2017-08-01

慰霊の八月

本日より八月。窓より夏のつよい光が射し込んでいる。
八月は戦争責任月間でもある。しずかな追想のための季節がまた今年もやってきた。

原稿を送った某編集部からパタッ、と返事がなくなった。こういうことはたまにある。むしろちゃんと感想の返事をくれるほうがめずらしい。だがこの程度でめげていたらそもそもお金にならないような作品など作れないので黙々とすすめる。「商業性皆無ですね」「ですよね」という和やかなやりとりがしばしば行われる世界では、なんのために書いたり出版したりするのか、というわりとラディカルな問いに向き合う頻度が高い。まったく、なんのためだろうか。

そういえば先日S誌の特集のため「なんのために書くのか」というアンケートに答えてほしい、という手紙が担当のA木さんより届いた。その時は少し考えて、「わすれられたものを慰霊するため」と書いて返送した。

ひとはひとを殺してもなおふつうに生きてしまうこともある。あるいは、他のなにかを犠牲にして、自分たちの生活基盤がなりたっている。わたしたちは生きていれば必ず誰かまたはなにかを犠牲にしており、それを避けることはむずかしい。だからそのことを忘れてしまってはならない、思いださねばならない、ということを考えている。

わすれてしまってはならないことは他人の責任ではない。自分がやってしまったことの責任をとること、忘れないこと、それ以外に慰霊の道はないように思える。それは生きていていいのか、という問いでもあり、もし生きていいとすれば、それはいかなる理由によるものなのか、という問いに答えようとするものでもある。もちろん答などないーーそんなものはすべてまやかしである。あるのは答えたいという気持ちだけだ。

死んだものは帰ってこない。死者はかなしまない。だから慰霊は生の側にあり、とむらう方法をさがしつづける出口のない旅なのだと思う。
(2017年8月1日)