込みによって親になることもできない。そうして家族のふりをしたまま、親のような顔をして子供に接してゆく……他、ないのだろうか。ということを思う。まがい物以外の道はないのだろうか。ないのかもしれない。理想はどこにもないのかもしれない。まがい物なのでほんものにはなれないし、まがい物なのでどんなものがほんものかわからず、どうやってなれるのかわからず、わからないのでいつまでもまがいもので家族のふりをつづけてゆく、ということを思う。

だがほんものではなくとも朝はやってくるし、国には税金を収めなければならない。そしてつまらない日曜日がこうして終わってゆく。

2017-07-15

先払いのかなしみ

気象庁によればまだ梅雨明けしていないが、もう完全に盛夏の蒸し暑い天気が今日も続いている。だんだん季節が熱帯に近づいているような気がする。地球温暖化のせいなのか、いろいろ見聞きして結局わたしにはよくわからないのだが、夏は昔よりもより暑くなって、冬はより寒くなっているような印象がある。子供の頃は夏はクーラーなどなくともわりと快適に過ごしていたが、あれは木造の日本式家屋に住んでいたから可能だったので、コンクリートに囲まれた都市でクーラーなしでは当時も無理だったのではないかということを思う。石が昼の間に日光で焼けて夜中になっても熱を発するからだ。木造家屋だとそんなことはない……というかなかったように思う。昼間に庭の土に水をまくとその周辺がひんやりしていたことを憶えているが、コンクリートは水をまいてもまさに焼け石に水という感じだ。わたしの生家は築百年程度のものすごいぼろ家だったのでよくその時のことを思いだすが、いまとなっては貴重な体験だったということを思う。冬場は畳や壁の隙間から冷風が吹き込んでくるし、軒下には猫が住み尽くし、梅雨には雨漏りするし、最低のぼろ家だったが、わたしは好きだった。いまではもう取り壊されて存在しないが、その時の記憶がいまでもかけがえのないものとしてのこっている。誰でもそういうかけがえのない記憶があるだろう。

熱帯の島国に住んでいた少年時代にはよく引っ越しをした。その時に住んでいたフラットのことはどれもよく憶えている。といっても断片的な記憶で、なぜか鮮明に思いだすのは、窓の前、スコールを眺めている自分を後ろから見つめている様子だ。不思議だが、記憶の中ではなぜか自分のことを後ろから見つめている。とても大きな雨粒がアスファルトに降り注いでいて、大きな水たまりにたくさんの波紋をえがいているーーそこには当時のわたしには存在しえない、理由のないかなしみがあった。その後に起こることをすべてその時知っていたとしたらどうだろう、ということを思う。たぶん、わたしは、まったく同じことをするだろう。またしても同じ間違いを繰り返すだろう。

ひとの人生には後悔などない。ただ先払いのかなしみがあるだけである。

2017-07-14

知らないまま

明日から三連休ということだが、わたしの生活はあまり変わらない。毎日同じことをして、毎日料理をする。それ以外にやりたいことはなく、すべきこともなく、ああ、そういえばブログとツイッターとTumblrがあったと思い出している。やりたいことかどうかはよくわからないがやりたいことのような気がする。さて今日もまだ梅雨明けしていないはずだが晴れていてきわめて蒸し暑く、わたしはアブラゼミらしき鳴き声が風にのってきこえてくる中、自転車に乗って歯科検診をうけにいった。狭い待合室に入ると暇そうな顔をした主婦たちがならび、わたしはその中に混ざってソファに座る。定期的に歯石を除去してもらっているのだが、味覚が向上したことに加えて、前よりも疲れにくくなった。という話を医者としたら口内環境が改善するとそういう効果もあるらしい。世の中知らないことだらけで、むしろ知っていることなどなにもないのではないか、と思えてくる。いや、おそらく知っていると思っていることしか世の中にはないのだろう。検診を終えて、受付で試供品の歯磨き粉をもらって外に出る。いつの間にか蝉の声はきこえなくなっていて、アスファルトが陽炎でゆらめき、風は止んでいる。少し離れたコンビニの駐車場でしゃがみこんで煙草を吸っている若者がいて、わたしをみてすぐに目をそらした。

帰り道、スーパーの食品売り場に行くと、店舗はなにも買う気がないのにクーラーの冷気を浴びたいがためにおとずれる子供たちと老人たち、そしてなにを買ったらよいのかわからず棚の前で右往左往している中高年男性たちであふれていた。夏はすぐそこで、街には知らないことがあふれている。そして知らないまま死ぬ。

2017-07-13

趣味にすぎないもの

がんばっているのに報われない、と弱音を吐いているアーティストのSNSの書き込みを見かけた。もちろん努力は報われず、やってきたことはすべて徒労で、必死につくったものはあっという間に忘れ去られ、いっさい評価も受けることなく生きて、そして死ぬしかない。

やたら暑いのだが梅雨明けはまだらしい。仕事が終わると趣味の時間、つまりわたしにとっては料理の時間だ。鳥のもも肉の両面を焼いて皮をカリカリにしたものを、人参と玉葱とピーマンを強火で炒めたものと合わせ、甘酢タレをからめて食べる。食べ終えてからは明日のためにキッチンの掃除をする。毎日やらないと汚れがたまり衛生的によくない。衛生的によくないと気分が悪い。よって毎日やるほかなく毎日やるものだというように思う。

だいたい仕事と料理が終わると疲れ切っていて、机の前でブログの空っぽのエントリフォームを眺めてぐったりする。社会的要請があるわけではなく読者がたいしているわけでもないブログを書く理由は……なんだろう。正直にいうとよくわからない。よくわからないが続けてきた。そしてよくわからないまま続けるような気がする。いや、これはおそらく趣味なのだ。料理と同じように、ものすごく時間がかかり、ものすごく手間がかかり、人生の半分以上を無駄にしているかのように思える、趣味なのだ。そして趣味だから意味なく手が勝手に動いてしまう。そういうものなのである。

そして今日も完成したら某編集部に送る約束をしている趣味にすぎない原稿をやっている。なにもかもが趣味にすぎず、なにもかもが好きでやっているだけであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、うれしさもたのしさもなく、かなしさもむなしさもなく、ただ書くという行為を経由した世界のスケッチを一枚一枚積み重ねて、どこにもたどり着くことなく、どこかに目的地があるわけでもなく、机の前で白い枠組みを眺めている。

しょせん趣味なのだから、本をまとめてみようか、と思う。
そして手紙を書き始める。ーーしょせん、趣味にすぎないのですがーー。

2017-07-12

外へのプロトコル

子供が生まれてから朝方の生活にシフトしている。親が深夜まで起きているとそれに伴い子供も起きているようになり、子供の生活リズムが作れなくなる。自分は深夜がいちばんすきな時間帯なのだが、なかなかそうもいっていられないようになった。携帯電話も一日の半分はオフにするようにして、自分の時間のコントロールをとりもどしてゆく作業を粛々と行う。こうして生活というのはどんどん変化してゆくが、かつて大事にしていたものが変化ともにうしなわれていく感覚はそんなに悪いものではない。空隙を埋めるなにかが手に入っているからだ。自分の時間はいちばん大事な仕事と、それから子供のためのものであり、それ以外のいかなる第三者または組織の利益のために使うべきものではないということを思うようになった。そして思うだけではなくそれを実現してゆく、そして実現するためにまずはことばにしてゆく、というプロトコル=手順がある。わたしにいわせれば世の中のありとあらゆるもめ事はことばを軽視すること、あるいはことばの力をナメていることから生じているが、より具体的にいうならばそれは「曖昧模糊としたみえない概念をことばにする努力をする」ことでもある。ライオンはライオンと名付けられる前はジャングルに潜む不気味な怪物だったが、ライオンという名前が与えられたことで単なる動物に貶められた、と書いたどこかの哲学者の例をあげるまでもなく、ことばにできないものをことばにしようとすること自体は容易なものではないが、一度成功すればその効果は大きい。ことばにあふれているようにみえる2017年のネット空間に足りないものはことばにしなければならないものたちであり、この場にあふれているのは手あかにまみれたクリシェと閉鎖的な村社会でしか通用しないジャーゴンばかりであるということはいえる。《いまこの場》に存在しないものにことばを与えなければならない。つくづく生きるのが難しい時代だということを思うが、その難しさについてかたちを与えるために、蛸壺化した限られた場所にとどまることなく、ブログという誰にでも表面上は読める形式を大事にしてゆきたいと思っている

2017-07-11

月は誰もみていない

いよいよ暑さも夏本番という感じで、今日は四川風の麻婆豆腐にニラを入れたアレンジ料理を作った。あまり美味しくなかった。アレンジつまり正統的なレシピから離れたものをつくるということは、そもそも正統的な技術がなければうまくいかないのだ。サブカルチャーはカルチャーの知識がなければつまらないし、亜流は本流があってはじめて価値が生じる。別の言い方をすればブログがおもしろくあるためには本流がなければならない。さて本流とはどこか。そういう問いがあるが、わたしは今日はそういうことを書きたいのではなく、よく聞く生きづらさとはなにかということを考えている。

生きづらさということばだけをみれば、「衣食住がある程度保証されているなかにおいて人生に対する痛苦のたえがたい大きさ」と翻訳できるだろうが、これは特定の時代の特定の安定した状況、より具体的にいえば紛争も飢餓も疫病もないG20の内側でしか通用しない概念ではないかということは思う反面、だからといってその生きづらさのたいへんさがその事実によって軽減されるわけではなく、この国に生きるひとびとに幅広く共有されているつらさであることに変わりはないように思われる。と、いうより、わたしの知っている作家はほとんど全員が生きづらさを抱えているし、その読者もまたこれと向き合って生きているように思う。そしてその生きづらさとはなにかと考えたとき、「ひとは、衣食住が保証されているだけでは、しあわせになることはできない」、というシンプルな解にたどり着く。いろいろなことができるはずなのに、前近代的な制約から自由になったはずなのに、「自分」がしあわせになることは難しい。

そのしあわせを得るために様々な装置が毎日つくられては消えてゆく。しあわせはネットが可視化する格差社会で「下」の人間をあざわらうことによって得ることはできず、衣食住が保証されていないひとびとを「下」にみてわらうことによって得ることはできず、あるいは他人の愚行を「笑った」などとコメントして安全地帯から嘲笑することよって得ることはできず、特定の年代や性別の欠点をひたすらあげつらってネットにアップロードして仲間をつくって一緒にそれとなく笑みをかわしあう洗練された嫌がらせによっても得ることはできず、こうした装置をいくら毎日いじってさわってくりかえし操作してみても、ひたすらむなしく、ひたすらかなしく、ひたすらさみしく、ただただ人生は空虚になっていくばかりである、ということはわたしがいうまでもなく、エビデンスも物証も必要としない。眼を開いて、目の前に広がるたとえばツイッターを見ればいい。

だれでもしあわせになりたがっている、といえる。そのためにネットでは毎日新しいジャーゴンが創出される。ひとに自慢の性器を自慢したくてたまらないスーツの男たちが今日も日記を書いている。ひとに自慢の年収を自慢したくてたまらないひとびとが今日もブログを書いている。ひとに自慢したくてたまらない女たちが今日もツイッターにグルメ写真をアップロードしている。とにかく自慢したくて、自慢がしたくて、自分はしあわせだといいたくて我慢がならない。なぜならさみしいから。なぜならつらいから。なぜならひとりぼっちだから。なぜならだれも 「わたし」を愛してくれないから。生きづらくて仕方ないけどどうしたらよいのかわからないからただひたすら他人と自分を比較して、ほんの一瞬でもいいからひとよりも自分がすぐれた存在だと思いたくて、とにかくひたすら自分はこの世界に一瞬でもいいから必要とされていると感じたくて、ただひたすら自分をほめてもたいらくて、認めてもらいたくて、愛してもらいたくて、かまってもらいたがっていて、生きづらくて、生きづらくて、仕方がないと思っている。

だれもがそうおもっていてだれもがそういっていて、生きづらいことについて書く詩はうれるかもしれなくて、ああ、くだらない、ああ、つまらない、ああ、なんとつまらない人生だろうかと思い、カネのことしか考えない、みとめてもらいたいだけの、なんとさみしく、あさましく、どうしようもない人生ということを思い、窓から仮象の月をみていて、月からわたしはみえることなく、月はいつでも、誰のこともみていない。

2017-07-10

社会活動またはわかるものとわからないものの区別

日曜日は現代詩のイベントに参加したりと様々なことがあったが、その後の夜は知己のS・K氏に誘われて新宿のデモ「March for Truth」を見にいった。氏はかつては反原発デモなどにも参加していたという話を聞いたが今は色々あって参加はしていない。なぜ参加をやめたのかその理由をはっきりと聞いたわけではないが、わたしと(そしておそらく他の多くの市民と)同じように、アンビバレンツな意識を社会活動に対して抱いているということを想像している。わたしにとってその曖昧さを保つ根拠は「正しいものがなにかがわからない」ということでありさらにいえば「どの政治勢力がいずれがわたし(たち)をしあわせにしてくれるのか」ということがわからないということでもある。理由はいくつかあるが例としてあげれば翼賛体制下で全面的に戦争協力した作家たちの多くは「みなのしあわせ」を信じていたことは疑いようがなく、何が最適解かはあとになって振り返らねばだれにもわからない、という端的な事実による。

そしてそうしたアンビバレンツな姿勢を2017年多くの言論に携わる作家たちが取り続けていること、あるいはツイッターでいっさい政治的な発言をしないかれらの弱腰の姿勢が活動家たちを激しく苛立たせているーーということはそのうちの一人と一緒に飲んだのでよくわかった。実際上記のイベントに参加した詩人のうちデモに参加したと公の場で発言したひとはひとりもおらず、わたしも厳密には参加したわけではなく現場にいただけである。そしてその活動家たちの苛立ちをわたしは理解する反面、わたし本人はわからないもののためにはたたかえない、ということを思う。作家はそれぞれのフィールドで自分がわかるものについて語るしかなく、わたしもまたそうするほかないと思う。男は自分が抱えざるをえない暴力性によって他人を不幸にしており結果として自分が不幸になっている、ということがわたしがわかることであり、それを作品にまとめていくことがわたしのこれまでの仕事であり、現在の仕事であり、これからの仕事だ。

一方、活動家のひとの発言でこころに残ったのは、社会というものは作家の発言を求めるときがあるんだということで、普段は作家なんて馬鹿にしているけれども、たとえば震災のような大きな出来事があったとき、その喪失感や衝迫に応えられるような作家の発言を、社会は求めているんだよということで、その発言は胸に来るものがあった。おそらくそれは雑誌や書籍ではなくネットでやるしかないし、2017年の読者は、誰でも自由にアクセスが(ほぼ無料で)できるネットで、文学、詩歌、アカデミズムから離れた開かれた場で、まともな作家が社会についてきちんと発言する(場合によっては血まみれでたたかう)ことを求めているのだと思う。場合によってはそれは「わからない」ものについて非誠実に語る、ということも含まれるかもしれない。さらにいえば「わからない」ものについて嘘八百を書き連ねて多くの読者の人生を狂わせる、ということも含まれるかもしれない。世の中はわからないことだらけで、わかるわからないなどいう区分にはなんの意味もない、という理解もまた含まれるかもしれない。

これらの事柄について、一度きちんと書いておきたかったのでこのエントリを書いた。

2017-07-09

朝食に鯖を焼く

朝からつよい光が斜めに部屋に差し込んでいる。子供にミルクをあげている家内を横目に朝食をつくる。といっても別に大したものではなく皿はそれぞれ鯖をフライパンで焼いたもの、大量に大根の入った味噌汁、大根の葉をまぜた納豆、それから昨晩しこんだ白菜の浅漬け。東南アジアの料理ならここでグリーンチリの酢漬けなどもつけたいところだが(つくるのはわりと簡単)、スーパーでその代用品として使える青唐辛子を売っているところを見ない。安く新鮮なものを使って料理をしていると当然のように和食中心になってゆく。塩分を多く摂りすぎないよう味噌や塩はふつうのレシピの半分ぐらいしか使わないようにしているのだが、料理をまじめにするようになってから家族の体調はよく、わたしについていえば健康診断ではすべての測定値がここ数年で大きく改善して医者に驚かれている。もっとも、すでに悪くなった臓器はもう治らない。それから悪くなった人生も治らないし、悪くなった人間関係も修復できないし、うしなった信頼はかえってこない。とはいえ、料理は好きだし、家族がふえればさらに料理がたのしくなるということはよいものだ。調理師免許はどうやって取るのか、昨日は美容室の待ち時間に真剣に調べてしまった。学校にいかない場合は二年間の店舗での実務経験、が必要だそうだ。二年間か……といっしゅんまじめに考えてしまう自分がいておもしろい。

