2017-11-29

きれいごとしか語らないひとびとは地獄に落ちる

今日もひとびとがインターネットで罵倒を投げつけあっている。

もちろん、それをわざわざ見る必要はなく、少し視線をずらせば自分とはなんの関係もない世界ではある。だがその殺伐さにどこか胸が苦しめられるように感じる。「笑」や「w」を語尾につけてだれかと会話をしていて、「ひとの不幸」や「ひとの喧嘩」や「もめごと」を祭りとして消費しているはずなのに、こころのどこかからは血が流れている、という感覚。損ねられているのはことばであり、ことばによって構成されるかくされた気持ちやこころだ。

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インターネットで見知らぬ第三者に憎しみをぶつけること。それが、この建前だらけの社会において、相手とふれあうことができる数少ない方法であるということ。場合によっては、ゆいいつの方法であるということ。その事実にわたしたちは希望をうしないかける。あるいは、絶望のふちに立っている。もはや匿名で憎しみをぶつけ合う以外に、わたしたちが理解するための契機を得ることはできない。そう、悲観的にかたりたくなる。

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インターネットでなにかを理解したり判断したりできると思うのはあらゆる意味で馬鹿げているが、驚くべきことはそう思っていないひとが多数派だということだ。この驚きを読者と共有しなければならない。「いいね」等の仕組みにいっさい頼ることなく、はるかな距離を経て共有しなければならない。

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24時間、365日、わたしたちは罵倒、誹謗中傷、いやがらせ、ありとあらゆる種類の悪意をここで目撃している。生理的な嫌悪感を連帯することによって得られる「祭り」の楽しさをわたしたちは知っている。その連帯の快楽に抗うことはむずかしい。この連帯、は、実際に繋がっているかどうかは関係なく、あくまでその感覚を得ることが目的であって、つまり攻撃対象は存在していなくてもいいし、誰でもいいことになる。その際にもちろん忘れられるのは、その対象がじつはわたしたちと同じ人間であるということだ。

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「悪いやつ」をたたきつぶす快楽。連帯感を得ることによる快楽。ひとりぼっちの人生で悪意によってはじめて仲間を得ることができるということ。

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インターネットで今日もひとは罵倒を投げつけあう。
それは楽しいだろうか。

もちろん楽しいだろう。なによりも楽しいだろう。ひとりぼっちの部屋を忘れられるだろう。わたしたちはいつまでもひとりぼっちで、いつまでもディスプレイの前でわらった顔をつくっているだろう。

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わたしはキーボードの前でわらった顔を作っている。
「笑」を浮かべた顔は、いつもゆがんでいた。

(2017年11月29日)