2017-05-31

事象aのふたつの貌

しばしば男女問題においてよくあることだが、その関係性においてなにかしらの問題が発生し、あなたがじつは(不幸にも)その二人とそれぞれ友人であったとする。その関係性において、男女がお互いに相手のことを非難していた(「あいつが冷たいから」「あのひとが優しくないの」)と仮定しよう。よくある話だ。あなたは最初そのうちの片方に同情的な立場で、「相手が悪いのだろう」という結論を出し、その人物を慰めたとする。

だが、一歩踏み込んでみよう。この夫Xとその妻Yについて、片方だけではなく、個別に、両方に話をきいてみたとしたらどうか? なんということだろう、よくある家庭内不和は、まったく別の様相を帯び始める。夫Xが語ったとある事象aについて妻Yが語るとき、それはまったく別の物語としかあなたには思えない。だがいずれかが真実を語っているはずだとあなたは思うかもしれない。「どこかに真実があるはずだ」とあなたは思うかもしれない。だが、書かねばならない。そんなものはこの世のどこにも存在しない。

ネットにおけるすべての男女問題の語られ方はいつでも一方通行であり、そこには夫Xまたは妻Yの語る世界観しかない。いいかえればそこにはいつでも被害者しかいない。あるいは「浮気されたぼく」や「浮気されたわたし」の薄っぺらい悲しみしかない。だがそんなものを読んでもなにもわからないのではないか。むしろ読むべきなのは「浮気するわたし」や「浮気するぼく」を並列させた奇怪でグロテスクな語り口、いいかえれば、なぜそんなことをしたのかわからない、というほかない現実に自分を宙吊りにさせる語りの戦略ではないのか。なぜそれを誰もやらないのか。なぜだれもがわかりやすい被害者になりたがるのか。

今日も共感してほしがっている。今日も「いいね」してもらいたがっている。今日も、明日も、明後日も、自分のかなしみを誰かと共有したいと思っている。だが無理なのだ。だが不可能なのだ。なぜそんなことをしようと思うのか。なぜわかってもらおうという欲望から自由になれないのか。わたしたちのグロテスクなあり方をどうしてわかってもらえるなどと思うのか。なぜいつまでも理解をもとめているのか。

お金か。お金がほしいのか。共感してもらってあまつさえお金がほしいのか。わかる。よくわかる。お金がほしい。お金だけではなく共感もほしい。共感してもらうだけではなくわかってほしい。ああ、わかってさえもらえれば! ああ、この世のすべての苦痛が一瞬でも薄れるあのひとときさえあれば! それ以外はなにもいらないのに!

空は曇っている。
いつまでも曇りが続いており、雨は《この世》にはけして降らないのだ。

2017-05-30

みつからない私たち

なかなか梅雨入りしない。晴れの日が続いている。雨の日も好きだが、晴れているほうが掃除はしやすい。子供の排泄物の処理。仕事部屋の掃除、それから料理。机の前ではいくつかボランティアでやっている仕事に関するやり取り。お金がないのにボランティア? と質問したい読者の気持ちはわかるし、わたしもどうかと思うが、短期的には利益がなくとも、または自分には利益はなくとも、家族や共同体に長期的な利益の可能性が生じるとおもえばやることもある。はっきりしているのはすべて自分のためにやっているにすぎないということで、すべての社会活動は自分の利益のためになされるべきではないだろうか。

最近投稿を続けているツイッターは即時的でおもしろいが、どうしてもリアルタイムで読まれることばかりを意識してしまう傾向があり、書くべきことをかなり薄める必要があるという印象を受ける。作家がツイッターをつづけるのはかなりの精神的な割り切りが必要だと思うが、それができるひととできないひとはいるだろう。ブログはまだ原液をそのまま用いることができる強度があるように感じる。おそらくもっとも不要な機能はコミュニケーションで、ネットでは誰の意見もきく必要がないという姿勢をたもつことが必要なのだろう。ただ、きく必要はないが、きこえる場所にはいるべきだ、と思う。