どんな創作のジャンルにおいても経済的な対価がこれでじゅうぶん得られない場合は兼業するほかないが、ほんらいひとはふたつの理念をひとは同時にいきることはできない。いつかはいずれかをやめなければならない、ということを思う。だがそれはいまではない。そういうことを思いながら、朝の光のなかで鯖を焼いている。

2017-07-08

盛夏前夜

夏は好きだが、こう災害ばかりが起きていると、自分が安全な場所で平穏にいきていることを申し訳なく思うこともある。SNS時代では不幸なことは目の前で生じているように感じられ、遠いどこか事故や災害がとても身近なものに転じるので仕方のないことではあるが、そうした不幸な事件が立て続けに起きていても、自分はこの一日をたのしくいきてよいのだ、と自分を説得するにはそれなりの胆力を必要とする。というより答がでない問いではある。答はないが、いつものように週末をすごしている。具体的には美容院にいって、食材を買込んで(サバが安かったので朝食用に買った)、書評用に本をいくつか買って、それから家に帰ってきて日課として机に向かっている。

本日は土曜日で、この曜日は原則としてはブログなどは休みにして知己の参加するイベントや詩集の広報に当てようかと思ったのだが、本日はたまたま手元に紹介したい本やイベントがない。もうすぐ盛夏で、わたしが一番すきな季節がやってくる。夏がやってくる予感がこの世でいちばんすきだ、とだけ書いたエントリを、ここにおいておきたい。

2017-07-07

雨のない昼

窓の外は炎天下のようにみえる。仕事のメールを何本か書き終えてから、ニュースを眺める。九州北部の豪雨の被害が大変なことになっているようだ。最近はなぜか九州地方の知己が増えてしまったせいか心配している。家財道具を失ったり怪我をしていないだろうか。夏場とはいえ雨に濡れたまま体を冷やすと経験上体調をひどく壊しやすいのでなるべく衣類を乾燥させた場で過ごしてほしいと思う。実際に被害に合われた方にはこころからお悔やみ申し上げる。つらいことは自分だけのものなので誰とも共有できないが、つまらないブログでも読む時間をつくってご笑覧いただければ幸いだ。

最近の出来事としては、夏本番に合わせて、ここ三年の集大成ともいえる作品「ワイルドハント」(仮題)の仕上げに入った。といっても第三者にとっておもしろいかどうかはわからないし評価されるかどうかもわからない。わからないがそれなりの確信を持つことができる水準には到達したと考えており、これをはやく世に問いたいと思っているが、その前にもやることがたくさんある。いずれにせよ、Tumblrからここを読みに来ている読者や、古い読者のために書いておくと、そんなに遠くないうちに発表できると思っているーーなお題名について某有名ゲームとはなんの関係もなく、適当につけてある。内容は「マリエ」という女性とともに星の降る丘で過去を回想する形式の抒情的なもの。

雨は抒情的だが、それはあくまで身の安全が確保されたときにのみ感じられる贅沢な感情ともいえる。いきるのに精一杯で、抒情的なものなどに向ける余裕がないひともたくさんいると思う。もっともつらいとき、自分を救ったり励ましたりしてくれたのはわたしにとっては一部の小説や詩だったが、だれにとっても同じではないだろう。読者には、第三者がいっているものではなく、自分がもっともこころ動かされるものを大事にしてほしい。

2017-07-06

友人のいない午後

断固たる決意デターミネーション、という単語が出てくる小説を読んでいる。決意、がなければ人間は目標を達成できないが、それはしょせん起爆剤にすぎないので、火をもやし続けるためには別の燃料が必要となる。その燃料は社会的評価だったり友人だったりする。どちらもない場合はネットが役に立つといいたいところだが、すっかりネットの代名詞となったツイッターをみていると、それは決意を薄め、弱体化させ、ほんらい継続すべきことをできなくさせる、ということがわかる。それは子供を甘やかして駄目にする典型的な親そのものであり、言い方をかえれば仲間内の作法で盛り上がる閉鎖的な村社会を維持する便利な装置ともいえる。

そうしたものを批判するのは楽しい。悪口と正当な批判は厳密にいえば違うが一般的な意味においてこれらを区別する必要はなく、三島がしばしば書いていたように悪口は楽しい。閉鎖的な村社会に首まで漬かって楽しくツイッターで悪口を書けば「仲間」が手に入るのかもしれない。だがもっとも避けなければならないのは仲間を作ることであり、徒党を組むことではないだろうか。悪口とは、ひとりで考えて相手に対して発するものであり、誰かと共有することを企図したり、誰かに理解を求めて湿った眼で頷きあうようなものではないのではないだろうか。

一方、わたしの一部エントリの文章のように、社会に幅広く拡散することがうれしくないかというと、うれしくないわけではないし、評価されればうれしい。ただそれを企図することは間違いであって、文章とは、そもそもひとりの読者も要らないし、求めるべきではないのだということを思う。そんなものとはなんの関係もなく、ただ自分のために書いているだけであって、それを経由して社会への経路が結果として偶然ひらかれてしまうことがあるだけで、実はわたしは、それは意思や努力ではどうにもできないのではないか、ということを思っている。

結果として偶然ひらかれたものの結果、友人が得られることはある。仲間の容易さにくらべて、友人をえることは、どうしてこれほどまでに難しいのか。そんなことを友人がいない午後に考える。友人はどこにいるのか。そんなものはどこにもいないのだろう。

2017-07-05

今晩の夕食

小松菜が大量に安く手に入ったので台所で洗っている。葉物は根っこのところに土が入りやすい。土、とわたしは書いたが、それは土に見えるだけで、実際には虫の死骸や排泄物であることも多いだろうということが経験から類推される。よって丁寧に洗う。さらに加熱もわりと念入りにする。野菜を生で食べてよいのだろうかということは、台所を預かるものとしてはいつも気になる。けっきょくインフラが整った現代社会とはいってもバクテリアや寄生虫やウィルスの知識はある程度もって自衛しなければならないということを最近よく考える。海外から入ってきた害虫のヒアリ等やデング熱もそうだが、これまでの常識が変わることもあり、また一方で古くからの思い込みが間違いであったと科学的に証明されるような事例もよく見聞きする。結局、常日頃から読み、考えていなければならないのだろうということを思う。ネットもある程度は頼りになるが、不正確な情報が多すぎ、しかもそれぞれが散逸しており、それを守るべきインターネットサービスプロバイダといえば恣意的にホスティングしていた情報を削除したり改竄したりする現実を見ていると、結局変更や修正に時間がきわめてかかる本という媒体の信頼性は高いままだと思わざるをえないので、料理についての本を集めるようになった。いろいろな料理をするようになって、調理師の免許なども面白そうだな、ということも思うが、残念ながらすでにいま兼業なので、そこまでする時間はなさそうなのがわたしの人生でいちばんの心残りだ。家族のために料理に集中できる人生であればよかったのにということを思う。きわめて残念な話だが、人生というのは、思うようにはいかないものらしい。

結局よく洗った小松菜で、しっかり火を通したオイスターソース炒めをつくった。

2017-07-04

そこだけの夏

シャッター商店街の裏手にあるショッピングモールという名前の零細商店が集まる広場の看板が台風で倒れてから一年が過ぎた。店はそれぞれなんとか営業をしているが、看板はこわれたまま放置されていた。本日クリーニングした衣類を持って帰宅するときその近くを通ると、看板が立っていた柱のところに、シュロの木らしきものが植えられ、蒸し暑い風に揺られていた。そこだけが夏だった。

猫たちは郵便局の前で暑さでだれてぐったりしている。腹が大きいところをみると妊娠しているようだ。次から次へと子供をつくり増えては消えてゆく。草むらにひそんでいる虫たちは秋にむけて食欲が旺盛であり、たくさん食べたものは大きな卵を産むに違いなかった。ひるがえって旧公団住宅は静かで、老人たちしか住んでいない。わたしの家では子供が眠っているはずだったが、あたりは風が吹く音以外はとても静かだ。

夕暮れの強い日差しが路上に斜めに落ちており、どこかで救急車が出動するサイレンの音が遠くにきこえる。アスファルトに自転車の影が落ちている。うつむいた老人たちとすれ違うが、かれらは一様に疲れた顔をしている。なにに疲れているのか。本人にもわからないかもしれない。おそらくわたしも疲れた顔をしている。笑った顔をつくってみると、土に落ちた影がわらっている。きりとられた夏の夕べがやってくる。

2017-07-03

わからないもの

夕暮れが近い。蒸し暑いが、様々なことが片付き、気持的には爽やかな午後だ。某紙の編集長から書評依頼がハガキで来たのでその文面を眺めながら窓の外をみている。

それは「やさしい言葉でわかりやすく書くことを心がけた」という詩人の本だという。やさしいことばでわかりやすく書く、とはどういう意味だろうか、と考える。やさしいことばでわかりやすい文章が、たとえばネットにはあふれているのではないだろうか。読みやすく「共感」しやすい文章が、たとえばネットにはあふれているのではないだろうか。

だがそうすることによって、もっとも大事なことが失われているのではないか。それは「わからない」ことをわかる、というシンプルなことなのではないか、ということを思う。そしてもちろん、「難解な言葉でわざと分かりにくく書く」衒学的な作品のつまらなさ、ということも同時に想起する。どちらがよいのか。

誰でも知っていることばで、わかりやすく書こうとすることは必要だ。だがその結果、文章は必ずしも「わかりやすく」なるとは限らないのではないか。困難に困難を重ねて必死に書いたものが、やはりわかりにくくなってしまう。そういうことはあるのではないか。そういうことを思う。難解さが必然であるような作品はある。そういうものを読みたいし、そういうものを評したい、ということを思う。

思っているうちに日が暮れる。自分のこともわからないのに、わかった気になるものだ。

2017-07-02

夏の大きなお世話

七月になった。だんだん暑くなってきて、夏が好きなので精神的に高揚してくる。どんなものでも書けるし評価もされるような気がする。もちろん気がするだけでまったく評価されない のだが別にいいのだ。なぜならそもそも場が疲弊しており、社会が疲弊しており、個人が疲弊しており、「読む」という営為が縮小しマーケットが滅びつつあるのだから、みなが同じことにくるしんでいて、わたしもまた例外ではなく、その認識自体はそんなに悪いものではない。みな読まれないという困難な時代を生きているということだ。ネットで共感や理解を排除した上でさらになにか書こうとすればそうならざるを得ない。それでいいのだ。

と、いっても別にわたしは悲壮感にあふれているわけでもなく、きわめて楽観的に生きているし今日も書いている。ただ同業者たちの顔は暗く、もっというならネットで明るく振るまう笑顔や「お世話になっております」は暗い。まあ、それはそうだろう。だが敵を間違えずにゆこう。敵は自民党でも、安倍政権でも、都民ファーストでも、民進党でも、共産党でも、ネトウヨでもサヨクでもなく、さらにいうならばそれは親でも、共同体でも、世間体でも、うつくしい国でも、この世に存在するありとあらゆる事象でもなく、それらがあらわすものではない。敵はおもしろいものを書こうとするものを邪魔するなにかであり、多くの場合それは鏡に映った(またはけして映らない)自分自身の像だ。

あなたもまたなにもかもに《この社会》におまえは無意味だといわれているのだろうか。
ここで「汝の隣人を愛せよ」、ということばにジジェクはどう返したか思い出そう。「大きなお世話(ノー、サンクス)」だ。

2017-07-01

《土曜広報投瓶》——「月と光と詩の夜会  詩人:文月悠光さんに聞く」

読者各位

「詩と思想」の青木由弥子氏より告知をいただいたので以下広報します。
席数はあまり余裕がないことが想定されるのでご希望の方はお早めにどうぞ。

ーーー以下、オフィシャル情報そのままーーー

日時:9月8日(金) 18:30 開場 19:30 開演(21時終演予定)
司会:青木由弥子   聞き手:梁川梨里(詩と思想新鋭)

費用:1500円(参加費1000円+ワンドリンク)
定員:20~25名
場所:Title (荻窪の書店)
・JR荻窪駅 北口より青梅街道を西へ徒歩10分 
・JR西荻窪駅 北口より東へ徒歩18分 
・八丁バス停(関東バス、西武バス)から徒歩1分 
*荻窪駅北口・0番、1番、4番乗り場発車のバスなら、
 全てのバスが八丁バス停に停車。
 荻窪駅~八丁バス停は5分程度。

予約はこちらからどうぞ。
https://ssl.form-mailer.jp/fms/bf0898f5516229

ーーー広報ここまでーーー

2017-06-30

夏きたる前の雑記または楽観主義者

金曜日。あまり一般の世間とは関係がない生活だが、土日にむけて仕事の密度は減る。
週末というものはいいものだ。

最近のネットの読者の印象として、薄く広く眺めてみると、短時間で読めるものしか読んでおらず、特定の作家名を帯びず、散逸した状態でも読めるもの(=匿名に類するもの)が好まれる傾向があると思う。読み手知らずの短歌や俳句、あるいは短い漫画はネットに最適な作品ということは言えるだろう。短歌がとくに盛り上がっているという話は某出版社のひとに聞いたが、そうだろうと思う。時系列に読む必要もないし、それぞれ自立している。

わたしのブログ、Tumblr、ツイッターはそれぞれ別々の目的と主題をもって製作しているが、基本的に読者からの反応というものはない。ごく一部の古い読者や一部の読み手に拾われ、それがかろうじて広まったりわずかに読まれたりする以外に、フィードバックというものはない。わたしは短時間で読めるものとは正反対のものを書いており、時代=フォルムに適合していない。と、いうより、適合できないことそのものを書いている、と言い換えたほうがいいかもしれない。

一方、わたしのネットにおける目的というのはシンプルで、ぼんやりとした言い方になるが、「読者共同体」、別の言い方なら読者ベースと呼ばれるものになるだろうか、それを創出していくのが、ブログ、Tumblr、ツイッターでのわたしの仕事ということになる。わたしの尊敬する作家は、長い作品を書いていたので、わたしもそれにならって、長いものを書こうと思っているし、いま書いているし、それを形にするための努力をしている。長い作品が読まれ(う)るためには、読者共同体が存在していなければならない。

また、ここはブログなので正直に書いておくと、わたしは「現代詩の新鋭」という呼称はあるが、自分が詩人とは思っていないし、現代詩を書いているとも思っていない。ただわたしの名前が記された作品群を書いているだけだ。それを第三者が後付けで分類する。それはそれでかまわない。ただネット的なことをついでに書いておけば、わたしは自分のことを作家とはまだ名乗りたくない。特定の雑誌に多少原稿が載ったからといって、その人物は作家だろうか。違う。第三者に書いているものが評価され《続ける》ことだけが作家の条件である。

ブログでも、Tumblrでも、ツイッターでも、雑誌でも、本でも、ありとあらゆる場所で、器用に文体を使い分けることいっさいなく、同じひとつの名前のもとに書いてゆきたいと思っている。ブログやTumblrやツイッターで「読みやすい」文章を求める読者に応えられないのは申し訳なく思っているが、これがわたしの考える読者に対する誠実さだとご理解いただければ幸いだ。

わたしは読者は存在していると思うし、ネットになにか書くことが無意味だという意見には賛成しない。まったくフィードバックがないから、まったく反応がないから、まったくアクセスがないから、だから《無意味》だと言う意見にはまったく賛成しない。書くこと、伝えようとすること、考えること、理解しようとすること、そのどれもが困難であり、そのどれもが貴重な人生の一部であって、書くという一連の姿勢と行為には、わたしたちがいきるこの世界がいったいいかなる場所なのかそれを知るための重要な契機をもたらす可能性があると考える。その程度にはわたしは楽観主義者だといえる。

