2017-07-31

ごくまれに書かれる私信的なもの

なんというか、ネットでも現実でも、実は「おもしろいね」という感想や「お疲れさま」という気持ちはほとんど伝えられるべき形で伝えられていない、というように思う。悪意は目立つのですぐに目に入るが、その逆のものについては悪意ほど目立たないのは当然といえ、もっと単純に書き手(ブログでも現代詩でも)におもしろいと伝えるだけのことがどうして難しいのだろう、ということを思う。

前にも書いたが、「一人より応援のフィードバックがあったら、その後ろに百人は応援してくれている読者がいると思え」というのはわたしの偽らざる実感でもあり、要するにみな内気で遠慮しているのだ。さてわたしは読者諸氏に遠慮しないで応援しようなどと説教がしたいのではない。そんなことはだれにも要請できないしすべきでもない。今日わたしが書きたいのは、知己のK氏がブログの更新を休む、という宣言をしていたのを見かけて、ご本人とは個人的に会ったことはないので知っている範囲でいうと、氏は本を出しながらそしてライスワーク(=お金のための仕事)をやりながらほぼ対価のないブログを書いて、ずっとそれを続けていたはずである。その姿勢は立派だったと思う。

まず第一に、ブログを書き続けていたこと。紙でもできることを、わざわざなんの利益も得られない紙以外の場で公開してくれること、それは立派なことである。読者から反応があればそれは確かに嬉しいものだが、ネットに文章を書きつづけるというのはやはり一種の苦行ではあり、それを続けるのは立派なことである。そしてネットにおいては悪意のほうが相対的につよく可視化されるので、その日々の頑張りは上にも書いた理由で、書いている本人にとってはあまり報われているように感じられない傾向があるだろう。長い間更新を休まずに続けてきたことは立派なことで、それを休むと決断したからといって、これまでの頑張りの価値が損ねられるわけではない。

本や雑誌や新聞といった古きよき伝統的な人文の媒体もよいが、ある程度の長さがあるブログなどの形式で、いつでも・どこでも・だれにでも読めるインターネットにも「おもしろい文章がある」と読者に思ってもらえること、書き手の誠実さを信じてもらえること、文章を愛してもらえること、そうした見えない交歓が可能な場を創出しようとこころみることは立派なことである(追記すれば、おそらくそれは言論プラットフォームの創出によって実現できるものではなく、あくまで書き手という個人の同時多発的で独立した努力によるほかないというのがわたしの考え)。

ネットであっても本であっても、氏はこの社会のねじれたありようにわたしたちはどう向き合えばよいのか、その問いに答えようとした書き手のひとりだと理解している。きわめて身勝手な親近感をいだきつつ、K氏の選択を応援し、そのライフワークにさらなる形を与えられることを願っている。

2017-07-30

すでに匿名ではないブログの諸原則

一応あらためて方針として、本ブログは、わたしの日々の日記として使う以外には、その日の時事についての感想を述べたり、身近なまたは関心のある作家の作品について書いてゆく、ということを原則としたい。より具体的にはこれらを身分を明らかにした上で記述し、「ふざけたこと書いているとぶん殴るぞ」「あまり調子にのっていると髪の毛むしるわよ」といつでもいわれる(可能性がある)場にとどまるということが、わたしのブログの基本方針ということになる。もっともわたしの尊敬する作家のみなさんのうちにはネットなど知らないしやり方もわからないひとも多く、紙以外の場になにを書こうがそもそも一行も読んでいない、ということは十分に想定されるが。まあ、原則は自らを責任という半径の内側に置く、ということとご理解いただきたい。日付と署名、がわたしのおろすことのできない看板である。

2017-07-29

負けてみせる

都心にて某編集部のOさんと打ち合わせ。わたしが好きな作家が自分の半分ぐらいの背丈の女性詩人にこてんぱんに口論でやられたという話をきけておもしろかった。きちんと負けることができる人間は好きだ。いろいろごまかして言い訳をして取り繕うのはみっともない、というのは美意識の観点からのみ考えた話で、負けを認めるためには知性や勇気や覚悟といったさまざまな人間性の諸要素が問われ、それができるというのはたいしたものである。

いまわたしが思い出すのは、何年か前、過激な発言で知られる某作家がコメント欄で若者にぼろぼろに挑発され論破されていた時のことで、それをあるアルファブロガーが「かれはきちんと負けていて立派」と評したことだ。そのことをたまに思い出すが、それはつまり、コメント欄できちんと匿名の第三者と相対して負けてみせたこと(本人は相手を打ち負かすつもりだっただろうが)は誠実だ、ということではないだろうか。これを別の言い方でいうと、ネットで誰も読まないようなものを書いて社会に完全に無視されることは負けかもしれないが、その負けている様子をきちんとさらしてみせること、が大事なことであるような気がしている。

無敵のひとだらけのネット(と社会)で負けてみせるということは大変なことだが、一方、わたしはちょっと美味しいオリーブ油をひとにいただいて、なんとなく誰かに勝った気になってサラダを食べた。それからなにもかもに疲労を感じながら皿を洗って今日も机に向かうのだった。

2017-07-28

夏へ飛びだしてゆく

今年の夏はきわめて忙しく、普段はあまり遠出しないのだが、とにかく打ち合わせのために外出がとても多い。わたしが住んでいるところは昔はほぼ山だったらしく、野生の蛍などがいるようなところなのだが、当然、打ち合わせは都心部ということになり、人がものすごく多い都心部での仕事を終えて、電車に一時間以上のって帰ってきて、郊外の誰もいない暗いバス停で降りるとほっとする。わたしは子供時代からずっと大都市の周辺部に住んでいたので郊外での生活は新鮮だったが、最近はもうすっかり慣れてしまってここ以外の生活が考えられなくなってしまった。生活コストが安いためその分の経済的余剰をまったくお金にならないことに回すことができるので、読者諸氏にも郊外での生活をお勧めしたい、と書きたいところだが、残念ながら懇親会、研究会、読書会、朗読会、勉強会、新年会などのおもしろいイベントは例外なくすべて都心で開催されるので、けっきょく都心にいたほうが楽なのであった。わたしは不幸だ。

それはともあれ、ブログに書いたかどうか忘れたが、数年前の夏、カブトムシが家に迷い込んできたことがあった。すでにかなり弱っていて、スイカや桃のあまりものを食べさせて、二日ほど涼しい場所に置いておいたところ、じっとしてずっと汁を吸っていた。まっすぐ歩くこともできないような状態だったのでもう駄目かもと思ったが、三日目の朝、すっかり元気を回復して、窓から陽射しの照りつける中へ猛スピードで飛び出していった。あの虫けらはなにをしているかと思うが、もちろんとっくの昔に死んでいて、その子孫がこのあたりを元気に飛び回っているかもしれない。虫だけではなくひとだってしょせん夏が終われば死ぬかもしれない身であって、美味いものを食べて体力をつけて、夏の中へ勢いよく飛び出してゆく、そういう人生がよいのではないかということを思う。窓の外はすっかり夏である。

