2017-06-07

梅雨の訪れ

関東も梅雨入りしたという話をきいた。久々に外国語で自分の考えをかなり長めに書く機会があり、なんとか二ページほどの文章を書き上げ、やや疲れて窓の側の椅子に座っている。わたしたちは母国語を使うとき、自分が「わかっている」と思い込んでそれを使っている。実際にくわしく見てみると、実はわかっていないことも多い。意味のわからないことばをそのまま使ったり、適当に配置したり、なんとなく正しいと思う用法を採用したりしている。そこには「正しさ」というものはじつはなく、教科書的な限られた条件下でのみ正解や間違いが区別できるようになる事例があるだけだ。外国語を使ってなにかを書こうとするとそのことがよくわかる。外国語をつかうと母国語がはじめて理解できるようになる。いや、母国語のわけのわからなさ、つまり母国語すら実はわからないことがはじめてわかる。ことばというのはほんとうによくわからないものだ。こんな不確かなものを使っているのにどうしてひとは相手のことを理解できると信じられるのだろうか、と思う。いや、誰も信じていないのかもしれない。そして理解できないことを薄々知っているからこそ、理解したいと思うのかもしれない。梅雨の訪れはすぐそこである。