2017-05-30

みつからない私たち

なかなか梅雨入りしない。晴れの日が続いている。雨の日も好きだが、晴れているほうが掃除はしやすい。子供の排泄物の処理。仕事部屋の掃除、それから料理。机の前ではいくつかボランティアでやっている仕事に関するやり取り。お金がないのにボランティア? と質問したい読者の気持ちはわかるし、わたしもどうかと思うが、短期的には利益がなくとも、または自分には利益はなくとも、家族や共同体に長期的な利益の可能性が生じるとおもえばやることもある。はっきりしているのはすべて自分のためにやっているにすぎないということで、すべての社会活動は自分の利益のためになされるべきではないだろうか。

最近投稿を続けているツイッターは即時的でおもしろいが、どうしてもリアルタイムで読まれることばかりを意識してしまう傾向があり、書くべきことをかなり薄める必要があるという印象を受ける。作家がツイッターをつづけるのはかなりの精神的な割り切りが必要だと思うが、それができるひととできないひとはいるだろう。ブログはまだ原液をそのまま用いることができる強度があるように感じる。おそらくもっとも不要な機能はコミュニケーションで、ネットでは誰の意見もきく必要がないという姿勢をたもつことが必要なのだろう。ただ、きく必要はないが、きこえる場所にはいるべきだ、と思う。

思っていることを正直に書くことはむずかしい。ことばには化粧がほどこされており、一方、化粧をはぎ取ったじゅんすいなことばというものは存在しない。ネットで正直に語ることが難しいのと同様、現実においても正直に語るための相手をさがすことはほとんど不可能ともいえる。ひとは共通の趣味があってもお互いに理解できるわけではないし、悪意を通して正直さがあらわれる場合は、むしろ敵のほうをよりよく理解できたりすることもある。不可避的な虚飾にまみれた《わたし》をそのまま提示すること。それが2017年にネットで可能と思いこむ重大な錯誤を避けなければならないと思う。わたしたちは現実の諸要因によってがんじがらめに束縛されており、ネットに書くことはいっけん自由に見えたとしても、そして仮に匿名であったとしても、その諸要因の檻に閉じこめられているのだ。

日が暮れかけている。市役所が、行方不明の老人についての放送を流している。みつかるだろうか。わたしたちは《わたしたち》をみつけることができるだろうか?