2017-06-29

マイノリティのわたし

今日もスパムメールが届いている。メールには"I need to be loved"と書かれている。だれもかれもが愛されたがっている。だれもかれもが認めてもらいたがっている。だれもかれもが褒めてもらいたがっている。だれもかれもが意味を求めている。だがそれはけして得られない。だがそれはけして手に入らない。
この社会はマイノリティに冷たい。いやこう言い換えよう。マジョリティに同化しないでとどまっているマイノリティに冷たい。さらにこう言い換えることができる。マジョリティに同化する「ふり」をするみんなのルールを守らないまたは理解しないマイノリティに冷たい。マジョリティはこういっている。なぜ同化しないのか。なぜみんなと同じ顔をしないのか。なぜみんなと同じことをしないのか。なぜみんなと同じ《ふるまい》をしないのか。マジョリティはいつもそういってマイノリティを攻撃している。あるいは攻撃的な抑圧を企図する。なぜそうか。

いや、なぜそうかと問うことには意味はない。そんなものになんの意味もない。ツイッターの《学者》や 《知識人》にまかせておこう。そういったむずかしい話題はツイッターのひとびとにまかせておこう。わたしたちが問わなければいけないのはシンプルなことであり、ごく普通の語彙で表現することができる。それはなぜ愛されたいのかということ。それはなぜ認められたいのかということ。それはなぜ褒められたいのかということだ。それこそを問わねばならずそれは小難しい理論をいっさい必要とせずツイッターで手に入る《学問》や《知識》をいっさい必要としない。なぜならわたしたちは自らのこころに問うだけでなぜという疑問に対する答を手に入れることができる。鏡をみてそこに映るものを見つめるだけでこの世界のすべての答を手に入れることができる。

マイノリティなので今日もつまはじきにあっている。マイノリティなので今日もどこにも居場所がない。マイノリティなので今日も電車で隅に座っている。マイノリティなのでお金がない。マイノリティなので思ったことを書くことができない。マイノリティなので匿名で活動している。マイノリティなのでツイッターでも本音がいえない。マイノリティなので日陰にかくれている。マイノリティなので実家に住んでいる。マイノリティなので黙っている。マイノリティなのでいつも怒っている。マイノリティなので共産党と民進党に投票している。マイノリティなので不具合がある。マイノリティなので人生がいきづらい。マイノリティなので憎んでいる。マイノリティなのでくやしがっている。マイノリティなのでのろっている。マイノリティなのでブログを書いている。

だがしかし敵はどこにいるのか。だがしかしにくむ相手はどこなのか。にくい相手はどこなのか。愛されるためになにが必要なのか。認められるためになにが必要なのか。褒めてもらうためになにが必要なのか。いまここにいる自分のためになにが必要なのか。なにもわからないのでただ生きている。なにもわからないのでツイッターをやっている。なにもわからないのでスパムメールを読んでいる。なにもわからないのでスパムメールに返事をしている。なにもわからないのでloveがわからない。なにもわからないので受動態がわからない。なにもわからないので能動態がわからない。なにもわからないので区別がつかない。なにもわからないので匿名と顕名の違いがわからない。なにもわからないので、なにもわからないので、なにもわからないので、鏡をみている。鏡にはなにも映ってはいない。

2017-06-28

ネットで知りあったひとと会ってはいけない

今日も平等に夜がおとずれる。あるいは不平等な夜がおとずれる。めぐまれているものはめぐまれていることを知らず、まずしいものはまずしさそのものを強いられている。愛されているものは愛されていることを知らず、愛されたことがないものは愛されたことがないというその欠乏自体を知りえない。
なぜネットで知りあったひとと会おうとするのか。なぜひとはネットで出会ってしまうのか。なぜひとはネットで出会ったひととあろうことか性交してしまうのか。なぜひとはネットで尊敬できるひとが現実でも尊敬できると思うのか。なぜひとはネットで知識人のひとが現実でも知識人だと思うのか。なぜひとはネットでインテリのひとが現実でもインテリだと思うのか。なぜひとはネットで頭がいいひとが現実でも頭がいいと思うのか。なぜひとはネットで美人のひとが現実でも美人だと思うのか。なぜひとはネットでイクメンのひとが現実でも子育てをしていると思うのか。なぜひとはネットで料理の写真がきれいなひとの台所が現実でもきれいだと思うのか。なぜひとはネットで高収入を自慢しているひとが現実でも高収入だと思うのか。なぜひとはネットで性器の大きさを自慢する男が現実でも性器が大きいと思うのか。なぜひとはネットと現実に共通項を求めてしまうのか。なぜひとはネットで《理解》を求めてしまうのか。

それはさみしいから。それはかなしいから。それはひとりぼっちだから。それは現実に居場所がないから。それは世界が不公正だから。それは世界がアンフェアだから。それは繋がりがうしなわれているから。それは連帯が損ねられているから。それは《世界一の国》が夢まぼろしだから。それは《うつくしい国》が存在しなかったから。それは共同体がこわれているから。それはコンビニのおにぎりが値上げされたから。それは人口減少で地元のバス停の運行が削減されたから。それはつい先日までたのしくみていたビデオ配信サービスが日本企業に買収されてしまったから。それはネットでしか威張ることができないから。それはネットでしか知識人のふりができないから。それはネットでしか格好いいことがいえないから。それはネットでしか自慢ができないから。それはネットでしか楽しさが見いだせないから。それは現実になにひとつ楽しいことを見つけられないから。それはなによりも現実から逃避したくてたまらなくて逃避先ですこしでもいいからくるしみから逃れる麻薬がほしいから。それはネットにだけ麻薬があってネットにだけ人工甘味料があってネットにだけ孤独をいやしてくれるなにかがあるように思えるから。

ネットで知りあったひとと会ってはいけない。ネットで知りあったひとと会おうとしてはならない。ネットで知りあったひととつきあってはいけない。ネットで知りあったひとと性交してはいけない。ネットで知りあったひとと結婚してはならない。ネットで知りあったひとと交流してはならない。無理なのです不可能なのです。なにもかもが嘘でごまかしなのです。なにひとつ楽しくないのですなにひとつうれしいことなどないのです。なにひとつすくいなどないしなにひとつゆるしなどもないのです。なにもないからつい会いたくなるのはわかります。なにもないからついネットで出会ったひとに理解を期待してしまいます。だがだめなのです無理なのです。あなたの願いはけしてかなうことはないのです。あなたはえいえんにひとりぼっちなのです。あなたはそこでかわいてゆくしかないのです。あなたはそこでひとりでいきてゆくしかないのです。この世界でネットですべての人間とつながっていながらだれにも理解されずひとりぼっちの場でいきていくしかないのです。なぜならなにもかもが嘘だらけでそれを避けることができないからですそれを拒むことができないからですなぜならなぜならなぜなら《わたし》こそが嘘を求めているからなのです。

だからネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとを信用してはいけません。ネットで知りあったひとを愛してはいけません。ネットで知りあったひとをゆるしてはいけません。ネットで知りあったひとを尊敬してはいけません。ネットで知りあったひとを知ろうとしてはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ネットで知りあったひとと会ってはいけません。ああ、インターネット、おまえの孤独はだれにもいやせない。

2017-06-27

当たり前のことたち

忙しくしていたら深夜になっていた。今日の夕食は鳥のささみを使った炊き込み飯で、時間がなかったので仕上げには失敗したが、それなりの味。それからセールで見つけて買ったその日に味噌につけておいた豚ヒレ肉をグリルで焼いたもの。それから大根の味噌汁。

料理には、冷蔵庫の中身を把握すること、いまある食材を使う予定を立てること、コスト管理をすること、調理すること、生ゴミの処理方法を考えておくこと、等の様々な要素があり、人生にとって必要な気づきを与えてくれる、わたしにとって貴重な作業だ。

最近の気づきは、台所や調理器具は常に清潔にしておくことが大事とよく言われるが、その実践は大変だということ。それには常日頃の努力が必要なのだが、それは「当たり前のこと」として毎日やるもので、矛盾するようだが、努力が必要と思ってはならないこと、必ず、毎日、息を吸うようにやらなければ続けられないのだ、ということだった。

大事なことは毎日やらなければならないし、努力などということばを意識から徹底的に排除したうえで、当たり前にやらなければならない。というより、そうしなければ疲労してしまって続けられない。「がんばり」や「努力」はひとを疲労させる。当たり前にやるしかない。毎日、当たり前のことを当たり前にやるしかないのだ。わたしは以前それは才能だと書いたことがあるが、一方、これは後天的にかくとくできる技術だと思う。

どこかで野菜が腐っている。ひとは、努力によって変わることができるだろうか?

2017-06-26

光のつよさ、夏のつよさ

暑さがましてきている。窓から斜めに差し込む光の強度があがっている。光のつよさは夏のつよさで、夏にきりとられた部屋ではさまざまなことが起こる。

昔、四季のない熱帯の島国にいた頃は建物はすべてコンクリート製で木造家屋などは見たことがなかった。自然が過酷なので、木造では長いこと家屋が持たないからだ。熱帯では地震もなく台風も赤道直下のため来ない。このため石造りの建物は英国の植民地だった頃から多くが残されていて、当時の雰囲気をそのまま伝えていた。

コンクリートの建物は昼間のうちに日光をあびて熱を蓄え、夜中になっても熱を放射し、寝室も居間もとにかく壁が暑く、海からの風が吹いてこない夜などは、何もしていなくてもだらだらと汗がながれた。

当時の知己のひとりXは寝るときにはいつも下着をつけないで裸で寝ているの、と言っていたことを憶えているが、おそらくからかわれていたのだろう。なにしろXは近くのマンションに住んでいて、わたしのいた棟から彼女の部屋はさほど遠くなかったはずだったからだ。

住んでいた部屋のベランダに出ると眼下には遠く水平線が見え、未開発の野原が広がる側に、彼女が住むマンションがぽつんと建っていた。ある日、何かの用があって、居間の電話からXの家に電話をした。窓の外には焼けつくような日が落ちていた。

しばらくコール音がして、やがてXに似た声の女が電話に出た。「Xはいないわよ」と女はいった。わたしはいっしゅん戸惑い、Xの住むマンションの方角をみる。陽炎のあちら側のどこにXの部屋があるのか、当然わかるはずもなかった。「Xはもうどこにもいないの」と、女は続ける。なにもかもが、あなたのせいなのよ。

2017-06-25

事後の場所

週末にショッピングモールに出かけた。郊外のショッピングモールはここで何度か書いたように愉快な人々であふれているが、もちろん自分もその一員であるほかなく、所与の条件から自由であるかのようにふるまうことはおろかだというほかない。別の言い方をすれば日本にいながら日本人であることから自由であるかのようにふるまうことは滑稽だということになる。安全な場所などない。

さて本日は三ヶ月になった子供をともなっての外出だった。ベビーカーではなくベビーキャリアを使った。よく外にゆくとリュックサックを背負って子供を前に抱いてさらに両手に買い物袋をぶら下げた母親を見かけるが、あれがどれぐらい大変かということはやってみなければわからない。ベビーキャリアで六キロちかくある物体を持ったまま買い物をする、ということがどれぐらい大変か、今日はそれを学んだ。そして夏は暑さ対策が大変だということも。汗まみれになってとてもかわいそうだった。

へとへとになって帰ってきてすこし休んだが、あまりに疲れたので子供の身体を洗ってミルクをやってから気絶するようにすこし眠った。ソファで家内にあやされる子供の顔をみていて感じるのは、きっと時がたてば、この時の大変さはいい思い出になるのだろう、というぼんやりとした予感だ。子育てに関与できないとくに男親は、子供を愛する契機の多くを奪われているということを思う。大変なことを苦労しながらすることは、けして悪いことではないのだ。子育てから逃げて仕事に逃避していたかつてのわたしは、恥ずかしい人間だったということを思う。だがひとは、「ほんとうはこうすべきだった」と、《事後》に気付くのだ。なぜなら理解とは苦い喪失を経ないとあらわれないものだからだ。

いつでも事後の場所にいる。痛みや愚かさから自由な安全な場所などない。

2017-06-24

月の影

土曜日になった。外はよく晴れている。今日は都心で会合があるのでその準備をしている。原稿を印刷したり本を準備したりといったことだ。けっきょくどんな分野の仕事も会社員の身振りでビジネスライクにやらざるを得ないが、情熱がある分野というものはある。とはいってもいくら情熱があっても読者がまったく付いてこない作風というものもあり、それはそれでわたしの努力の範疇を越えた宿命というか、より一般的な言い方をすれば「仕方がない」ことであって、それに関して文句をいうのは既存の読者に失礼だというようにも思っている。わたしは人間としてどうしようもなく駄目な存在で、正直なところはやくこの世界からいなくなりたいとしか思っていないのだが、文章だけはそれなりにまともなものを書いているので、これで社会に(間接的に)恩返ししてゆくのが筋なのだろうと思う。もっとも「読者」というのは届かない他者のことであって、湖面に映った月の影のようなもので、触れることはできないし、触れたしゅんかんに崩れてしまうものなのである。話せない、語れない、わかりあえない。読者のみなさん、こんにちは、根本正午です。

2017-06-23

偽の生活

梅雨の湿気が街を覆っている。外国で買ったコートをクリーニングに出そうとしている。タグが外国語で読めないので引き受けられない、と受付の老人はいっている。日本語か英語じゃないとね、といわれている。そうですよね と回答し、服を持ち帰ることにする。

コートは真冬になると壁のような吹雪に襲われる街の市場の一角で買った。野外市場には凍りついた土にじかに座り込んだ老婆や子供がおり寒さに震えながらものを売っていた。店にある蒸し器からは真っ白な蒸気が吹き出して視界を遮っていて、道のあちこちに屠殺された獣の血が凍ってへばりついていた。

このあたりの霧が多い郊外にあるスーパーにも外国人がたくさん働いている。最初は台湾の人かと思ったがベトナム出身のようだった。だがかれらにいっさい話しかけることなくレジに並ぶ。同じ列には子供たちが並び、わたしの髪の毛の色をみて話しかけたいような顔をしている。結局、クリーニングに出すはずだったコートを家にもってかえる。日本語でものを書くのは、日本語が満足に理解できないからなのだ。

2017-06-22

優しくないものたち

仕事の合間に買い物に出かけて夏物のスラックスを何本か仕入れて、職場に戻ってきて自民党の女性議員が暴言で辞職したというニュースをみている。テープも一部聴いてみて、あまりのひどさに正気を疑ったが、いったいふだん職場たる自民党ではどんなひどい目にあっているのだろうと思ってしまう。プライドや尊厳をあらゆる意味で踏みにじられる非人間的な職場に勤めていなければ、自分よりも弱いものをここまで執拗に攻撃しようとはしないだろう。人間、自分がやられたことしか、ひとにできないものだ。

こうした負の連鎖は止めることができないし、たとえば自分が誰かに寛容にしたとしても、それを相手が感謝するかというとほとんどそんなことはなく、むしろ舐めてかかってくることがほとんどで、さらにいえば「優しさ」に甘えてもたれかかってくることがほとんどではないだろうか。つまり人間、嫌なやつになって、自分のいいたいことだけをいって、相手のいうことはいっさい耳を貸さず、怒鳴り散らしてひとにいうことを聞かせる人生がいちばんお得……ということかもしれない。そう思って苦笑してしまう。

上記と矛盾するようだが、わたしは、どこかの作家が言っていたが、優しいひと、が最終的には勝つと思う。舐めているひと、思い上がっているひと、馬鹿にするひとを打ち負かすと思う。現実をみればそんなことはない、と読者はいうかもしれない。それはわかる。だがそれでも、わたしは優しさを守り抜けるひとこそが強いと思うし、人生の究極的な一面において、優しいひとこそが最終的に幸せに生きられるのだ、と思っている。ひとを傷つけることでしか自らの傷をいやすことができないひとたちは、端的にいってかわいそうなのだ。

2017-06-21

交差点の女

ひとが歩く速度と同じ速度で雲が南から北へとながれている。もちろんそれは錯覚にすぎない。遠くにあるためひとと同じ速度のようにみえるだけで実際にはもっと速く動いている。わたしは交差点で自転車に乗って信号が変わるのを待っている。信号はなかなか変わる気配がない。昼間に降った大雨はすでにながれて水たまりは強風に吹き飛ばされてなくなり、ちぎれた雲のあちら側に沈む夕日の光がもえあがるのが見える。道は濡れていてそこに枯葉が散らばってへばりついている。わたしの隣、路上では髪の毛を紫色に染めた若い女が車中で口紅を直している。後部座席には乳幼児が窮屈そうにシートに収まっている。運転席には疲れた表情の男がハンドルを握っている。女はわたしをちらりと見て目をそらした。子供のほうは生まれておそらく三ヶ月ぐらいだろうかよく眠っているようだ。待っている間に、午後五時になると鳴り響く時報が聞こえてくる。あたりはすでに夜のように暗い。闇に溶ける精悍な肌の色をしたアジア人たちが道の反対側を自転車で走ってゆく。どこかで老人が咳き込んでいる。信号が青に変わる直前、女がまたわたしを見た。そして真っ赤な唇をひらいて何かを言おうとした。どこかで会ったことがあったか、とわたしは思う。だがそれを思い出す前に信号が変わり、あちこちがへこんだ車に乗った女とその家族は、わたしを置き去りにして道の彼方へと消えていった。

