2017-05-24

誇りのない仕事

悩んでいる時は考えこむよりも、ブログに向かったほうが答がでることが多い。もっとも、誰かから反応があるわけではなく、エントリフォームに向かうことは壁に向かってひとりごとを話しているのと大して変わらないが、おそらく書くことに意味があるのだろう。なぜなら他の誰でもなくまず自分がそれを読んでいるからである。

大分暑くなってきて、今日はとうとうクーラーをつけた。わたしは夏は大好きだがクーラーも同じぐらい好きだ。といってもまだ梅雨前なので夏の話は気が早い。まだまだじめじめとした季節がつづくはずだ。それはともあれ暑いのは気持ちがいい。生きる活力が湧いてくる。全力で遊ばなければならないという気になってくる。そういうことを考えながら地味に机に向かって作業をする。きわめて静的な運動だが、書いているときにこそいちばん遠くへとゆける気がする。

とはいっても雑務は多い。営業もしなければ食べてはいけない。誰でもしていることをわたしもしている。もっともかつての同級生たちはみな立派な職業についているが、残念ながら社会的地位や経済的裕福さはわたしとはついぞ縁のないものだ。ただ誇りはある。それは確かで、いつ死ぬかわからない人生の中でも、いま自分がやっていること、やってきたことに誇りをもって生きることができていることは、よろこぶべきことなのだろう。もっとも日本語で「誇り」というと、あまり一般には通用しない単語のように思う。横文字の概念が生煮えのまま転がっている印象があるが、他に適当なことばが見当たらない。

誇り、ということで思い出したが、以前、小田原市の生活保護の担当者らが「保護なめんな」などとプリントしたジャンパーを着て受給者の自宅訪問などをしていたニュースがあった。その時のことは日記にも書いたが、後日それについて朝日新聞の特集記事を読んだ。担当者たちには「自分たちが一生懸命やっていることを認めてほしい」という欲求があり、「人間としての本質的な欲求が満たされない中で《私たちは正義のために戦っているのだ》という態度を示さざるを得なかった」というくだりが胸につよく残った。

小田原市の担当者らは「誇り」と呼ばれるなにかを欲していたのだ、といえる。だがそれは第三者にあたえられるものではない。社会からあたえられるものではない。会社からあたえられるものでもない。伴侶からあたえられるものでもない。うつくしい国からあたえられるものでもない。だれからもあたえられるものでもない。

そう思いながら、窓の外をみる。外は暗く、なにも見えなかった。