2017-07-27

千日の夜をこえて

今朝ぴったり百枚の新作を仕上げて某編集部に送付した。おもしろいかどうかはわたしが判断することではないのでどうなるかはわからないが、できるだけはやく世の中に届けたいと思っている。Tumblrの「千日詩行」も本日付けでようやく千日に到達した。この三年間一日も休むことなく続けられた千回強にわたる投稿とその背後にかくれる詩作をふりかえってみると、ことばにならない数々の思い出がよみがえる。それは第三者にとってはなんの意味もないものであるが、わたしにとってはかけがえのない財産ということになるだろう。ただひたすら机の白紙に向かい続けたこの三年を支えてくれた家族と名前のない/ある友人たちに感謝したい。

2017-07-26

机上の空論

仕事をはやめに終えて夕食の買い物へ。豚肉が安かったので大量(1kg)に買ってしまう。ゴーヤも安売りしていた。ということで買い物カゴにこれらを入れた瞬間自動的に今晩のメニューが決定してしまう。それはともあれひさびさにツイッターを見にいったら同業者たちがみながんばっていて勇気づけられる。がんばる、とは、この世の不条理にあらがうこと。がんばる、とは、不可能なことに挑むことだ。その姿勢だけがひとに勇気をあたえるのであって、敗者の愚痴も勝者の自慢話もいずれもこの世に必要ないものである、とここまで書いて、まあ、なにしろ人生というのはうまくいかないことだらけというか、むしろうまくゆかないことの連続体というほかなく、よって、この世に愚痴は必要かもしれない。愚痴をきいてもらいたい知己のひとは連絡ください。ゴーヤチャンプルーも作らねばならないので本日はここまで。

2017-07-25

傷と快楽

わたしのことをおぼえていますか、という題名のスパムメールを眺めている。差出人はどこにでもある平凡な名前で、その本文には話したいです、とだけ書かれている。わたしはあなたのことなどおぼえていない——たとえおぼえていてもそれを口にすることはない。
どこかの世界でそれなりに有名らしき男性がリベンジポルノの被害にあった、という記事を読んでいる。女性が意図的な悪意をもった側というのはめずらしい。大量のリベンジポルノと思われる性行動画が星の数ほど閲覧できる2017年のインターネットの世界では、流出を行うのはほぼすべて元彼氏や元夫であろうと推測されるが、そうだとほぼ確信できるのは男性の側の顔が隠されているからで、そこには男性側の明確な悪意がある。一方、女性側がこれを行うということは、彼女のいかりの大きさ、あるいは傷の深さを示唆していると思う。わたしはこの男女のいずれも知らないし今後も知りえないが、この女性のブログを少し読んで憂鬱になった。第三者の直接的ないかり、かなしみ、くるしさを目の当たりにすると、ひとは元気を奪われる。そうしたことをネットに書くのは、現実においてむくわれない場合、はけ口として仕方のないことだとはいえ、やはり元気は奪われる。そしてなんともいえない嫌な気持ちだけが残る。

このなんともいえない嫌な気持ちはネットが閲覧可能にしてしまったものであり、もちろん誰でも見ないようにすることはできるが、ひとのもっとも醜悪な側面を、いつでも、だれでも、どこでも、無限に閲覧できるという現実のなかに生きるほかないということはもはや誰にとっても避け難く、傷害、殺人、性暴力といったほんらいほとんど一般生活とは縁のなかった事象は、ネット登場以前の時代(もうそれを思い出すことは困難だが)よりも、はるかにこの社会に充満しているように感じられる。そしてそのことが当り前になってしまっている。しかしそれ自体ほんらい異状なことで、そういう現実にわたしたちの倫理や情緒が対応しきれていないという印象がある。オーディオビジュアル媒体による上記のような復讐を意図した暴力的表現の力は圧倒的なもので、無関係な第三者にすら傷をおわせるのだから、それが当事者であればどれだけの傷を受けてしまうのか、と思わずにはいられない。

そしてここはブログなのでさらに踏み込んだことを書けば、そうした動画はいまこの瞬間も新たに流出し続けており、それがどれだけのひとを傷つけているのか、ということを思う反面、そうした当事者を傷つけるものが、無関係な第三者にとっては、性的興奮のために消費されうるものであるという事実を思い起こさないわけにはゆかず、2017年の現実はきわめてグロテスクな様相を帯びてくる。ひとを傷つけるもので、ひとは快楽を得ることができる。そう書かねばならない。きれいごとばかりをいってみにくいものをなかったことにすればネットは便利な空間でしかないのだ。どうしたらよいのか。そんなことは知らないが、わたしが思うのは、ブログは、この奇怪な現実について記すために使われるべきだということ。書くということの誠実な原則に立ち返り、嘘を排除し、見たこと、感じたことを、ページビューや「いいね」とは無縁の力学に基づいて、できるだけ写実的に記述するために使われるべきだということ。そういうことをあらためて考える。

そこまで考えて、スパムメールに返事を書く——わたしのことをおぼえていますか。わたしはあなたがきらいです。

2017-07-24

理解や共感のあちら側

午前に永田町で打ち合わせ、それから帰りに銀座のアップルストアに寄った。例のワイヤレスイヤフォンは全部売り切れだったがサンプルがあったので視聴はさせてもらった。耳につけて頭を動かしても不思議と落ちない。かなり購買意欲が向上したがこれからお金がかかるイベントが目白押しなので自粛して家にまっすぐ戻る。帰宅してすぐに手などを消毒し、子供を風呂に入れて、机に戻ってきてメールを何本か書く。それからひさしぶりに知己のブログをまじめに読むとおもしろかったので感想を書きたいと思ったのだが……ネットにおける文章のおもしろさが「わかる」や「共感」であるならば、わかりもしない、共感もされえない感情の居場所はどこにあるのだろうか、ということを思う。もちろんどこにもない、ということが回答であり、どこにもない、ということを書く人間がもっと必要かもしれない、ということを思った。より具体的にいうならばこの清潔なネット(と社会)には醜いものの場所が相変わらずない。「ないならつくればいい」などという希望を語る前に、まずその現実が共有され理解されていなければその希望とやらは単なるたわごとにすぎないのではないか。だがそれについて書くには疲れすぎたので明日以降にすることにする。疲れた。