思っていることを正直に書くことはむずかしい。ことばには化粧がほどこされており、一方、化粧をはぎ取ったじゅんすいなことばというものは存在しない。ネットで正直に語ることが難しいのと同様、現実においても正直に語るための相手をさがすことはほとんど不可能ともいえる。ひとは共通の趣味があってもお互いに理解できるわけではないし、悪意を通して正直さがあらわれる場合は、むしろ敵のほうをよりよく理解できたりすることもある。不可避的な虚飾にまみれた《わたし》をそのまま提示すること。それが2017年にネットで可能と思いこむ重大な錯誤を避けなければならないと思う。わたしたちは現実の諸要因によってがんじがらめに束縛されており、ネットに書くことはいっけん自由に見えたとしても、そして仮に匿名であったとしても、その諸要因の檻に閉じこめられているのだ。

日が暮れかけている。市役所が、行方不明の老人についての放送を流している。みつかるだろうか。わたしたちは《わたしたち》をみつけることができるだろうか?

2017-05-29

世界をよぎる鳥の影

外はいい天気だった。すこしずつ夏が近づいている。風が気持ちがいい。

わたしがいる郊外都市は空気がきれいで、自然も多く、かつては山だったらしい。野生の蛍がいるのがその名残だが、一方野生の動物や昆虫も多い。つい最近も道を散歩しているとスズメバチを見かけたが、どこかの梢に巣があるのだろう。わざわざ自分より何百倍も大きい動物を理由もなく襲う昆虫などいないとはいえ、あの高周波の羽音を近くで聴くとぞっとする。アブラゼミぐらい大きいし、子供が襲われたら重症、下手したらショック死ぐらいはしかねない。以前、郊外の山の中古家屋を見て回っていた時に、よさげな家がひとつあったのだが、近くにスズメバチの巣があるということで断念した記憶がある。自然のゆたかな環境で暮らすのはけして悪いことではないが、野生の生き物と共存する知恵やノウハウがなければ、安全に暮らすことはできない。温暖化でデング熱が流行するようになれば、蚊ですら危険な生き物に変わる。とはいっても、山の近くの井戸水はうまく、緑は目に優しく、ホトトギスが鳴く森の近くで暮らすことはそれなりに楽しいものだ。そしてそんな中で机にむかって青白いディスプレイにひたすら向かっている仕事というものはどうなのか、と思わないこともないが、そもそも人間は半自然的存在なのだ、とつぶやきながら、文字を入力する。

どこかで鳥が鳴いている。だがその姿はみえない。この世界をこうして鳥がよぎる。みえないものなど、存在していないのと同じなのだ。

2017-05-28

電車で見かけた子供

比較的暑い一日だった。東京都内で一般の会合があったので参加した。

東京へ向かう電車の中でスマートフォンを操作していると、隣に座って旧型の端末を使っていた子供が、ものすごくうらやましそうな顔をして、わたしの手元をじっと見ていた。はっきりその子の顔を見たわけではないが、その視線が突き刺さるようで、なんだかかわいそうになって、スマートフォンをポケットに戻した。すると今度は残念な気配が伝わってくる。子供を横目でみると、ふたたびさきほどの端末をいじり始めた。それでなにをしているのだろうと様子を伺ってみると、アドレス帳を開いたり、閉じたりする操作をしているだけだった。たぶん、親に持たされてはいるが、高額のパケット料金など払いたくないため、利用制限がかけられているのだろう。まずますかわいそうになった。

やがて、子供はどこかの駅でガラケーを握りしめておりていった。大人になったら、好きなものを自分で選んで買うことができる。だが、子供の頃《得られなかったもの》は二度と手に入らない。そう思って、窓の外をみる。子供の姿はとっくの昔にみえなくなっていた。

2017-05-27

おじさんブログのつくりかた

今日は晴れ。とくに特筆すべきことはなかった。明日は都内で会合があるためその準備で忙しくしている。これまでの作品をまとめたり、雑誌をひとに送ったり、紹介状を依頼したりとか、そういうことだ。結局この社会はコネと根回し(あるいは飲み会)がすべてで、つまりその両方がない人間は死ぬ仕組みになっている。なければつくるしかないし、あるいは、圧倒的なものをつくるほかない、ということでもある。

