2017-05-21

窓の内の怪物

晴れの日がつづいている。どさほど遠くない土地では通り魔が老人をバットで攻撃して負傷させ、わたしはいつもと同じように机に向かっている。穏やかな晴れの日がつづいていることをよろこびたく思う反面、さほど年が離れていない男を暴力にかりたてた怒りの正体について想像をめぐらせてしまう。それは端的にいえば、「レールを外れた者をこの社会は人間扱いしない」ということでもあり、あるいは「組織の中にいてもひとは道具としてみなされる」ことでもある。人間扱いされない、というのは、コミュニケーションが成り立たないということでもある。気持ちを打ち明けこれを通わせる契機が奪われている。この国を覆っているなんとも形容し難い息苦しさは、ネットに「本音」があふれているように見える反面、それを語る場が公にはいっさい存在をゆるされないことに起因しているだろう。政治について語る場はなく、恋愛について語る場はなく、生きることについて語る場はなく、ひたすら軋轢をさけるためだけの「お世話になっております」レトリックが蔓延している。洗練された礼儀作法による秩序は外国人(特にアジア人)からみればある意味うらやましいものかもしれないが、その中にいる者はそれを実現するためにどれだけのものが抑圧されているか知っている。ひとを型にはめるシステムは秩序ある社会を作るかもしれないが、そこに入らないものはハサミでひっそりと切り落とされていることを忘れてはならない。いや、わたしがそんなことを書くまでもなく、だれでもそのことに気がついている。この国に《人間》がいないことにだれでも気がついている。だがどうやってそれを取り戻せるか。どうやったら《人間》になれるのか。だれもできない。だれも《人間》にはなれない。そして暴力は断罪されすべてが忘れられる。

おぼえておこう。ひとを怪物にするものは、いまここの安寧を守るためにだけ無視され、排除されてきたかなしみや怒りの声だということを。わたしたちはそれをこれからも目撃してゆくだろう。何度も何度もくりかえされるだろう。しかし、自分たちがつくってしまったこの怪物がこの社会に牙を剝くとき、わたしたちは怪物になることなく、これとあらがうことができるだろうか?

窓の外は暗い。日本人にうまれながらもっとも難しいこと。わたしは《人間》になりたいと思う。