2017-07-10

社会活動またはわかるものとわからないものの区別

日曜日は現代詩のイベントに参加したりと様々なことがあったが、その後の夜は知己のS・K氏に誘われて新宿のデモ「March for Truth」を見にいった。氏はかつては反原発デモなどにも参加していたという話を聞いたが今は色々あって参加はしていない。なぜ参加をやめたのかその理由をはっきりと聞いたわけではないが、わたしと(そしておそらく他の多くの市民と)同じように、アンビバレンツな意識を社会活動に対して抱いているということを想像している。わたしにとってその曖昧さを保つ根拠は「正しいものがなにかがわからない」ということでありさらにいえば「どの政治勢力がいずれがわたし(たち)をしあわせにしてくれるのか」ということがわからないということでもある。理由はいくつかあるが例としてあげれば翼賛体制下で全面的に戦争協力した作家たちの多くは「みなのしあわせ」を信じていたことは疑いようがなく、何が最適解かはあとになって振り返らねばだれにもわからない、という端的な事実による。

そしてそうしたアンビバレンツな姿勢を2017年多くの言論に携わる作家たちが取り続けていること、あるいはツイッターでいっさい政治的な発言をしないかれらの弱腰の姿勢が活動家たちを激しく苛立たせているーーということはそのうちの一人と一緒に飲んだのでよくわかった。実際上記のイベントに参加した詩人のうちデモに参加したと公の場で発言したひとはひとりもおらず、わたしも厳密には参加したわけではなく現場にいただけである。そしてその活動家たちの苛立ちをわたしは理解する反面、わたし本人はわからないもののためにはたたかえない、ということを思う。作家はそれぞれのフィールドで自分がわかるものについて語るしかなく、わたしもまたそうするほかないと思う。男は自分が抱えざるをえない暴力性によって他人を不幸にしており結果として自分が不幸になっている、ということがわたしがわかることであり、それを作品にまとめていくことがわたしのこれまでの仕事であり、現在の仕事であり、これからの仕事だ。

一方、活動家のひとの発言でこころに残ったのは、社会というものは作家の発言を求めるときがあるんだということで、普段は作家なんて馬鹿にしているけれども、たとえば震災のような大きな出来事があったとき、その喪失感や衝迫に応えられるような作家の発言を、社会は求めているんだよということで、その発言は胸に来るものがあった。おそらくそれは雑誌や書籍ではなくネットでやるしかないし、2017年の読者は、誰でも自由にアクセスが(ほぼ無料で)できるネットで、文学、詩歌、アカデミズムから離れた開かれた場で、まともな作家が社会についてきちんと発言する(場合によっては血まみれでたたかう)ことを求めているのだと思う。場合によってはそれは「わからない」ものについて非誠実に語る、ということも含まれるかもしれない。さらにいえば「わからない」ものについて嘘八百を書き連ねて多くの読者の人生を狂わせる、ということも含まれるかもしれない。世の中はわからないことだらけで、わかるわからないなどいう区分にはなんの意味もない、という理解もまた含まれるかもしれない。

これらの事柄について、一度きちんと書いておきたかったのでこのエントリを書いた。