お金も社会的地位もなく、ひとがうらやむようなものをなにひとつもっていないわたしのような人間に書くべきことは特にない。せいぜい美味いものをつくって食べるぐらいだ。いつも常備しているのは煮干し出汁のみそ汁で、出汁は数日に一度大量につくって利用の際に火をいれる。衛生にはわりと注意しており、ほぼ毎日なにかしら作っているが、食あたりの経験はない。台所と調理器具の清掃もまめに行う。これは兼業主夫としては自慢できるポイントかもしれない。

ブログのアクセスログを見ていると、カリフォルニアに在住の米国人主婦らしきひとのブログがあった。Bloggerシステム上では横にリンクする仕組みがあるようでたまに奇妙な国からアクセスがある。そのブログには生活の様子がつづられていて、あらためてインターネット、いやブログはいいものだな、と思わされた。ある程度まとまった分量の日記的文体、写真によって描かれる普段の生活の一シーンは、それぞれのエントリに俳句的なおもむきを与える。それはフェイスブックにもツイッターにもないものだ。

そう思いながら冷蔵庫の前で今晩の献立を考える。餃子を皮からつくるのは満足度の高い趣味だが、粉が大量に飛び散るため育児中にはおすすめできない。冷蔵庫には安物の出来合いの餃子がはいっている。片栗粉をすこし溶いた水をいれて蒸し焼きにして最後強火にすると皮付き餃子ができる。この餃子はどこで作られたのだろうかと思う。日本ではないかもしれない。まさか米国ではないだろうが。そういえば主婦のブログにはプロフィール写真が貼られていて、いい笑顔だった。みな、さみしいのだろうか、と思う。ネットではみながつながりを求めている。だがそれを得ることはけしてできないのだ。


参考記事:
おじさんになりきってLINEをする『おじさんLINEごっこ』が大流行」(Naverまとめ)
おじさんLINEごっこが女子に流行中。そのキモい特徴とは」(女子SPA!)

2017-05-26

いま夜がはじまる

昼間は雨がふった。すっかりトレードマークと化した白い髪を維持するために美容院にゆき、帰り道に暇そうな顔をした老人がたくさんいるマートでいろいろな食材を買込んで家に戻ると、妻と娘は眠っていた。ベランダには透明な雨が溜まり、そこに夕暮れの光が落ちている。

しずかに机の前に戻って、海外からのメールに対応し、ニュースを眺める。前文部科学事務次官がいわゆる「出会い系バー」なるものに通っていたという報道をよむ。歌舞伎町にそんなバーあったっけ……と思ったが、おそらく登録料と引替えに入ることができる会員制クラブのようなものだろう。男ならだれでも同意すると思うが、服を着た女も、服を脱いだ女もこの世でもっとも尊いものであり、新しい出会いをもとめるのは自然なことだ。だが普通は妻を(大事に思っている場合は)傷つけたくないから我慢する。前に書いたように、むしろ傷つけたい場合は、家庭外にそれをもとめるということになるだろう。

社会的地位がある人物による下半身事案は枚挙にいとまがなく、二十四時間ありとあらゆる場所で社会的規範から犯罪とみなされる行為が繰り返されている。だれしもが下半身に支配されており、下半身の衝動を抑えることができない。できると誤解している人間もたくさんいるが、「できない」と理解した上でそれとあらがうこと/あらがいつづけることも重要だ。ひとの意思の力は弱く、衝動は我慢できず、誘惑にたやすくやられてしまう。そういう前提にたった上で、「できないこと」への無限に遠い距離を縮める努力も必要だ。わたしはその不可能な歩みにこそ人間らしさがあらわれると思う。

下半身が衰えた老人にはそのような衝動はない。だがそれは人間らしさをかくとくしたのではない。ただ性器が弱って衰えたから暴力性を愉しむことができなくなっただけだ。人間らしさとは、下半身起因の衝動とあらがい、これとたたかうことを決めた者にのみひらかれた《契機》なのだ。