2017-07-23

名をうしなう雲

二十代の頃は小説家になりたいと思っていて、複数の編集部に持ち込みをしては断られていた。ふりかえって考えるとあまりおもしろいものを書いてはいなかった。わたしにとっての転機、は、2006年前後に起こった不可逆的な出来事で、それ以降わたしの書くものは変わってしまった。わたしは「なりたい」と思わなくなった。いまこころのなかにあるのはただ灼けるような義務感、自分が見たもの体験したものを書き残さねばとても死ぬことなどできない、という激しい怒りに似た気持ちだけである。某編集部に仕上げた作品の原稿を送り、好意的な返事をもらって、その手紙を読みながらその当時のことを思い出し、そして不思議となんのよろこびもない自分の気持ちをみつめながら、机の前に座っている。自分は、なにになりたいのだろう。と思う。なににもなりたくない、という声がする。なににもなりたくない、が、自分が見たものを書き残しておきたい。ただそれだけが、正直な自分の気持ちのようだった。そういうきわめて私的な動機に基づいたプライベート・ストーリーズを、現代詩の様式にて書き記す。それはおもしろくないだろう。それは第三者に評価されないだろう。だがそれは仕方ないことだということも思う。選んだものは選んだものであって、船が沈むときはわたしも一緒に海に沈むほかなく、それはそんなに悪くないのではないかという気もしている。そういうことを日記的に書き記しながら、窓の外を見る。空は名を失ったまま曇っている。だが名をうしなっても人生はつづいていく。

2017-07-22

耳を閉ざさず意見を聞き入れない

梅雨が明けて夏らしくなってきた。土曜日なので原稿や書類の整理をする。手紙やら書籍やらがいつも山積みになっていてひどいことになっていて、自分がどんなものを書いているか思い出すのも一苦労だ。しかしひとに読んでもらわないと形にすることはできないので送付前に仕方なく自分でも原稿を再読する。再読してうんざりする。それなりにおもしろいこと、それからまったく商業性というものを考慮していないことが二重に腹立たしい。一般的にいえば、私の書いているものはひとに読ませる気がまるでない原稿だと批判されても仕方がないが、そうした批判に耳を傾けながら、そうした意見を作品にいっさい反映させない、という姿勢が必要だ。完全に無視してしまえば一般社会との接点が失われてしまうし、逆に耳を傾けすぎれば先鋭的な部分がそこねられてしまう。よりブログ的な言い方をするならば「コメントをすべて読み、かついっさい応答しない」という二重の姿勢ということになる。やはり傷は必要なのだ。自分の書いているものが、なんの価値もないと社会に見なされていること、その事実を誰よりもまず自分が知ることなしに、いかなる先鋭的なものもうまれるはずがない。

と、書いたところで、地元の図書館に知己の新詩集がおいてあって驚いたと家人から連絡があった。地方の図書館に新刊を置いてもらえる、そういうことを目的にしてゆきたい。

2017-07-21

Enough Internet (for Today)

"Enough Internet For Today"というgif画像を見かけた。確かに、インターネットはもう十分かもしれない。

2017-07-20

そして誰もいなくなった

一度書いておいたほうがいいかと思うが、わたしは『詩と思想』という雑誌が主催している研究会に二年ほど足を運んでいて、子供が産まれてからは足を運ぶことができなくなったが、その参加者とはいまも親しくしており、詩友たる彼らの詩は重点的に読んでいる。オープンなネットで何か書いている人はほぼいないのでわたしが唯一のブロガーということになり、その立場から言うならば、主にネット以外の詩集や詩誌を経由して発信されているかれらの作品は(戦前でもなければ戦後でもない)2017年のいま・この現実に生きるわたしたちにとって、おもしろいものであることはわたしが保証する。より詳しくいえばゼロ年代以前からつづくホームページ、テキストサイト、ブログ、ツイッターといった連綿とつづくこの国の非主流なテキスト(とそれをめぐるメタテキスト)のおもしろさを愛しているすべての同世代と同時代を生きる読者にとってもおもしろいものだというように思うし、それがどうおもしろいのか、これからこのブログでもたまに詩集などを紹介してゆければと思っている。

さて梅雨明けもした。夏本番である。みなどこにいったのだろうか。
誰もいなくなってしまった。いや、最初から誰もいなかったのである。

2017-07-19

梅雨の終わりに読む『積雪前夜』(平井達也著)

梅雨が開けた。夏だがあまりうれしくはない。娘もまだ離乳食すら始まっておらず、予防接種も毎月順番に注射を続けているような状況で、行楽にいけるはずもなく、日焼けも心配なので海など論外、ということで今年の夏は家族で徹底したインドア生活ということになりそうだ。

夏といえばやはり夏にふさわしい読み物、つまり後になってその夏のことを思い出すことを容易にする触媒としての詩が必要なのではないだろうか。
とはいってもあまりにも暑いので、むしろ寒い詩がいいのかもしれないと思う。そう思いながら手元にある詩集を開く。

平井達也の『積雪前夜』(2016年12月発行)。この詩集に収録されている詩作品のうち、氏の会社生活を題材とした詩が印象にのこっている。巻頭詩の「ネクタイ」を引用する。

ネクタイに誘われて茶色いのを買う/茶色いネクタイにぶら下がって仕事する/昼にはネクタイが窮屈そうなので/解いてポケットに収めてやる

「ネクタイ」

「茶色いネクタイにぶら下がった仕事」というものがどんなものか、詳しく知らなくとも想像力によって喚起される光景がそこにはある。ネクタイに誘われているのはネクタイが自分の声であるからで、拘束しているのは社会だがそれを受け入れている自分自身の姿でもある。それを解いてポケットに収める昼休みの一瞬がこころに残る。そういう瞬間が誰の生活にもあると感じる。

また、飲み会(と思われる)の光景が、「拒否」では描かれる。

グラスにビールを注ごうとして/きょう言おうとして言えなかった/言葉の重さ分ぐらい手元が狂う/ビールの泡がグラスからあふれる/テーブルが濡れ/言い出せなかった言葉も湿る

「拒否」

ここだけ抜き出すと男女の話のようだが、ここで言えなかったのは職務上の拒否のことばで、ひとは言えることと言えないことの中間を生きるほかないということを思う。そこではビールは常にほんのわずかこぼれていて、乾いているべきことばはわずかに湿っている。手元が狂うのは、そこに誤差があるからだ。そしてその誤差は避けようがない。なぜなら言おうとして言えなかったことはつねに溢れるほかないからだ。

出社前の姿はより直裁な形で描かれている。

みんな真面目にやっている。こっちだって真面目にやっている。雪が降る中を夜の仕事に出かける父親がいる。窓から雪を見ながら明朝の出勤に備える息子がいる。雪が降っているのも知らず泣き続ける妹がいる」

「積雪前夜」

一読してふと、わたしだって真面目にやっているんだよ、と思う。そしておそらく世の中のだれしもが真面目にやっている。だが真面目にやっているからといってそれが誰かに伝わったり評価されたりすることもなく、詩はその伝わらないことそのものを記憶しようとする。伝わらないことこそが伝えなければならないことで、その不可能な夜にはいつも輝く雪が降っている——雪は予感でしかなく、結局は降らないのだ。わたしたちは常に事象の前夜を生きるほかないのである。

