2017-05-31

事象aのふたつの貌

しばしば男女問題においてよくあることだが、その関係性においてなにかしらの問題が発生し、あなたがじつは(不幸にも)その二人とそれぞれ友人であったとする。その関係性において、男女がお互いに相手のことを非難していた(「あいつが冷たいから」「あのひとが優しくないの」)と仮定しよう。よくある話だ。あなたは最初そのうちの片方に同情的な立場で、「相手が悪いのだろう」という結論を出し、その人物を慰めたとする。

だが、一歩踏み込んでみよう。この夫Xとその妻Yについて、片方だけではなく、個別に、両方に話をきいてみたとしたらどうか? なんということだろう、よくある家庭内不和は、まったく別の様相を帯び始める。夫Xが語ったとある事象aについて妻Yが語るとき、それはまったく別の物語としかあなたには思えない。だがいずれかが真実を語っているはずだとあなたは思うかもしれない。「どこかに真実があるはずだ」とあなたは思うかもしれない。だが、書かねばならない。そんなものはこの世のどこにも存在しない。

ネットにおけるすべての男女問題の語られ方はいつでも一方通行であり、そこには夫Xまたは妻Yの語る世界観しかない。いいかえればそこにはいつでも被害者しかいない。あるいは「浮気されたぼく」や「浮気されたわたし」の薄っぺらい悲しみしかない。だがそんなものを読んでもなにもわからないのではないか。むしろ読むべきなのは「浮気するわたし」や「浮気するぼく」を並列させた奇怪でグロテスクな語り口、いいかえれば、なぜそんなことをしたのかわからない、というほかない現実に自分を宙吊りにさせる語りの戦略ではないのか。なぜそれを誰もやらないのか。なぜだれもがわかりやすい被害者になりたがるのか。

今日も共感してほしがっている。今日も「いいね」してもらいたがっている。今日も、明日も、明後日も、自分のかなしみを誰かと共有したいと思っている。だが無理なのだ。だが不可能なのだ。なぜそんなことをしようと思うのか。なぜわかってもらおうという欲望から自由になれないのか。わたしたちのグロテスクなあり方をどうしてわかってもらえるなどと思うのか。なぜいつまでも理解をもとめているのか。

お金か。お金がほしいのか。共感してもらってあまつさえお金がほしいのか。わかる。よくわかる。お金がほしい。お金だけではなく共感もほしい。共感してもらうだけではなくわかってほしい。ああ、わかってさえもらえれば! ああ、この世のすべての苦痛が一瞬でも薄れるあのひとときさえあれば! それ以外はなにもいらないのに!

空は曇っている。
いつまでも曇りが続いており、雨は《この世》にはけして降らないのだ。