だれの上にもいま夜がはじまる。孤立と分断の時代を、人間らしく生きてゆこう。

2017-05-25

被害者にならないこと

注意深く《被害者》を避けなければならない。
この世界が自分をふみつけているからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分を必要としないからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分を馬鹿にしているからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分を拒絶しているからといって、けして被害者になってはならない。この世界が自分に暴力をふるうからといって、けして被害者になってはならない。

注意深く《被害者》になることを避けなければならない。
なぜならひとをふみつけてしまえばこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとを選別するようになればこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとを馬鹿にするようになればこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとを拒絶するようになればこの世界に負けてしまうからであり、なぜならひとに暴力をふるうようになればこの世界に負けてしまうからである。

注意深く《被害者》になることだけは避けなければならない。
なぜならひとをふみつけることは快楽であり、なぜならひとを選別することは快楽であり、なぜならひとを馬鹿にすることは快楽であり、なぜならひとを拒絶することは快楽であり、なぜならひとに暴力をふるうことは快楽であるからである。

《被害者》にならないために《この世界》への怒りをおもいだせ!

2017-05-24

誇りのない仕事

悩んでいる時は考えこむよりも、ブログに向かったほうが答がでることが多い。もっとも、誰かから反応があるわけではなく、エントリフォームに向かうことは壁に向かってひとりごとを話しているのと大して変わらないが、おそらく書くことに意味があるのだろう。なぜなら他の誰でもなくまず自分がそれを読んでいるからである。

大分暑くなってきて、今日はとうとうクーラーをつけた。わたしは夏は大好きだがクーラーも同じぐらい好きだ。といってもまだ梅雨前なので夏の話は気が早い。まだまだじめじめとした季節がつづくはずだ。それはともあれ暑いのは気持ちがいい。生きる活力が湧いてくる。全力で遊ばなければならないという気になってくる。そういうことを考えながら地味に机に向かって作業をする。きわめて静的な運動だが、書いているときにこそいちばん遠くへとゆける気がする。

とはいっても雑務は多い。営業もしなければ食べてはいけない。誰でもしていることをわたしもしている。もっともかつての同級生たちはみな立派な職業についているが、残念ながら社会的地位や経済的裕福さはわたしとはついぞ縁のないものだ。ただ誇りはある。それは確かで、いつ死ぬかわからない人生の中でも、いま自分がやっていること、やってきたことに誇りをもって生きることができていることは、よろこぶべきことなのだろう。もっとも日本語で「誇り」というと、あまり一般には通用しない単語のように思う。横文字の概念が生煮えのまま転がっている印象があるが、他に適当なことばが見当たらない。

誇り、ということで思い出したが、以前、小田原市の生活保護の担当者らが「保護なめんな」などとプリントしたジャンパーを着て受給者の自宅訪問などをしていたニュースがあった。その時のことは日記にも書いたが、後日それについて朝日新聞の特集記事を読んだ。担当者たちには「自分たちが一生懸命やっていることを認めてほしい」という欲求があり、「人間としての本質的な欲求が満たされない中で《私たちは正義のために戦っているのだ》という態度を示さざるを得なかった」というくだりが胸につよく残った。

小田原市の担当者らは「誇り」と呼ばれるなにかを欲していたのだ、といえる。だがそれは第三者にあたえられるものではない。社会からあたえられるものではない。会社からあたえられるものでもない。伴侶からあたえられるものでもない。うつくしい国からあたえられるものでもない。だれからもあたえられるものでもない。

そう思いながら、窓の外をみる。外は暗く、なにも見えなかった。

2017-05-23

とりもどすことができないもの

iMacのハードディスクが壊れた話は以前日記で書いたが、その交換した元ディスクはどうしたかというと、京都産の噌屋の空箱にしまいこんで、そのまま放置して数ヶ月が経過していた。物事はなんでもこのように放置されるものだ。本日は多少時間があったのでその壊れたディスクからデータを可能な限り回収する作業にあたった。といっても大したことはしていない。別のマシンに接続し、データ修復プログラムを走らせるだけの簡単な仕事だ。幸いまだ動いたので、データはほぼ回収することができた。なかにはさまざまな音声データ等もあり、ブログを書籍化しようとしていた時の文字データなども大量に出てきた。なにもかもが懐かしい。

