2017-08-02

詩を書いてもあなたは不幸

特筆することがなにもないやや涼しい一日。つまり通常業務。毎日書くのは当り前だと思っていて、忙しくても必ずノルマ分は書くことを何年も続けている。気が向いた時にだけ書くというのもひとつの手法でありそうした同業者の姿勢に反対する気はないが、どうも毎日書いているというと引かれることが多いのであまり公言していない。ただわたしが仮想敵として考えているひとびとは基本的に多作(もちろん、そうはいわないで隠しているひともいる)なので、そういう属人的な配慮はやめて、毎日書いていることを隠すこともやめる。大量に書くし、毎日書くし、そこに隠すべきことはない。隠すべきことがあるとしたらそれはそこにはないといいかえてもいい。参考までにわたしは毎月完成原稿が三十枚、プラスアルファ五枚ぐらいが限度だ(書評やブログ、それからデッサンは除くが)。

一方、わたしは渾身の原稿が某編集部に無視されて落ち込んでいる。受領確認の返事すらいただいくことができず、わりと衝撃を受けている。これがA賞やH賞受賞の作家が原稿を送っていたとしたら、きっとすぐに折り返し電話をして、お礼の連絡をするのだろうということを思う。そういう区別をされること自体はわたしは商業性の弱い作品しか書いていない新人なので受け入れるが、傷つかないかというと嘘になる。なにしろ書き下ろしで、他のだれにも見せないという約束のもと送った長編原稿だからだ。送付から一週間もなんの返事がないということを言外の明確なメッセージとして受取り、この原稿の処遇についてあらたに考えなければならないということを思う。と思うが、さすがにちょっと落ち込み気味。

もっとも、企画は次々につくってゆくものだ。そのうちで結実するものだけが世に産まれることになる。いまこの瞬間も次々に企画がうまれては潰れてゆく。この世に産まれるべきではなかった作品は水子となってさまよう。だがそれを供養できるものがいるとすれば、それは死産となった作品を書いた本人だけなのである。供養とはなにか。それは「書けなかった」を「書ける」にリ・リードすることである。

そんなわけで気分を切り替えて夏の夜にふさわしい夕食をつくろうと思う。
なにをつくろうか。シンプルな冷やし中華の予定。