夜がふたたび訪れる。ようやく待ち望んだものがやってくるのだ。

2017-06-20

虚栄の詰まったずだ袋、またはGoogle+を辞めた理由

ネットでは無限に嘘がつける。嘘の真偽を検証する方法はない。先日、わたしはとある恥ずかしい事件があってGoogle+というSNSを辞めたと書いたが、結局のところ、それ以降ネットの上でのすべてのやり取りを中止することになった。それから三年、コメントやコミュニケーション機能を意図的に排除したTumblr等でしかネットでは書いてこなかった。

どうでもいい話、つまりきわめてプライベートな話になるが、なぜ辞めたかというと、とある作家のことを読んでいないのに読んだと書いてしまったから、というシンプルなものだ。きわめて恥ずかしいことで、それ以上でもそれ以下でもないが、ひとつはっきりしているのは、ネットはそういう知的な不誠実さを実行するのにもっとも適した空間であるということだ。

一方、読者はこう言うかもしれない。現実においても知的な不誠実さが横行しているではないか。たとえば、野心で眼を輝かせた若者に「きみはXを読んだか」と聞いたら、「読みました」と精一杯の嘘がかえってくるではないか、というかもしれない。そのとおりだ。若者や未熟者が知らないものを知っていると強がるのはいい。だが、その若者は次に会うときまでにそれを読んでおく必要が生じるだろう。嘘をついてしまったら嘘を守る必要があるからだ。

ネットではそうではない。いつでも嘘がつける。いつでも嘘をごまかせる。いつでも嘘を塗り重ねることができる。次から次へと嘘を糊塗することができる。誰もそれを検証などしないしできない。ここまで読んで、読者の脳裏に浮かんでいるAからZの人気ブロガーや「知識人」たちの顔をわたしも共有しているといわねばならない。だがわたしは彼らを批判する気にならない。ネットにとどまればそうなってしまう。虚栄の詰まったずだ袋になってしまう。それは避けられない。

その時、わたしはSNSから完全に去ることにした。それはGoogle+で巡り合った貴重な友人たちとも永遠に別れることを意味した。それはつらい選択だったが、他に選択肢はなかった。不可避的に生じる嘘への衝迫、衝動、欲求、これらから誰もが自由ではないことはたとえばツイッターをみれば明らかで、ひとにとって自然なこうした欲求を受け入れてネットという現代を楽しむ、という姿勢はありうる。だがわたしはそうした道は選べそうにない。

自分の言いたいことを書いて市場の流通に乗せること、商業的な価値がないかもしれないものをつくってゆくこと、現実社会に無視されるかもしれないものをつくってゆくこと、これをネットとネット以外の貌をもった現実の相反するふたつの場で行うこと、それがわたしのすべきことであり、していることであり、今後もしてゆくことだ。

だがさみしさはある。Google+はいいSNSで、巡り合ったひとびととの絆は貴重なものだった。わたしが自らの愚かなふるまいでそれをうしなったことを後悔している。それをここに書いておきたかった。

2017-06-19

真剣な病気

書くのは楽だが校正はつらい。夜になって、ふたたび机に向かっている。それしかできないので、家事以外の時間は机に向かうしかない。印刷し、再読し、間違いがあるかどうか確認する……のだが、読み返す気にならない。もっとはっきりいうと読み返したくない。

だが仕事なので仕方なく読み返す。携帯端末で読める文章を書くのもいいが、手に取れる物理的媒体としての紙の雑誌や本もやはり必要だ。過去十年、わたしは紙媒体にする努力をどちらかというとさぼってきた。そのつけをいま支払っているということになる。

努力、というものは、正しい方向でやらなければ、ただ時間が浪費されてしまう、と頭の表層では思うが、「無駄」とか「浪費」といった単語に過度に反応してしまうことこそが避けなければならないことで、むしろ無駄なものこそがおもしろいといわなければならないのだろう。

机で原稿を読み返していると、外を十代の少年たちがなにやら奇声をあげながら走ってゆくのが聞こえる。おそらく楽しくて仕方ないのだろう。だが外からみればそれは病気にすぎない。真剣に無駄なことをする、それもやはり病気というほかない。

2017-06-18

兼業主夫の日曜日

だんだん暑さが増している。キッチン用に布巾を何枚か買った。コンロ用、床用、テーブル用ととりあえず三種類に分ける。そしてコンロから掃除する。コンロは油汚れが付着しており、泡立てた洗剤を使って溶かすと非常によく落ちる。以前は専用の洗剤を使っていたがちゃんと泡立てれば「キュキュット」で十分だ。終わってから一度手を洗浄し、消毒してからミルクを作りはじめる。

ミルクは沸騰したお湯でなければならず、哺乳瓶は薬液に漬けて殺菌しておいたものを使わねばならない。作り置きは雑菌が発生するのでできないため、毎回新しく作ることになる。ミルク専用の薬缶を買ったのでお湯を沸かす間、テーブルと床をそれぞれ別々の布巾で拭く。

そこまでやって子供が泣き始めたので、おむつを確認し、変える必要があるようなのでこちらを優先して交換を行う。脱がし、かぶれがないかどうか目視して、おむつを専用の容器に捨て、新しいおむつを履かせ、手をふたたび洗浄、消毒し、沸騰したお湯でミルクを作る。飲ませる。飲ませるのにも20分ぐらい。さらにげっぷをさせないと吐いてしまうことがあるので背中を優しくたたいて胃の中に入った空気を出させる。

げっぷするとだいたい眠りにつくことが多いが今日は眠らなかったので、背もたれがあるソファに上半身を起こして座らせて一緒にホラー映画を見る。もっとも見ていたのはわたしだけで子供はすぐに眠っており、テレビの前でひとりでクライブ・バーカー最高などとつぶやきながら「ミッドナイト・ミートトレイン」を途中まで見て飽きる。

外は暑く、日差しが強い。わたしはそっと立ち上がり、音を立てないように夕食の準備を始める。トマトをざっくり切ったものをボウルに入れ、これにケチャップと酢と砂糖を混ぜて適当なソースを作り、これをチキンサラダにかけて食べようと思う。そしてまな板の前で、そういえばブログを書いているのだったと思う。

そういえば他にも意味のないものをたくさん書いている。だが意味のあることがあるだろうか。掃除や料理に意味があるだろうか。子育てに意味があるだろうか。意味などないというほかない日曜日がこうして過ぎてゆく。

2017-06-17

勝嶋啓太の詩を紹介します

薄曇りの道を予約したケーキをぶらさげて帰ると、郵便ポストに、某クラブで知り合った詩人・勝嶋啓太氏より朗読会の招待状が届いていた。わたしは氏の作品が好きで、ゼロ年代に青春を過ごした、あるいは現在進行形で青春をおくっているひとびとのこころに鋭く刺さるのではないかと思う。招待状には詩がひとつ、新作と思われるものが同封されていた。

ぼくたちは もうずいぶん長いこと 歩いてきたのだ
だけど
いまだにどこにたどりつくのか
さっぱりわからない
わからないまま

ぼくたちは もうずいぶん長いこと 歩いてきたのだ

(///)

ずいぶん前に 誰かが
そろそろ もどった方がいい と言ったが
ぼくたちは それは間違ってる と思っていたので
無視して 前に進んできた
でも

今は もう もどりたい とぼくたちは思っていた

(///)

もう みんな 前に進むことに うんざりしていたのだ
しかし もどろうと 後ろをふりかえったら
そこには なにも なかった

ぼくたちは もう もどれなくなっていたのだ

勝嶋啓太 「ぼくたちは もうずいぶん長いこと 歩いてきたのだ」


「前」はどこか。それにむかって進むことはわたしたちを幸せにしたのか。前にたどりついたわたしたちは幸せになったのか。そして前にすすむために犠牲にしたものたちはどうなったのか。よそ見をしないでまっすぐ進んできたときえらばなかった脇道にはどんなうつくしいものがあったのか。この詩はそういう問いをわたしたちになげかける。氏の作品にはどれも、「いま・ここ・わたし」についての同時代性が色濃く出ていて、読んでいてつらく、直接こころに届く平易な(意図的に選択された)文体は、幅広い共感を得られるのではないかと思う。

詩を音読して、「そうだ、なにもなかったな」とつぶやく。そう、そこにはなにもなかった。そしてもどることもできない。そのつらさは、現代に生きる(そしてひょっとしたら他の先進国に生きる)数多くのわたしたちの人生に共通するものではないかと思う。いきることは失うこと。そして失ったことそのものを失うことなのだ。

2017-06-16

雨の中の花

仕事をふたつこなし、子供が生まれて100日が経過したのでお祝いのために買い物に行った。スーパーのレジに並んでいたとき、ガラスの外の雲行きが怪しくなり、後ろに並んでいた主婦たちが「ゲリラ豪雨ですって」と誰かと携帯で電話をしている。ゲリラも豪雨もいずれもかなり乱暴な印象をうける単語だが、東南アジアでは一般的にこうした突発的な雨はスコールと呼ばれ、驟雨や夕立といった単語よりもわたしはそちらのほうが好きだ。そもそもこうした突発的な豪雨が増えたのは温暖化と呼ばれている気象変動のせいだと理解しているのだが、わたしたちの国も少しずつ熱帯化していくのだろうか。南極や氷河の氷がとけてあちこちが亜熱帯化して生態系が変わってゆく悪くない未来なのかもしれないが、あちらの動植物は毒が強いものが多いので、そういう意味ではかなり過ごしにくくはなるように思う。ただ雪で毎年亡くなるひとを報道でみると、雪も同じぐらい危険なのではないだろうか。いずれにせよ思ったとおりにいかないものだ。そういうことを思いながら、レジを出て、真っ黒な雲をガラスの内側から見上げる。レジ近くの花屋でとても無愛想な店員から小さな花を買った。家内は花と子供の写真を撮って友人に自慢するそうだ。ガラスが風で揺れている。わたしは花を折ることなく、家にかえることができるだろうか。頼まれたこと、委ねられたことをやりとげることができるのだろうか。

2017-06-15

意味のない千の夜

今日もずっと机に向かう通常通りの一日だった。暑くもなければ寒くもない。わたしもすべてのひとと同じように仕事はしているがそれ以外にはなにもあたらしいことはなく、なにも古いものもなく、ただ時間が浪費されている、ような気がする。もちろん時間というのは浪費できるものではない。そんなことをいえば人生そのものが浪費にすぎず、ただ生Aから死Yへ向かう動きの影にすぎないはずだが、いつでも意味を求めたがるものだ。

赤ん坊をみているとこの子はどこから来たのだろうと思うしどこか敬虔な気持ちになるが、しょせん死んだら土になるだけでありそれは道で死んでいる猫や犬となにが違うのかと自問するとなにも違わないという答が自分のこころからかえってくる。冷蔵庫の中には獣を殺してさばいた肉がたくさん冷蔵保存されていて夕食には豚肉を食べた。殺して食べる。食べなければ死ぬ。食べても死ぬ。赤ん坊はミルクを飲まねば死ぬが飲んでも病気で死ぬ。

ニュースでは、幼稚園で二人の子供が感染症で死んだ、と伝えている。自分が親だったらどうするか。いや、自分は果たして親なのだろうか。そんな資格があるのか。戸籍上は親だがいつから親のような顔をしはじめたのか。あなたにそんな資格があるの、このひとでなしとわたしを責める声がきこえる。

窓を閉める。なんの意味もなくとも、仕事をしなければならない。

2017-06-14

枠組の外

豚肉を味噌につけたものを強火で炙った一皿をつくった。とても美味だったのでまた仕込んでおこうと思うが、フライパンによって仕上がりが結構異なるので、これだけ情報が氾濫しているのだから、調理器具の素材別特性について書いてくれたウェブサイトはないかなと思うが、いまのところ見つけてはいない。料理に関する本はすこしずつ集めているのだが、これといった決め手にかけている。最近、お湯の味、というものをはじめて意識する機会があった。子供が特定の薬罐でつくったミルクだけ飲まない、ということがあったのだ。それで実験して味を比較してみたら一方は鉄くさく、もう一方は無臭だった。意識するとすぐにわかる。ふだんは「別に違わない」と思っているから違いがあるけど見えないのだ。つまり、みようとしなければ、そもそも違いなどは存在しない。違いというのはファクトではあるはずだが、それは意識にのぼらなければ存在しないのと同じなのだ。

けっきょく気付きというのは、自分の知らない、外の意外なところからしかやってこないのだと思う。作品もそうだが、さまざまなひとに読ませてみてはじめて理解しうるものもある。ネットではまったく無視されていたものが評価されることもあるし、一方、その逆もある。ある瞬間に壁をこえる経験はおおくの成長をする書き手が経験することでもあるしわたしも経験があるが、そうしたブレイクスルーは、同じことをやっていることだけではけして得られないものであったりもする。もちろん、同じことを続けることも必要だ。だがいつもと違う道を歩いてみる必要もある。わたしが思うのは、いつもと同じことを維持しつつ、新しいことをやる、つまり両方やらねばならないのではないか、ということだ。現在のわたしにとってブログというのは、いつもと違う道でもあり、いつもと同じ道でもある。外部はどこにあるか。それは特定の雑誌やグループ、またはネットのなかにないことだけは確かだ。外へゆきたい。

2017-06-13

ある冬の夜とM・Sさんの思い出

――なんであんたは男なんだよ、と彼女はわたしにいった。あんたが女だったらよかったのに。ともだちになれたのに。

その夜は冷え込んでいた。外を冷たい風が吹きつける音がする。カーテンは閉じられていて、窓はがたがたゆれていた。わたしは仕事を終えて、ヒーターの前でかじかんだ指をあたためている。小さな電気ヒーターは、仕事部屋全体をあたためることはできない。キーをたたきすぎて爪が割れ、指先は麻痺している。作業に集中していると、寒さも痛みもなにも感じないまま数時間が経過していることがある。それらは終わった時、まとめてやってくる。わたしはその夜、部屋が冷え込んでいることにようやく気付き、ぶるぶると震えながら、マウスを操作して、ブラウザで古いメールを開いた。それはちょうど数年前のその日、彼女に送ったメールだ。

ーーあなたがいなくなって、さみしく思っています。

彼女とは、Google+というSNSに参加していた頃に知りあった。わたしと彼女はそれなりに親しくしていた。わたしは彼女の本当の名前や、職業は教えてもらっていなかったが、わたしはなぜか彼女のことを友人だと思っていて、彼女からも無形の好意のようなものを感じていた。ゼロ年代からネットにいるような読者なら経験があると思うが、ネットでは、ひとはふと誰かとめぐりあって、相手の気持ちをなぜか理解してしまったりすることがある。そして名前も知らないまま、いつのまにかほんとうの友達になってしまったりすることもある。彼女とはそういう関係になれるような気がしていた。もちろん気がしていただけで、わたしが間違っていたのだ。

彼女はある日、だれにもなにも説明せず、とつぜんネットからもSNSからも姿を消した。わたし本人も、その後とある恥ずかしい事件があってからGoogle+からは完全に撤退することになるのだが(そのうち書く機会もあるだろう)、当時、彼女がいなくなったことをとても寂しく思った。そして同じように感じているひとが他にもいたことを知って、しばらくしてから彼女にメールを送ったことがあるが、もちろん返事はなかった。これから会うこともないだろう。ひとが付き合いをやめる理由はさまざまなものがある。それを詮索するのは、たぶんやってはならないことなのだ。出会いもあれば別れもある。だが……彼女との別れは、どこか気になって、こころのどこかにひっかかっていた。

