2017-03-31

「jpgの魔女ベアトリス」、またはロスジェネの不可能な紐帯

現実はおそろしい速度で変容してゆくが、わたしたちの人生はなにも変わらずすぎてゆく。この取り残されている気持ち(レフト・アローン)を克服するために、ひとりぼっちのネット右翼(ライト・アローン)が連帯せぬまま台頭する、と冗談を書いてみたくなる。だが、冗談をいって冷笑していられる幸福な時代はすでに終わった。わたしたちは眼前に広がる、左右、男女、上下階級が毎日いがみあうまずしい空間、すなわち自らが作りだした業と向きあわなければならない。

『詩と思想』2017年4月号にて、「現代詩の新鋭」なるものに選出されると連絡があったので、知己の詩人・井上瑞貴さんに解説を書いてもらった。わたし本人といえばそもそも詩と現代詩の違いがわからず、さらにいえば文芸とそれ以外の違い(あるいはブログとそれ以外の違い)もわからない人間なのだが、第三者より評価してもらえるのはめずらしい機会なので、ありがたく思っている。快諾してくれた井上さんに深く感謝を。編集部のみなさんもありがとうございました。

詩作品は、ストリップ劇場を舞台とした「jpgの魔女ベアトリス」を寄稿した。魔女とは男を狂わせる裸体であり、かつ男を救う(かもしれない)貌のない裸体でもある。このブログでも何度も書いているとおり、女だけが男をすくってくれる(可能性がある)ーーただし、それは実在する女である必要はない。それを「jpg」(ジェイペグ)と名付けた。男には女が痛切に必要だ。そしてそれは、肉のよろこびとはなんの関係もない。

この二〇年で、さまざまなものがわたしたちの人生から奪われていった。
だが奪われたものはとりもどせない。無限に遠い、たどりつけない<魔女>へのいのりを経由してとどくかもしれないことばについて書いてゆく。

(2017年4月1日)

* * *

作品以外には、「喪失の時代」という小文を寄せた。以下全文掲載する。

喪失の時代
 数年前、渋谷のストリップ劇場に足を運んだ。鮮明に思いだすのはきらびやかな舞台の最前列、よれよれの汚れたシャツを着た中高年たち、かろやかに踊る女たちの前に跪き、手を合わせる男たちの姿だ。かれらの表情には、神仏を拝む真摯さ、切実さがあり、それは胸が痛くなるような光景だった。
 前妻と暮らしていた頃、地元の駅前にアジア人の娼婦が働く店があった。営業日には小さなネオンが点灯し、秘かに客を呼び込んでいた。妻子が待つ家に帰宅する際、その前をよく通った。残業続きでバスが終わり、歩いて帰ったある雨の夜、道に小さな銀色の川ができて、私と店を隔てていた。川を越えた時に、喪失とは何か知った。
 成長や希望といった幻影を信じていられた八〇年代、アジアの小国で十代を過ごした。あちこちでパーティが開かれ、邦人の集まるホテルで食事を取ると、いつも歓声や笑い声が響いていた。家には阿媽(あま)がいて、学校に行くときは起こしてもらっていた。一番おぼえているのは彼女が洗濯をしている姿で、熱帯の白熱する空に洗濯物が揺れていた。だがいまは二〇一七年であり、揺れてぼやけているのは記憶だけだ。
 jpgは現在(プレゼンス)を保存する。陽炎のあちら側にいる裸体の女たちを。そして喪失の空虚さに耐えられず、弱さを暴力に変換し、告白によって赦しを求める男たちを。だが劣化は避けられない。複製を試みたとしても、記録されたものは不可逆的にこわれてゆく。
 書くことはその不可能を可能にすること。衣類をはぎ取られた肉体、いいかえれば虚構の前に跪き、ほんとうのことを現前させることだった。ひとは老い、夢はこわれ、共同体はばらばらになり、孤立と断絶だけが蔓延してゆく。この喪失の時代をいきる。