2017-07-18

路傍の犬

暑くて仕事にならない、と愚痴をいいながら机に向かっている。そういえばさきほど昼のニュースで105歳の現役医師が亡くなったというものを見た。わたしも死ぬまで仕事したい派だし、尊敬する作家たちもみな引退とは遠い生活を送っているのでこの医師のことをうらやましい人生だと思うが、一歩ひいて考えると、やはり勤労が美徳の社会では年を取っても休むこともままならずこうした「美談」によって働くことをいつまでも強いられる空気があるな、ということも同時に思う。ただほんとうは仕事=生業は楽しいものであるはずで、それを営利団体に悪用されている(いわゆるやりがい搾取)ことに問題があるだから、仕事の楽しさ、仕事の誇り、仕事の満足、これらを自分の手に取り戻してゆく、といくのがこの国で満足に生きてゆく方法なのかもしれない。それは職人になる、という理路と解釈される。古いしきたりが生きる保守的で古い国のなかで「ゆるく」生きたり、これから距離を置いた「無頼」な生き方はひとつの考え方であると思うが、ひとつの技術を研鑽することに没頭する生き方があってもよいと思うーーそれが第三者にどう評価されるかはどうでもよいことで、いわゆる美談などは犬にでも食われたらいいと思った。

最近の困惑

若くてリベラルでやり手の共産党の女性議員みたいな髪形にしてくる、といい残して家を出ていった家人が、なぜか知りあいの詩人にそっくりな髪形になって戻ってきた。

2017-07-17

興味のもてないもの

異様に湿度が高く、暑い。どんな人間も書いている以上はその原稿を形にしなければならない、ということで、わたしもふたつほど現在推敲の作業をしており、そのうちのひとつがようやく著者校の段階。形にするのは難しいが、暑さや社会の無関心というものと黙々とたたかってゆきたいと思っている。なぜなら書いているものは誰でもそうしているからであって、わたしが尊敬する作家たちがそうしているからであって、わたしもそうする。

ひとはおもしろくないものに関心を持てない。それは仕方のないことであって、きわめて個人的な主題に基づく関心事が他人にとって興味を持ちにくい内容なのは当然のことである。それを無理に読者に興味をもってもらおうと工夫すればさまざまな軋みが産まれ、結果として表現の強度は不可逆的に劣化する。それを防ぐためにはいっさいの説明や解説を排除したわけのわからないものをわけのわからないまま提示しなければならない。そしてそうした表現は一部の人間だけがよむ雑誌や本ではなく日本語を解するすべての人間が参加できるフラットな場に向けて開かれていなければならないということを思っていて、それを実践してきている。

基本的にわたしが書いているものはそのすべてをTumblrに一部引用しているので、それを読むとわたしがどんなものを書いているのか経済的な負担なくご理解いただけるのではないかと思っている。そちらも合わせてみていただけると幸いだ。それはともあれ、三ヶ月書き続けてきた長編がようやく終盤にさしかかっていて、これをがんばって形にしてゆきたい。題名はまだ決めていないが。

2017-07-16

夢のなかでもまがい物

なにひとつ書くことがなくなってからが勝負、ということはその通りで、何年も毎日書いていると、自分にはなにもない、からっぽだ、と思う瞬間がかならず(何度も)来る。その時にあきらめないでいると新たな水脈がわき出てくる。これを繰り返しているといかにつまらない日常を送っていようとも書くことを見つけることには困らない。さてわたしは昨日一日子守をしていた疲れが出たのか、午後は無為に寝てしまって気がついたら夜になっていた。

こうして人生というのはただ無駄に浪費されていくのだということを思うが、もちろんそんなことをいったら産まれたことそのものが無駄なので、気をとりなおして机の前に座って、夢のなかでみたまがい物の家族について考えている。夢のなかではわたしはどこかの家族に息子として迎えられている。そのまがい物の家族はブリキでできた人形のような姿をしている。わたしはしょせん偽物にすぎないので、ほんとうの家族にはなることはできずその家を去る。

夢ではわたしが子供の立場だったが、子供を持つ親の立場になってみれば、親は最初から親ではなく、なんの知識もない二人の人間にすぎず、親のふりをしたまがい物であるほかない。ひとは収入があるだけでは、世間に親と呼ばれるだけでは、育児手当てを受給するだけでは、「親は子供を愛するべき」と説教されるだけでは、ほんとうの意味での親になることはできない。

また、親とはこういうものだという思い込みによって親になることもできない。そうして家族のふりをしたまま、親のような顔をして子供に接してゆく……他、ないのだろうか。ということを思う。まがい物以外の道はないのだろうか。ないのかもしれない。理想はどこにもないのかもしれない。まがい物なのでほんものにはなれないし、まがい物なのでどんなものがほんものかわからず、どうやってなれるのかわからず、わからないのでいつまでもまがいもので家族のふりをつづけてゆく、ということを思う。

だがほんものではなくとも朝はやってくるし、国には税金を収めなければならない。そしてつまらない日曜日がこうして終わってゆく。

2017-07-15

先払いのかなしみ

気象庁によればまだ梅雨明けしていないが、もう完全に盛夏の蒸し暑い天気が今日も続いている。だんだん季節が熱帯に近づいているような気がする。地球温暖化のせいなのか、いろいろ見聞きして結局わたしにはよくわからないのだが、夏は昔よりもより暑くなって、冬はより寒くなっているような印象がある。子供の頃は夏はクーラーなどなくともわりと快適に過ごしていたが、あれは木造の日本式家屋に住んでいたから可能だったので、コンクリートに囲まれた都市でクーラーなしでは当時も無理だったのではないかということを思う。石が昼の間に日光で焼けて夜中になっても熱を発するからだ。木造家屋だとそんなことはない……というかなかったように思う。昼間に庭の土に水をまくとその周辺がひんやりしていたことを憶えているが、コンクリートは水をまいてもまさに焼け石に水という感じだ。わたしの生家は築百年程度のものすごいぼろ家だったのでよくその時のことを思いだすが、いまとなっては貴重な体験だったということを思う。冬場は畳や壁の隙間から冷風が吹き込んでくるし、軒下には猫が住み尽くし、梅雨には雨漏りするし、最低のぼろ家だったが、わたしは好きだった。いまではもう取り壊されて存在しないが、その時の記憶がいまでもかけがえのないものとしてのこっている。誰でもそういうかけがえのない記憶があるだろう。

熱帯の島国に住んでいた少年時代にはよく引っ越しをした。その時に住んでいたフラットのことはどれもよく憶えている。といっても断片的な記憶で、なぜか鮮明に思いだすのは、窓の前、スコールを眺めている自分を後ろから見つめている様子だ。不思議だが、記憶の中ではなぜか自分のことを後ろから見つめている。とても大きな雨粒がアスファルトに降り注いでいて、大きな水たまりにたくさんの波紋をえがいているーーそこには当時のわたしには存在しえない、理由のないかなしみがあった。その後に起こることをすべてその時知っていたとしたらどうだろう、ということを思う。たぶん、わたしは、まったく同じことをするだろう。またしても同じ間違いを繰り返すだろう。

