2017-07-11

月は誰もみていない

いよいよ暑さも夏本番という感じで、今日は四川風の麻婆豆腐にニラを入れたアレンジ料理を作った。あまり美味しくなかった。アレンジつまり正統的なレシピから離れたものをつくるということは、そもそも正統的な技術がなければうまくいかないのだ。サブカルチャーはカルチャーの知識がなければつまらないし、亜流は本流があってはじめて価値が生じる。別の言い方をすればブログがおもしろくあるためには本流がなければならない。さて本流とはどこか。そういう問いがあるが、わたしは今日はそういうことを書きたいのではなく、よく聞く生きづらさとはなにかということを考えている。

生きづらさということばだけをみれば、「衣食住がある程度保証されているなかにおいて人生に対する痛苦のたえがたい大きさ」と翻訳できるだろうが、これは特定の時代の特定の安定した状況、より具体的にいえば紛争も飢餓も疫病もないG20の内側でしか通用しない概念ではないかということは思う反面、だからといってその生きづらさのたいへんさがその事実によって軽減されるわけではなく、この国に生きるひとびとに幅広く共有されているつらさであることに変わりはないように思われる。と、いうより、わたしの知っている作家はほとんど全員が生きづらさを抱えているし、その読者もまたこれと向き合って生きているように思う。そしてその生きづらさとはなにかと考えたとき、「ひとは、衣食住が保証されているだけでは、しあわせになることはできない」、というシンプルな解にたどり着く。いろいろなことができるはずなのに、前近代的な制約から自由になったはずなのに、「自分」がしあわせになることは難しい。

そのしあわせを得るために様々な装置が毎日つくられては消えてゆく。しあわせはネットが可視化する格差社会で「下」の人間をあざわらうことによって得ることはできず、衣食住が保証されていないひとびとを「下」にみてわらうことによって得ることはできず、あるいは他人の愚行を「笑った」などとコメントして安全地帯から嘲笑することよって得ることはできず、特定の年代や性別の欠点をひたすらあげつらってネットにアップロードして仲間をつくって一緒にそれとなく笑みをかわしあう洗練された嫌がらせによっても得ることはできず、こうした装置をいくら毎日いじってさわってくりかえし操作してみても、ひたすらむなしく、ひたすらかなしく、ひたすらさみしく、ただただ人生は空虚になっていくばかりである、ということはわたしがいうまでもなく、エビデンスも物証も必要としない。眼を開いて、目の前に広がるたとえばツイッターを見ればいい。

だれでもしあわせになりたがっている、といえる。そのためにネットでは毎日新しいジャーゴンが創出される。ひとに自慢の性器を自慢したくてたまらないスーツの男たちが今日も日記を書いている。ひとに自慢の年収を自慢したくてたまらないひとびとが今日もブログを書いている。ひとに自慢したくてたまらない女たちが今日もツイッターにグルメ写真をアップロードしている。とにかく自慢したくて、自慢がしたくて、自分はしあわせだといいたくて我慢がならない。なぜならさみしいから。なぜならつらいから。なぜならひとりぼっちだから。なぜならだれも 「わたし」を愛してくれないから。生きづらくて仕方ないけどどうしたらよいのかわからないからただひたすら他人と自分を比較して、ほんの一瞬でもいいからひとよりも自分がすぐれた存在だと思いたくて、とにかくひたすら自分はこの世界に一瞬でもいいから必要とされていると感じたくて、ただひたすら自分をほめてもたいらくて、認めてもらいたくて、愛してもらいたくて、かまってもらいたがっていて、生きづらくて、生きづらくて、仕方がないと思っている。

だれもがそうおもっていてだれもがそういっていて、生きづらいことについて書く詩はうれるかもしれなくて、ああ、くだらない、ああ、つまらない、ああ、なんとつまらない人生だろうかと思い、カネのことしか考えない、みとめてもらいたいだけの、なんとさみしく、あさましく、どうしようもない人生ということを思い、窓から仮象の月をみていて、月からわたしはみえることなく、月はいつでも、誰のこともみていない。