ある時、わたしが契約している動画サービスで、趣味のホラー映画鑑賞をしていた時(わたしは居間でこうした動画を見るのが好きだ)、あるアニメ作品を見かけた。それは「僕は友達が少ない」という作品で、その時わたしは、彼女がまだSNSをやっていた頃、何度もこの作品をわたしに見てほしい、ぜひ感想を聞かせてほしい、と繰返しいっていたことを思い出した。ついでにいうと「原作の小説を読むように」と彼女はなんどもくりかえしていて、このひとはなぜこんなに強烈にこの作品を推すのだろう、と不思議に思っていた。結論から言うと、わたしはそれを観なかった。他にさまざまな問題を抱えていた当時のわたしは、それをさして重要なものだとは思わなかったのだ。

わたしはその作品を夜中までぐらいまでかけて観た。それは「友達が少ない」高校生同士が友達をつくるための部活をつくる、という内容のコメディ作品だった。とくに興味を引いたのは、かつては幼なじみだった男女二人の物語だったが、幼い頃、女は自分の性別を隠して男として相手と付き合っていた。つまりその頃二人は「友達」だった。だが、高校生になり、女は女にならざるを得なかった。よって、友達に戻ることはできず、過去の友情も取り戻せず、そこには新たな男女の関係を模索するほかないくるしい現実が待っている、という筋立てで、その喪失感には奇妙な手応えがあった。表向きはコメディを装っているが、これは男女間の友情についての物語なのだ、ということを思った。

わたしは消えたテレビの前に座っている。朝はまだ遠い。もうすこしはやくこの作品をみていれば、彼女は突然消えたりしなかったのではないか、という直感めいた思いがあった。もちろんそれは仮定の話にすぎないが、ひとつだけ間違いないことは、当時わたしはこれを観るべきだった、そして彼女にその感想を伝えるべきだった、ということだった。本を友人に送るということは、その本の記憶を共有したいということ、あるいはそこに書かれた物語についてともに考えるということにほかならないはずだった。それはかけがえのない機会であり、絶対に逃してはならないものだったのだ。

男女の間に友情など成立するはずがない。だがそれを求める気持ちがあって当然ではないか。わたしも当時それを求めていた。わたしが欲しかったのは不特定多数の夜の相手ではなくひとりだけでよい友達だったのだ。そのことをいまある痛みとともに思い出す。性差をこえた理解や共感がなければ、いくら夜の相手がいたとしても、わたしたちは死ぬまでひとりぼっちなのだ。そしていつも、「すべきだったこと」をその時知ることはできない。かならず後になってわかるのだ。自分は、ほんとうはこうすべきだったのだ、と。

窓は曇っている。夜は、いつ明けるのだろう。

2017-06-12

雑記

一日なにも起こらなかった。いつも通りの通常の業務だ。仕事をしていると、外の風景は自分となんの関係もなく進んでいて、自分だけがそこから取り残されているように思える。そして自分とその周辺だけが存在しているのではないかと思えることがある。

何本か知らない電話番号から着信があって出てみると、どこからか漏えいした個人情報に基づいたセールスのものだった。うんざりして電話を切って、書類の整理等をしていると夕方になったので、一度食材の買い出しにいって、夕食に取りかかる。

茹でたインゲンの胡麻和えと、煮干し出汁が大量に常備してあるのでそれを使ったうどん鍋。具材は余っていたエリンギ、ちくわぶ、豚肉、大根。適当に作った割には美味で満足。インゲンは余ったので明日の朝食に使うことにし、残った出汁を取っておいて雑炊を作る予定でいる。こうして明日以降の食事の下準備をして兼業主夫の業務を終える。

洗い物をしながら、本日のエントリになにを書くのか考える。だがなにも思いつかない。ほんとうは書きたい大事なことがあったのだが、指が動かない。主題とモチーフが決まっている「千のアイネ」や「千日詩行」とは違って、書くことができない日はある。

外で猫が鳴いている。少なくとも、猫はまだこの世界に存在しているらしい。

2017-06-11

投げられた瓶

午後。仕上げた原稿をI・M氏に送付し、つかれて休んでいる。書くこと、書いたものをお金にすること、書いたものに対する適切な評価を社会から受けるための努力をすることは日課の一部だが、もちろん毎日うまくいくわけでもない。だが一時的に見返りがなくとも(あるいは長期的にもなくとも)続けなければいけないことはある。自分で決めたことはつづける。他人に自分の人生を決めさせない。あるいは自分が価値と思うものの判断を第三者(あるいはネット的にいえばPV)にはゆだねない。《個》として生きることが結局のところ社会に貢献することにもなる、と信じる。

昨晩は詩友のひとりで『現代詩の新鋭』同期であるS・K氏と電話した。いろいろな話題があったが「オン・ユア・オウンであること」=自分自身の個別な力のみを頼りとすること、ということについて話した。おもしろいものを書くために誰かに頼ることはできない。おもしろいものを作るために組織に頼ることはできない。独立したひとつの個として、書いたものをそれに無関心な社会に投擲するしかないのである。瓶のうちに手紙を隠して、それが届くどうかはわからないにしても、それを波に投じることだ。

だが、じつは何も届かないのだ。瓶は投げられているが、なかに入っている手紙は文字化けしており、解読のためのコードはうしなわれている。それが2017年だ。不可能なこと、それ自体について書かねばならない、ということを思う。だが、おそらく希望はなく、わたしもまた必ず敗北するだろう。投げられない瓶について考える。だれも、手紙を出せないのだ。

2017-06-10

包丁を磨ぐ(またはそのふりをする)

土曜日なので近くのショッピングセンターまで買い物に出かけた。いつも使っている包丁のメーカーがセールで出店していて、手持ちの包丁を磨いでくれるというハガキが来たのでそれも持参する。毎日毎回使っているので刃こぼれなどがあるが、店の人間に見てもらったところ、さほど鈍っていないとのことだった。以前このメーカーの同じ担当者にまな板は木製でないと刃こぼれしやすいというアドバイスを受けて、それ以来気をつけるようにしておいたのが良かったのだろう。

包丁ももちろんそうだが、道具はきちんと使わないとその力を発揮できない。保管、保存といったメンテナンスもそうだ。わたしも年をすこしずつ取って、自分の肉体を一個の機械としてみなすようになり、どうせ必ず壊れるのだから、これはケアしながら、壊さないように使わねばならないと思うことが増えた。ひとの身体は機械にすぎないというのは祖父がいっていたことだということを憶えているが、ほんとうにその通りだと思う。

壊れたものはもとには戻らないし、下手な使い方をすれば壊れる速度は早まる。包丁が磨がれて手元に戻ってきて、そういうことを思う。道具や機械は、明確な形で、つまり科学的に、だれがやっても同じ条件で、「上手」や「下手」な使い方というものを区別することができる。一方、人生はどうだろうか。人生の上手な下手な使い方を区別することができるだろうか。なにが下手な人生で、なにが上手な人生なのだろうか。そういうことを、磨ぎ上がった包丁の表面をみながら思う。

できれば上手に生きてゆきたい。だが、わたしたちは、きっとみな馬鹿なのだろう。

2017-06-09

予防接種の帰り道

子供の予防接種を受けに出かけた。ロタウィルスというワクチンは自費だが他はすべて無料でありがたい。今回ははじめて小児科に出かけたのだが、予防接種は痛いだろうからかわいそうという話をしたら「子供が病気になったらもっとかわいそうだ」と医者が本気で怒っていたのがおもしろかった。信頼できる印象を受けた。きちんと怒りを表明できるひとは信頼できる。嘘とごまかしとおためごかしばかりの「礼儀正しい」職業人にはうんざりだ。

予防接種を無事終えて、子供はさほど泣くこともなく、アレルギー反応もなくすぐに眠り、わたしはベビーカーを押して午後の路上を歩いている。ひとはほんとうに思っていることを言うことなしに誰かとめぐりあうことはできない、と思う。なぜ嘘をついてしまうのだろう。なぜ思ったことをいわないのだろう。なぜ思っていることを隠さねばならないのだろう。なぜ「誠実に対応」や「真摯に努力」や「適切に対応」といったレトリックが延々とありとあらゆる場所で繰り返されるのだろう。

日本語に自由は存在するのか、と自問する。ある、とわたしは思う。だがそれはきわめて貴重なものだ。自由は勝ち取らねばならない。この世のすべての価値あるものと同じように、自由もまた、与えられるものではなくたたかって勝ち取らねばならないものなのだ。

夕方が近づき、影が長くなる。ベビーカーで子供は眠っているのか。中はよく見えなかった。

2017-06-08

よごれている手でよごれたものを洗うこと

台所の管理は兼業主夫の必修項目だ。今日は油まみれのファンカバー網を掃除した。本来掃除するつもりはなかったのだが家人が突然掃除をはじめたので書類を放置して仕方なく代わりに掃除をした。台所周りの作業では以前主婦友達に教えてもらった「マイペット」が活躍しているが、ファンカバーの油よごれには何がいちばんよいのか。

シンクの中でいろいろな洗剤を試して、イケアで購入した樹脂製のブラシで磨いてみる。まったく落ちない。というよりむしろ油よごれが広がっているように思える。しばらく試行錯誤をした結果、ふつうの洗剤を、別途準備したスポンジでよく泡立て、それで表面をこすることによって油が分解され、埃と分離し、水できれいに洗い落とせるようになった。

ブラシの様子をみてみると、埃と油の混合物が分解されずに付着している。泡が立ちにくいので油がそのまま残っている。よごれた器具でよごれたものを洗おうとしていたのだ。よごれたものを洗い落とすためには、よごれていないものを使わねばならない。しかし手がよごれている場合は、手がふれるものはすべてよごれてしまう。それ以上よごれを広めないために、自殺という選択肢の意義があるのではないかと思って子供の顔を見る。しばらくそうして子供の顔をみて過ごした。

2017-06-07

梅雨の訪れ

関東も梅雨入りしたという話をきいた。久々に外国語で自分の考えをかなり長めに書く機会があり、なんとか二ページほどの文章を書き上げ、やや疲れて窓の側の椅子に座っている。わたしたちは母国語を使うとき、自分が「わかっている」と思い込んでそれを使っている。実際にくわしく見てみると、実はわかっていないことも多い。意味のわからないことばをそのまま使ったり、適当に配置したり、なんとなく正しいと思う用法を採用したりしている。そこには「正しさ」というものはじつはなく、教科書的な限られた条件下でのみ正解や間違いが区別できるようになる事例があるだけだ。外国語を使ってなにかを書こうとするとそのことがよくわかる。外国語をつかうと母国語がはじめて理解できるようになる。いや、母国語のわけのわからなさ、つまり母国語すら実はわからないことがはじめてわかる。ことばというのはほんとうによくわからないものだ。こんな不確かなものを使っているのにどうしてひとは相手のことを理解できると信じられるのだろうか、と思う。いや、誰も信じていないのかもしれない。そして理解できないことを薄々知っているからこそ、理解したいと思うのかもしれない。梅雨の訪れはすぐそこである。

2017-06-06

アマチュアの餃子

たった一ページの資料をつくるのに半日をかけてしまった。夜が近づいてきたので夕食の支度をはじめる。時間の管理は得意ではないが一日の間にやるべきことだけは決めている(もちろん入院したら出来なくなるので体調には気を使っているーー昨年はインフルエンザで欠席がゆるされない重要な会合をキャンセルするはめになったのだ)。

最近は日々のやることにブログが追加されたが、基本的には原稿に向かうことそれから原稿を書くために必要な仕事(=ライスワーク)をすることが日々の業務だ。それに加えて、料理はわたしの担当になっている。家事はほぼこなせるが苦手なものはある。洗濯(とくに干すことと畳むこと)それから洗った食器を拭くことは家内の領域だ。こうしたルールはいつの間にか決まっていたものもあり、話し合って決めたものもある。子供が生まれる前は料理は家内に任せることが多かったが最近はすべてわたしがつくっている。

今晩の夕食は餃子だがあらかじめ買っておいたものを混ぜて包むだけの簡単な仕事だ。キャベツと豚肉をベースにした種に、ニンニクとショウガを大量に刻んでいれる。他は余った野菜があればいれる。あと干し海老があれば砕いていれる。東南アジアでは生の海老を使ったり、煮こごりを使って小籠包的な触感にして食べることが多かったことを記憶している。そういえばシンポガールのチャイナタウンにある「京華小吃」の小籠包と餃子は非常に美味だった。

美味いものを食べに旅行にでかけることも重要だが、毎回海外にゆけば大変なことになるので、すこし高額だが輸入食材を購入しておいて、自分でつくれるようになっておくと家計には優しい。もちろん専門家がつくる店の味にかなうわけがないが、七割ぐらいの味が実現できれば上出来ではないだろうか。アマチュアにはアマチュアの楽しみ方というものがある。それを馬鹿にする連中のことを相手にする必要はまったくないと思う。

とはいっても、一定以上の技術がある人間がアマチュアに甘えているのは端的にいって卑怯だ。そういう人間は、それにふさわしい場に移動し、その水準について厳しい批判の声を浴びたらいいと思う。そういうことを思いながら、アマチュアの餃子をつくる。形はふぞろいで、いびつで、美しくもない。だが餃子をつくるのは楽しいのである。

2017-06-05

コールスローの夕食

新潟に本店があるという刃物店から買ったステンレス包丁二点を愛用している。ただ磨ぎは自分では出来ないので年に二回お願いしている。もっともわたしのように毎日使う人間は毎週ぐらいに磨いだほうがいいそうだ。店の人間のアドバイスに従ってまな板を全部木製にしたら刃こぼれはほぼなくなったが、そのうち自分でやるための磨ぎ石も買わねばならなくなるのかもしれないと思っている。

さて今日は仕事が終わってコールスローを作っている。よく切れる包丁でできるだけ細く切ったキャベツとニンジンの千切りを使う。砂糖と塩をふって水を抜いた後、マヨネーズや調味料で味付けし、昆布締めした鶏の胸肉を蒸したものを冷やしたコールドチキンをスライスしたものに合わせて、さらにトマトを薄くきったものを用意し、これを全部パンに挟んで食べる。パンは焼いたほうがうまいのだがそのまま何もせずに挟んでしばらく冷蔵庫でなじませても美味い。

コールスローは「うそっ」というほど大量に挟んだほうが美味いのだがとにかく食べにくく手が汚れる。ハンバーガー店のパラフィン紙が家にあればいいといつも思うのだがまだ店で真剣に探していない。料理はやればやるほど楽しく、欲しい調味料、器具、機材がどんどん増える。書くということもこれと同じではないだろうか。やればやるほど必要なものが増える、楽しい。ただそれだけのことなのではないだろうか。

2017-06-04

歩行者

子供が生まれる前に自転車を買った。食材やおむつや消耗品等買うものが一人分増えて徒歩で運べなくなるだろうと思ったからだ。とはいっても実は増えた分は通販で買えることがわかったので、予想したようには役にたたなかった。子供が多少大きくなると、そのうち自動車も必要になるだろうがいまのところ月一程度のタクシーで事足りている。

自転車を買って、ひとつ大きく変わったのは、移動の速度が変わったことだ。自転車で路上をゆくと、歩いているときよりも何倍もの速度で、風をつよく感じる。歩いているときに眼に入っていた路上の虫たちの生活はみえなくなり、世界は多少ぶれた姿で眼に映るようになる。一定の加速度で道を走り抜けてゆくと、街とその上に広がる雲の隙間からななめに落ちる光と同じ速度ですすめるような気がする。もちろん気がするだけだが。

速度があがればみえるものも変わる(ドップラー効果というのだったか。光はたしか赤方偏移といって、その効果を題名にしたSF小説を高校生の頃に読んだ記憶がある)。速度をあげてゆけば、自分のまわりの細かいことがみえなくなり、景色がかわり、車輪が踏みつぶしたものにも気がつかない。あるいは加速を続ければうしろにあったものはぼやけてみえなくなってゆく。はやく走れば、終末はより早く到来する。

自転車を駐輪場に止めて、ふと空を見あげる。なにかを殺さずに歩くことができるのか。無理だ、と空に凍り付いた鳥がこたえる。夕暮れが近く、空は赤くもえていた。

2017-06-03

料理の記憶

土日がないように見える職業も、世の中の祝祭日に合わせて動きは鈍くなる。わたしのところのツイッターやブログへのアクセスも激減しているところをみると、おそらく皆どこかへ遊びにいっているのだろう。今日は妻が一日外出していたので、わたしが子供の面倒をみて過ごした。子供を着替えさせて、ミルクをやって、寝かしてから、ベランダの掃除をする。わりと涼しく、空には雨の気配がある。子供が寝ながらくしゃみをしたので窓を閉める。子供の姿がみえなくなる。