ひとの人生には後悔などない。ただ先払いのかなしみがあるだけである。

2017-07-14

知らないまま

明日から三連休ということだが、わたしの生活はあまり変わらない。毎日同じことをして、毎日料理をする。それ以外にやりたいことはなく、すべきこともなく、ああ、そういえばブログとツイッターとTumblrがあったと思い出している。やりたいことかどうかはよくわからないがやりたいことのような気がする。さて今日もまだ梅雨明けしていないはずだが晴れていてきわめて蒸し暑く、わたしはアブラゼミらしき鳴き声が風にのってきこえてくる中、自転車に乗って歯科検診をうけにいった。狭い待合室に入ると暇そうな顔をした主婦たちがならび、わたしはその中に混ざってソファに座る。定期的に歯石を除去してもらっているのだが、味覚が向上したことに加えて、前よりも疲れにくくなった。という話を医者としたら口内環境が改善するとそういう効果もあるらしい。世の中知らないことだらけで、むしろ知っていることなどなにもないのではないか、と思えてくる。いや、おそらく知っていると思っていることしか世の中にはないのだろう。検診を終えて、受付で試供品の歯磨き粉をもらって外に出る。いつの間にか蝉の声はきこえなくなっていて、アスファルトが陽炎でゆらめき、風は止んでいる。少し離れたコンビニの駐車場でしゃがみこんで煙草を吸っている若者がいて、わたしをみてすぐに目をそらした。

帰り道、スーパーの食品売り場に行くと、店舗はなにも買う気がないのにクーラーの冷気を浴びたいがためにおとずれる子供たちと老人たち、そしてなにを買ったらよいのかわからず棚の前で右往左往している中高年男性たちであふれていた。夏はすぐそこで、街には知らないことがあふれている。そして知らないまま死ぬ。

2017-07-13

趣味にすぎないもの

がんばっているのに報われない、と弱音を吐いているアーティストのSNSの書き込みを見かけた。もちろん努力は報われず、やってきたことはすべて徒労で、必死につくったものはあっという間に忘れ去られ、いっさい評価も受けることなく生きて、そして死ぬしかない。

やたら暑いのだが梅雨明けはまだらしい。仕事が終わると趣味の時間、つまりわたしにとっては料理の時間だ。鳥のもも肉の両面を焼いて皮をカリカリにしたものを、人参と玉葱とピーマンを強火で炒めたものと合わせ、甘酢タレをからめて食べる。食べ終えてからは明日のためにキッチンの掃除をする。毎日やらないと汚れがたまり衛生的によくない。衛生的によくないと気分が悪い。よって毎日やるほかなく毎日やるものだというように思う。

だいたい仕事と料理が終わると疲れ切っていて、机の前でブログの空っぽのエントリフォームを眺めてぐったりする。社会的要請があるわけではなく読者がたいしているわけでもないブログを書く理由は……なんだろう。正直にいうとよくわからない。よくわからないが続けてきた。そしてよくわからないまま続けるような気がする。いや、これはおそらく趣味なのだ。料理と同じように、ものすごく時間がかかり、ものすごく手間がかかり、人生の半分以上を無駄にしているかのように思える、趣味なのだ。そして趣味だから意味なく手が勝手に動いてしまう。そういうものなのである。

そして今日も完成したら某編集部に送る約束をしている趣味にすぎない原稿をやっている。なにもかもが趣味にすぎず、なにもかもが好きでやっているだけであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、うれしさもたのしさもなく、かなしさもむなしさもなく、ただ書くという行為を経由した世界のスケッチを一枚一枚積み重ねて、どこにもたどり着くことなく、どこかに目的地があるわけでもなく、机の前で白い枠組みを眺めている。

しょせん趣味なのだから、本をまとめてみようか、と思う。
そして手紙を書き始める。ーーしょせん、趣味にすぎないのですがーー。

2017-07-12

外へのプロトコル

子供が生まれてから朝方の生活にシフトしている。親が深夜まで起きているとそれに伴い子供も起きているようになり、子供の生活リズムが作れなくなる。自分は深夜がいちばんすきな時間帯なのだが、なかなかそうもいっていられないようになった。携帯電話も一日の半分はオフにするようにして、自分の時間のコントロールをとりもどしてゆく作業を粛々と行う。こうして生活というのはどんどん変化してゆくが、かつて大事にしていたものが変化ともにうしなわれていく感覚はそんなに悪いものではない。空隙を埋めるなにかが手に入っているからだ。自分の時間はいちばん大事な仕事と、それから子供のためのものであり、それ以外のいかなる第三者または組織の利益のために使うべきものではないということを思うようになった。そして思うだけではなくそれを実現してゆく、そして実現するためにまずはことばにしてゆく、というプロトコル=手順がある。わたしにいわせれば世の中のありとあらゆるもめ事はことばを軽視すること、あるいはことばの力をナメていることから生じているが、より具体的にいうならばそれは「曖昧模糊としたみえない概念をことばにする努力をする」ことでもある。ライオンはライオンと名付けられる前はジャングルに潜む不気味な怪物だったが、ライオンという名前が与えられたことで単なる動物に貶められた、と書いたどこかの哲学者の例をあげるまでもなく、ことばにできないものをことばにしようとすること自体は容易なものではないが、一度成功すればその効果は大きい。ことばにあふれているようにみえる2017年のネット空間に足りないものはことばにしなければならないものたちであり、この場にあふれているのは手あかにまみれたクリシェと閉鎖的な村社会でしか通用しないジャーゴンばかりであるということはいえる。《いまこの場》に存在しないものにことばを与えなければならない。つくづく生きるのが難しい時代だということを思うが、その難しさについてかたちを与えるために、蛸壺化した限られた場所にとどまることなく、ブログという誰にでも表面上は読める形式を大事にしてゆきたいと思っている

2017-07-11

月は誰もみていない

いよいよ暑さも夏本番という感じで、今日は四川風の麻婆豆腐にニラを入れたアレンジ料理を作った。あまり美味しくなかった。アレンジつまり正統的なレシピから離れたものをつくるということは、そもそも正統的な技術がなければうまくいかないのだ。サブカルチャーはカルチャーの知識がなければつまらないし、亜流は本流があってはじめて価値が生じる。別の言い方をすればブログがおもしろくあるためには本流がなければならない。さて本流とはどこか。そういう問いがあるが、わたしは今日はそういうことを書きたいのではなく、よく聞く生きづらさとはなにかということを考えている。