日記のほうでは過去に何度か書いてきたことだが、現在手元には三本の完成した長編詩があり、これをどうしたらよいか頭を悩ませている。知っているひとは知っているとおり、ほとんどすべての現代詩集は自費出版で、これは「私家版」とも呼ばれる。なぜ企画出版がほぼ見当たらないかというと、商業的に成立しないからだ。こうした本を出すためにはそれなりに資金が必要となるが、わたしはそれについてはすでに準備し、作品をもって複数の出版社に持ち込もうと思っていたのだが……そこで考えがとまっている。どうしたらよいのかわからない、というより……これらの作品ははたして現代詩なのだろうか、という疑いを持っている。

さまざまな第三者に作品を評価してもらったのはうれしかったが、これは卑下ではなく、わたしはしょせんブロガーなのではないだろうか、と思う。それ以上のものになるべきではないのではないだろうか。そういうことを考える。そしてデータ修復プログラムが実行されている液晶ディスプレイの画面をみる。修復できないデータが、「×」印で表示されている。ひょっとしたら修復できないものだけが、あるいはとりもどすことができないものだけが、人生において重要なのかもしれなかった。

2017-05-22

梅雨前の昼下がり

梅雨の前なのに真夏日が続いている。夏は好きだ。何かがはじまる予感を感じさせる桜の春よりも、ひたすら熱に浮かされたような夜がつづく夏のほうが好きだ。夜の中でだけはじまるものがある。

もっとも、暑いことは、子育て中の親にとっていいことは何もない。汗をかくので頻繁に服はかえなければならないし、汗疹は心配で、顔が赤かったりすると虫にでも刺されたのではないかと心配になってしまう。そういう心配そのものが無意味であるということを自分に言い聞かせるがそれでも心配になる。まあ人間なんていうのはそんなもので、正しい、とわかっていても、守れなかったりすることもある。あるいは、間違っていることが楽しかったりするということもある。ままならない。なにも片付かない。なにもうまくゆかない。だが偶然うまくゆくこともある。

娘の下半身から排泄物を洗い落として戻り、仕事のメールを出し、ゆるい風が吹く部屋にすわっている。

壁にはりつけた「仮象の塔」の原稿が揺れている。
社会に必要とされていないものを書く。だがそれは、どこかに読者がいるというわたしの確信とまったく矛盾しない。

2017-05-21

窓の内の怪物

晴れの日がつづいている。どさほど遠くない土地では通り魔が老人をバットで攻撃して負傷させ、わたしはいつもと同じように机に向かっている。穏やかな晴れの日がつづいていることをよろこびたく思う反面、さほど年が離れていない男を暴力にかりたてた怒りの正体について想像をめぐらせてしまう。それは端的にいえば、「レールを外れた者をこの社会は人間扱いしない」ということでもあり、あるいは「組織の中にいてもひとは道具としてみなされる」ことでもある。人間扱いされない、というのは、コミュニケーションが成り立たないということでもある。気持ちを打ち明けこれを通わせる契機が奪われている。この国を覆っているなんとも形容し難い息苦しさは、ネットに「本音」があふれているように見える反面、それを語る場が公にはいっさい存在をゆるされないことに起因しているだろう。政治について語る場はなく、恋愛について語る場はなく、生きることについて語る場はなく、ひたすら軋轢をさけるためだけの「お世話になっております」レトリックが蔓延している。洗練された礼儀作法による秩序は外国人(特にアジア人)からみればある意味うらやましいものかもしれないが、その中にいる者はそれを実現するためにどれだけのものが抑圧されているか知っている。ひとを型にはめるシステムは秩序ある社会を作るかもしれないが、そこに入らないものはハサミでひっそりと切り落とされていることを忘れてはならない。いや、わたしがそんなことを書くまでもなく、だれでもそのことに気がついている。この国に《人間》がいないことにだれでも気がついている。だがどうやってそれを取り戻せるか。どうやったら《人間》になれるのか。だれもできない。だれも《人間》にはなれない。そして暴力は断罪されすべてが忘れられる。

おぼえておこう。ひとを怪物にするものは、いまここの安寧を守るためにだけ無視され、排除されてきたかなしみや怒りの声だということを。わたしたちはそれをこれからも目撃してゆくだろう。何度も何度もくりかえされるだろう。しかし、自分たちがつくってしまったこの怪物がこの社会に牙を剝くとき、わたしたちは怪物になることなく、これとあらがうことができるだろうか?