ベランダの鉢植えにテントウムシが来ている。もちろん違う個体だろうが、毎年この時期になるとベランダにやってくる。そしてアブラムシを食べてどこかへ消えてゆく。この虫は見た目こそかわいらしいが、よくみると幼虫も肉食で、他の虫をつかまえて頭から生きたままばりばり食べている。しかも食欲も旺盛だ。その栄養をつかってあの奇麗な外殻を育てているのだろう。何かをつくるためには、食べねばならない。

夕食になにをつくるか考えている。最近は大葉という食材が気に入ってしまってよく料理に使っている。先日は明太子を使ったパスタに刻んで入れたが美味だった。豚肉の中に巻いてフライパンで強火で焼いて、出た油に醤油とみりんを加えてタレをつくってからめても美味い。料理もまじめに手がけるようになってもう五年がすぎた。もっと早く料理をやっておけばよかった、という後悔の念が強いのは、満足度がきわめて高いからだ。というより、これより楽しい実益をかねた趣味というものが見当たらない。

料理をする時、かつて自分に美味いものを食べさせてくれた故人のことを思い出す。そしてもう何十年も昔つくってもらっていた食事のほとんどが、出来合いのインスタント食品と化学調味料の組み合わせでしかなかったことを、いまのわたしは知っているが、それでもなお、記憶にある食事の光景はかけがえのないものだと思う。死んだ人間はたしかにかえってはこないが、レシピは再現することができるのだ。その一皿が蘇るとき、故人もまた蘇るのである。

ベランダに風が吹く。雨が、降るのだろうか。

2017-06-02

近所にあった郵便ポストのためのエントリ

近所にある小さなショッピングセンター、というより、小規模小売店が数店舗集まった空間が閉鎖され、ごみ置き場と化してしばらく経過した。噂では閉鎖に関して店舗側と地主はかなり揉めたらしく、おそらく地主が強行手段に出たのだろう、店舗は突然閉店し、現在はその駐車場跡地にごみが散乱し、殴り書きで「立ち入り禁止」と書かれたブリキ板が道の入口に放置されている。地主はなにかしらの病気なのかもしれない。

わたしがたまに利用していたイタリア料理店、床屋、八百屋、パン屋も、立ち退きを余儀なくされたようだ。地方のよくある一シーンでもある。コンビニチェーンと大規模店舗(またはアマゾン)のみが生き残ってゆく光景だ。これで今後地主が更地にする努力をしなければ(そしてごみの放置を見るとなにもされない可能性は高いが)、立派なシャッター商店街のできあがりというわけだ。

コンビニと大規模ショッピングモールとアマゾンしかない社会は便利で悪くないといえば確かにその通りで、わたしも便利に使っているわけだが、地元の個人事業主がやっている店で見知った顔と交流できる昭和的な空間が現実から次々に消失してゆくことに一抹のさみしさも感じる。だがもちろん、フェイスブックやツイッターがあれば、実のところ雑談相手には困らないのかもしれない。おそらく探せばいまは行方不明の店舗のひともネット経由で見つかるだろう。

だが閉鎖によって一番困ったことは、つい先日気がついたのだが、ショッピングセンターの敷地内にあった郵便ポストが撤去されたことだ。S誌やY誌に原稿を送るとき、「こんな経済的には価値のない作品を、載せてもらったしてなんの意味があるのだ」と、いつも思っていた。自分にとっては価値がある作品が、社会に投擲したとき、それは無価値なものとして扱われてしまうからだ。

現代詩に限らずシリアスな書き手は、社会の「おまえは無価値だ」という声とたたかわなければならない。わたしがとくにこの数年、そのたたかいの中で何千枚もの原稿を書き上げることができたのは、このポストが偶然近所に設置されていたからだ、といえる。雨の日も、晴れの日も、雪の日も、常にそこでわたしの原稿を待っていてくれた。さようなら、郵便ポスト。さようなら、たたかいの日々。

2017-06-01

偽物の鐘

昼休み。学校から正午を知らせるらしき鐘の音が聞こえる。といっても、実際に鐘をみたことはない。デジタル化された鐘を模した時報でどこかに設置されたスピーカーから流されているだけのものだ。見たことはないが正午になるとその音が響いてくる。

すぐ近くに中学校があり、おそらく娘が通うことになるのだろうが、その校舎に設置されている気がする。娘のこれからの将来のことを考えると外国人とのハーフということでいろいろ心配事もあるが、それはまだ早すぎるのだろう。

両親からことばを学べば二カ国語を母語として生きることができるが、それが娘の将来にとっていいことなのかどうか悩んでいる。ふつう十年程度をかけてしか職務に活用できる水準に達しない外国語能力を生来身に付けているというのは強い優位性であることは間違いないが、《自分はどこにいるべき者なのか》という、本来必要のない疑惑を与えてしまうことにもなる。

ひとにはふるさとが必要なのだ。いや、くわしく言えば、ふるさとと信じられる場所、が必要なのだ。それは物理的に存在しえないものでもよい。自分が帰属すると《信じられる》場所がひとには必要であり、それがなければどこに住んでも異邦人としか感じられない根無し草になってしまう。母国語というのはふるさとの一種なのである。

鐘はもう聞こえない。娘のこれからとは無関係に、わたしもふるさとを探している。だがそれは見つからないだろう。こんにちは、世界。

2017-05-31

事象aのふたつの貌

しばしば男女問題においてよくあることだが、その関係性においてなにかしらの問題が発生し、あなたがじつは(不幸にも)その二人とそれぞれ友人であったとする。その関係性において、男女がお互いに相手のことを非難していた(「あいつが冷たいから」「あのひとが優しくないの」)と仮定しよう。よくある話だ。あなたは最初そのうちの片方に同情的な立場で、「相手が悪いのだろう」という結論を出し、その人物を慰めたとする。

だが、一歩踏み込んでみよう。この夫Xとその妻Yについて、片方だけではなく、個別に、両方に話をきいてみたとしたらどうか? なんということだろう、よくある家庭内不和は、まったく別の様相を帯び始める。夫Xが語ったとある事象aについて妻Yが語るとき、それはまったく別の物語としかあなたには思えない。だがいずれかが真実を語っているはずだとあなたは思うかもしれない。「どこかに真実があるはずだ」とあなたは思うかもしれない。だが、書かねばならない。そんなものはこの世のどこにも存在しない。

ネットにおけるすべての男女問題の語られ方はいつでも一方通行であり、そこには夫Xまたは妻Yの語る世界観しかない。いいかえればそこにはいつでも被害者しかいない。あるいは「浮気されたぼく」や「浮気されたわたし」の薄っぺらい悲しみしかない。だがそんなものを読んでもなにもわからないのではないか。むしろ読むべきなのは「浮気するわたし」や「浮気するぼく」を並列させた奇怪でグロテスクな語り口、いいかえれば、なぜそんなことをしたのかわからない、というほかない現実に自分を宙吊りにさせる語りの戦略ではないのか。なぜそれを誰もやらないのか。なぜだれもがわかりやすい被害者になりたがるのか。

今日も共感してほしがっている。今日も「いいね」してもらいたがっている。今日も、明日も、明後日も、自分のかなしみを誰かと共有したいと思っている。だが無理なのだ。だが不可能なのだ。なぜそんなことをしようと思うのか。なぜわかってもらおうという欲望から自由になれないのか。わたしたちのグロテスクなあり方をどうしてわかってもらえるなどと思うのか。なぜいつまでも理解をもとめているのか。

お金か。お金がほしいのか。共感してもらってあまつさえお金がほしいのか。わかる。よくわかる。お金がほしい。お金だけではなく共感もほしい。共感してもらうだけではなくわかってほしい。ああ、わかってさえもらえれば! ああ、この世のすべての苦痛が一瞬でも薄れるあのひとときさえあれば! それ以外はなにもいらないのに!

空は曇っている。
いつまでも曇りが続いており、雨は《この世》にはけして降らないのだ。

2017-05-30

みつからない私たち

なかなか梅雨入りしない。晴れの日が続いている。雨の日も好きだが、晴れているほうが掃除はしやすい。子供の排泄物の処理。仕事部屋の掃除、それから料理。机の前ではいくつかボランティアでやっている仕事に関するやり取り。お金がないのにボランティア? と質問したい読者の気持ちはわかるし、わたしもどうかと思うが、短期的には利益がなくとも、または自分には利益はなくとも、家族や共同体に長期的な利益の可能性が生じるとおもえばやることもある。はっきりしているのはすべて自分のためにやっているにすぎないということで、すべての社会活動は自分の利益のためになされるべきではないだろうか。

最近投稿を続けているツイッターは即時的でおもしろいが、どうしてもリアルタイムで読まれることばかりを意識してしまう傾向があり、書くべきことをかなり薄める必要があるという印象を受ける。作家がツイッターをつづけるのはかなりの精神的な割り切りが必要だと思うが、それができるひととできないひとはいるだろう。ブログはまだ原液をそのまま用いることができる強度があるように感じる。おそらくもっとも不要な機能はコミュニケーションで、ネットでは誰の意見もきく必要がないという姿勢をたもつことが必要なのだろう。ただ、きく必要はないが、きこえる場所にはいるべきだ、と思う。

思っていることを正直に書くことはむずかしい。ことばには化粧がほどこされており、一方、化粧をはぎ取ったじゅんすいなことばというものは存在しない。ネットで正直に語ることが難しいのと同様、現実においても正直に語るための相手をさがすことはほとんど不可能ともいえる。ひとは共通の趣味があってもお互いに理解できるわけではないし、悪意を通して正直さがあらわれる場合は、むしろ敵のほうをよりよく理解できたりすることもある。不可避的な虚飾にまみれた《わたし》をそのまま提示すること。それが2017年にネットで可能と思いこむ重大な錯誤を避けなければならないと思う。わたしたちは現実の諸要因によってがんじがらめに束縛されており、ネットに書くことはいっけん自由に見えたとしても、そして仮に匿名であったとしても、その諸要因の檻に閉じこめられているのだ。

日が暮れかけている。市役所が、行方不明の老人についての放送を流している。みつかるだろうか。わたしたちは《わたしたち》をみつけることができるだろうか?

2017-05-29

世界をよぎる鳥の影

外はいい天気だった。すこしずつ夏が近づいている。風が気持ちがいい。

わたしがいる郊外都市は空気がきれいで、自然も多く、かつては山だったらしい。野生の蛍がいるのがその名残だが、一方野生の動物や昆虫も多い。つい最近も道を散歩しているとスズメバチを見かけたが、どこかの梢に巣があるのだろう。わざわざ自分より何百倍も大きい動物を理由もなく襲う昆虫などいないとはいえ、あの高周波の羽音を近くで聴くとぞっとする。アブラゼミぐらい大きいし、子供が襲われたら重症、下手したらショック死ぐらいはしかねない。以前、郊外の山の中古家屋を見て回っていた時に、よさげな家がひとつあったのだが、近くにスズメバチの巣があるということで断念した記憶がある。自然のゆたかな環境で暮らすのはけして悪いことではないが、野生の生き物と共存する知恵やノウハウがなければ、安全に暮らすことはできない。温暖化でデング熱が流行するようになれば、蚊ですら危険な生き物に変わる。とはいっても、山の近くの井戸水はうまく、緑は目に優しく、ホトトギスが鳴く森の近くで暮らすことはそれなりに楽しいものだ。そしてそんな中で机にむかって青白いディスプレイにひたすら向かっている仕事というものはどうなのか、と思わないこともないが、そもそも人間は半自然的存在なのだ、とつぶやきながら、文字を入力する。

どこかで鳥が鳴いている。だがその姿はみえない。この世界をこうして鳥がよぎる。みえないものなど、存在していないのと同じなのだ。

2017-05-28

電車で見かけた子供

比較的暑い一日だった。東京都内で一般の会合があったので参加した。

東京へ向かう電車の中でスマートフォンを操作していると、隣に座って旧型の端末を使っていた子供が、ものすごくうらやましそうな顔をして、わたしの手元をじっと見ていた。はっきりその子の顔を見たわけではないが、その視線が突き刺さるようで、なんだかかわいそうになって、スマートフォンをポケットに戻した。すると今度は残念な気配が伝わってくる。子供を横目でみると、ふたたびさきほどの端末をいじり始めた。それでなにをしているのだろうと様子を伺ってみると、アドレス帳を開いたり、閉じたりする操作をしているだけだった。たぶん、親に持たされてはいるが、高額のパケット料金など払いたくないため、利用制限がかけられているのだろう。まずますかわいそうになった。

やがて、子供はどこかの駅でガラケーを握りしめておりていった。大人になったら、好きなものを自分で選んで買うことができる。だが、子供の頃《得られなかったもの》は二度と手に入らない。そう思って、窓の外をみる。子供の姿はとっくの昔にみえなくなっていた。

2017-05-27

おじさんブログのつくりかた

今日は晴れ。とくに特筆すべきことはなかった。明日は都内で会合があるためその準備で忙しくしている。これまでの作品をまとめたり、雑誌をひとに送ったり、紹介状を依頼したりとか、そういうことだ。結局この社会はコネと根回し(あるいは飲み会)がすべてで、つまりその両方がない人間は死ぬ仕組みになっている。なければつくるしかないし、あるいは、圧倒的なものをつくるほかない、ということでもある。

お金も社会的地位もなく、ひとがうらやむようなものをなにひとつもっていないわたしのような人間に書くべきことは特にない。せいぜい美味いものをつくって食べるぐらいだ。いつも常備しているのは煮干し出汁のみそ汁で、出汁は数日に一度大量につくって利用の際に火をいれる。衛生にはわりと注意しており、ほぼ毎日なにかしら作っているが、食あたりの経験はない。台所と調理器具の清掃もまめに行う。これは兼業主夫としては自慢できるポイントかもしれない。

ブログのアクセスログを見ていると、カリフォルニアに在住の米国人主婦らしきひとのブログがあった。Bloggerシステム上では横にリンクする仕組みがあるようでたまに奇妙な国からアクセスがある。そのブログには生活の様子がつづられていて、あらためてインターネット、いやブログはいいものだな、と思わされた。ある程度まとまった分量の日記的文体、写真によって描かれる普段の生活の一シーンは、それぞれのエントリに俳句的なおもむきを与える。それはフェイスブックにもツイッターにもないものだ。

そう思いながら冷蔵庫の前で今晩の献立を考える。餃子を皮からつくるのは満足度の高い趣味だが、粉が大量に飛び散るため育児中にはおすすめできない。冷蔵庫には安物の出来合いの餃子がはいっている。片栗粉をすこし溶いた水をいれて蒸し焼きにして最後強火にすると皮付き餃子ができる。この餃子はどこで作られたのだろうかと思う。日本ではないかもしれない。まさか米国ではないだろうが。そういえば主婦のブログにはプロフィール写真が貼られていて、いい笑顔だった。みな、さみしいのだろうか、と思う。ネットではみながつながりを求めている。だがそれを得ることはけしてできないのだ。


参考記事:
おじさんになりきってLINEをする『おじさんLINEごっこ』が大流行」(Naverまとめ)
おじさんLINEごっこが女子に流行中。そのキモい特徴とは」(女子SPA!)