生きづらさということばだけをみれば、「衣食住がある程度保証されているなかにおいて人生に対する痛苦のたえがたい大きさ」と翻訳できるだろうが、これは特定の時代の特定の安定した状況、より具体的にいえば紛争も飢餓も疫病もないG20の内側でしか通用しない概念ではないかということは思う反面、だからといってその生きづらさのたいへんさがその事実によって軽減されるわけではなく、この国に生きるひとびとに幅広く共有されているつらさであることに変わりはないように思われる。と、いうより、わたしの知っている作家はほとんど全員が生きづらさを抱えているし、その読者もまたこれと向き合って生きているように思う。そしてその生きづらさとはなにかと考えたとき、「ひとは、衣食住が保証されているだけでは、しあわせになることはできない」、というシンプルな解にたどり着く。いろいろなことができるはずなのに、前近代的な制約から自由になったはずなのに、「自分」がしあわせになることは難しい。

そのしあわせを得るために様々な装置が毎日つくられては消えてゆく。しあわせはネットが可視化する格差社会で「下」の人間をあざわらうことによって得ることはできず、衣食住が保証されていないひとびとを「下」にみてわらうことによって得ることはできず、あるいは他人の愚行を「笑った」などとコメントして安全地帯から嘲笑することよって得ることはできず、特定の年代や性別の欠点をひたすらあげつらってネットにアップロードして仲間をつくって一緒にそれとなく笑みをかわしあう洗練された嫌がらせによっても得ることはできず、こうした装置をいくら毎日いじってさわってくりかえし操作してみても、ひたすらむなしく、ひたすらかなしく、ひたすらさみしく、ただただ人生は空虚になっていくばかりである、ということはわたしがいうまでもなく、エビデンスも物証も必要としない。眼を開いて、目の前に広がるたとえばツイッターを見ればいい。

だれでもしあわせになりたがっている、といえる。そのためにネットでは毎日新しいジャーゴンが創出される。ひとに自慢の性器を自慢したくてたまらないスーツの男たちが今日も日記を書いている。ひとに自慢の年収を自慢したくてたまらないひとびとが今日もブログを書いている。ひとに自慢したくてたまらない女たちが今日もツイッターにグルメ写真をアップロードしている。とにかく自慢したくて、自慢がしたくて、自分はしあわせだといいたくて我慢がならない。なぜならさみしいから。なぜならつらいから。なぜならひとりぼっちだから。なぜならだれも 「わたし」を愛してくれないから。生きづらくて仕方ないけどどうしたらよいのかわからないからただひたすら他人と自分を比較して、ほんの一瞬でもいいからひとよりも自分がすぐれた存在だと思いたくて、とにかくひたすら自分はこの世界に一瞬でもいいから必要とされていると感じたくて、ただひたすら自分をほめてもたいらくて、認めてもらいたくて、愛してもらいたくて、かまってもらいたがっていて、生きづらくて、生きづらくて、仕方がないと思っている。

だれもがそうおもっていてだれもがそういっていて、生きづらいことについて書く詩はうれるかもしれなくて、ああ、くだらない、ああ、つまらない、ああ、なんとつまらない人生だろうかと思い、カネのことしか考えない、みとめてもらいたいだけの、なんとさみしく、あさましく、どうしようもない人生ということを思い、窓から仮象の月をみていて、月からわたしはみえることなく、月はいつでも、誰のこともみていない。

2017-07-10

社会活動またはわかるものとわからないものの区別

日曜日は現代詩のイベントに参加したりと様々なことがあったが、その後の夜は知己のS・K氏に誘われて新宿のデモ「March for Truth」を見にいった。氏はかつては反原発デモなどにも参加していたという話を聞いたが今は色々あって参加はしていない。なぜ参加をやめたのかその理由をはっきりと聞いたわけではないが、わたしと(そしておそらく他の多くの市民と)同じように、アンビバレンツな意識を社会活動に対して抱いているということを想像している。わたしにとってその曖昧さを保つ根拠は「正しいものがなにかがわからない」ということでありさらにいえば「どの政治勢力がいずれがわたし(たち)をしあわせにしてくれるのか」ということがわからないということでもある。理由はいくつかあるが例としてあげれば翼賛体制下で全面的に戦争協力した作家たちの多くは「みなのしあわせ」を信じていたことは疑いようがなく、何が最適解かはあとになって振り返らねばだれにもわからない、という端的な事実による。

そしてそうしたアンビバレンツな姿勢を2017年多くの言論に携わる作家たちが取り続けていること、あるいはツイッターでいっさい政治的な発言をしないかれらの弱腰の姿勢が活動家たちを激しく苛立たせているーーということはそのうちの一人と一緒に飲んだのでよくわかった。実際上記のイベントに参加した詩人のうちデモに参加したと公の場で発言したひとはひとりもおらず、わたしも厳密には参加したわけではなく現場にいただけである。そしてその活動家たちの苛立ちをわたしは理解する反面、わたし本人はわからないもののためにはたたかえない、ということを思う。作家はそれぞれのフィールドで自分がわかるものについて語るしかなく、わたしもまたそうするほかないと思う。男は自分が抱えざるをえない暴力性によって他人を不幸にしており結果として自分が不幸になっている、ということがわたしがわかることであり、それを作品にまとめていくことがわたしのこれまでの仕事であり、現在の仕事であり、これからの仕事だ。

一方、活動家のひとの発言でこころに残ったのは、社会というものは作家の発言を求めるときがあるんだということで、普段は作家なんて馬鹿にしているけれども、たとえば震災のような大きな出来事があったとき、その喪失感や衝迫に応えられるような作家の発言を、社会は求めているんだよということで、その発言は胸に来るものがあった。おそらくそれは雑誌や書籍ではなくネットでやるしかないし、2017年の読者は、誰でも自由にアクセスが(ほぼ無料で)できるネットで、文学、詩歌、アカデミズムから離れた開かれた場で、まともな作家が社会についてきちんと発言する(場合によっては血まみれでたたかう)ことを求めているのだと思う。場合によってはそれは「わからない」ものについて非誠実に語る、ということも含まれるかもしれない。さらにいえば「わからない」ものについて嘘八百を書き連ねて多くの読者の人生を狂わせる、ということも含まれるかもしれない。世の中はわからないことだらけで、わかるわからないなどいう区分にはなんの意味もない、という理解もまた含まれるかもしれない。