窓の外は暗い。日本人にうまれながらもっとも難しいこと。わたしは《人間》になりたいと思う。

2017-05-20

ファースト・ショッピングと戦争の午後

よく晴れている。平日は毎日早朝より作業に入る。土日祝日は一応休みという設定にしてあるため相対的にのんびりと過ごす。

本日は赤ん坊と買い物に行くためにベビーカーを出した。生まれてからまだ一度しか使っていない。定期検診以外で二人で出かけるのは初めてだ。日差しは強く、多少心配だったが、サンシェードが意外と機能的だったこともあり、起伏の少ない歩道にでると、すぐに娘は眠った。その顔をシェード越しに眺めながらいろいろなことを考える。そして黙って路上をあるく。

老人たちはにこにこしながら赤ん坊をみる。小学生や中学生はものめずらしそうにちらちら見る。そしてわたしと同世代の人間たちは目をそらすか、うつむいてなにも見ずに歩いてゆく――ひょっとしたら舌打ちしながら。それぞれの反応をみると、さまざまな思いが胸をよぎる。そして「戦争」とはなにか、と思う。戦争とは、「この人生」をリセットできる、あるいは価値観が逆立し、社会にまったく認められない自分が、死という献身を通してはじめて社会より認められるかもしれない救済の可能性のことだ。

英雄的な死によって、あるいは「金持ち」や「成功者」に平等にふりそそぐ死によって、ひょっとしたらこのどうしようもない自分も救われるかもしれない、というこころの動きがある。そう考えるわたしを前に、娘はわらっている。わたしは戦争を求めてはいない。だが、もとめる気持ちは理解できる。さらにいえば、ロスジェネ世代は戦争をもとめている。それをこの世のいかなるものもとめられない。

2017-05-19

冷えたサンドイッチ

赤ん坊の世話をしていると、ひととは糞を生産する機械にすぎないのではないかと思うことがよくある。人生に意味を求めるのは問いのたてかたが間違っているので、単なる糞製造機が自分をなにか別のものと勘違いしてしまうことにすべての人間的な問題があるのだろう。一方、自分の子供はおそろしく可愛く、これに負けそうになる。SNSで子供の写真を貼り付けているひとびとの気持ちがわかる。「世界でいちばんかわいい」と思っているのだろう。自慢、は根源的な欲求のひとつだということが、最近よく理解できるようになった。わたしも上記のように思うし、さらにいえば写真も貼りたいが、我慢しなければならない。子供は親の持ち物ではなく、愛玩物でもない。そのうち親のことを捨てて出ていく一時的な関係にすぎない。しょせん他人であり、所有することも支配することもできない。できると思っている親がいるだけだ。子は親を選べないが、親もまた子を選べない。また親が望むような性格に子を変えることもできない。ただ健康だけは親が守ることができる。というわけでわたしは今日も子供を風呂にいれ、ミルクを妻と交替で作り、哺乳瓶を消毒し、最後に妻と自分のために、氷のように冷たいコールドチキンを使ったサンドイッチをつくった。冷えたサンドイッチはうまい。

2017-05-18

雨音のバラード

とつぜんの雨が近づいている。仕事をしながら片目で窓の外をみる。強い風が吹き始めている。嵐は好きだ。と、いっても、わたしが育った熱帯の島国には台風は来ない。かわりに熱帯にはスコールが降る。葡萄の大きさの雨粒が、弾丸のようにふりそそぐ。屋根のあるバス停の下、バスを待っていると、雨音が薄っぺらい屋根をたたき、まるでバラードのように聞こえる。アスファルトには巨大な川ができ、幾億の波紋ができては消え、できては消える。雨がふりしきる中、銀色の雨の壁にくぎられたそのバス停で、誰かをよく待っていた。だが、それはもう遠い記憶であり思い出すことができない。思い出せないことを思い出せるのはさいわいなことだ。なぜならいちばん大事なものであっても、忘れたことさえ忘れてしまえば、この世界に存在しなかったことと同じことだからだ。だがそれを書きのこしてもなにもとりもどせない。それでいいのだ、と思う。