2017-05-26

いま夜がはじまる

昼間は雨がふった。すっかりトレードマークと化した白い髪を維持するために美容院にゆき、帰り道に暇そうな顔をした老人がたくさんいるマートでいろいろな食材を買込んで家に戻ると、妻と娘は眠っていた。ベランダには透明な雨が溜まり、そこに夕暮れの光が落ちている。

しずかに机の前に戻って、海外からのメールに対応し、ニュースを眺める。前文部科学事務次官がいわゆる「出会い系バー」なるものに通っていたという報道をよむ。歌舞伎町にそんなバーあったっけ……と思ったが、おそらく登録料と引替えに入ることができる会員制クラブのようなものだろう。男ならだれでも同意すると思うが、服を着た女も、服を脱いだ女もこの世でもっとも尊いものであり、新しい出会いをもとめるのは自然なことだ。だが普通は妻を(大事に思っている場合は)傷つけたくないから我慢する。前に書いたように、むしろ傷つけたい場合は、家庭外にそれをもとめるということになるだろう。

社会的地位がある人物による下半身事案は枚挙にいとまがなく、二十四時間ありとあらゆる場所で社会的規範から犯罪とみなされる行為が繰り返されている。だれしもが下半身に支配されており、下半身の衝動を抑えることができない。できると誤解している人間もたくさんいるが、「できない」と理解した上でそれとあらがうこと/あらがいつづけることも重要だ。ひとの意思の力は弱く、衝動は我慢できず、誘惑にたやすくやられてしまう。そういう前提にたった上で、「できないこと」への無限に遠い距離を縮める努力も必要だ。わたしはその不可能な歩みにこそ人間らしさがあらわれると思う。

下半身が衰えた老人にはそのような衝動はない。だがそれは人間らしさをかくとくしたのではない。ただ性器が弱って衰えたから暴力性を愉しむことができなくなっただけだ。人間らしさとは、下半身起因の衝動とあらがい、これとたたかうことを決めた者にのみひらかれた《契機》なのだ。

だれの上にもいま夜がはじまる。孤立と分断の時代を、人間らしく生きてゆこう。

2017-05-25

被害者にならないこと

注意深く《被害者》を避けなければならない。
この世界が自分をふみつけているからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分を必要としないからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分を馬鹿にしているからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分を拒絶しているからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分に暴力をふるうからといって、けして被害者になってはならない。

注意深く《被害者》になることを避けなければならない。
なぜならひとをふみつけてしまえばこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとを選別するようになればこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとを馬鹿にするようになればこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとを拒絶するようになればこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとに暴力をふるうようになればこの世界に負けてしまうからである。

注意深く《被害者》になることだけは避けなければならない。
なぜならひとをふみつけることは快楽であり、なぜならひとを選別することは快楽であり、なぜならひとを馬鹿にすることは快楽であり、なぜならひとを拒絶することは快楽であり、なぜならひとに暴力をふるうことは快楽であるからである。

《被害者》にならないために《この世界》への怒りをおもいだせ!

2017-05-24

誇りのない仕事

悩んでいる時は考えこむよりも、ブログに向かったほうが答がでることが多い。もっとも、誰かから反応があるわけではなく、エントリフォームに向かうことは壁に向かってひとりごとを話しているのと大して変わらないが、おそらく書くことに意味があるのだろう。なぜなら他の誰でもなくまず自分がそれを読んでいるからである。

大分暑くなってきて、今日はとうとうクーラーをつけた。わたしは夏は大好きだがクーラーも同じぐらい好きだ。といってもまだ梅雨前なので夏の話は気が早い。まだまだじめじめとした季節がつづくはずだ。それはともあれ暑いのは気持ちがいい。生きる活力が湧いてくる。全力で遊ばなければならないという気になってくる。そういうことを考えながら地味に机に向かって作業をする。きわめて静的な運動だが、書いているときにこそいちばん遠くへとゆける気がする。

とはいっても雑務は多い。営業もしなければ食べてはいけない。誰でもしていることをわたしもしている。もっともかつての同級生たちはみな立派な職業についているが、残念ながら社会的地位や経済的裕福さはわたしとはついぞ縁のないものだ。ただ誇りはある。それは確かで、いつ死ぬかわからない人生の中でも、いま自分がやっていること、やってきたことに誇りをもって生きることができていることは、よろこぶべきことなのだろう。もっとも日本語で「誇り」というと、あまり一般には通用しない単語のように思う。横文字の概念が生煮えのまま転がっている印象があるが、他に適当なことばが見当たらない。

誇り、ということで思い出したが、以前、小田原市の生活保護の担当者らが「保護なめんな」などとプリントしたジャンパーを着て受給者の自宅訪問などをしていたニュースがあった。その時のことは日記にも書いたが、後日それについて朝日新聞の特集記事を読んだ。担当者たちには「自分たちが一生懸命やっていることを認めてほしい」という欲求があり、「人間としての本質的な欲求が満たされない中で《私たちは正義のために戦っているのだ》という態度を示さざるを得なかった」というくだりが胸につよく残った。

小田原市の担当者らは「誇り」と呼ばれるなにかを欲していたのだ、といえる。だがそれは第三者にあたえられるものではない。社会からあたえられるものではない。会社からあたえられるものでもない。伴侶からあたえられるものでもない。うつくしい国からあたえられるものでもない。だれからもあたえられるものでもない。

そう思いながら、窓の外をみる。外は暗く、なにも見えなかった。

2017-05-23

とりもどすことができないもの

iMacのハードディスクが壊れた話は以前日記で書いたが、その交換した元ディスクはどうしたかというと、京都産の噌屋の空箱にしまいこんで、そのまま放置して数ヶ月が経過していた。物事はなんでもこのように放置されるものだ。本日は多少時間があったのでその壊れたディスクからデータを可能な限り回収する作業にあたった。といっても大したことはしていない。別のマシンに接続し、データ修復プログラムを走らせるだけの簡単な仕事だ。幸いまだ動いたので、データはほぼ回収することができた。なかにはさまざまな音声データ等もあり、ブログを書籍化しようとしていた時の文字データなども大量に出てきた。なにもかもが懐かしい。

日記のほうでは過去に何度か書いてきたことだが、現在手元には三本の完成した長編詩があり、これをどうしたらよいか頭を悩ませている。知っているひとは知っているとおり、ほとんどすべての現代詩集は自費出版で、これは「私家版」とも呼ばれる。なぜ企画出版がほぼ見当たらないかというと、商業的に成立しないからだ。こうした本を出すためにはそれなりに資金が必要となるが、わたしはそれについてはすでに準備し、作品をもって複数の出版社に持ち込もうと思っていたのだが……そこで考えがとまっている。どうしたらよいのかわからない、というより……これらの作品ははたして現代詩なのだろうか、という疑いを持っている。

さまざまな第三者に作品を評価してもらったのはうれしかったが、これは卑下ではなく、わたしはしょせんブロガーなのではないだろうか、と思う。それ以上のものになるべきではないのではないだろうか。そういうことを考える。そしてデータ修復プログラムが実行されている液晶ディスプレイの画面をみる。修復できないデータが、「×」印で表示されている。ひょっとしたら修復できないものだけが、あるいはとりもどすことができないものだけが、人生において重要なのかもしれなかった。

2017-05-22

梅雨前の昼下がり

梅雨の前なのに真夏日が続いている。夏は好きだ。何かがはじまる予感を感じさせる桜の春よりも、ひたすら熱に浮かされたような夜がつづく夏のほうが好きだ。夜の中でだけはじまるものがある。

もっとも、暑いことは、子育て中の親にとっていいことは何もない。汗をかくので頻繁に服はかえなければならないし、汗疹は心配で、顔が赤かったりすると虫にでも刺されたのではないかと心配になってしまう。そういう心配そのものが無意味であるということを自分に言い聞かせるがそれでも心配になる。まあ人間なんていうのはそんなもので、正しい、とわかっていても、守れなかったりすることもある。あるいは、間違っていることが楽しかったりするということもある。ままならない。なにも片付かない。なにもうまくゆかない。だが偶然うまくゆくこともある。

娘の下半身から排泄物を洗い落として戻り、仕事のメールを出し、ゆるい風が吹く部屋にすわっている。

壁にはりつけた「仮象の塔」の原稿が揺れている。
社会に必要とされていないものを書く。だがそれは、どこかに読者がいるというわたしの確信とまったく矛盾しない。

2017-05-21

窓の内の怪物

晴れの日がつづいている。どさほど遠くない土地では通り魔が老人をバットで攻撃して負傷させ、わたしはいつもと同じように机に向かっている。穏やかな晴れの日がつづいていることをよろこびたく思う反面、さほど年が離れていない男を暴力にかりたてた怒りの正体について想像をめぐらせてしまう。それは端的にいえば、「レールを外れた者をこの社会は人間扱いしない」ということでもあり、あるいは「組織の中にいてもひとは道具としてみなされる」ことでもある。人間扱いされない、というのは、コミュニケーションが成り立たないということでもある。気持ちを打ち明けこれを通わせる契機が奪われている。この国を覆っているなんとも形容し難い息苦しさは、ネットに「本音」があふれているように見える反面、それを語る場が公にはいっさい存在をゆるされないことに起因しているだろう。政治について語る場はなく、恋愛について語る場はなく、生きることについて語る場はなく、ひたすら軋轢をさけるためだけの「お世話になっております」レトリックが蔓延している。洗練された礼儀作法による秩序は外国人(特にアジア人)からみればある意味うらやましいものかもしれないが、その中にいる者はそれを実現するためにどれだけのものが抑圧されているか知っている。ひとを型にはめるシステムは秩序ある社会を作るかもしれないが、そこに入らないものはハサミでひっそりと切り落とされていることを忘れてはならない。いや、わたしがそんなことを書くまでもなく、だれでもそのことに気がついている。この国に《人間》がいないことにだれでも気がついている。だがどうやってそれを取り戻せるか。どうやったら《人間》になれるのか。だれもできない。だれも《人間》にはなれない。そして暴力は断罪されすべてが忘れられる。

おぼえておこう。ひとを怪物にするものは、いまここの安寧を守るためにだけ無視され、排除されてきたかなしみや怒りの声だということを。わたしたちはそれをこれからも目撃してゆくだろう。何度も何度もくりかえされるだろう。しかし、自分たちがつくってしまったこの怪物がこの社会に牙を剝くとき、わたしたちは怪物になることなく、これとあらがうことができるだろうか?

窓の外は暗い。日本人にうまれながらもっとも難しいこと。わたしは《人間》になりたいと思う。

2017-05-20

ファースト・ショッピングと戦争の午後

よく晴れている。平日は毎日早朝より作業に入る。土日祝日は一応休みという設定にしてあるため相対的にのんびりと過ごす。

本日は赤ん坊と買い物に行くためにベビーカーを出した。生まれてからまだ一度しか使っていない。定期検診以外で二人で出かけるのは初めてだ。日差しは強く、多少心配だったが、サンシェードが意外と機能的だったこともあり、起伏の少ない歩道にでると、すぐに娘は眠った。その顔をシェード越しに眺めながらいろいろなことを考える。そして黙って路上をあるく。

老人たちはにこにこしながら赤ん坊をみる。小学生や中学生はものめずらしそうにちらちら見る。そしてわたしと同世代の人間たちは目をそらすか、うつむいてなにも見ずに歩いてゆく――ひょっとしたら舌打ちしながら。それぞれの反応をみると、さまざまな思いが胸をよぎる。そして「戦争」とはなにか、と思う。戦争とは、「この人生」をリセットできる、あるいは価値観が逆立し、社会にまったく認められない自分が、死という献身を通してはじめて社会より認められるかもしれない救済の可能性のことだ。

英雄的な死によって、あるいは「金持ち」や「成功者」に平等にふりそそぐ死によって、ひょっとしたらこのどうしようもない自分も救われるかもしれない、というこころの動きがある。そう考えるわたしを前に、娘はわらっている。わたしは戦争を求めてはいない。だが、もとめる気持ちは理解できる。さらにいえば、ロスジェネ世代は戦争をもとめている。それをこの世のいかなるものもとめられない。

2017-05-19

冷えたサンドイッチ

赤ん坊の世話をしていると、ひととは糞を生産する機械にすぎないのではないかと思うことがよくある。人生に意味を求めるのは問いのたてかたが間違っているので、単なる糞製造機が自分をなにか別のものと勘違いしてしまうことにすべての人間的な問題があるのだろう。一方、自分の子供はおそろしく可愛く、これに負けそうになる。SNSで子供の写真を貼り付けているひとびとの気持ちがわかる。「世界でいちばんかわいい」と思っているのだろう。自慢、は根源的な欲求のひとつだということが、最近よく理解できるようになった。わたしも上記のように思うし、さらにいえば写真も貼りたいが、我慢しなければならない。子供は親の持ち物ではなく、愛玩物でもない。そのうち親のことを捨てて出ていく一時的な関係にすぎない。しょせん他人であり、所有することも支配することもできない。できると思っている親がいるだけだ。子は親を選べないが、親もまた子を選べない。また親が望むような性格に子を変えることもできない。ただ健康だけは親が守ることができる。というわけでわたしは今日も子供を風呂にいれ、ミルクを妻と交替で作り、哺乳瓶を消毒し、最後に妻と自分のために、氷のように冷たいコールドチキンを使ったサンドイッチをつくった。冷えたサンドイッチはうまい。

2017-05-18

雨音のバラード

とつぜんの雨が近づいている。仕事をしながら片目で窓の外をみる。強い風が吹き始めている。嵐は好きだ。と、いっても、わたしが育った熱帯の島国には台風は来ない。かわりに熱帯にはスコールが降る。葡萄の大きさの雨粒が、弾丸のようにふりそそぐ。屋根のあるバス停の下、バスを待っていると、雨音が薄っぺらい屋根をたたき、まるでバラードのように聞こえる。アスファルトには巨大な川ができ、幾億の波紋ができては消え、できては消える。雨がふりしきる中、銀色の雨の壁にくぎられたそのバス停で、誰かをよく待っていた。だが、それはもう遠い記憶であり思い出すことができない。思い出せないことを思い出せるのはさいわいなことだ。なぜならいちばん大事なものであっても、忘れたことさえ忘れてしまえば、この世界に存在しなかったことと同じことだからだ。だがそれを書きのこしてもなにもとりもどせない。それでいいのだ、と思う。

そして結局雨はふることなく、わたしは仕事に戻った。

2017-05-17

深夜の飛行機

地元住民との協定により、近くにある空港から、深夜に飛行機は飛ぶことがない。

だいたい毎日夕方頃が交通のピークで、空には複数の飛行機がキラキラと光りながら滑空しているのがみえる。午後に天気がよい日は、仕事部屋の窓を開けて、ぼんやりと空を眺めることが多い。飛行機雲がいくつか横に刷毛で描いたように伸びている。目の前のベランダの日差しはあたたかい。どこかで猫が遊んでいるらしき声が聞こえる。生まれて二ヶ月になる娘は居間のソファで眠っているようだ。小さなベッドも生まれる前に購入したのだが、結局ソファが気に入ってしまったらしく、ソファでないと長いこと眠ってくれない。子供をあやしていると、自分がいつのまにか笑顔になっていることに気がつく。それはほとんど使ったことのない筋肉をいつのまにか使ってしまっている一種不気味な感覚で、自分の顔にはこれだけ生きてきても、まだ一度も使ったことがない機能があったのだ、ということを思う。そしてそのことをもっとはやく知る方法はなかったのか、ということを思う。

夜になり、空を飛行機が明滅しながら、並走してどこかへ飛んでゆく。人は死んだら土になり、魂の存在は虚構であり、そこにはなにも残らない。自分は死に、子供もいつかは死に、人生はひとしく無意味だ。その後に「だが」も「しかし」もつなげることなく、机に向かう。あなたたちは、なにを犠牲にして《仕事》をつづけるのか。あなたたちはどんな代償をはらっていきるのか。だれも、答をもっていないのだ。

2017-05-16

わたしとあなたのインターネット

がっかりしており、失望しており、希望をうしなっており、目的をなくしており、夢の残り火はきえている、わたしとあなたのインターネット。
うつくしい雨がふりしきる空っぽの公園で、電磁的なみぶりで宛先のない手紙を書いて、蒼いあのひとにたどりつかない、わたしとあなたのインターネット。
いずれの約束もいつわりで、さめきった情熱はくずれきえさり、信じたものには裏切られる、わたしとあなたのインターネット。
わたしとあなたの二人称的、わたしとあなたの現実の、わたしとあなたのインターネット。

(2017年5月16日)

2017-05-15

なぜひとは浮気するのか

いつでも浮気したがっている。男はみな浮気している。人妻はみな浮気している。隣人のあのひとは浮気している。午前七時にかならず掃除機をかける豹柄のパンツを穿いた下階のAさんは浮気している。政治家も浮気している。芸能人も浮気している。野良犬は浮気していない。人工知能も浮気している。ひととひとが作ったこの世、そのなにもかもが浮気している。貞操は存在しない。不倫だけが現実である。

さて外は雨が降っている(ような気がする)。机の前で自分の読者層というものを考える。閉ざされた世界の外にむけて開かれたことばとはどのようなものでありうるか。閉ざされたことばとはもちろんこの国のあちこちに存在している蛸壺的村社会にむけてのみ語られることばだ(「玉稿拝読しました」「いつも某会合でお世話になっております」「XX賞を受賞されたあの作品は感動いたしました」)。わたしはひとまず解説や説明を排除し、真偽不明のアレゴリカルな《意見》をこのブログにおいてゆきたい。それはきわめてありふれたものであり、日本社会に携帯端末の数だけ存在しているに違いない。

