2017-06-30

夏きたる前の雑記または楽観主義者

金曜日。あまり一般の世間とは関係がない生活だが、土日にむけて仕事の密度は減る。
週末というものはいいものだ。

最近のネットの読者の印象として、薄く広く眺めてみると、短時間で読めるものしか読んでおらず、特定の作家名を帯びず、散逸した状態でも読めるもの(=匿名に類するもの)が好まれる傾向があると思う。読み手知らずの短歌や俳句、あるいは短い漫画はネットに最適な作品ということは言えるだろう。短歌がとくに盛り上がっているという話は某出版社のひとに聞いたが、そうだろうと思う。時系列に読む必要もないし、それぞれ自立している。

わたしのブログ、Tumblr、ツイッターはそれぞれ別々の目的と主題をもって製作しているが、基本的に読者からの反応というものはない。ごく一部の古い読者や一部の読み手に拾われ、それがかろうじて広まったりわずかに読まれたりする以外に、フィードバックというものはない。わたしは短時間で読めるものとは正反対のものを書いており、時代=フォルムに適合していない。と、いうより、適合できないことそのものを書いている、と言い換えたほうがいいかもしれない。

一方、わたしのネットにおける目的というのはシンプルで、ぼんやりとした言い方になるが、「読者共同体」、別の言い方なら読者ベースと呼ばれるものになるだろうか、それを創出していくのが、ブログ、Tumblr、ツイッターでのわたしの仕事ということになる。わたしの尊敬する作家は、長い作品を書いていたので、わたしもそれにならって、長いものを書こうと思っているし、いま書いているし、それを形にするための努力をしている。長い作品が読まれ(う)るためには、読者共同体が存在していなければならない。

また、ここはブログなので正直に書いておくと、わたしは「現代詩の新鋭」という呼称はあるが、自分が詩人とは思っていないし、現代詩を書いているとも思っていない。ただわたしの名前が記された作品群を書いているだけだ。それを第三者が後付けで分類する。それはそれでかまわない。ただネット的なことをついでに書いておけば、わたしは自分のことを作家とはまだ名乗りたくない。特定の雑誌に多少原稿が載ったからといって、その人物は作家だろうか。違う。第三者に書いているものが評価され《続ける》ことだけが作家の条件である。

ブログでも、Tumblrでも、ツイッターでも、雑誌でも、本でも、ありとあらゆる場所で、器用に文体を使い分けることいっさいなく、同じひとつの名前のもとに書いてゆきたいと思っている。ブログやTumblrやツイッターで「読みやすい」文章を求める読者に応えられないのは申し訳なく思っているが、これがわたしの考える読者に対する誠実さだとご理解いただければ幸いだ。

わたしは読者は存在していると思うし、ネットになにか書くことが無意味だという意見には賛成しない。まったくフィードバックがないから、まったく反応がないから、まったくアクセスがないから、だから《無意味》だと言う意見にはまったく賛成しない。書くこと、伝えようとすること、考えること、理解しようとすること、そのどれもが困難であり、そのどれもが貴重な人生の一部であって、書くという一連の姿勢と行為には、わたしたちがいきるこの世界がいったいいかなる場所なのかそれを知るための重要な契機をもたらす可能性があると考える。その程度にはわたしは楽観主義者だといえる。