2017-06-01

偽物の鐘

昼休み。学校から正午を知らせるらしき鐘の音が聞こえる。といっても、実際に鐘をみたことはない。デジタル化された鐘を模した時報でどこかに設置されたスピーカーから流されているだけのものだ。見たことはないが正午になるとその音が響いてくる。

すぐ近くに中学校があり、おそらく娘が通うことになるのだろうが、その校舎に設置されている気がする。娘のこれからの将来のことを考えると外国人とのハーフということでいろいろ心配事もあるが、それはまだ早すぎるのだろう。

両親からことばを学べば二カ国語を母語として生きることができるが、それが娘の将来にとっていいことなのかどうか悩んでいる。ふつう十年程度をかけてしか職務に活用できる水準に達しない外国語能力を生来身に付けているというのは強い優位性であることは間違いないが、《自分はどこにいるべき者なのか》という、本来必要のない疑惑を与えてしまうことにもなる。

ひとにはふるさとが必要なのだ。いや、くわしく言えば、ふるさとと信じられる場所、が必要なのだ。それは物理的に存在しえないものでもよい。自分が帰属すると《信じられる》場所がひとには必要であり、それがなければどこに住んでも異邦人としか感じられない根無し草になってしまう。母国語というのはふるさとの一種なのである。

鐘はもう聞こえない。娘のこれからとは無関係に、わたしもふるさとを探している。だがそれは見つからないだろう。こんにちは、世界。