そして結局雨はふることなく、わたしは仕事に戻った。

2017-05-17

深夜の飛行機

地元住民との協定により、近くにある空港から、深夜に飛行機は飛ぶことがない。

だいたい毎日夕方頃が交通のピークで、空には複数の飛行機がキラキラと光りながら滑空しているのがみえる。午後に天気がよい日は、仕事部屋の窓を開けて、ぼんやりと空を眺めることが多い。飛行機雲がいくつか横に刷毛で描いたように伸びている。目の前のベランダの日差しはあたたかい。どこかで猫が遊んでいるらしき声が聞こえる。生まれて二ヶ月になる娘は居間のソファで眠っているようだ。小さなベッドも生まれる前に購入したのだが、結局ソファが気に入ってしまったらしく、ソファでないと長いこと眠ってくれない。子供をあやしていると、自分がいつのまにか笑顔になっていることに気がつく。それはほとんど使ったことのない筋肉をいつのまにか使ってしまっている一種不気味な感覚で、自分の顔にはこれだけ生きてきても、まだ一度も使ったことがない機能があったのだ、ということを思う。そしてそのことをもっとはやく知る方法はなかったのか、ということを思う。

夜になり、空を飛行機が明滅しながら、並走してどこかへ飛んでゆく。人は死んだら土になり、魂の存在は虚構であり、そこにはなにも残らない。自分は死に、子供もいつかは死に、人生はひとしく無意味だ。その後に「だが」も「しかし」もつなげることなく、机に向かう。あなたたちは、なにを犠牲にして《仕事》をつづけるのか。あなたたちはどんな代償をはらっていきるのか。だれも、答をもっていないのだ。

2017-05-16

わたしとあなたのインターネット

がっかりしており、失望しており、希望をうしなっており、目的をなくしており、夢の残り火はきえている、わたしとあなたのインターネット。
うつくしい雨がふりしきる空っぽの公園で、電磁的なみぶりで宛先のない手紙を書いて、蒼いあのひとにたどりつかない、わたしとあなたのインターネット。
いずれの約束もいつわりで、さめきった情熱はくずれきえさり、信じたものには裏切られる、わたしとあなたのインターネット。
わたしとあなたの二人称的、わたしとあなたの現実の、わたしとあなたのインターネット。

(2017年5月16日)

2017-05-15

なぜひとは浮気するのか

いつでも浮気したがっている。男はみな浮気している。人妻はみな浮気している。隣人のあのひとは浮気している。午前七時にかならず掃除機をかける豹柄のパンツを穿いた下階のAさんは浮気している。政治家も浮気している。芸能人も浮気している。野良犬は浮気していない。人工知能も浮気している。ひととひとが作ったこの世、そのなにもかもが浮気している。貞操は存在しない。不倫だけが現実である。

さて外は雨が降っている(ような気がする)。机の前で自分の読者層というものを考える。閉ざされた世界の外にむけて開かれたことばとはどのようなものでありうるか。閉ざされたことばとはもちろんこの国のあちこちに存在している蛸壺的村社会にむけてのみ語られることばだ(「玉稿拝読しました」「いつも某会合でお世話になっております」「XX賞を受賞されたあの作品は感動いたしました」)。わたしはひとまず解説や説明を排除し、真偽不明のアレゴリカルな《意見》をこのブログにおいてゆきたい。それはきわめてありふれたものであり、日本社会に携帯端末の数だけ存在しているに違いない。

ひさしぶりなので、自分の読者層というものがよくわからなくなってしまった。読者はどのような人生を送ってきたのか。どのような教育を受けてきたのか。なぜわざわざブログなどを読もうとおもったのか。もちろんわたしにはわからない。なにもわかるはずがなく、あなたの人生についてなにひとつわかることなく、またわかることをかたく禁じながら、ひとつのイメージを頭に描く。それは夜中、小さな携帯やスマートフォンの淡く輝く画面をみながら、寝具の中で眠るまでの時間をこのブログとともに過ごすひとの姿だ。同居人、親、親類等に知られることのない、同僚にも妨害されることのないプライベートな空間。ひそかに、誰かに知られずに読まれるような状況を想定している。そのようなつもりで書いてみたい。

