2017-06-25

事後の場所

週末にショッピングモールに出かけた。郊外のショッピングモールはここで何度か書いたように愉快な人々であふれているが、もちろん自分もその一員であるほかなく、所与の条件から自由であるかのようにふるまうことはおろかだというほかない。別の言い方をすれば日本にいながら日本人であることから自由であるかのようにふるまうことは滑稽だということになる。安全な場所などない。

さて本日は三ヶ月になった子供をともなっての外出だった。ベビーカーではなくベビーキャリアを使った。よく外にゆくとリュックサックを背負って子供を前に抱いてさらに両手に買い物袋をぶら下げた母親を見かけるが、あれがどれぐらい大変かということはやってみなければわからない。ベビーキャリアで六キロちかくある物体を持ったまま買い物をする、ということがどれぐらい大変か、今日はそれを学んだ。そして夏は暑さ対策が大変だということも。汗まみれになってとてもかわいそうだった。

へとへとになって帰ってきてすこし休んだが、あまりに疲れたので子供の身体を洗ってミルクをやってから気絶するようにすこし眠った。ソファで家内にあやされる子供の顔をみていて感じるのは、きっと時がたてば、この時の大変さはいい思い出になるのだろう、というぼんやりとした予感だ。子育てに関与できないとくに男親は、子供を愛する契機の多くを奪われているということを思う。大変なことを苦労しながらすることは、けして悪いことではないのだ。子育てから逃げて仕事に逃避していたかつてのわたしは、恥ずかしい人間だったということを思う。だがひとは、「ほんとうはこうすべきだった」と、《事後》に気付くのだ。なぜなら理解とは苦い喪失を経ないとあらわれないものだからだ。

いつでも事後の場所にいる。痛みや愚かさから自由な安全な場所などない。