2017-05-15

なぜひとは浮気するのか

いつでも浮気したがっている。男はみな浮気している。人妻はみな浮気している。隣人のあのひとは浮気している。午前七時にかならず掃除機をかける豹柄のパンツを穿いた下階のAさんは浮気している。政治家も浮気している。芸能人も浮気している。野良犬は浮気していない。人工知能も浮気している。ひととひとが作ったこの世、そのなにもかもが浮気している。貞操は存在しない。不倫だけが現実である。

さて外は雨が降っている(ような気がする)。机の前で自分の読者層というものを考える。閉ざされた世界の外にむけて開かれたことばとはどのようなものでありうるか。閉ざされたことばとはもちろんこの国のあちこちに存在している蛸壺的村社会にむけてのみ語られることばだ(「玉稿拝読しました」「いつも某会合でお世話になっております」「XX賞を受賞されたあの作品は感動いたしました」)。わたしはひとまず解説や説明を排除し、真偽不明のアレゴリカルな《意見》をこのブログにおいてゆきたい。それはきわめてありふれたものであり、日本社会に携帯端末の数だけ存在しているに違いない。

ひさしぶりなので、自分の読者層というものがよくわからなくなってしまった。読者はどのような人生を送ってきたのか。どのような教育を受けてきたのか。なぜわざわざブログなどを読もうとおもったのか。もちろんわたしにはわからない。なにもわかるはずがなく、あなたの人生についてなにひとつわかることなく、またわかることをかたく禁じながら、ひとつのイメージを頭に描く。それは夜中、小さな携帯やスマートフォンの淡く輝く画面をみながら、寝具の中で眠るまでの時間をこのブログとともに過ごすひとの姿だ。同居人、親、親類等に知られることのない、同僚にも妨害されることのないプライベートな空間。ひそかに、誰かに知られずに読まれるような状況を想定している。そのようなつもりで書いてみたい。

誰でも浮気している。男は誰でも浮気したがっているだけではなく実際に浮気している。つい最近も自民党の議員が、わざわざ妻が出産間際で不在のところを狙って、よその女を家に連れ込んで浮気していたというニュースがあった。「またか」とおもったひとも多いだろう。女性は「男なんてそんなもの」とおもっただろう。「育休をとっても、家事しない、育児しない、でも浮気はする」と思った女性も多いだろう。権力者はお金などをもっているので浮気が比較的に容易だ。もちろんお金がなくても浮気は毎日、毎時間、毎秒、いついかなる場でも可能であり、実際にしているひとが山ほどおり、「証拠」や「エビデンス」を出す必要などない。

だがしかし、さらに踏み込まねばならない。肉のよろこびが必要だろうか。肉の快楽が必要だろうか。これらは生きるために必要なものだろうか。いやちがう。そんなものはどうでもいい。このようなものは大したものではない。しょせん歯磨きをする快楽にすぎない生理的欲求によってひとは根源的に動かされたりしない。ひとを動かすのはもっと巨大なものであり、とりかえのきかない欲望であり、それは《傷》である。あるいは傷という空洞をうめるための肉でもある。空洞を埋めるためならひとはどんなことでもする。穴を埋めるためならひとはどんなことでもする。この《苦痛》を癒すためならひとはどんなことでもする。女をとっかえひっかえしなければ生きられないのは痛みがあるからだ。

一般的には、男は性欲があるからと言い訳して浮気をしている。そういうことになっている。だがそうすることによって妻を傷つけることはあきらかではないだろうか。なぜそんなことをするのか。答はあまりにも明快であり浮気は手段であってほんらいは相手を傷つけたいということそのものが欲望なのである。相手を傷つけたいからこそひとを裏切るのである。相手が自分のことをまったく理解しない愚か者で裏切り者でゆるせないとおもっているからこそそれを理解してほしくて相手を傷つけるもっとも手っ取り早い方法として浮気があるのである。

どこを見ても世の中は清潔でありどこを見ても世の中はきれいでありどこを見てもおためごかしと「お世話になっております」的レトリックしかない。いつまでこのくだらない空気はつづくのか。だれしもがおもうことをわたしもおもっている。まともにものをかんがえてまともに生きようとする者たちとわたしは同じ怒りを共有している。いつまできれいごとにまみれたくだらない説教がつづくのか、きわめて腹をたてている。わかってほしいから浮気をしている。悪をなすことで見てほしいから浮気をしている。なぜわかってほしいという欲望を馬鹿にするのか。それはきわめてまっとうで真剣な悩みでありこれを馬鹿にする自分のことを頭がいいとおもっているひとびとの醜悪なしたり顔こそ唾を吐きつけるべきだということをなぜ誰もいわないのか。

誰もいわないのでわたしがいわねばならない。誰もいわないのでわたしが書かねばならない。なんという損失! なんという無駄! いや、違う。いや、違った。いや、なにかが違う。そもそもわたしは《現代詩》を書いていると第三者に評価されているのではなかったか。いや、わたしは《ブログ》を書いていると第三者に評価されていたのではなかったか。いや、違うのだ。違うのだ。わたしがしたいことはこんなことではないのだ。わたしがしたいことはどこか別にあるのだ。だがそれはどこにあるのか、なにもわからないのだ。なにもわからないことだけがわかっているのだ。えらそうなことをいって《文化人》ぶっていたいわけではないのだ。えらそうなことをいってもなにもいやされないのだ。ああ、あの窓の向こうへゆきたいのだ。なにもない、あの窓のあちら側へ!

仮象の雨がふっている。あのひとのことを思い出している。肉のよろこびだけが、わたしをすくってくれる。

(2017年5月15日)