誰でも浮気している。男は誰でも浮気したがっているだけではなく実際に浮気している。つい最近も自民党の議員が、わざわざ妻が出産間際で不在のところを狙って、よその女を家に連れ込んで浮気していたというニュースがあった。「またか」とおもったひとも多いだろう。女性は「男なんてそんなもの」とおもっただろう。「育休をとっても、家事しない、育児しない、でも浮気はする」と思った女性も多いだろう。権力者はお金などをもっているので浮気が比較的に容易だ。もちろんお金がなくても浮気は毎日、毎時間、毎秒、いついかなる場でも可能であり、実際にしているひとが山ほどおり、「証拠」や「エビデンス」を出す必要などない。

だがしかし、さらに踏み込まねばならない。肉のよろこびが必要だろうか。肉の快楽が必要だろうか。これらは生きるために必要なものだろうか。いやちがう。そんなものはどうでもいい。このようなものは大したものではない。しょせん歯磨きをする快楽にすぎない生理的欲求によってひとは根源的に動かされたりしない。ひとを動かすのはもっと巨大なものであり、とりかえのきかない欲望であり、それは《傷》である。あるいは傷という空洞をうめるための肉でもある。空洞を埋めるためならひとはどんなことでもする。穴を埋めるためならひとはどんなことでもする。この《苦痛》を癒すためならひとはどんなことでもする。女をとっかえひっかえしなければ生きられないのは痛みがあるからだ。

一般的には、男は性欲があるからと言い訳して浮気をしている。そういうことになっている。だがそうすることによって妻を傷つけることはあきらかではないだろうか。なぜそんなことをするのか。答はあまりにも明快であり浮気は手段であってほんらいは相手を傷つけたいということそのものが欲望なのである。相手を傷つけたいからこそひとを裏切るのである。相手が自分のことをまったく理解しない愚か者で裏切り者でゆるせないとおもっているからこそそれを理解してほしくて相手を傷つけるもっとも手っ取り早い方法として浮気があるのである。

どこを見ても世の中は清潔でありどこを見ても世の中はきれいでありどこを見てもおためごかしと「お世話になっております」的レトリックしかない。いつまでこのくだらない空気はつづくのか。だれしもがおもうことをわたしもおもっている。まともにものをかんがえてまともに生きようとする者たちとわたしは同じ怒りを共有している。いつまできれいごとにまみれたくだらない説教がつづくのか、きわめて腹をたてている。わかってほしいから浮気をしている。悪をなすことで見てほしいから浮気をしている。なぜわかってほしいという欲望を馬鹿にするのか。それはきわめてまっとうで真剣な悩みでありこれを馬鹿にする自分のことを頭がいいとおもっているひとびとの醜悪なしたり顔こそ唾を吐きつけるべきだということをなぜ誰もいわないのか。

誰もいわないのでわたしがいわねばならない。誰もいわないのでわたしが書かねばならない。なんという損失! なんという無駄! いや、違う。いや、違った。いや、なにかが違う。そもそもわたしは《現代詩》を書いていると第三者に評価されているのではなかったか。いや、わたしは《ブログ》を書いていると第三者に評価されていたのではなかったか。いや、違うのだ。違うのだ。わたしがしたいことはこんなことではないのだ。わたしがしたいことはどこか別にあるのだ。だがそれはどこにあるのか、なにもわからないのだ。なにもわからないことだけがわかっているのだ。えらそうなことをいって《文化人》ぶっていたいわけではないのだ。えらそうなことをいってもなにもいやされないのだ。ああ、あの窓の向こうへゆきたいのだ。なにもない、あの窓のあちら側へ!

仮象の雨がふっている。あのひとのことを思い出している。肉のよろこびだけが、わたしをすくってくれる。

(2017年5月15日)