ひさしぶりなので、自分の読者層というものがよくわからなくなってしまった。読者はどのような人生を送ってきたのか。どのような教育を受けてきたのか。なぜわざわざブログなどを読もうとおもったのか。もちろんわたしにはわからない。なにもわかるはずがなく、あなたの人生についてなにひとつわかることなく、またわかることをかたく禁じながら、ひとつのイメージを頭に描く。それは夜中、小さな携帯やスマートフォンの淡く輝く画面をみながら、寝具の中で眠るまでの時間をこのブログとともに過ごすひとの姿だ。同居人、親、親類等に知られることのない、同僚にも妨害されることのないプライベートな空間。ひそかに、誰かに知られずに読まれるような状況を想定している。そのようなつもりで書いてみたい。

誰でも浮気している。男は誰でも浮気したがっているだけではなく実際に浮気している。つい最近も自民党の議員が、わざわざ妻が出産間際で不在のところを狙って、よその女を家に連れ込んで浮気していたというニュースがあった。「またか」とおもったひとも多いだろう。女性は「男なんてそんなもの」とおもっただろう。「育休をとっても、家事しない、育児しない、でも浮気はする」と思った女性も多いだろう。権力者はお金などをもっているので浮気が比較的に容易だ。もちろんお金がなくても浮気は毎日、毎時間、毎秒、いついかなる場でも可能であり、実際にしているひとが山ほどおり、「証拠」や「エビデンス」を出す必要などない。

だがしかし、さらに踏み込まねばならない。肉のよろこびが必要だろうか。肉の快楽が必要だろうか。これらは生きるために必要なものだろうか。いやちがう。そんなものはどうでもいい。このようなものは大したものではない。しょせん歯磨きをする快楽にすぎない生理的欲求によってひとは根源的に動かされたりしない。ひとを動かすのはもっと巨大なものであり、とりかえのきかない欲望であり、それは《傷》である。あるいは傷という空洞をうめるための肉でもある。空洞を埋めるためならひとはどんなことでもする。穴を埋めるためならひとはどんなことでもする。この《苦痛》を癒すためならひとはどんなことでもする。女をとっかえひっかえしなければ生きられないのは痛みがあるからだ。

一般的には、男は性欲があるからと言い訳して浮気をしている。そういうことになっている。だがそうすることによって妻を傷つけることはあきらかではないだろうか。なぜそんなことをするのか。答はあまりにも明快であり浮気は手段であってほんらいは相手を傷つけたいということそのものが欲望なのである。相手を傷つけたいからこそひとを裏切るのである。相手が自分のことをまったく理解しない愚か者で裏切り者でゆるせないとおもっているからこそそれを理解してほしくて相手を傷つけるもっとも手っ取り早い方法として浮気があるのである。

どこを見ても世の中は清潔でありどこを見ても世の中はきれいでありどこを見てもおためごかしと「お世話になっております」的レトリックしかない。いつまでこのくだらない空気はつづくのか。だれしもがおもうことをわたしもおもっている。まともにものをかんがえてまともに生きようとする者たちとわたしは同じ怒りを共有している。いつまできれいごとにまみれたくだらない説教がつづくのか、きわめて腹をたてている。わかってほしいから浮気をしている。悪をなすことで見てほしいから浮気をしている。なぜわかってほしいという欲望を馬鹿にするのか。それはきわめてまっとうで真剣な悩みでありこれを馬鹿にする自分のことを頭がいいとおもっているひとびとの醜悪なしたり顔こそ唾を吐きつけるべきだということをなぜ誰もいわないのか。

誰もいわないのでわたしがいわねばならない。誰もいわないのでわたしが書かねばならない。なんという損失! なんという無駄! いや、違う。いや、違った。いや、なにかが違う。そもそもわたしは《現代詩》を書いていると第三者に評価されているのではなかったか。いや、わたしは《ブログ》を書いていると第三者に評価されていたのではなかったか。いや、違うのだ。違うのだ。わたしがしたいことはこんなことではないのだ。わたしがしたいことはどこか別にあるのだ。だがそれはどこにあるのか、なにもわからないのだ。なにもわからないことだけがわかっているのだ。えらそうなことをいって《文化人》ぶっていたいわけではないのだ。えらそうなことをいってもなにもいやされないのだ。ああ、あの窓の向こうへゆきたいのだ。なにもない、あの窓のあちら側へ!

仮象の雨がふっている。あのひとのことを思い出している。肉のよろこびだけが、わたしをすくってくれる。

(2017年5月15日)

2017-04-11

ほんとうの保守のためのノート

「この国にほんとうの保守はいない」と、ある小説家はいった

ほんとうの保守とはなにか
そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか

それは憲法か
それは平和か
それは子供らか
それは誇りか
それはプライドか
それは世界一の技術か
それは安倍晋三か
それは自民党か
それは沖縄の米軍基地か
それは先進国か
それはG7の地位か
それはうつくしい国か
それは東芝の原子力事業か
それは台湾企業に買収されたシャープか
それは教育勅語を暗唱させる幼稚園か
それは共謀罪か
それは言論の自由か
それは性交の自由か
それは性行為をインターネットにアップロードする自由か
それは君が代か
それは天皇陛下か
それは男の男による男のための国か
それは女のものではない女によるところのない女のためでもない国か
それは自涜する自由か
それはツイッターで自涜する自由か
それはフェイスブックで自涜する自由か
それはありとあらゆるSNSで自涜する自由か
それはいつでも自涜ができる《わたしたち》の自由か

守るべきものがずれている
守るべきものがいつでもずれている
守るべきものがいつでもずれてしまっている
守るべきものをふみつけている
守るべきものをうらぎっている
守るべきものをいつの間にかきずつけている
守るべきものをいつの間にかよごしてしまっている
守るべきものがないている
守るべきものをなぐってしまった
守るべきものをころしてしまった
守るべきものをうしなってしまった

さまざまなひとが、それぞれ守るべきものをさけんでいる
(ツイッターであばれている)
さまざまなひとが、それぞれたたかうべきものをさけんでいる
(フェイスブックで慇懃なめくばせをしている)
毎日さけんでいる。毎日糞をなげつけあっている。毎日つぶやいている
(だれもかれもが血走った眼!)

そのどこにも《わたしたち》が守りたかったものはない
そのどこにも《わたしたち》がほんとうに守りたかったものはない
そのどこにも《わたしたち》がほんとうに守りたかったはずのものはない

くりかえされている
なんどもくりかえされている

なんども問うことをくりかえしている
なんども問うことをくりかえしてそのたびに答をうしなっている

ほんとうの保守とはなにかという問いをたてている
ほんとうに守るべきものはなんなのか問いをたてている

ほんとうの保守とはなにか
そもそも、わたしたちが守るべきものはなにか

いや、嘘を書いてはならない
いや、嘘をいってはならない
いや、ブログといえども、嘘を書いてはならない
いや、ブログといえども、《現代詩》といえども、嘘を書いてはならない

だがしかし、ほんとうのことは苦痛で
(そのすべてがいつわりで)
だがしかし、ほんとうのことはくるしく
(そのすべてがうそっぱちで)
だがしかし、ほんとうのことは血を吐くようなことばで
(そのすべてがご立派な表現で)
だがしかし、ほんとうのことがなければ……ほんとうのことがなければ!
(そのすべてが自己満足で)

なかった
そもそもなかった

そもそもこの国に守るべきものなどなにもなかった
そもそもこの国に守るべきものなどどこにもなにもなかった

そもそも《わたしたち》のこの国に守るべきものなどなにひとつ残されていなかったのだということ
そもそも《わたしたち》のこの国のいまここに守るべきものや愛すべきものなどなにひとつ残されていなかったのだということ

保ち守るべき美徳はすべて幻影だったのだということ
保ち守るべき美学はすべて幻想だったのだということ
保ち守るべき《あのひと》はすでに彼岸へ旅立ってしまったのだということ

よってほんとうの保守はついに不可能で
よってほんとうの保守はついにふかぎゃくで
よってほんとうの保守はついにかなうことなく
よってほんとうの保守はついにきえさり
よってほんとうの保守はついに実現することなく
よってほんとうの保守はすでに滅んでおり
よってほんとうの保守は二度滅ぶことはできない

愛する方法を知らなかったので
愛する方法をまちがえたので
愛する方法を知りえなかったので

ほんとうの保守よ、おまえは夢見た庭へとかえり
ほんとうの保守よ、おまえは安らかに星いだいて眠れ

(2017年4月10日)

2017-04-07

ブログ名称の変更を行いました

本日付けで、ブログの名称の変更を行いました。

新名称:仮象の帝国
旧名称:Marginal Soldier

よろしくお願いします。著作リスト等はTumblrを参照してください。

2017-03-31

「jpgの魔女ベアトリス」、またはロスジェネの不可能な紐帯

現実はおそろしい速度で変容してゆくが、わたしたちの人生はなにも変わらずすぎてゆく。この取り残されている気持ち(レフト・アローン)を克服するために、ひとりぼっちのネット右翼(ライト・アローン)が連帯せぬまま台頭する、と冗談を書いてみたくなる。だが、冗談をいって冷笑していられる幸福な時代はすでに終わった。わたしたちは眼前に広がる、左右、男女、上下階級が毎日いがみあうまずしい空間、すなわち自らが作りだした業と向きあわなければならない。

『詩と思想』2017年4月号にて、「現代詩の新鋭」なるものに選出されると連絡があったので、知己の詩人・井上瑞貴さんに解説を書いてもらった。わたし本人といえばそもそも詩と現代詩の違いがわからず、さらにいえば文芸とそれ以外の違い(あるいはブログとそれ以外の違い)もわからない人間なのだが、第三者より評価してもらえるのはめずらしい機会なので、ありがたく思っている。快諾してくれた井上さんに深く感謝を。編集部のみなさんもありがとうございました。

詩作品は、ストリップ劇場を舞台とした「jpgの魔女ベアトリス」を寄稿した。魔女とは男を狂わせる裸体であり、かつ男を救う(かもしれない)貌のない裸体でもある。このブログでも何度も書いているとおり、女だけが男をすくってくれる(可能性がある)ーーただし、それは実在する女である必要はない。それを「jpg」(ジェイペグ)と名付けた。男には女が痛切に必要だ。そしてそれは、肉のよろこびとはなんの関係もない。

この二〇年で、さまざまなものがわたしたちの人生から奪われていった。
だが奪われたものはとりもどせない。無限に遠い、たどりつけない<魔女>へのいのりを経由してとどくかもしれないことばについて書いてゆく。

(2017年4月1日)

* * *

作品以外には、「喪失の時代」という小文を寄せた。以下全文掲載する。

喪失の時代
 数年前、渋谷のストリップ劇場に足を運んだ。鮮明に思いだすのはきらびやかな舞台の最前列、よれよれの汚れたシャツを着た中高年たち、かろやかに踊る女たちの前に跪き、手を合わせる男たちの姿だ。かれらの表情には、神仏を拝む真摯さ、切実さがあり、それは胸が痛くなるような光景だった。
 前妻と暮らしていた頃、地元の駅前にアジア人の娼婦が働く店があった。営業日には小さなネオンが点灯し、秘かに客を呼び込んでいた。妻子が待つ家に帰宅する際、その前をよく通った。残業続きでバスが終わり、歩いて帰ったある雨の夜、道に小さな銀色の川ができて、私と店を隔てていた。川を越えた時に、喪失とは何か知った。
 成長や希望といった幻影を信じていられた八〇年代、アジアの小国で十代を過ごした。あちこちでパーティが開かれ、邦人の集まるホテルで食事を取ると、いつも歓声や笑い声が響いていた。家には阿媽(あま)がいて、学校に行くときは起こしてもらっていた。一番おぼえているのは彼女が洗濯をしている姿で、熱帯の白熱する空に洗濯物が揺れていた。だがいまは二〇一七年であり、揺れてぼやけているのは記憶だけだ。
 jpgは現在(プレゼンス)を保存する。陽炎のあちら側にいる裸体の女たちを。そして喪失の空虚さに耐えられず、弱さを暴力に変換し、告白によって赦しを求める男たちを。だが劣化は避けられない。複製を試みたとしても、記録されたものは不可逆的にこわれてゆく。
 書くことはその不可能を可能にすること。衣類をはぎ取られた肉体、いいかえれば虚構の前に跪き、ほんとうのことを現前させることだった。ひとは老い、夢はこわれ、共同体はばらばらになり、孤立と断絶だけが蔓延してゆく。この喪失の時代をいきる。

2017-03-02

若さの埋葬

現代詩と呼ばれるものを毎日書いてほぼ三年が過ぎた。さまざまなことが起こった。だれの人生とも同じような退屈な毎日のくりかえしだった。一方社会は大きく動いているように感じられた。だが社会が食べ物を恵んでくれるわけではなく、税金を払っていても事故や天災から守ってくれるわけでもない。社会が変わろうが(あるいは大統領という大家が変わろうが)飯の種を稼ぐ行為は変わるはずもなく、水は今日も高いところから低いところへと流れ続ける。

一方、書くことはおもしろい。一円の対価も(ほぼ)なくともおもしろい作品はおもしろい。このおもしろさをわたしから奪おうとする人間こそがわたしの敵であり、それはかたちのない「世間」という形をしている。創作に携わる者すべてがたたかっているものとわたしもたたかっている。しかしもちろんかれらを応援することなく、仲間も必要としていない。そんな連帯になんの意味もない。この考え方をある詩人は「旗を振りません」と表現した。

昨日、SS新人賞の選考委員R・K氏の新人賞授賞式でのことばを某誌で読んだ。知己のH氏が紹介していたが、「とくに男性詩人は、自分の一番弱い部分を隠さずに言葉にしていってもらいたい」というものだった。わたしはしばらく雑誌の頁を開いたまま考え込んだ。というのも、「自分の一番弱い部分」をことばにして、はたしてそれがおもしろいかどうか、わたしは常々疑問に思っているからだ。ネットにあふれる「告白」や「反省」や「体験談」のつまらなさ、退屈さ(あるいは、告白を装った卑劣な身振り)を見れば、読者諸氏にもわたしの疑問が伝わるのではないかと思う。

ただおそらく、書いておくべきことはあるのだろう。わたしが何度も核心的なモチーフにしている「洋子」=「Y」は、産まれることが許されなかった子の仮の名前だ。ほんとうに女の子であったかどうかは永遠にわからないが、手術のあった日の夜に夢を見た。夢の中では女の子が舟に乗ってながれていた。その時ふしぎと、ああ、女の子だったのかもしれない、と思った。

わたしはつい最近まで、自分には経済的な理由で産むことができなかった最初の子供がいた、ということを忘れていた。子供をころして自分は生きている。あるいは、ひとを不幸にしてなお自分はいきながらえている。そのことから眼を背けたかったのかもしれなかった。去年の春ごろのことだったと思うが、毎日詩作をしてゆく中で、夢の中で見たその子のことをはっきりと思い出した。そしてあの子をころしたわたしに生きる資格があるのか、と日々問うようになった。

答は出ていない。

わたしはもうひとつの問いをたてた。それは自分にもし経済的な力があったら、あの子を生かすことができただろうかと。その問いにはすぐに答が出た。おそらくむりだっただろうと。なぜなら出産とは相手がいなければ成立しないものであり、相手が「あなたのことが信頼できないから産みたくない」と言ったら、男はどうにもできない。ひとの気持ちを理解することが多種多様な失敗を経てはじめて可能になるのであれば、その遅延する理解の過程で命がうしなわれてしまうこともある。

答はないが、問いはあった。ひとは弱さや愚かさから、ひとを殺してしまうことがある。あるいは修復不可能なまでに傷つけてしまうことがある。いくら後悔してもとりかえしはつかない。ばらばらになったものはとりもどせない。ひとは、いや、わたしは、どのような理由によって、これから生きていくことがゆるされるのだろう。どのような理由によって、自分をゆるすことができるのだろう。

問いはある。そしておそらくR・K氏がいっていたのは、その不可能な問いに、<答えようとせよ>ということだとわたしは受け止めた。それがいかに滑稽で、みっともなく、恥ずかしいことであっても。

わたしはあの子を埋葬したいと思っている。

それは自分のおろかな若さを埋葬することでもあり、あるいは弱さにかたちを与えることであり、なにひとつ告白せずに<ほんとうにあったこと>を作為を経由して語りつづけることなのだろう。きっと、埋葬は不可能なのだ。あの子を生かしてやりたかった。

(2017年3月2日)