2017-07-31

ごくまれに書かれる私信的なもの

なんというか、ネットでも現実でも、実は「おもしろいね」という感想や「お疲れさま」という気持ちはほとんど伝えられるべき形で伝えられていない、というように思う。悪意は目立つのですぐに目に入るが、その逆のものについては悪意ほど目立たないのは当然といえ、もっと単純に書き手(ブログでも現代詩でも)におもしろいと伝えるだけのことがどうして難しいのだろう、ということを思う。

前にも書いたが、「一人より応援のフィードバックがあったら、その後ろに百人は応援してくれている読者がいると思え」というのはわたしの偽らざる実感でもあり、要するにみな内気で遠慮しているのだ。さてわたしは読者諸氏に遠慮しないで応援しようなどと説教がしたいのではない。そんなことはだれにも要請できないしすべきでもない。今日わたしが書きたいのは、知己のK氏がブログの更新を休む、という宣言をしていたのを見かけて、ご本人とは個人的に会ったことはないので知っている範囲でいうと、氏は本を出しながらそしてライスワーク(=お金のための仕事)をやりながらほぼ対価のないブログを書いて、ずっとそれを続けていたはずである。その姿勢は立派だったと思う。

まず第一に、ブログを書き続けていたこと。紙でもできることを、わざわざなんの利益も得られない紙以外の場で公開してくれること、それは立派なことである。読者から反応があればそれは確かに嬉しいものだが、ネットに文章を書きつづけるというのはやはり一種の苦行ではあり、それを続けるのは立派なことである。そしてネットにおいては悪意のほうが相対的につよく可視化されるので、その日々の頑張りは上にも書いた理由で、書いている本人にとってはあまり報われているように感じられない傾向があるだろう。長い間更新を休まずに続けてきたことは立派なことで、それを休むと決断したからといって、これまでの頑張りの価値が損ねられるわけではない。

本や雑誌や新聞といった古きよき伝統的な人文の媒体もよいが、ある程度の長さがあるブログなどの形式で、いつでも・どこでも・だれにでも読めるインターネットにも「おもしろい文章がある」と読者に思ってもらえること、書き手の誠実さを信じてもらえること、文章を愛してもらえること、そうした見えない交歓が可能な場を創出しようとこころみることは立派なことである(追記すれば、おそらくそれは言論プラットフォームの創出によって実現できるものではなく、あくまで書き手という個人の同時多発的で独立した努力によるほかないというのがわたしの考え)。

ネットであっても本であっても、氏はこの社会のねじれたありようにわたしたちはどう向き合えばよいのか、その問いに答えようとした書き手のひとりだと理解している。きわめて身勝手な親近感をいだきつつ、K氏の選択を応援し、そのライフワークにさらなる形を与えられることを願っている。