2017-07-16

夢のなかでもまがい物

なにひとつ書くことがなくなってからが勝負、ということはその通りで、何年も毎日書いていると、自分にはなにもない、からっぽだ、と思う瞬間がかならず(何度も)来る。その時にあきらめないでいると新たな水脈がわき出てくる。これを繰り返しているといかにつまらない日常を送っていようとも書くことを見つけることには困らない。さてわたしは昨日一日子守をしていた疲れが出たのか、午後は無為に寝てしまって気がついたら夜になっていた。

こうして人生というのはただ無駄に浪費されていくのだということを思うが、もちろんそんなことをいったら産まれたことそのものが無駄なので、気をとりなおして机の前に座って、夢のなかでみたまがい物の家族について考えている。夢のなかではわたしはどこかの家族に息子として迎えられている。そのまがい物の家族はブリキでできた人形のような姿をしている。わたしはしょせん偽物にすぎないので、ほんとうの家族にはなることはできずその家を去る。

夢ではわたしが子供の立場だったが、子供を持つ親の立場になってみれば、親は最初から親ではなく、なんの知識もない二人の人間にすぎず、親のふりをしたまがい物であるほかない。ひとは収入があるだけでは、世間に親と呼ばれるだけでは、育児手当てを受給するだけでは、「親は子供を愛するべき」と説教されるだけでは、ほんとうの意味での親になることはできない。

また、親とはこういうものだという思い込みによって親になることもできない。そうして家族のふりをしたまま、親のような顔をして子供に接してゆく……他、ないのだろうか。ということを思う。まがい物以外の道はないのだろうか。ないのかもしれない。理想はどこにもないのかもしれない。まがい物なのでほんものにはなれないし、まがい物なのでどんなものがほんものかわからず、どうやってなれるのかわからず、わからないのでいつまでもまがいもので家族のふりをつづけてゆく、ということを思う。

だがほんものではなくとも朝はやってくるし、国には税金を収めなければならない。そしてつまらない日曜日がこうして終わってゆく。