2017-07-19

梅雨の終わりに読む『積雪前夜』(平井達也著)

梅雨が開けた。夏だがあまりうれしくはない。娘もまだ離乳食すら始まっておらず、予防接種も毎月順番に注射を続けているような状況で、行楽にいけるはずもなく、日焼けも心配なので海など論外、ということで今年の夏は家族で徹底したインドア生活ということになりそうだ。

夏といえばやはり夏にふさわしい読み物、つまり後になってその夏のことを思い出すことを容易にする触媒としての詩が必要なのではないだろうか。
とはいってもあまりにも暑いので、むしろ寒い詩がいいのかもしれないと思う。そう思いながら手元にある詩集を開く。

平井達也の『積雪前夜』(2016年12月発行)。この詩集に収録されている詩作品のうち、氏の会社生活を題材とした詩が印象にのこっている。巻頭詩の「ネクタイ」を引用する。

ネクタイに誘われて茶色いのを買う/茶色いネクタイにぶら下がって仕事する/昼にはネクタイが窮屈そうなので/解いてポケットに収めてやる

「ネクタイ」

「茶色いネクタイにぶら下がった仕事」というものがどんなものか、詳しく知らなくとも想像力によって喚起される光景がそこにはある。ネクタイに誘われているのはネクタイが自分の声であるからで、拘束しているのは社会だがそれを受け入れている自分自身の姿でもある。それを解いてポケットに収める昼休みの一瞬がこころに残る。そういう瞬間が誰の生活にもあると感じる。

また、飲み会(と思われる)の光景が、「拒否」では描かれる。

グラスにビールを注ごうとして/きょう言おうとして言えなかった/言葉の重さ分ぐらい手元が狂う/ビールの泡がグラスからあふれる/テーブルが濡れ/言い出せなかった言葉も湿る

「拒否」

ここだけ抜き出すと男女の話のようだが、ここで言えなかったのは職務上の拒否のことばで、ひとは言えることと言えないことの中間を生きるほかないということを思う。そこではビールは常にほんのわずかこぼれていて、乾いているべきことばはわずかに湿っている。手元が狂うのは、そこに誤差があるからだ。そしてその誤差は避けようがない。なぜなら言おうとして言えなかったことはつねに溢れるほかないからだ。

出社前の姿はより直裁な形で描かれている。

みんな真面目にやっている。こっちだって真面目にやっている。雪が降る中を夜の仕事に出かける父親がいる。窓から雪を見ながら明朝の出勤に備える息子がいる。雪が降っているのも知らず泣き続ける妹がいる」

「積雪前夜」

一読してふと、わたしだって真面目にやっているんだよ、と思う。そしておそらく世の中のだれしもが真面目にやっている。だが真面目にやっているからといってそれが誰かに伝わったり評価されたりすることもなく、詩はその伝わらないことそのものを記憶しようとする。伝わらないことこそが伝えなければならないことで、その不可能な夜にはいつも輝く雪が降っている——雪は予感でしかなく、結局は降らないのだ。わたしたちは常に事象の前夜を生きるほかないのである。