これらの事柄について、一度きちんと書いておきたかったのでこのエントリを書いた。

2017-07-09

朝食に鯖を焼く

朝からつよい光が斜めに部屋に差し込んでいる。子供にミルクをあげている家内を横目に朝食をつくる。といっても別に大したものではなく皿はそれぞれ鯖をフライパンで焼いたもの、大量に大根の入った味噌汁、大根の葉をまぜた納豆、それから昨晩しこんだ白菜の浅漬け。東南アジアの料理ならここでグリーンチリの酢漬けなどもつけたいところだが(つくるのはわりと簡単)、スーパーでその代用品として使える青唐辛子を売っているところを見ない。安く新鮮なものを使って料理をしていると当然のように和食中心になってゆく。塩分を多く摂りすぎないよう味噌や塩はふつうのレシピの半分ぐらいしか使わないようにしているのだが、料理をまじめにするようになってから家族の体調はよく、わたしについていえば健康診断ではすべての測定値がここ数年で大きく改善して医者に驚かれている。もっとも、すでに悪くなった臓器はもう治らない。それから悪くなった人生も治らないし、悪くなった人間関係も修復できないし、うしなった信頼はかえってこない。とはいえ、料理は好きだし、家族がふえればさらに料理がたのしくなるということはよいものだ。調理師免許はどうやって取るのか、昨日は美容室の待ち時間に真剣に調べてしまった。学校にいかない場合は二年間の店舗での実務経験、が必要だそうだ。二年間か……といっしゅんまじめに考えてしまう自分がいておもしろい。

どんな創作のジャンルにおいても経済的な対価がこれでじゅうぶん得られない場合は兼業するほかないが、ほんらいひとはふたつの理念をひとは同時にいきることはできない。いつかはいずれかをやめなければならない、ということを思う。だがそれはいまではない。そういうことを思いながら、朝の光のなかで鯖を焼いている。

2017-07-08

盛夏前夜

夏は好きだが、こう災害ばかりが起きていると、自分が安全な場所で平穏にいきていることを申し訳なく思うこともある。SNS時代では不幸なことは目の前で生じているように感じられ、遠いどこか事故や災害がとても身近なものに転じるので仕方のないことではあるが、そうした不幸な事件が立て続けに起きていても、自分はこの一日をたのしくいきてよいのだ、と自分を説得するにはそれなりの胆力を必要とする。というより答がでない問いではある。答はないが、いつものように週末をすごしている。具体的には美容院にいって、食材を買込んで(サバが安かったので朝食用に買った)、書評用に本をいくつか買って、それから家に帰ってきて日課として机に向かっている。

本日は土曜日で、この曜日は原則としてはブログなどは休みにして知己の参加するイベントや詩集の広報に当てようかと思ったのだが、本日はたまたま手元に紹介したい本やイベントがない。もうすぐ盛夏で、わたしが一番すきな季節がやってくる。夏がやってくる予感がこの世でいちばんすきだ、とだけ書いたエントリを、ここにおいておきたい。

2017-07-07

雨のない昼

窓の外は炎天下のようにみえる。仕事のメールを何本か書き終えてから、ニュースを眺める。九州北部の豪雨の被害が大変なことになっているようだ。最近はなぜか九州地方の知己が増えてしまったせいか心配している。家財道具を失ったり怪我をしていないだろうか。夏場とはいえ雨に濡れたまま体を冷やすと経験上体調をひどく壊しやすいのでなるべく衣類を乾燥させた場で過ごしてほしいと思う。実際に被害に合われた方にはこころからお悔やみ申し上げる。つらいことは自分だけのものなので誰とも共有できないが、つまらないブログでも読む時間をつくってご笑覧いただければ幸いだ。

最近の出来事としては、夏本番に合わせて、ここ三年の集大成ともいえる作品「ワイルドハント」(仮題)の仕上げに入った。といっても第三者にとっておもしろいかどうかはわからないし評価されるかどうかもわからない。わからないがそれなりの確信を持つことができる水準には到達したと考えており、これをはやく世に問いたいと思っているが、その前にもやることがたくさんある。いずれにせよ、Tumblrからここを読みに来ている読者や、古い読者のために書いておくと、そんなに遠くないうちに発表できると思っているーーなお題名について某有名ゲームとはなんの関係もなく、適当につけてある。内容は「マリエ」という女性とともに星の降る丘で過去を回想する形式の抒情的なもの。

雨は抒情的だが、それはあくまで身の安全が確保されたときにのみ感じられる贅沢な感情ともいえる。いきるのに精一杯で、抒情的なものなどに向ける余裕がないひともたくさんいると思う。もっともつらいとき、自分を救ったり励ましたりしてくれたのはわたしにとっては一部の小説や詩だったが、だれにとっても同じではないだろう。読者には、第三者がいっているものではなく、自分がもっともこころ動かされるものを大事にしてほしい。

2017-07-06

友人のいない午後

断固たる決意デターミネーション、という単語が出てくる小説を読んでいる。決意、がなければ人間は目標を達成できないが、それはしょせん起爆剤にすぎないので、火をもやし続けるためには別の燃料が必要となる。その燃料は社会的評価だったり友人だったりする。どちらもない場合はネットが役に立つといいたいところだが、すっかりネットの代名詞となったツイッターをみていると、それは決意を薄め、弱体化させ、ほんらい継続すべきことをできなくさせる、ということがわかる。それは子供を甘やかして駄目にする典型的な親そのものであり、言い方をかえれば仲間内の作法で盛り上がる閉鎖的な村社会を維持する便利な装置ともいえる。

そうしたものを批判するのは楽しい。悪口と正当な批判は厳密にいえば違うが一般的な意味においてこれらを区別する必要はなく、三島がしばしば書いていたように悪口は楽しい。閉鎖的な村社会に首まで漬かって楽しくツイッターで悪口を書けば「仲間」が手に入るのかもしれない。だがもっとも避けなければならないのは仲間を作ることであり、徒党を組むことではないだろうか。悪口とは、ひとりで考えて相手に対して発するものであり、誰かと共有することを企図したり、誰かに理解を求めて湿った眼で頷きあうようなものではないのではないだろうか。

一方、わたしの一部エントリの文章のように、社会に幅広く拡散することがうれしくないかというと、うれしくないわけではないし、評価されればうれしい。ただそれを企図することは間違いであって、文章とは、そもそもひとりの読者も要らないし、求めるべきではないのだということを思う。そんなものとはなんの関係もなく、ただ自分のために書いているだけであって、それを経由して社会への経路が結果として偶然ひらかれてしまうことがあるだけで、実はわたしは、それは意思や努力ではどうにもできないのではないか、ということを思っている。

結果として偶然ひらかれたものの結果、友人が得られることはある。仲間の容易さにくらべて、友人をえることは、どうしてこれほどまでに難しいのか。そんなことを友人がいない午後に考える。友人はどこにいるのか。そんなものはどこにもいないのだろう。

