2017-06-20

虚栄の詰まったずだ袋、またはGoogle+を辞めた理由

ネットでは無限に嘘がつける。嘘の真偽を検証する方法はない。先日、わたしはとある恥ずかしい事件があってGoogle+というSNSを辞めたと書いたが、結局のところ、それ以降ネットの上でのすべてのやり取りを中止することになった。それから三年、コメントやコミュニケーション機能を意図的に排除したTumblr等でしかネットでは書いてこなかった。

どうでもいい話、つまりきわめてプライベートな話になるが、なぜ辞めたかというと、とある作家のことを読んでいないのに読んだと書いてしまったから、というシンプルなものだ。きわめて恥ずかしいことで、それ以上でもそれ以下でもないが、ひとつはっきりしているのは、ネットはそういう知的な不誠実さを実行するのにもっとも適した空間であるということだ。

一方、読者はこう言うかもしれない。現実においても知的な不誠実さが横行しているではないか。たとえば、野心で眼を輝かせた若者に「きみはXを読んだか」と聞いたら、「読みました」と精一杯の嘘がかえってくるではないか、というかもしれない。そのとおりだ。若者や未熟者が知らないものを知っていると強がるのはいい。だが、その若者は次に会うときまでにそれを読んでおく必要が生じるだろう。嘘をついてしまったら嘘を守る必要があるからだ。

ネットではそうではない。いつでも嘘がつける。いつでも嘘をごまかせる。いつでも嘘を塗り重ねることができる。次から次へと嘘を糊塗することができる。誰もそれを検証などしないしできない。ここまで読んで、読者の脳裏に浮かんでいるAからZの人気ブロガーや「知識人」たちの顔をわたしも共有しているといわねばならない。だがわたしは彼らを批判する気にならない。ネットにとどまればそうなってしまう。虚栄の詰まったずだ袋になってしまう。それは避けられない。

その時、わたしはSNSから完全に去ることにした。それはGoogle+で巡り合った貴重な友人たちとも永遠に別れることを意味した。それはつらい選択だったが、他に選択肢はなかった。不可避的に生じる嘘への衝迫、衝動、欲求、これらから誰もが自由ではないことはたとえばツイッターをみれば明らかで、ひとにとって自然なこうした欲求を受け入れてネットという現代を楽しむ、という姿勢はありうる。だがわたしはそうした道は選べそうにない。

自分の言いたいことを書いて市場の流通に乗せること、商業的な価値がないかもしれないものをつくってゆくこと、現実社会に無視されるかもしれないものをつくってゆくこと、これをネットとネット以外の貌をもった現実の相反するふたつの場で行うこと、それがわたしのすべきことであり、していることであり、今後もしてゆくことだ。

だがさみしさはある。Google+はいいSNSで、巡り合ったひとびととの絆は貴重なものだった。わたしが自らの愚かなふるまいでそれをうしなったことを後悔している。それをここに書いておきたかった。