2017-06-11

投げられた瓶

午後。仕上げた原稿をI・M氏に送付し、つかれて休んでいる。書くこと、書いたものをお金にすること、書いたものに対する適切な評価を社会から受けるための努力をすることは日課の一部だが、もちろん毎日うまくいくわけでもない。だが一時的に見返りがなくとも(あるいは長期的にもなくとも)続けなければいけないことはある。自分で決めたことはつづける。他人に自分の人生を決めさせない。あるいは自分が価値と思うものの判断を第三者(あるいはネット的にいえばPV)にはゆだねない。《個》として生きることが結局のところ社会に貢献することにもなる、と信じる。

昨晩は詩友のひとりで『現代詩の新鋭』同期であるS・K氏と電話した。いろいろな話題があったが「オン・ユア・オウンであること」=自分自身の個別な力のみを頼りとすること、ということについて話した。おもしろいものを書くために誰かに頼ることはできない。おもしろいものを作るために組織に頼ることはできない。独立したひとつの個として、書いたものをそれに無関心な社会に投擲するしかないのである。瓶のうちに手紙を隠して、それが届くどうかはわからないにしても、それを波に投じることだ。

だが、じつは何も届かないのだ。瓶は投げられているが、なかに入っている手紙は文字化けしており、解読のためのコードはうしなわれている。それが2017年だ。不可能なこと、それ自体について書かねばならない、ということを思う。だが、おそらく希望はなく、わたしもまた必ず敗北するだろう。投げられない瓶について考える。だれも、手紙を出せないのだ。