2017-07-05

今晩の夕食

小松菜が大量に安く手に入ったので台所で洗っている。葉物は根っこのところに土が入りやすい。土、とわたしは書いたが、それは土に見えるだけで、実際には虫の死骸や排泄物であることも多いだろうということが経験から類推される。よって丁寧に洗う。さらに加熱もわりと念入りにする。野菜を生で食べてよいのだろうかということは、台所を預かるものとしてはいつも気になる。けっきょくインフラが整った現代社会とはいってもバクテリアや寄生虫やウィルスの知識はある程度もって自衛しなければならないということを最近よく考える。海外から入ってきた害虫のヒアリ等やデング熱もそうだが、これまでの常識が変わることもあり、また一方で古くからの思い込みが間違いであったと科学的に証明されるような事例もよく見聞きする。結局、常日頃から読み、考えていなければならないのだろうということを思う。ネットもある程度は頼りになるが、不正確な情報が多すぎ、しかもそれぞれが散逸しており、それを守るべきインターネットサービスプロバイダといえば恣意的にホスティングしていた情報を削除したり改竄したりする現実を見ていると、結局変更や修正に時間がきわめてかかる本という媒体の信頼性は高いままだと思わざるをえないので、料理についての本を集めるようになった。いろいろな料理をするようになって、調理師の免許なども面白そうだな、ということも思うが、残念ながらすでにいま兼業なので、そこまでする時間はなさそうなのがわたしの人生でいちばんの心残りだ。家族のために料理に集中できる人生であればよかったのにということを思う。きわめて残念な話だが、人生というのは、思うようにはいかないものらしい。

結局よく洗った小松菜で、しっかり火を通したオイスターソース炒めをつくった。

2017-07-04

そこだけの夏

シャッター商店街の裏手にあるショッピングモールという名前の零細商店が集まる広場の看板が台風で倒れてから一年が過ぎた。店はそれぞれなんとか営業をしているが、看板はこわれたまま放置されていた。本日クリーニングした衣類を持って帰宅するときその近くを通ると、看板が立っていた柱のところに、シュロの木らしきものが植えられ、蒸し暑い風に揺られていた。そこだけが夏だった。

猫たちは郵便局の前で暑さでだれてぐったりしている。腹が大きいところをみると妊娠しているようだ。次から次へと子供をつくり増えては消えてゆく。草むらにひそんでいる虫たちは秋にむけて食欲が旺盛であり、たくさん食べたものは大きな卵を産むに違いなかった。ひるがえって旧公団住宅は静かで、老人たちしか住んでいない。わたしの家では子供が眠っているはずだったが、あたりは風が吹く音以外はとても静かだ。

夕暮れの強い日差しが路上に斜めに落ちており、どこかで救急車が出動するサイレンの音が遠くにきこえる。アスファルトに自転車の影が落ちている。うつむいた老人たちとすれ違うが、かれらは一様に疲れた顔をしている。なにに疲れているのか。本人にもわからないかもしれない。おそらくわたしも疲れた顔をしている。笑った顔をつくってみると、土に落ちた影がわらっている。きりとられた夏の夕べがやってくる。

2017-07-03

わからないもの

夕暮れが近い。蒸し暑いが、様々なことが片付き、気持的には爽やかな午後だ。某紙の編集長から書評依頼がハガキで来たのでその文面を眺めながら窓の外をみている。

それは「やさしい言葉でわかりやすく書くことを心がけた」という詩人の本だという。やさしいことばでわかりやすく書く、とはどういう意味だろうか、と考える。やさしいことばでわかりやすい文章が、たとえばネットにはあふれているのではないだろうか。読みやすく「共感」しやすい文章が、たとえばネットにはあふれているのではないだろうか。

だがそうすることによって、もっとも大事なことが失われているのではないか。それは「わからない」ことをわかる、というシンプルなことなのではないか、ということを思う。そしてもちろん、「難解な言葉でわざと分かりにくく書く」衒学的な作品のつまらなさ、ということも同時に想起する。どちらがよいのか。

誰でも知っていることばで、わかりやすく書こうとすることは必要だ。だがその結果、文章は必ずしも「わかりやすく」なるとは限らないのではないか。困難に困難を重ねて必死に書いたものが、やはりわかりにくくなってしまう。そういうことはあるのではないか。そういうことを思う。難解さが必然であるような作品はある。そういうものを読みたいし、そういうものを評したい、ということを思う。

思っているうちに日が暮れる。自分のこともわからないのに、わかった気になるものだ。

2017-07-02

夏の大きなお世話

七月になった。だんだん暑くなってきて、夏が好きなので精神的に高揚してくる。どんなものでも書けるし評価もされるような気がする。もちろん気がするだけでまったく評価されない のだが別にいいのだ。なぜならそもそも場が疲弊しており、社会が疲弊しており、個人が疲弊しており、「読む」という営為が縮小しマーケットが滅びつつあるのだから、みなが同じことにくるしんでいて、わたしもまた例外ではなく、その認識自体はそんなに悪いものではない。みな読まれないという困難な時代を生きているということだ。ネットで共感や理解を排除した上でさらになにか書こうとすればそうならざるを得ない。それでいいのだ。

と、いっても別にわたしは悲壮感にあふれているわけでもなく、きわめて楽観的に生きているし今日も書いている。ただ同業者たちの顔は暗く、もっというならネットで明るく振るまう笑顔や「お世話になっております」は暗い。まあ、それはそうだろう。だが敵を間違えずにゆこう。敵は自民党でも、安倍政権でも、都民ファーストでも、民進党でも、共産党でも、ネトウヨでもサヨクでもなく、さらにいうならばそれは親でも、共同体でも、世間体でも、うつくしい国でも、この世に存在するありとあらゆる事象でもなく、それらがあらわすものではない。敵はおもしろいものを書こうとするものを邪魔するなにかであり、多くの場合それは鏡に映った(またはけして映らない)自分自身の像だ。

あなたもまたなにもかもに《この社会》におまえは無意味だといわれているのだろうか。
ここで「汝の隣人を愛せよ」、ということばにジジェクはどう返したか思い出そう。「大きなお世話(ノー、サンクス)」だ。

2017-07-01

《土曜広報投瓶》——「月と光と詩の夜会  詩人:文月悠光さんに聞く」

読者各位

「詩と思想」の青木由弥子氏より告知をいただいたので以下広報します。
席数はあまり余裕がないことが想定されるのでご希望の方はお早めにどうぞ。

ーーー以下、オフィシャル情報そのままーーー

日時:9月8日(金) 18:30 開場 19:30 開演(21時終演予定)
司会:青木由弥子   聞き手:梁川梨里(詩と思想新鋭)

費用:1500円(参加費1000円+ワンドリンク)
定員:20~25名
場所:Title (荻窪の書店)
・JR荻窪駅 北口より青梅街道を西へ徒歩10分 
・JR西荻窪駅 北口より東へ徒歩18分 
・八丁バス停(関東バス、西武バス)から徒歩1分 
*荻窪駅北口・0番、1番、4番乗り場発車のバスなら、
 全てのバスが八丁バス停に停車。
 荻窪駅~八丁バス停は5分程度。

予約はこちらからどうぞ。
https://ssl.form-mailer.jp/fms/bf0898f5516229

ーーー広報ここまでーーー